塙保己一
梅月堂の「保己一最中」は 白あん ゆずあん 小倉あん と3種類あります
郷土の偉人としての 塙保己一
盲目 江戸時代の国学者としか知らなかったのですが
しかし 中学の教科書の年表には 1779塙保己一「群書類従」編纂開始
1793塙保己一 和学講談所設立 1819塙保己一「群書類従」正編刊行
と 赤く太字で記入されている
本庄市児玉町 城山公園にある「塙保己一記念館」の資料によると
あの有名なヘレン・ケラーは幼少より塙保己一を 手本として育ち
1937年に来日した折には 埼玉会館で講演をした後 渋谷の温故学会
(師弟の育成の場所)に立寄り そのブロンズ像や「群書類従」の版木に
触れたとされています
そのような偉大な人物を 良く知らないとは 残念な事でした
1746年5月5日 武蔵国児玉郡保木野村の百姓荻野宇兵衛の長男として生まれる
1821年9月12日 盲人の最高位である「総検校」となり76歳の長寿で死去
「群書類従」は和学講談所で進められ 古代から江戸時代初期までに
刊行された史書や文学作品を 門人や多くの人々の協力を得て 桜の
版木両面に彫刻して出版したものです
それまでの書物は手書きの写本だったため 古書の散逸を危惧した
塙保己一は 版木を摺りたてて出版したその事業は 41年の歳月と
版木の彫刻料は巨額の費用を伴うため 幕府 や豪商の鴻池らの
援助を得ても足らず 「世の為後の為」という信念を持って 個人で
莫大な借金をして完成させたものだったのです
死後 莫大な借金は子孫に残されてしまいました・・・
その版木の大きさが20×20文字で 現在の原稿用紙の様式となった
ものです
また国学者として引き継いだ四男の塙忠宝(58歳)は 1863年12月21日
勘違いから幕末の尊王攘夷派 伊藤博文 山尾庸三に暗殺されたとあります
生家は今も児玉町保木野に有り 「国指定遺跡」になっています
児玉町保木野の塙保己一旧宅の辺りは 二百年前に タイムスリップ
したかのような 田舎でした 少しばかりの酪農をしている農家がちら
ほらあって 臭いがきついものでした 江戸時代からのかやぶきの家を
生活しながら維持していく ご苦労は並大抵ではないと 思いました
七代目の荻野家の子孫に 頭が下がります
記念館が出来た頃何度か入ってみましたが
もう何十年も前なので忘れてしまいました。
春にはお花見に寄りますが記念館には入らないですね。
久しぶりに今度行ったら入ってみようかしら。
歴史の教科書にも載っている「塙保己一・群書類従」は児玉の誇りですね。
墓地が牛舎の横で臭いのがちょっとね~~
余りの臭さに
しかし 児玉町が本庄市に合併して
見どころのない本庄市のお土産に
梅月堂の「保己一最中」等が
出来たのは嬉しいですね
でも梅月堂の豆腐プリンの方が喜ばれるかも