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COME TO LIFE

漫画家的なアキさんが日記・仕事・映画・作法術・テニス・漫画日記をUP。

ビッグ・フィッシュ(05)

2006年06月04日 | 【映画メモ書】ネタばれ有「心構え」参照
【ソールズベリーと監督ティム・バートンとの会話形式による音声解説より】(つづき)
 シークエンスごとに味付けが違う。イメージのミックス。基本イメージは戦争映画だがわざと鮮やかな発色にしている。戦争映画らしい男っぽい雰囲気とけばけばしさをミックス。その頃の写真とか雑誌を参考にした。
 ユアンは即興が得意。リハを重ねるよりカメラ前で力を発揮するアスリート・タイプ。瞬間に向け、力を溜めていく。テイク数もほどほどでバートンと同じくやりすぎは嫌う。5~6テイク掘り下げるのは面白いが、あとは勘弁。その点で波長があった。
 アルバートも同じ、やり過ぎない程度のテイク数。2人とも新鮮さをとる。無駄に繰り返さない。リハの演技も念のため撮影。リハの間に回すことも。リハでいいと思った演技が二度とできないことも。リハを好む人もいるから敏感にならないと。
 サーカスの話で時が止まるシーンはブルー・スクリーンの合成でなく単純さが命で合わせ技。カメラを8台くらい同時に回す方法もあるが今回はできなく俳優にぴたっと止まって貰いきちんと位置あわせ。少しは合成したがほとんど生演技。定位置に立たせ。間を縫うように全員がいる画といない画をつくり必要にせまられ単純にやった。今回の特殊効果は心情表現の手段だから単純でいい。表現したいのは心情以外のものでないから。
 TVCMは今回作った。アラバマのプレミアにいった人にここが一番ウケたと聞いてヤバイと思った。本当は地元のCMが映ったから会場が沸いた。今回は現実とファンタジーの線引きをしつつ、人間味を美味く残している。現実とファンタジーのバランスの説明を全員と話したが南部が舞台と聞くとどうしても”まずはポーチで涼む画を撮らなきゃ”みたいになるが肝心なのは物語。現実と非現実の間を行き来している。視覚的に表現するのが大切だから現実とファンタジーの境目を少しぼかしている。
 音楽のダニー・エルフマンと組むのが10作目。南部にはきていなかったが現場にはときどき来る。早い段階でなく必要に迫られて作曲するのがすきらしい。バートンの作品のトーンは変わっているから察しのいい相手でも説明するのは難しい。撮った画を見せたほうが良く、実際にみて感覚をつかめる。あざとい音楽で涙を誘ったりしなくバランスがいい。
 ウィルは父親との絆を確認し心の平安と先へ進んでいく自信を得て最後には彼自身も父になる。父が亡くなる前に十分な関係を得られなかったが誰でも同じでは。近しい関係でもそうでなくても。いくら闘病生活が長くても死が訪れる瞬間はショック。”ああすれば””もっと親しく”と思う。おそらく誰にでも起こること。奥深くでは通じていない感覚は残っている。
 プールの魚は現実と非現実の境目があって蛇口をひねるようには切り替わらない。魚を削除する話もあったがリアルで現実と非現実の境目を危うくする効果もあり好き。深さは不思議でプール掃除の経験から作業中になにかが見えてくる。一種の潜在意識で。あればウィルの潜在意識で彼の中にたまっていた何か。現実と非現実が交わる奇妙な瞬間。
 万能ハンドは原作ではねじ回し式だった。彼のキャラにあうから、ちょうど60~70年代のロンコ社がこんな製品をつくっていた。フォークや釣具がついたポケットナイフとかへんなものを作っていた。便利グッズ系製品を彼が売りそうなイメージだった。使い方はイマイチ不明だが。
 70年代のもみあげとロックの時代。
 車選びの時間が取れた。彼には赤のチャージャーがふさわしいと思った。ユアンも車好きだから色々検討。でかいエンジンをかけたときの音がたまらない。
 銀行強盗の話はもみあげがキマっている。詩人から銀行強盗に。彼は、人生を漂うように生きて最後は大成功。映画監督の人生と似ていて不思議と彼に近いものを感じる。人生のパターンが似ている。彼は後にウォール街に。人生を振り返って、出発点と岐路を考えると、重なる。
 スコセッシの作風に似ている。わざと手持ちカメラで勢いを出して、監視カメラの視点も。高い位置から撮ることで雰囲気を出している。あまり時間がなかったから、勢いを大切にした。ドン・ノッツ風。テレビに「アンディ・グリフィス・ショー」のバーニーののり。
 撮影は一日もかからず。3/4くらい。いろんな撮影ができる町を一つ選んだ。この日は野外の車のシーンも。2~3回移動できる町を探した。銀行の外では即興でリハもせず2人に任せたら毎回おもしろく何回もカメラをまわした。銀行から出てくる二人が面白くて。スティーブもユアンも即興がうまい。
 スティーブが怖い。誰かを撃ちそうで。コミカルと怖さを同時に出せる人。ロケ地を転々とし小さな話を撮るのはピーウィーの映画に似て好き。大作は特殊効果ばかりでその機会がない。撮影が大変だが楽しく柔軟なタイプの俳優に恵まれた。メソッドの質問ばかりする俳優だったら、このやり方では撮れなかった。
 2人のバスタブのシーンは脚色のジョンとバートンが追加。ジェシカと話していて夫婦の会話がないと気づき、元々情報が少ないから二人の関係を示す場面を入れようという話になり、ジョンが書いたがシンプルで美しい。セリフは少ないのに多くを語ってる。脚本には人生の全ては書いていないし役に深く入り込む女優には情報が少ない、ほどんど禅とか俳句の世界でとてもシンプルに表現する。水はテーマの一環で川の人魚を彷彿とさせるイメージがある。
 一番の問題はバスタブの大きさ、3タイプ試したが、大きすぎて二人が子供に見えたり小さすぎて格闘してるように見えたり、納得いくまで時間をかけたけど時間はかぎられてたから素早くシンプルに5~6テイクで撮った。
 ウィルがジェニーを訪ねるシーン。ジェニーのキャラは原作ではエドとの不倫があったり映画と違う。父子の絆を深める触媒の役割がある。変更の理由は”大切なのは真実とそうでないもの&物語のファンタジー性”で最初にウィルは父が誰かと不倫してたと疑うがファンタジーとして彼に誠実でいて欲しかった。生涯の愛を貫いたわけだしその一部は真実で本物。そこが大切で不倫を作り話でごまかすのはありがちだけど、そうしないと思うほうが正しく感じられた。
 本編中の水は象徴的な使い方で人生の脈絡やたえず流れ続ける人生とか見えそうで見えない深みの神秘さである多くの神話や民話でも水は象徴的に扱われてる。水は一種のイメージで人生の謎。
 スタジオでもめると彼らはこういう”これは脚本にない”。でもセリフの間の視線とかが大切でセリフがあっても二人の視線のやりとりが必要。本作は2人の関係を示す場面が少ない。時にはセリフが邪魔にさえなるのでバスタブシーンは力強く純粋。
 ユアンと人魚のシーンはセットにスモークを焚いて水無しで撮った。シンプルさが命。セットとプールの映像を二重に映した合わせ技。
 車も同じで2ショットしかないけど違いはわかるはず、今回はテーマの一つは”なにが現実でなにがそうでないか?””時には誇張した話が現実より好まれる”
 バートンは想像力が乏しい人たちの考えに驚く。現実と非現実を分けたがるが日常は不思議だらけ。シュワちゃんが州知事なのは現実的か非現実的かって話。
 “現実”は変だからバートンは物語が好き。心に訴えてくるならそこには真実がある。TVのニュースのほうがシュールで非現実的に感じる。人生は現実と非現実が混じったもの。
 本作が転機の作品といわれているが、これまでの作品を正当に評価すれば、感動的な場面に気づくはず「エド・ウッド」や他の作品でも優しい瞬間に溢れている。
 登場人物をリアルだと感じているからリアルに扱う。世間の人は物事を簡単に片付けたり昨日のことを忘れるので人の評価には驚く。
 あるインタビューで”物語がなく錯覚だけ”と描かれていたが映画が視覚のメディアとわかっていない。ラジオならいいが今までそれと同じことを言われた。勘違いは困るが映画を見て育った。聞いてたんじゃない映画は映像だから。表現の形は様々だが変わった表現を好む。そういう表現は偏狭だと思う。人はバートンに転機を迎えて欲しくなく何もするなといいたいのかも。”作品をつくるな”とはっきり言えばいいが”僕に構う必要がある?”。 バートン映画では初の普通の人の映画だから。でも基本的にはみんな直感的で、今回は頭から順に撮っていない。ロケも多くリハが少ない。精神とビジュアルの繋がり。
 ネコがヘレナにとって悪運で演技は完璧だがネコの目線がだめだったりでNGに。アカデミー賞ばりの演技も紐でじゃれだしたら台無し。今後は100%ネコが必要でない場合は使わない。
 今回は町と川と湿地のある場所を探した。短時間で移動できる場所が必要で移動が多い。ジャクソン・レイクは川も湿地もあってスペクターの町や川の女性の場面も撮った。バートンの感覚からいって必ずしも美しくはないが必要とした全てを一箇所で満たす場所だった。
バートンが関わる脚本はナレーションがないといわれたが本作では4人の声が被る。危険なのは跡で足す場合で本作のナレーションは明らかに物語の一部で脚本の段階から組み込まれていたから危険なのは方向性を修正したり、解決しようとする場合で作為的なのがばれてしまう。今回はうまくいくように注意しただけ。
 本作の最後は特に男性にとって心が動かされる。以前は”最初の編集がいいかどうかわからない”と言った。”感情的すぎるか足りないか”と。現在の編集に落ち着くまで情感のバランスをどうやって正しく撮るようになったかというと原作を知らずに脚本を読むと先行きが読めないことに驚き後ろから忍び寄られる感じで普通の構造と違い気に入った。
 内容はわかるが本当にわかるのは最後。最初の編集ではそれに成功したと思ったが時差ボケで確信がなかった。理由は不明だが涙もろくなるから確信はなかったが大丈夫と思ったし満足できた。いわんとしてることは分かるが重要なバランスだったし、一応何とか達成できて自分では満足。映画の最後は下手すればお涙頂戴になりかねないのでそこは俳優たちと警戒した。それは誰の人生にもあることだから自分に引き寄せてリアルに考えながらバランスをとっていった。実際感情的な場面だしお涙頂戴に。でも皆気をつけ自覚をもって演じた。優秀な俳優は、やりすぎないようレベルを心得ている。よく情感たっぷりに演じてる映画を見るが本当じゃないとわかるし信じてないからこそこういう個人的な瞬間にジェシカとアルバートはシンプルだけど、純粋で正確な表現だと思う、彼女はセリフが少ないがオスカー女優は目や表情や笑顔で多くを語る。いつもは深いところまで役に入るから彼女と話して分かった。今回の課題は断片的な短い画だけで役柄を表現していくことだった。実は長めのシーンも他に撮ったが使っていない。足踏み的で役に入り込めないまま撮った感じでいいシーンもあったが見せないで断片的な画を生かしたが結果的に力強くなった。いいシーンだが入れないほうがいい。それには驚いた。いい演技だが見せないことで人生を盗み見る効果が出る。マリオンと病院の廊下を歩いていくところでどちらもいいが言い過ぎるのにいい足りず中途半端な感じがしてあえて一歩引いて、人生を盗み見る感覚のほうが作品が力強くなると感じた。
 アルバートの相手役には彼女のような大女優が必要。ジェシカはちょっと変わっていてそこが気に入っている。聡明さもあり、深く知らでないけど変わってる。そういう面が彼との関係のリアルさにつながる。彼女はただの”妻”でない。興味深い過去がありそうだと思わせる女性だし、芯が強く美的感覚も鋭いからエドの相手役には必要だった。
 本作で癒され父の死を乗り越えた感覚はある。セラピーでも言葉に出しにくいから時間をかけて映画を作るのはカタルシスになる。これはその傾向が強く扱う題材があいまいだが決まった型にはまるとは限らない。重層的でユーモアもドラマで不条理と現実がごちゃまぜ。
 本作は不思議と父の死と息子の誕生が合わせ鏡みたいにバートン自身の私生活と重なる。それはどの作品でも同じでカタルシスがなければ普通の仕事と同じ。意図的でそうしたわけじゃない人生が物語をなぞってるみたいで興味深かった。そういう個人的な体験を例に俳優たちに説明して理解してもらおうとした。言葉では説明しにくいからかんじてもらうのがベスト。
 父の死のクライマックスで二つの場面が切り替わる。現実とビリーの「スタ&ハチ」風のビリー版の物語。その切り替えが面白く並列が物語の軸。脚本が素晴らしいのは”とうさん愛している”感じのお約束の抱擁やセリフがないこと。場面を切り替える手法はちょっと変わっているが心情を正確に表している。
 全員集合の撮影は2日で撮った。寒く皆凍っていた。後ろの人は歯軋りで笑顔してた。
アルバートを抱くビリーは特殊効果でなくビリーは力もちでこのために何ヶ月も鍛えた(?)
 撮影と編集が同時進行で日数がたりなく余分な画は撮りたくなかった。撮ってすぐ編集だから撮ってすぐ削除は心苦しいし。削除しても理由は演技でなく別のなにか。削除しそうな画は撮らなかったそれが大切だった。
 テスト試写は一回やった。でもスタジオには感謝している。彼らが作品の性質を理解して普通でないとわかった上で作らせてくれたから、試写には賛成だったし、回数も一度で気を使ってもらったし理解してもらえたと思う作品の性質を。
 最後は現実とファンタジーの合体。究極のテーマの究極のシンボル。真実もそうでもないのも一日の終わりには真実に。それが記憶の物語の真の姿。ヘンリー8世の伝記を書く人が不思議で内容が同じに思える。エド・ウッドの伝記が好き。内容が矛盾していて読む人によって見解が違う。それは最も正確な記憶の姿で、時間が経つと人は記憶を美化し、都合の悪いことは忘れて、主にいいことだけ思い出し徐々に美化してく。それが最も正確な記憶の姿で作品のよい記憶と悪い記憶は数年待たないと。音声解説も数年後ならバラ色。今はまるで地獄で悪夢。今回は楽しかったしいい思い出も。
 映画作りはサーカス家族と似ていて人が行き来する様子はまるで擬似家族。ある意味映画の本質を表している。またモンゴメリーにいくかは別にして。
 葬儀のシーンでジェシカだけが赤い服を着ているが派手でなく繊細に表現したかった。二人が似合いの夫婦だと。エドなら赤い服を選ぶし黒は着てほしくないはず。そんな彼女にはヒミツもあるし変わったところもある。つよい絆を持った夫婦の姿の現われ。
 “これは二つの別の映画だ”について。20の別の映画かもしれない。撮影では静かで感情的なシーンが先でにぎやかなシーンが続く。
 クリントンが参列していると言った人もいたが違う。ベンソンが出演。名優たちが小さな役にリアルさを出してくれた。この奇妙な集まりをみると何だか笑いたくなる。映画作りの醍醐味とシュールさを感じる。彼らが1ショットに集まっているのをみると。
 エンディング曲はパール・ジャムで。歌詞付きの歌をつかうのは珍しい。美しい曲だと思うし感謝したいのは仕上がった曲がよかった。”ここは違う”とかいいたくない。今回はピッタリで嬉しかった。美しくて映画にマッチしてる。あれほど感動したのは始めて。ある意味名誉に感じた。作品が好きでも理解するかは別。この曲を聴いたときこれを作った人は尊敬できるし、的を射た美しい曲だと思った。

【物語の語り手ティム・バートン】
それぞれの役者のお気に入りのバートン作品は
「ビートルジュース」ジェシカ・ラング。(サンドラ)
「シザーハンズ」アリソン・ローマン。(若サンドラ)
「バットマンシリーズ」ビリー・クラダップ。(ウィル)
「シザーハンズ」ユアン・マクレガー。(若エド)

 本作にも共通する幻想性がる。ハリウッドでは。短い荒筋から映画作品を選ぶが本作は言葉で説明できないところに惹かれた。独特の映画を作れて嬉しき思う。物事は白か黒かでなくどちらにもなりえる。真実にも嘘にも。
 脚本で気に入ったのは言葉で説明できない感情をイメージに置き換えて表現していることだった。
エド役とサンドラ役はダブルキャストだから、普通のキャスティングとは違い面白かった。アルバートとユアンという2人のエド役もジェシカとアリソンのサンドラ役もよかった。外見的にも似ていたが4人は内面的にも人間の持つ強さを同じように備えていた。中心は単なる回想シーンじゃなく、真実と空想を織り交ぜた記憶の中、独自の世界だからビジュアル的に空想の世界に遊びつつも現実感を残した。その感じをうまく出すには撮影や音楽などの要素もすごく大事だった。そこで一度引いたあと盛り上がるが前柄組んでる仲間が新しいことに挑戦してると自分も創作意欲に刺激を受ける。新しい仲間と融合させ新鮮で面白いものが生まれる。
 ロケが多かったわりに撮影は早かった。日に3回も場所を変え、撮影することも。少しずつパズルのように映像を集めた。毎日違う作品を撮ってる気分だった。撮影のペースが速いのはある意味いいことだった。何時間もかけて同じシーンを撮るのは面白くないから。仕事が速く進むとスタッフも俳優も長い待ち時間を過ごすより自分の演技を既観的に見れる。
 今まで経験のないことに挑戦できて楽しかった。ストーリーも書きがいがあるテーマで言葉にならない感情までも表現できるのが映画の魅力でその作業が楽しい。(バートン)

【おとぎ話の世界】
 エドの語る数々の作り話は神話や御伽噺や伝説がルーツ。まさにバートンの世界。民話や神話には特有の付随するイメージや場所や登場人物などがある。魔女や巨人、狼人間それに不思議な町、エドの作り話は定番のテーマに根付いている。
 本作で彼は3人のアカデミー賞受賞者を集めた。撮影はフィリップ・ルースロ。美術はデニス・ガスナー。衣裳がコリーン・アトウッド。
 ジェニーの家のロケ地にはうってつけの古いあばら家が見つかった。その家は屋根がなく屋根部と周りの木々はマット・ペインティング。
 遠近法を利用したトリックもる。巨人カールのシーンはカメラアングルを利用し、被写体を巨大に見せれる。カールが車を倒すシーンでは。小さな模型車の周りに普通サイズの車を配置し、カメラも合わせて位置を調整して”これなら違和感ない”と直感するまで調節。
カールの遠近感を正しくとるため、身長を3.7mに設定。実際は2.3mだから1.6倍に見せる必要がある。衣裳自体が視覚効果になっている。靴もあつらえた。ギネス登録の靴。
 スタッフや俳優の手腕をいかし特殊効果ばかりに頼らないようにした。これは人間ドラマだから。空想的な映像も現実に基づいている。ロケやセット撮影を交ぜ、リアルな人間味を出せるよう努めた。これは神話や御伽噺の大切さを説く作品でもある。マンガでも本でも僕たちの想像上の冒険は、すべて神話や御伽噺が基になっている。映画だって同じ。

【不思議な生き物たち】
 特殊効果ディレクターはスタン・ウィンストン。蜘蛛のシーンは演劇的な想像力が実に豊かなバートンの頭を覗き見て映像としてスクリーンに再現するのを手伝う。
 特殊効果はシェーン・メイハン。”バートン様式の映像”
 特殊効果はリンジー・マガウアン。蛇は作り物。水か入っても壊れないよう中の電子モーターを絶縁処理をした。マット・ハイムリックが精巧な装置を考えてくれ、水面を蛇が人の方へ泳いでいく映像ができた。
 狼のシーンは練習を重ねた。ユアンを襲う”地獄の番犬”は七分身のパペットでちゃんと凶暴に見え人間にのしかかるとかなりの迫力。
 特殊効果はJ・アラン・スコット。現場にいた本物の狼にどこまで似せられるかは挑戦だった。
タ ゛グ・スースが狼を4~5頭用意してくれた。事前にユタにあるダグの農場にいき、狼の大きさを測ったり、色見本を取った。工房のスタッフは皆熟練のパペット使いでバペットを作って長年この仕事をしているとパペットと一心同体になる。バペットと一緒にほえたりする。しかも自分じゃ気づいていない。感情移入した方が動きもよくなる。頭と首の関節の動きはケーブルで操作し体は棒でコントロール。頭は完全に無線制御。発泡剤とゼリーを混ぜたものをつくり怒りまくって口から泡を噴く感じを出した。
 蜘蛛に襲われる森のシーンでユアンが着る衣裳はワイヤーがケーブルで引っ張られる。道にセットを作り両端にパペット使いを配置する。ユアンが走り抜ける時に上から蜘蛛を降らせる。CGの蜘蛛も加える。
 パペット相手の演技が苦手な役者もいるがユアンは臨機応変に演じてくれた。
 リチャード・ジョンソンのチームがユアンを捕まえる木々をデザインした。擬人化した木々は操れるように。中にいる彼らが全体的な幹や枝の動きをつけた。スタジオで作られた木々をゴーグル製のモニターをつけて中でも映像を確認できた。それぞれの反応がぶつかり光る演技が生まれるそれを誘発することも特殊効果の仕事。
 万能ハンドはいろんなデザインのハンドを作ったがシザーハンズにならないよう気をつけた。観客の注意がそれるから。本格の為に制作された蜘蛛や巨木、狼など多くの生きものたちはどれも一流の作品に仕上がっている。

【原作者が歩んだ道】
 題名は執筆を始める数年前から決まっていた。その由来は父が何度も言っていた言葉で”小さな池の大きな魚はご免だ”。父はアラバマを離れ国際ビジネスマンになった。”金魚蜂かが小さいと金魚は成長せず鉢が大きいと3倍4倍に成長する”。インスピレーションはいくつかあった。父、そして当時生まれたばかりの息子。神話への興味。神話のような男の一生を書きたかった。いい話だけど映画化は無理と言われた。
 脚色はジョン・オーガスト。出版される半年前に原作を読んだ。一晩考える時間があり脚本を書きたいと思った。
 ジョンもダニエルも”ビリー・クラダップは自分自身を演じている”とお互いに感じていた。
 詩人ノザー・ウィンズローは原作ではわずか15単語分しか登場していないが映画では重要事物。ジョンが独走して作り上げた人物。
 これは感傷的な話でもあるがそれいがいにも強調して欲しい要素がたくさんあった。バートンなら上手く形にしてくれると思った。ほら話がいっぱいでてくる父は半ば強制的に物語を語って聞かせる。語り継がれてきたアメリカの寓話。”金の羊毛より白い柵の家”定番のアメリカンドリーム。ロケ地が原作と同じアラバマ。南部作家だから南部の歴史と寓話好きな気質が基盤。子供のころその町カルマンにいたのは短い間なのにどうしてか強く印象に残っている。舞台はいつもカルマンで頭の中の映画のセット。実際にいってみたら奇妙なほど平和だった。
 製作のコーエンにセットの森の奥に案内してもらった時、森の小道をさまよい抜けると突然現われる町のスペクター。映画のためだけに作られた町。それは数分間執筆したものから生まれている。ノースカロライナ大学で小説の授業を持った。ただ座って書き始めなにが起こるか見守る。何も起こらないときも物語が動き出すときもある。膨らませるよりあるものを絞っていくほうが楽なので思い切り棹を振り後でリールを巻くといい。
 芸術は僕らに不思議な夢を見させてくれる。本作は特定の親子関係を普遍的にいた。大勢の読者が言ってきた”これは僕の父親だ”と。

(ビッグ・フィッシュ DVDより)(写真は原作本の表紙)


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