
二年ぶりに新歓嗣先生の窯にお邪魔した。伊賀上野の駅から城に向かい、国道を奈良の方に折れると、山間の田園地帯が開け、畦道を少し山に入ったところに「三軒窯」はある。先生が山を切りひらき、ログハウスを造り、窯を築き、今の形になった。
以前お邪魔したときには先生は轆轤よりもユンボの運転に忙しく、僕もログハウスの土台のコンクリー打ちをしたことなども懐かしく思い出す。そのログハウスも、今は前に趣のある日本庭園風を抱き、立派になった。
最初に展示室に入って棚の抹茶茶碗の轆轤目の力強さを見たとき、あ、先生はお元気なんだなあ、とすぐに分かった。
焼き物には、作者の感性や技術だけでなく、生活・思想・体調等、すべてがあらわれてしまう。
先生と以前露天風呂に一緒に入ったとき、先生はずっと岩壁を睨んでいて、何か考えを巡らしている。常に周囲のモノの形の中に造形のためのフォルムを見出そうとしているのだ。ユンボを運転して山を切りひらくことも、小屋を建てることも、その中からある「形」を見出していく、すべては作品に結びつく、プロローグなのだ。
先生は「岩」が好きだ。焼き物とは、風化した粘土を焼成して、自然の岩に帰すことだ、というお話しを伺ったことがある。作品の肌合いは岩山を思わせる。
自然が創り出す悠久の時間を表現する。
しかし、先生の成型は、一瞬である。それまでに蓄えられた思想とイメージが、瞬間に結実する。それは瞬間の、しかし連続した動きであり、その凝縮した時間が作品に映し出される。
焼き物とは、時間の空間化である。大胆な轆轤目は、轆轤の回転と腕の動きが合わさった時間を、焼成で出来る窯変や焦げは窯の中の炎の動きの時間が映し出されたものである。
そして「色」
激しい焦げの「黒」優しい愛を思わせる「緋色」、山の草木や清水を連想させる透明に近いビードロの「青」フォルムと色彩の多彩な表現。
先生のお宅の居間には、鉄を溶断して創った作品も飾られている。
素材もまた尽きることはない。粘土だけではないのだ。
二日間、泊めて頂いて、多くの事を教わった。僕も進化しなくては・・・
以前お邪魔したときには先生は轆轤よりもユンボの運転に忙しく、僕もログハウスの土台のコンクリー打ちをしたことなども懐かしく思い出す。そのログハウスも、今は前に趣のある日本庭園風を抱き、立派になった。
最初に展示室に入って棚の抹茶茶碗の轆轤目の力強さを見たとき、あ、先生はお元気なんだなあ、とすぐに分かった。
焼き物には、作者の感性や技術だけでなく、生活・思想・体調等、すべてがあらわれてしまう。
先生と以前露天風呂に一緒に入ったとき、先生はずっと岩壁を睨んでいて、何か考えを巡らしている。常に周囲のモノの形の中に造形のためのフォルムを見出そうとしているのだ。ユンボを運転して山を切りひらくことも、小屋を建てることも、その中からある「形」を見出していく、すべては作品に結びつく、プロローグなのだ。
先生は「岩」が好きだ。焼き物とは、風化した粘土を焼成して、自然の岩に帰すことだ、というお話しを伺ったことがある。作品の肌合いは岩山を思わせる。
自然が創り出す悠久の時間を表現する。
しかし、先生の成型は、一瞬である。それまでに蓄えられた思想とイメージが、瞬間に結実する。それは瞬間の、しかし連続した動きであり、その凝縮した時間が作品に映し出される。
焼き物とは、時間の空間化である。大胆な轆轤目は、轆轤の回転と腕の動きが合わさった時間を、焼成で出来る窯変や焦げは窯の中の炎の動きの時間が映し出されたものである。
そして「色」
激しい焦げの「黒」優しい愛を思わせる「緋色」、山の草木や清水を連想させる透明に近いビードロの「青」フォルムと色彩の多彩な表現。
先生のお宅の居間には、鉄を溶断して創った作品も飾られている。
素材もまた尽きることはない。粘土だけではないのだ。
二日間、泊めて頂いて、多くの事を教わった。僕も進化しなくては・・・