【日時】6/25(金)11:00-
【スピーカー】太田(京大院・文・哲学)
【タイトル】理論 vs 形而上学
【アブスト】現代の意識研究は、形而上学的研究と理論的研究が著しく分岐している。一方で形而上学者は、意識を素朴に理解したまま、その形而上学的身分を論じようとする。他方で理論家は、意識の物理-機能-情報的本性を、その形而上学的身分を認識しないままに論じようとする。今回私は、それら二つの文化の間に一つの架橋を提案したい。私は、高階思考理論(Rosenthal, 1986)や多元的草稿理論(Dennett, 1991)といった理論的成果が正しければ、いわゆるゾンビ論証(Chalmers, 1996)という形而上学的問題が阻止されるということを提案したいのだ。それらの理論は、思弁的でもあれば経験的でもあるような仕方で提案・発展・擁護されてきた理論である。それらの理論は間違っているかもしれない。だが少なくとも、そういった仕方で発展する理論が形而上学的問題にアクセスできることが示されることは、自然主義的な哲学者にとってグッドニュースだと思うのだ。
【スピーカー】太田(京大院・文・哲学)
【タイトル】理論 vs 形而上学
【アブスト】現代の意識研究は、形而上学的研究と理論的研究が著しく分岐している。一方で形而上学者は、意識を素朴に理解したまま、その形而上学的身分を論じようとする。他方で理論家は、意識の物理-機能-情報的本性を、その形而上学的身分を認識しないままに論じようとする。今回私は、それら二つの文化の間に一つの架橋を提案したい。私は、高階思考理論(Rosenthal, 1986)や多元的草稿理論(Dennett, 1991)といった理論的成果が正しければ、いわゆるゾンビ論証(Chalmers, 1996)という形而上学的問題が阻止されるということを提案したいのだ。それらの理論は、思弁的でもあれば経験的でもあるような仕方で提案・発展・擁護されてきた理論である。それらの理論は間違っているかもしれない。だが少なくとも、そういった仕方で発展する理論が形而上学的問題にアクセスできることが示されることは、自然主義的な哲学者にとってグッドニュースだと思うのだ。