八障連ブログ

八障連(八王子障害者団体連絡協議会)運営委員会より、情報提供を行っています。(「八障連について」カテゴリーを参照)

八障連通信369号をアップします。

2021年05月13日 | 八障連通信
八障連通信369号をアップします。



八障連通信【音声版】はこちらから

ここからは通信本文です。

【ホームレス支援団体NPO法人「さんきゅうハウス」から八障連の皆様へ さんきゅうハウス相談支援員 田中 彩】
ほっとスペース八王子にボランティア職員として活動されている田中さんは、立川にあるホームレス支援団体「さんきゅうハウス」の相談支援員として支援活動を行っています。田中さんにさんきゅうハウスの活動についてレポートしていただきました。お忙しい中の投稿、ありがとうございます。(編集部)

私は立川にある NPO 法人さんきゅうハウスの活動をしています。さんきゅうハウスは制度の狭間にいるホームレス、生活困窮者、社会的孤立者を対象とし、居住支援、生活支援をしています。ホームレス T さんは、住居契約時、不動産屋が信用ならないと訴えアパートに入ることができませんでした。それが支援者の責任だと主張し私たちを殺すと脅しが始まり統合失調症の症状が現れました。しかし自分は病気ではないといい、今でもその方は支援につながらずホームレス生活をしております。またホームレス U さんは、どうしても(生活保護制度は知っているが)生活保護を受けたくないと言う理由からアパート入居することができません。生活基盤を整えてから就労することが順当ではないかと説得しても、首を縦に振りません。彼らは既存の枠組みによる制度にはまろうとしません。一般社会を維持する仕組みの中、ホームレスは「あてがわれた満足」である医療福祉サービスを拒否して路上に戻ります。彼らは専門職に大きく言えば社会に受け入れられるために折れません。
社会が公的領域と私的領域の間に引く境界線を主体的に崩します。彼らが選択する自由・自己決定は自立でもなく社会参加でもありません。彼らは言います、「単に専門家に任せれば良いと言う話ではない、専門家に未来を決定されたくない」これは、医療福祉の発展は社会問題を自動的に解決しないと言うことを示しています。複雑な社会状況、社会関係のただ中で発せられた「声」はより差し迫った現実的課題であり、より深刻な問題です。専門職や学者による政策提案、制度改革による政治主義に陥ることを防ぎ、問題を抱えている当事者の主体性を剥奪しないためには何が必要なのでしょうか?
私はさんきゅうハウスに加え八王子にあるほっとスペース八王子(以下「ほっと」)でも活動しています。ほっとは、精神病者当事者で運営する就労継続支援B型事業所です。全国で当事者で運営する共同作業所は4か所しかありません。その一つです。ほっとは、皆で共同して決定していく経験を重要視しています。精神障害者である自らの経験を資源として生かし、自分たちで管理するという発想です。つまり当事者が主役です。資本主義のもとで独占された専門性は当事者の可能性を開きません。むしろ専門性こそが、権力を増大させ、封建制を生み出すのではないでしょうか。医療保護入院に示される強制入院制度は、民主主義とはかけ離れたものです。上からの効率的な管理でなく、私たちの下からの集合的な力による開放への道を切り開く必要があります。
斎藤純一は「社会統合は互いの自由の享受に民主的責任を負うものとして制度を共有する。われわれは、『最も不利な立場にある人が社会にとって政治的に公平なものとして平等に扱われている』と感じうるかどうかである。」と述べています。(斎藤純一 2009)
民主主義が保障する制度を共有し個人の福祉を満たすことが前提になります。このような時代にこそ冷笑主義や懐疑主義を捨て、民主的集団的能力を育む「ほっとスペース八王子」のような小さな連帯のプラットフォームが必要です。コロナ禍の今だからこそ、新しい展望による新しい言葉を生み出す時ではないでしょうか。大げさな社会構造の変革ではなく、当事者の苦しみをより多くの人々と分かち合う。現代資本主義においては、効率性・即効性・即時性をもって課題解決されることが最優先されます。しかし、「私もいつか今とは違う立場になる」と想像し、改めて友情の良さを理解する必要があるのではないでしょうか。(文責/田中彩)


【“生産性”という厄介なことばについて 元八障連運営委員 後藤 厚】
杉浦さんが半分本気(マジで)書いてくれた文章は去年の 8 月にメールで送信されましたが、その時から、何かしらの返信をしようと思っていて、ずるずる時間が過ぎ、自分の中でも、うまく整理もつかず、7 か月経過してしまいま
した。
とっても大切で根本的なことを書いてくれたと感じ、共感したので、返信をしたいと思っていました。結論から言うと、ぼくらだけでも、人に対しては「生産性」ということばを使わないという、断固とした決心をしませんか、というのがぼくの意見であり、提案です。生産性ということばは狭義で使われることばであって、慎重につかわれたほうがいい(できるならば用いないほうがいい)ことばじゃないかとぼくは思います。人を何かができる、できないで判断しない、そして、人は他人(人格)を判断できるような能力はもっていないと思うのです。
生産性のあるなしの尺度がもしあるとするならば、それが人のしあわせにつながっていくか、社会や未来を豊かにするものであるか、人類の平和に寄与するかで判断したらいいのになと思います。なので、安易に生産性のあるなしを語ることはできず、思慮深い、洞察の上に、謙虚になって考えることではないでしょうか。目で見れたり、手で触れたり、数値化できたりするものじゃなく、むしろ、その逆のものから生み出されるものに価値があるように思います。オレオレ詐欺の人たちも生産性を高めています。僕なんかよりははるかに生産性が高いかもしれませんね。生産性の低くなった高齢者は泣きをみています。生まれたばかりの赤ん坊の生産性はどう評価されるのでしょうか。
ぼくの感覚では 15 年位前から、周囲の会話の中で「あの人は使えない人だ」とか「あの人は使える」といったことが普通にやりとりされるようになってきたように思います。ですが、その意識は僕の中にも少なからずあって、自分も誰かをさばいたり、評価したり、コケおろしたり、なので、そういうことを全くしていないわけでなく、結構やっています。そんな、思いが出てくるときは、大抵自分に余裕がないとき、結果を出さなきゃと焦っているとき、ここで失敗なんかはできないんだと、怖れや不安を感じたりしているときのように思います(自分が窮地に立たされているとき)。しかし、その考え方や、認識はかなり怖いことだなと思っています。人を評価するってことは自分は評価できるだけの立場にあると思っているからこそできることだと思います。優位的立場にあったり、能力があると自負していることの表れだとも思います。
人に対して、生産性ということばを用いるときは、仕事ができる、仕事ができない、という視点で相手を評価(ジャッジ)するときに多く使われるような気がしますが、それが、そのままその人の人間性や人格の評価やジャッジにもなっているように思います。そして、それを、簡単に誰もがジャッジしあうような風潮になっているようでコワイです。
間違っているかもしれませんが、生産性ということばは、極めて狭い範疇の中で使うべきことばのように思えますし、ある意味、危険性をはらんでいることばのように思います。生産性とは、産業等の中の製造分野なので、短時間に、かつ効率的、ローコストで大量のモノ(物質であったり、野菜や卵や家畜なども含まれるのかも)を作り出すといった場合に用いられる「(専門)用語」のように思います。その極みが「大量生産」だと思うのです。
なので、このような場面(シチュエーション?)以外に用いると、おかしなことになっていくんじゃないかと。そして、それが、実際におかしなことになってしまっているように感じています。
生産性ということばには、「儲かる」「儲ける」といった欲も含まれているような気もしますし、「ムダを省かないと生産性は高まらない」という事実もあると思います(ホントはムダは非常に大切だと思うのですが“無駄話し”“”より道”“”道草”とか)。ただし、これらがすべて悪いわけではなく、生産性を上げることで、社会が豊かになってゆくことがあることも理解しているつもりではいます。
ただ、人を見ていく中で、人間関係を見ていくなかで、このことばを使っていくと、それはそれはアブナイことになっていきますよね。生産性あるなし=人としての価値のあるなし、的なものになっていき、人が人を簡単にジャッジしてしまう。その人の価値を判断できるだけの物差しを人はもっていないはずです。人の価値は、何かができるできないではないですし、、、。
自分の都合のいい物差しで、人はどうしても相手を計ってしまうのではないでしょうか。
(こうあってほしい、こうあるべきだ的なものさし。そうすれば自分に利益があるからといった無意識の願望も含んでいるものさし) 極端かもしれませんが、生産性ということばの向こうに、戦争というものを感じてしまいます。すべてが「生産性」ではかられたのが戦争時だったのではないでしょうか。
ぼくは以前は重度肢体不自由児者の通所施設にいました。そこの利用者さんには、食事もトイレも移動も全介助、自分の意志で四肢をコントロールすることはできず、ことばを出すことができなかったり、意思表示ができなかったりした(こちらがききとれなかったり、わからなかっただけかもしれない 母親はそれができていましたから)方が何人かいました。
狭義では生産性がない、といわれてしまいそうな方たち(「あの人たち生きてる意味あるの?」と聞いてきた人もいました)でしたが、その人たちからぼくがいただいた恵みは計り知れません。もう 20 年も前のことですが、元気ややさしさや、家族のすばらしさ、生きているということの意味、いっしょに生きることの意義などなど、多くのことに気づかせてくれて、ぼくを豊かにさせてくれ、その恵みはいまも継続しています。有益なもの(しあわせになっていくために必要なもの)を生み出してくれていました。当然それを本人たちが意識して生み出していたとは思いません。多くのものは、存在そのままから発せられていたものだと思います(家族をはじめ、多くの人の愛情を受けてたことも影響していると思います)。悪意をもっていない人は輝きます。
一方で、以前、脇田さんが書いてくださった中に、「愚行権」というのがありましたね。あのことばに、ぼくはかなり救われました。社会貢献しなくてもいい、頑張らなくてもいい、といったような話し。ぼくも愚行権を行使しながら生きたいなーとまじめに思っています。がんばらない、目標は設定しない、的な生き方を。
ぼくが 25 歳のころから付き合っていた脳性麻痺の友人は、非常に頭がよく、ホーキング博士が好きだったり、吉本隆明の全集を読んでいたり、日本に IL センターを作りたいとアメリカまで見学に行ったりした人でしたが、ぼくが知る限りでは、ほとんど仕事や活動はしませんでした。時々、この人はなんで何にもしないんだろうと思うこともありましたが、自分も年を重ねてみて、理解できるようになりました。想像ですが、それが彼の自己表現(生ききること)だったんだと(想像ですが)思っています。生産的な活動をしないということで生産をしていたように思います。3 年ほど前に(彼が 60 歳過ぎ)呑みながら彼に「この国はよくなっていくんだろうか?」って聞いたら「変わるんだったらクーデターしかないね」って笑って話してました。その時は半分冗談のように聞いていましたが、今となっては本気のことばだったんだと思っています。
反社会的なことはよくないと思います。犯罪や、ヘイトスピーチ、いじめとか。一方で、人間に生産性や、能力を求め、それがないと判断した人を低く見ること、これも同様によくないことだと思いますし、反社会的であり、反平和だと思います。(自分の中にもよくない思いや意識はあるので、失くしていく努力は続けたいと思っています)人間は生産されたものではないですよね。これがよくて、これがだめ、とジャッジされる存在ではないですよね。そして、人間は人をジャッジできるようなそんな存在ではないですよね。すべての人がかけがえのないすばらしい存在なんだ(リスペクト)。
誰もが不完全で、不完全さがあってこそ人間で、それを補いあうのが人間同士であり、平和なのでは。
みんなちがってみんないい。 あなたもわたしもみんないい。 お互い胸をはりましょう。
震災から 10 年、そして、コロナ。震災で一度みんなが立ち止まったと思うのです。でもいつしかまた走り出しているような、、、。コロナでもう一度立ち止まってみてもいいんじゃないかな?見つめ直してもいいんじゃないかな?チャンスだよって、思っています。
♬見てきたものや、聞いたこと、今まで覚えた全部 でたらめだったらおもしろいそんな気持ちわかるでしょう 答えはずっと奥の方 こころのずっと奥の方
涙はそこから やってくる こころのずっと奥の方♬ (情熱の薔薇/ブルーハーツ)


【編集部より】
八障連通信 369 号をお届けいたします。コロナ過は変異株による第 4 波の様相を見せますね。東京 23 区と八王子市
などに「まん延防止等重点措置」が適用され再び拡大傾向を見せているようですが、皆様いかがおすごしでしょう
か。さて、本号では立川での「さんきゅうハウス」の活動について田中さん(ほっとスペース八王子のボランティア職
員)から、またこの3月末でリサイクルわかくさを退職された後藤さん(元八障連運営委員)から「生産性について」の
投稿をいただき、掲載させていただきました。お忙しい中の投稿、まことにありがとうございます。後藤さんは、本
来ならもっと前に退職されていたところをリサイクルわかくさがコロナや立ち退きによる移転、その他もろもろで大
変な状況を見かねて残って活動されたそうです。今後ともご意見等がありましたらぜひお気軽にお寄せください。
(編集部)


【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 52】
八面六臂の活躍ならまだ喜ばしくもあるが、貧乏性ゆえの暇なし生活を続けていた 2004 年 3月 22 日。朝起きると季節外れのセミの音がいやにうるさい。まだ春の盛りなのにと訝っていると、右耳の耳鳴りだとハッと気付いた。外部からの音が聞こえづらくなっている。あまり深刻には考えず、職場に朝早く行き、事務作業に追われた。お昼を過ぎるあたりから耳鳴りの度合いが酷くなり、他人の声がはっきり聞こえなくなって、慌てて耳鼻科へ向かった。
医師が発した言葉は、「突発性難聴。紹介状を書きますから、明日医療センター(正式名称は東京医科大学八王子医療センター)に行って下さい」というものだった。よく聞く病名だが、ピンとこなかった。原因は不明だが、概ねストレスからくると考えられている。余りの忙しさから突発性難聴を患った芸能人も数々いらっしゃる。そんなに日々ストレスを感じてはいなかった。病気になった時に多くの人が口にする言葉だが、「何で私が?」と私も思わず口にした。
明くる日に医療センターに行くと、いろいろ検査をした挙句、「突発性難聴ですね。明日から入院です」「どれくらいですか?」「最低 2 週間」「それは無理。今学会の事務局を引き受けていて、私が入院すると全てストップしてしまう。毎日通うので、外来で何とかして欲しい」・・とやり取りがあり、無理を飲んで貰った。安静も必要だというので、学会事務局の日以外は仕事を全てお休みにして、自宅でゴロゴロして過ごした。
日曜日を除いた 2 週間、毎日点滴をして安静を保っていたが、経過が芳しくない。右側の聴力は殆ど戻らないままだった。それで、毎週 1 回しかできないのだが、高圧酸素療法をやりましょうと言われた。SF 映画で時々目にするほか、アスリートがカプセルの中に入る場面も何度か TV で観ていたが、まさかそんな体験をすることになるとは。吃驚しながらもワクワク感もあった。SF の一場面で戦い疲れた戦闘員がカプセルの中に入って見事に蘇生して行く姿は魔術のようだった。
期待に胸を膨らませ、バッハの CD を持って病院へ向かった。CD は密閉遮音空間で 90 分を穏やかに過ごすための工夫だ。そう言えば、手術の時にも事前に預けた事を思い出した。幾分緊張して手術室に入るや、部屋全体に静かに
響くバロックが聴こえて来て、気持ちを穏やかにしてくれたっけ。カプセルの中を100%の酸素で充満させ、2 気圧の圧をかけて 90分過ごすのだが、初めと終わりは加圧、減圧を 15 分かけて行うので、治療としては賞味 60 分。勿論、カプセルの中は酸素が充満しているから化学反応が起きやすいなど危険も伴うので、下着 1枚の上に検査着を羽織るだけ。カプセルのカバーが下ろさ
れロックされて行くのを見ていると、これから宇宙旅行に出掛けるような気分になった。
殆ど聴こえなくなっていた右耳はカプセルから出てみるとかなり回復していた。来週もう 1 回やりましょうと言われ、すっかり元に戻るのではないかとほのかな期待を抱かせた。結果的には最初で 50%、2 回目で 25%、全体を通して75%位の回復という感じだった。だから、日常生活に不便をそれ程感じずに済むようにはなったが、耳鳴りには全く効果がなかった。
最近は、高気圧酸素治療と呼び方も少し変わり、突発性難聴に対しては 30 回まで保険適応となっているようだが、当時は 2 回までしかできなかった。早期にこの治療をすればする程回復率が高いと解説されており、最初から酸素療法をやっていれば、もっと違った結果が待っていたに違いない。
その後年齢を重ねるごとにドンドン右耳の聴力が落ち始め、仕事にもやりづらさを感じるようになった。相手の話を聴くことが仕事の核心ゆえ、困りものであった。何とかならないかと、3 度補聴器の体験キャンペーンにチャレンジしてみたが、ドイツもこいつもはかばかしくなかった。雑音ばかりが響き渡るのだ。最後の体験時にメーカーの社員が店頭に来ていたので、突っ込んで話し込んでみると、補聴器の技術革新は遅れていると認めた。如何に我々は自分が聞きたい物音だけを選択的に聞いているかがよく分かった。(次号に続く)



通信本文はここまで。

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