■なんだか、ずっとブックセンターいとうの話ばかりしている気がしますが(笑)
東中野本店が23年8/31をもって閉店、というショッキングな告知を見て、
7/2、お別れを兼ねて、北上さん解説文庫を探しに行きました。
初めて東中野本店へ行った時のことは、以前書きましたが、
あの「陶酔感」は、多分、忘れないだろうなー。
階段を昇って2階に上がった時の、広大さ!
確か、上がったところが児童書コーナーで、遊園地などにある、
100円入れて乗る遊戯カーみたいな物があった記憶が。
そして、その児童書コーナーを見たら、いきなり、ずっと探していた
「ノーチラス号の冒険」シリーズが、ズラリと!
「こ、こりゃあ、今日はエラい買い物になるぞ」
と、慌ててカゴを取りに行きました。
そして、文庫本コーナーは、後回しにして
(お弁当の美味しいおかずは最後に取っておくタイプです)、
単行本ゾーンを見て回り、ノンフィクションやら、冒険記やらを漁り、
いざ、文庫本コーナーへ!
館内の案内放送で「この館内放送は、コンピューターで作っております。ヨロシクネ」とか言った、
謎のアナウンスが流れていたっけ。
それが何巡したか分からないくらい夢中になって探し、
「スッキリ」(当時)OA後、昼下がりに来て、帰りは夕方になっていたことを思い出します。
帰り、重くて、途中のコンビニで心が折れ、
宅配便で実家に贈ったのではなかったかしら(笑)
閑話休題。
■惜別のため、去年7/2月曜日、その東中野本店へ。
もちろん、一番の目的は、
田中光二「灼熱の水平線」角川文庫と
谷恒生「喜望峰」集英社文庫
~を探しに行ったんですが。
これはねー。
いわゆる「持ってたつもり」だった2作なんです。
田中光二は、「ロストワールド2」でシビれ、以来、UFOモノとか、
絶滅したはずの古代生物を捜索するシリーズなどで、さらに好きになり、
ずっと集めていた作家。
だから、北上さん解説リストに「灼熱の水平線」を見つけた時、
「ああ、北上さんも好きだったんだ!」
とは思ったけど、
「これなら、持ってる」
と思い込んでいたんです。
あ、もちろん、持ってなかったというわけじゃないんですよ。
ただ、持っていたのが、徳間文庫版で、北上さんの解説が載っている角川文庫版じゃなかった。
「持ってるつもり!」だった作品なんです。
谷恒生「喜望峰」も、同じパターン。
持っていたのは、1990年に再販された徳間文庫版。
北上さん解説は1980年、最初に出た集英社文庫版だったんですね。
で、ある日、家で手に取ってみたら、どちらも
「あれ? 北上さん解説じゃないじゃん!」
と焦って、捜索し始めたというわけ。
こういう「持ってるつもり!」作品が、最近、また一作判明したんですが、
それはまた後日。
■で、その2作、前に東中野本店に来た時は、
持ってる気になっていたから、しっかり探してなかったので、改めてチェック。
結果、その2作はありませんでした。
でも、行って良かった!
難関本の
水原秀策「キング・メイカー」双葉文庫
~があったんです!
これは、古書店、新刊書店、何十軒も回ってきたけど、全く目にしなかったので、
万一見かけたら、迷わず買っておいた方が良いかと。
希少だし、北上さん解説、ということで面白さは保証付きですから。
その「キング・メイカー」を見つけた喜びと共に、
これまでの感謝を込めて買ったのが、
藤谷治「船に乗れ! Ⅲ合奏協奏曲」ポプラ文庫
北上さん解説です。
とても売れた本らしく、ブックオフのかなりのお店で目にしていました。
どこにでもあり、どこでも買えるからこそ、
お世話になったお店で買おう、とカゴに入れました。
でも買ったのは3巻だけ。
以前、北上さんが書評でオススメしていて、面白そう!と
単行本で全3巻を買って読破。
今も家のどこかにあるので、北上さん解説の掲載されている3巻だけ
買うことにしたんです。
物語の主人公は、サトル、という高校生。
音楽一家に生まれたけど、一流校には行けず、音楽では二流の私立の高校。
僕は、この作品を読んだ時、自分に重なって、胸が苦しくなったのを覚えてます。
北上さんの解説では…
「クラシック音楽を学ぶ若者たちの日々など特殊な青春だ、
と思われるかもしれないが、そうではない。
なぜなら、そこにある悩みは私たちと同様だからだ。
自分の希望する職業があっても、その才能が自分にない場合、
人はどういう選択をするのか――
第三部では、その苦い現実を描いていく」
わかるなぁ。
もちろん、僕は、音楽の道を志したわけではないですが、
最初は「マンガ」に憧れ、主人公の顔が、向かって左側を向いた顔しか描けないことに絶望(笑)。
早々に断念し、
次は「小説家」を志し、ワセダミステリクラブに入って、ミステリ作家になる!と決意し、
必死で勉強して、早稲田大学第一文学部に合格したものの……
ミステリの肝のトリックやら、伏線やらが書けず、それ以前に、
自分の小説は何だか説明っぽくて、全然人間が描けないことに気づきました。
そして何より、
「作家の業(ごう)」が無いことを悟ったんです。
「真の物書き」って、書くのが辛くて、苦しくても、
それでも、書かずにいられない。
書かない苦しみより、書く苦しみの方が楽。だから書く。
そういう「業」のような宿命を背負っている方だと思うんです。
僕には、そういう「内から溢れ出す創作の情念」が無い、と気付いてしまった…
平井和正流に言えば「言霊」というのでしょうか。
僕には、降りてこなかった。
それは早稲田の2年になって「文芸専修」に入って、分かったこと。
早稲田出身の現役の作家、三田誠広さんが講師で、
いざ、作品を書いてみせて、ということになったけど……
「僕は何を書きたいんだろう?」
その原点で、僕の中は、空っぽだった。
作家になるための道筋は、どうにか歩いてきて、文芸専修まで辿り着いて、
現役の人気作家に見てもらえる所までは来た……
でも、肝心の、僕の内部に、そこへぶつける物が無い。
同じ専修の、本気で作家を目指す同級生の作品を読んで、
明確に、僕との違いが分かった……
「書かずにいられない人」と「書かずにいても、平気な人」
その大きくて、永遠に超えられない、深い谷間。
「船に乗れ!」でも、主人公のサトルは、それを、その名の通り、悟ります。
自分の演奏を聴く時の、先生方の、寂し気な顔。
教える声の中に潜む、諦念のようなもの。
それを感じ、
「ああ、自分は音楽家にはなれないんだ」
圧倒的な才能の欠如に、気づいてしまう哀しみ……
サトルと、あの時の自分が重なって、本当に胸が苦しかった。
■その後のサトルの選択と驚きの行動は、作品を読んで頂くとして……
僕の場合、それでも、すぐに諦めることは出来なかったなぁ。
未練がましく、なんとなく本や、モノを書くことの周辺には携わりたくて、
徳間書店やら、新潮社やら、「ぴあ」やら、出版社の入社試験や面接を
受けて回りました。
そんな時。
運命の分岐点となり、僕を救ってくれたのが、当時、個人で通っていた
日本放送作家協会主催の「フリーライター教室」。
そこで、小説やエッセイを書く勉強をしていたのですが、
(後にそこの講師になろうとは思いませんでしたが 笑)
救い主が、講師をされていた、人気脚本家・西条道彦先生でした。
僕の生涯の恩師です。
西条先生は、向田邦子さんらと同世代の人気脚本家で「産科歯科」などの
大ヒットシリーズを手掛けた方。
書いたシナリオは1000本!
当時、お酒の席で伺った、名優・鶴田浩二さんとの“真剣勝負”は、
面白かった~!
TBSの日曜劇場だったか、毎週一話完結のドラマを紹介していた枠。
そこで、鶴田浩二さんが出演することになっていたものの、
別な脚本家の書いた作品に鶴田さんが納得できず、
急きょ別な作品を、ということになり、
その時、たまたま現場に見学で居合わせたのが、まだ見習い同然だった
若き日の西条先生。
「お前、明日までに60分の脚本、書けるか?」
とプロデューサーから言われ、そんな無茶な!と思いつつも、引き受けた先生。
どんな作品を書いたか、伺ったはずですが、失念しました。
すみません。
それでも、人の悲しみとか、心のひだとかを伝えたい、と必死で書き上げて
翌日、脚本を持参。
鶴田さんは、ぎろっと、睨んで、その脚本を持って別室へ。
しばらく経ってから、部屋に呼ばれた西条先生。
正座して対峙すると、じっと見つめて来た鶴田浩二さんが一言。
「こういうのが、やりたかったんだよ」
どっと安堵したそうですが、それ以上に心から嬉しかった、
と話しておられました。
以来、鶴田浩二さんに気に入られ、何作も書いたと聞きました。
そんな切迫した状況で、素晴らしい脚本が書けたのは、
西条先生の中に、書きたいものが詰まっていたから。
「業」があったからなんだろうな、と今は分かります。
僕には、それが無いことを薄々自覚しつつ、それでも、物書きの周辺に居たい…
迷っていた時、フリーライター教室の、少人数の実習ゼミに通う中、西条先生から紹介されたのが
日本テレビ「ルックルックこんにちは」でした。
「構成作家を募集してるんだってさ。やってみるか?」
構成作家? って何?
そんなレベルでした。
「要は、進行台本を書く作業だよ」
▼TOPニュースのVTRを受けて、スタジオに降りて、
▼MCの岸部シローさんが、受けてひと言。
▼さらに取材したリポーターが、補足情報を報告。
▼そして、次のVTR振り。
そういったもの、とざっくり教えられました。
とはいえ、先生も、構成作家ではなく、ト書きと台詞を書く脚本家ですから
全く違うジャンル。
あまりよく分かっていなかったかも。
でも、自分の教室の教え子が、何人か「ルックルック」で構成作家として
既に活躍しているから、心配せずに行ってみろ、と。
「テレビの現場で、とにかく書く、ということを続けたらいい」
と言われ、行ってみたのが始まり。
多分あの頃、先生も、僕が迷っているのを察して、
背中を押してくれたんだろうなと思います。
日本テレビ社屋が、汐留ではなく麹町だった頃の話です。
まだ大学3年生になったばかりだったかと。
そんな学生が、構成作家見習いに!?
今なら、考えられないことですが(笑)
確か、当時、日本テレビが「午後は○○(丸々)おもいっきりテレビ」という
正午から午後4時前まで、ブチ抜きの4時間生放送の情報番組をスタート。
そこに、「ルックルック」などをやっていて、生放送の手練れの作家さんが
駆り出され、人手不足になったため、
先輩作家さんのアシスタントとして呼ばれるようになった……
というのは後に知ったことです。
ちなみに、その時、「おもいっきりテレビ」の4時間全体の総合MCだったのが
山本コウタローさん。
その中の1コーナーを受け持っていたのが、みのもんたさんで、
後に、みのさんは、正午から2時間の生活情報番組「思いっきりテレビ」のMCとなり、
大ヒット番組になっていきます。
それはさておき、あの日、先生に押されたのがきっかけで、
構成作家の道に飛びこんで、30年以上。
まがりなりにも構成作家として働いて来られたのは、本当にラッキーでした。
では、「業」が無いのに、その後、
どうやって、「ものを書く」現場でやってこられたのか?
なぜなんでしょう?
いつかまた、機会があれば書こうと思います。