「スルス峠」は榛名湖と旧箕郷町(現高崎市)を結んでいた峠です。麓から峠に至る道は今では廃道と化している区間があり、それだけに探索のしがいがあります。
明治時代以降に盛んに使われた道ですが、自動車が物流の主役を担う以前の道という意味で、私のブログでは「古道」として扱います。
なお、地形図では「磨墨峠」の表記ですが、「摺臼峠」や他の表記もされることがあり、私のブログでは「スルス峠」で統一させていただきます。
このブログにまとめたきっかけはクタビレ爺イさんのブログでの山はこれからさんのコメントです。
Unknown (山はこれから)
2021-05-15 01:21:43
(略)それから、スルス峠から表口石標までの山を巻くルートが不明です。
少々話が逸れますが、土屋文明氏が高崎中学時代の習作で「枯野抄」という作品が、ガラメキ温泉が舞台で、高崎からガラメキへ向かう途中、松之沢へ迷い込みやすい、とか、温泉湯の描写、温泉からスルス峠、とか、往時の様子を伺い知ることができます。
私が複数回の探索を行ったところ、スルス峠から表口石標までのルートがだいぶ分かってきました。後述するように遺跡として馬を通すための敷石が二か所発見できました。
「群馬県歴史の道調査報告書第二〇集 信仰の道」
「奈良文化財研究所」の中の「全国遺跡報告総覧」
で読むことができます。
55ページから111ページが榛名山に関する部分ですが、特に57,62-65,85,90-92ページが黒髪山表口登拝路を扱っている箇所で、スルス峠の道とも重なっています。
ちなみにこのシリーズ「歴史の道調査報告書」は各都道府県ごとに作成されており(群馬県は全二十集)、古道探索愛好家にとって情報の宝庫です。道だけでなく周辺の石造物なども載っています。
榛名山の古道という点では同シリーズの「三国街道」、「信州街道」、「吾妻の諸街道」も見ておくとよいと思われます。特に、後述するように本ブログではスルス峠の道の起点を下小鳥にある三国街道の道標としていますので、起点に関しては「信仰の道」より「三国街道」の方が詳細です。
「良好な自然環境を有する地域学術調査報告書 44」
スルス峠を扱った資料ではありませんが、「相馬山・黒岩県自然環境保全地域」の38-39ページに榛名湖付近の開発史が短く載っています。
「榛名湖は古来榛名神の「みたらし沼」として不入の地とされていた」
「1884年(明治17年)には沼ノ原に榛名牧場ができいてる」
「蚕種飼育・採氷・養魚を目的として榛名湖畔に人が住みつくようになったのは明治20年代」
これらから、後述する二万分一地形図図に見えるような、馬道としてのスルス峠の道が整備されたのは明治20年頃以降のことではないかと考えられます。
前橋及高崎近傍17号(共17面)
大日本帝国陸地測量部/編 -- 大日本帝国陸地測量部 -- 〔1910〕 --
明治四十年測図の二万分一地形図を群馬県立図書館がデジタル化した資料です。
県内全域はカバーしていませんが、スルス峠の道はHTML版では005「榛名湖」、008「榛名山町」、009「柏木澤」に載っています(PDF版も同様)。
その「榛名湖」の図の右下の隅を拡大すると、スルス峠を通る片側実線片側破線の道が下のような形に見えると思います(地形図における道の表示は、先の「枯野」にある荷を載せた馬が通ったという記述とも整合します)。「C〇」はこのブログで便宜上使うカーブの番号で、「∃」は土の崖の記号です。
\ / — C8
C9 /
C7――
\
C6
/
C5
\
C4
/ ∃
C3 C1 ∃
\ / |∃
C2 ∃\
「詳説デ・レイケ堰堤ガイドブック」
こちらもスルス峠を扱った資料ではありませんが、このブログで使う地名の多くはここから取っています。代表的なものが「夕日河原A渓谷」と「夕日河原B渓谷」です。夕日河原A渓谷は二万五千分の一地形図における「磨墨峠」と「相馬山」の文字の間の「1207」の文字の辺りを源頭とする谷/沢で、標高980メートル付近の十字渓の下流も含みます。B渓谷はA 渓谷の東側を並走して標高900メートル付近で合流する谷/沢です。A渓谷とB渓谷の合流後は「黒岩川」とも「榛名白川」とも呼ばれます。その黒岩川が標高650メートル付近で合流する沢が「中河原」で、中河原の方を「榛名白川」と呼んでいる資料もあります。中河原に標高600メートル付近で合流する沢が「栗の木沢」です。「榛名白川」は狭義では中河原と栗の木沢の出合より下流を指します(「詳説デ・レイケ堰堤ガイドブック」40ページ)。
先ほど拡大した「榛名湖」の図に戻ります。「1050」の等高線を見ますと、スルス峠(鞍部)からダイレクトに続く谷が等高線の凹みとして表現されています。この谷をA渓谷の支流ということで「A1」とします。同じ「1050」の等高線を東にみていくと、「A1」と、本流であるA渓谷との間に凹み(=谷)が三か所あることがわかります。それぞれの谷を「A2」「A3」「A4」とします。カーブ番号と合わせて見ますと、C1はA渓谷の徒渉点、C2とC3付近ではA4がどこなのか不詳ですが、C4、C5、C6はA3とA4の間にあるように見え、C6とC7の間で道はA3を渡り、C8とC9の間でA2の源頭部を通って、C9の右曲がりででA1の源頭である鞍部に到達しています。
山はこれからさんがおっしゃっている土屋文明の「枯野」も収録されていまし、他にも榛名湖の氷切りの話など、明治から昭和初期にかけての榛名山での人々の暮らしぶりがうかがえます。
「群馬の峠 西北の地 三山の地」岩佐徹道
の120ページ。
カツギ屋がスルス峠を通って物資を担ぎ上げたり、榛名湖の氷を馬で降ろしたりしていた話や、箕郷の子供がスルス峠を通って榛名湖までスケートをしに行った話が載っています。
「プリン掬い峠」について:
「スルス峠」から麓に向かって下ってゆくと、相馬山頂から南に垂れる尾根と鷹ノ巣山から北に垂れる尾根がつくる鞍部(標高920-930メートル付近)を通ります。私はこの鞍部のことを「プリン掬い峠」と呼んでいます。なぜなら、私の住んでいる麓から見ますと、相馬山から鷹ノ巣山にかけての稜線がつくるカーブの上にちょうど榛名富士が乗っかって見えるからで、スプーンでプリンを掬う様子に見立てているのです。
こちらのPIXTAさんの写真で説明しますと、左寄りに写っている最も高い山が相馬山、その左が榛名富士、さらにその左が鷹ノ巣山です。
以上、長々と述べてきました。探索図は別記事にしました。
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