天沼春樹2012

期間限定の資料集

グリム童話およびグリム兄弟

2012年10月29日 | 日記
講座資料 「グリム童話の世界」2012年10月
                 天沼春樹
                    

■グリム童話のふるさと
 森の奥で魔女が作ったお菓子の家がまっている『ヘンゼルとグレーテル』のお話。『赤ずきん』では、森の小道で狼が道草をさそいます。『白雪姫』のまま母は、魔法の鏡に教えられ、七つの山を越えて森の奥の七人の小人の家へ毒リンゴをもってでかけていきます。 グリム童話のお話は多くは、深い森の中ではじまります。
 グリム童話のお話の故郷ドイツも、深くて豊かな森の国です。いまでも、ドイツ南部にひろがる黒い森(シュヴァルツワルト)と呼ばれる地方には、いまにも童話の主人公が顔をだしそうな森があちこちにあります。
 グリム兄弟は、いまから二百年ほどまえに、ドイツの昔話を集めて、『子どもと家庭のためのメルヘン集』と名づけて、本にしました。今では約百か国以上の言葉に翻訳され、『グリム童話』として世界中で聖書のつぎに読まれています。
 ところが、童話を集めたグリム兄弟や、グリム童話の全体については、本当はあまり知られていないのです。グリム兄弟がお話を書いたのだとかんちがいしている人もいるくらいです。
 グリム童話は、十九世紀の初めに、ヤーコプ・グリム(1785-1886)とヴィルヘルム・グリム(1786-1859)がドイツの昔話を古い書物で調べたり、語り手から聞きとったりしてまとめたドイツの昔話です。最初の本が出たのは一八一二年のことで、日本はまだ江戸時代の終わり頃でした。
 それでは、まず「グリム兄弟がどんな人であったのか」からお話をはじめましょう。
■グリム兄弟の少年時代
 グリム兄弟は、ドイツの中西部にあるヘッセン州のハーナウという町に生まれました。フランクフルトから二○キロメートル東のマイン川のほとりにある貴金属で有名な職人の町でした。父親は法律家で、郡の偉い役人でしたので、ヤーコプとヴィルヘルム、そして合わせて六人いた兄弟姉妹は幸せな子ども時代を過ごしました。兄弟は、大きな官舎のそばにある森や、近くのキンチヒ川で遊んだ子ども時代をなつかしんで書き残しています。 ところが、その幸せな子ども時代に、とつぜんの不幸が襲います。父親が、四十五歳の若さで肺炎で亡くなってしまったのです。一家の柱をうしない、グリム家はいっきに貧乏になってしまいました。家も官舎なので出なければならず、残された母親一人で六人の子どもたちを養うのは大変なことでした。長男のヤーコプは十二歳、二男のヴィルヘルムも十一歳のときです。
 グリム兄弟は、そのとき決意したといわれています。勉強して、はやく母さんや弟たちを助けてやろうと。のちにグリム兄弟が集めた童話のなかに、兄弟が助けあって幸せをとりもどすお話がたくさんあります。グリム兄弟の子ども時代をかさねあわせると、なにやら二人の願いもこめられているような気がしてなりません。
 ヤーコプとヴィルヘルムは、当時カッセル市で宮廷で女官を勤めていた叔母さんをたよって、高等中学校へ転校していきました。田舎の学校で勉強していたので、兄弟の学力がたりないといわれ、実際より一年低い学年にいれられたり、貧乏な田舎少年をばかにする教師もいたりして、兄弟はずいぶんくやしい思いをしたと自伝に書いています。
「ほかの生徒には、<あなた>とよびかけるのに、ぼくたちには<おまえ>と、まるで馬鹿にしたようによぶ教師がいました。いつか見返してやりたくて、いっそう勉強にはげみました」と。
 けれども、グリム兄弟は勉強して、はやく仕事につき、家族のために働かねばなりません。もともとの勉強好きもあって、ふたりは毎日机にかじりついて猛勉強をはじめました。一年も過ぎる頃には、ヤーコプもヴィルヘルムも学年で首席をとるほどに成績をあげ、兄のヤーコプなどは卒業時に、学校の歴史上これほど優秀な生徒はいないと表彰されたほどでした。               
■学者への道
 マールブルグ大学へ入学したグリム兄弟は、ここでひとりの教授に出会います。サヴィニーといい、ふたりに法律だけでなく、ドイツの文学や歴史などへの眼を開かせてくれ、自宅の書斎も自由に使わせてくれました。兄弟はたくさんの書物をむさぼるように読みはじめました。二人が学問への道にめざめたのはこの頃からでした。
 本を買えない兄弟は、借りてきた本をすべてペンで書き写して、いまでいえばコピーをとりました。しかも、そのコピーを二部作り、欲しい人に売って学費のたしにしたりしました。当時は本の値段も高く、ていねいに写した複写本なら喜んで買う人がいたのです。本を二度も書き写すことで、中身がすっかり頭のなかに入ってしまったことでしょう。  若い時代のグリム兄弟の手紙や日記には、服がやぶれて古くなっても買えないとか、今日はあまり食べていないとか、貧乏をぼやいているところがよくあります。そんな貧しいなかでも、兄弟でいっしょに勉強できる喜びや、おたがいをいたわる言葉たくさんあって、二人が強いきずなでむすばれていたことがわかります。
■ドイツのメルヘンを!
 グリム兄弟が生まれ、育っていった時代は、ヨーロッパの激動の時代でもありました。フランスにナポレオンが現れ、ヨーロッパの国々を次々と征服し、ロシアにせまる勢いでした。当時、ドイツは国としてひとつにまとまっておらず、四十以上もの小国にわかれていました。強力なナポレオン軍に対して、敗北につぐ敗北で、グリム兄弟の住むヘッセン王国も、あっというまにフランス軍に占領されてしまいました。グリム兄弟が住んでいたカッセルの町にもフランス軍がやってきて、公用語(役所や宮廷で使う言葉)もドイツ語ではなくフランス語を使うように命じられました。<このままでは、ドイツの言葉も文化もみな失われてしまう!>
 ドイツの、とくに若い世代の学者や文学者たちは、ドイツ文化の危機を感じ、ゲルマン文化(ドイツ民族古来からの文化)を守ろうという気運がうまれたのは当然のことでした。 グリム兄弟はカッセルの選定侯爵図書館の司書の仕事をしながら、自分たちもドイツの昔話を、きちんと文字で残す仕事をはじめたのでした。グリム兄弟は、まだ大学を出て二、三年の若者でしたが、熱心に昔話(メルヘン)を集めていきます。
 ここでいうメルヘンとは、ドイツ語で「小さなお話」という意味で、語られた場所も、時代も、作者もしれない昔話のことです。場所や時代が語られている「伝説」とはちがうのです。たとえば、白雪姫のお城はどこにあったのか、また、ヘンゼルとグレーテルが迷いこんだ森はどこなのか、いっさい語られません。いつも、「昔、あるところに」ではじまる魔法の物語なのです。
 そして、お話は文字で伝えられるのではなく、人々が口から口へ、語りつたえてきたものでした。これらは、むずかしい言葉で「口承文学」(こうしょうぶんがく)とよばれています。
■メルヘンを語った女性たち
 グリム兄弟は、メルヘンを集めたとき、古い書物からさがしたほかに、身のまわりにいるたくさんの友人たち、とくに女の人たちから昔話を聞きました。有名なのは後にメルヘンおばさんと呼ばれるようになった農婦のドロテーア・フィーマンや、近所で太陽薬局というお店を営んでいたヴィルト家の女性たち、ハッセンプフルーク家の娘たちがいます。『赤ずきん』『「いばら姫』『白雪姫』などの、グリム童話のなかでもよく知られたメルヘンを伝えた人たちでした。彼女たちは、親や祖父母から聞いた昔話をグリム兄弟に喜んで話してきかせたといいます。
 太陽薬局のドロテーア・ヴィルトは、のちに弟のヴィルヘルムと結婚しました。
 一八一二年、グリム兄弟は、集めたメルヘンを『子どもと家庭のためのメルヘン集』として発表しました。彼らはまだ二十五歳と二十六歳の青年でした。それから、さらに一八五三年まで七回にわたって手をくわえた版をだしつづけました。現在、一般にグリム童話として読まれているのは、この最後の第七版のことです。
 ところで、グリム兄弟はドイツの文化的財産を残そうとしてメルヘンを集めたのですが、グリム兄弟にメルヘンを語った女性たちの多くは、フランス人の先祖をもつ人たちで、伝え聞いていたお話のなかにはフランスで生まれたものもまじっていました。
 たとえば、十七世紀末にフランスの作家シャルル・ペロー(1628-1703) が民話をもとにして作った『赤ずきん』や『長靴をはいた猫』『眠り姫』『シンデレラ』が、ドイツ風に変えられてまぎれこんでいたのです。これは、ヨーロッパの国々は陸つづきで、国境を越えて人びとの移動が盛んであるために、メルヘンも人といっしょによその土地に運ばれていくためです。運ばれて伝えられたお話が、その土地に根ををおろし、まるでその土地の話のようにお祖父さんお婆さんから、父親母親、子どもたちと伝えられていくのです。
 グリム兄弟にお話を伝えた人の多くは、フランスからい移住してきたユグノーとよばれるキリスト教の新教徒の子孫だったのです。 グリム兄弟も、やがてそのことに気がついて、シャルル・ペローのお話はメルヘン集からのぞきましたが、『赤ずきん』のようにヨーロッパ中に広がっているものは残しておきました。純粋にドイツ的なメルヘンを集めようとしたグリム兄弟は、かえってメルヘンには国境がないことを知ることになったのです。これは、言語学者でもあった兄のヤーコプが、一つの言葉が地方によって少しずつ変化していく「グリムの法則」を発見したのにも似ています。
 たとえば、『赤ずきん』のお話は、狼と少女のお話として、イタリア、フランスのたくさんの土地に伝えられていたお話で、その少女に初めてシャルル・ペローが赤い帽子をかぶせて、《小さな赤い帽子ちゃん》(赤ずきん)として発表してから有名になりました。狼と少女のお話は、ドイツや北欧にもあり、結末はさまざまです。狼にのみこまれた赤ずきんが、狩人にたすけられてお腹かから出てくるのはグリム童話だけの話です。
 また、貧しい少女がガラスの靴をはいて舞踏会にでかけ王子様にみそめられるシンデレラ(グリム童話では『灰かぶり』)のメルヘンは、フランス、ドイツをはじめユーラシア大陸全体にひろがり、中国にも似たようなお話があるほどです。

■女の子もがんばるグリム童話
 グリム童話、『子どもと家庭のためのメルヘン集』におさめられたお話の数は、最後につけられた聖者伝説もふくめると二百十編もあります。私たちが知っているのは、そのなかでもよく知られた十編ほどのお話にすぎません。『白雪姫』『赤ずきん』『カエルの王様』『ヘンゼルとグレーテル』と数え上げて、知っているお話はいくつありますか?
 よく知られたお話のなかでは、『灰かぶり』や『白雪姫』『いばら姫』のように王子様に助けられて幸せになる女の人が多いとよくいわれます。女の子はそんなに弱くて、受け身なの? と、思われているかもしれません。ところが、二百もあるお話の中には、『あめふらし』のお話のように、九十九人の求婚者をはねつける男まさりの王女様が出てきたり、『マレーン姫』の王女のように、七年も閉じこめられていた塔の中から自分の力で脱出して、運命を切り開いていくたくましい女性も出てきます。また、塔にとじこめられた髪の長いラプンツェルは、魔女に荒野に追い払われたあとで、王子に再会するまで、独りで子どもを育て、強く生きぬいています。
 『ヘンゼルとグレーテル』でも、よく読んでみると、前半は道にまよって泣いてばかりいたグレーテルが、後半では魔女をやっつけたり、かえり道をさがしたり大活躍しているのに気づくはずです。

■さらに、もう一歩深く読むグリム童話
 さて、現代に生きる私たちも、グリム童話をもういちどよくかみしめてみてはどうでしょか。二百年前に出版されたメルヘンのなかに今でもつうじるお話がたくさんあることや、いろいろ考えさせてくれる点が発見できると思います。
 たとえば、『ブレーメンの町の音楽隊』は粉ひき小屋でおはらいばこになった年寄りロバや、やはり主人に捨てられた老犬など、みんな人間にひどい目にあった動物たちが、もういちど一旗あげようと大都会のブレーメンをめざすお話です。つまりお年寄りだってガンバれるぞ! と、いう読み方だってできるのです。
 『白雪姫』の魔法使いの母親だって、「鏡」のいいなりで、右往左往していますけれど、現代にこんな魔法の鏡みたいなものはありませんか? 毎日、そんな鏡(テレビ)をつけっぱなしにして、健康食品を買いに走り回っている人はいませんでしょうか?
 ドイツ人が好きなお話に『幸福のハンス』というのがあります。
 長いたあいだ町の親方のところで働いていたハンスが、おひまをもらい、大きな黄金ののカタマリをもらって故郷に帰ることになりました。ところが、途中でいろいろな人と出会い、黄金をだんだんつまらないものと交換しして、最後は石ころになってしまいます。その石ころもつまずいて井戸のなかに落としてしまいます。              ようやく、家が見えてきたとき、もはやなんにもお土産がなくなったハンスですが、家の前でまっているお母さんをみつけて、大喜びでかけていき、「いま帰ったよ!」と、お母さんにとびついていきました。お母さんも、息子が無事にもどってきたのでとっても喜んだということです。
 ただ、それだけでのお話ですが、宝物やお金がなくなっても、お母さんのもとに元気でもどれたことで、なんだかほのぼのとうれしくなるお話なのです。ちょうど日本の『わらしべ長者』の正反対のお話でが、ドイツでは、このお話をもとにして『幸福のハンス賞』という児童文学の賞があるくらい親しまれています。
 このように、グリム童話はひとつの森にたとえられます。つまり、どこからでも入っていって自分の読み方で楽しむことができるメルヘン集なのです。

■グリム兄弟危機一髪!
 さて、あまり知られていないお話をしましょう。
 ヤーコプとヴィルヘルは、グリム童話を出版したあと、学者としてたくさんの本をだし、ドイツの歴史や言葉や文学の研究をかさねていきました。一八二九年に、二人はゲッチンゲン大学に職を得て、やがて教授になります。貧乏だった生活にもやっと余裕ができました。
 グリム童話でよく知られているグリム兄弟ですが、メルヘン集を出したのはまだ青年時代であったことはすでにお話しました。兄弟は童話のほかに、『ドイツ文法』『ドイツ伝説集』『ドイツ神話学』『ドイツ語辞典』をはじめ、ドイツの学問の基礎となる研究に大きな仕事を残した学者兄弟でもあったのです。 ところが、それから八年後、たいへんな事件がもちあがります。
 ゲッチンゲン大学のあるハノファー王国の国王エルンスト・アウグスト二世が、議会の承認をえずに、勝手に国の憲法をかえてしまったのです。いまでは考えられないことですが、当時は国王の力も強く、議会も名ばかりでした。けれども、グリム兄弟をはじめとするゲッチンゲン大学の七人の教授たちは、まっさきに抗議の声をあげました。いくら国王でも、国の基本となる憲法を自分勝手に変更することはゆるされません。大学の教授は憲法に誓ったうえで学生を教えることになっていましたからなおさらのことです。兄のヤーコプは抗議文の執筆までして、国王の行いをただそうとしました。
 結果はきびしいものでした。七人の教授は国王に逆らったということで全員がクビになり、ヤーコプ・グリムは首謀者(中心人物)であるとされ、国外退去の命令を受けます。 大学の教授になり、ようやく安定した生活ができるようになったやさき、職をうばわれることになったのです。馬車でハノファー王国を出ていく兄のヤーコプを、民衆がぞろぞろと見送りにきてくれたといいます。「あの人は悪いことをして国を追われたのではないよ。立派なことをしたけれど、王様ににらまれたのだよ」と、母親たちは子どもたちに話して聞かせたそうです。
 それだけではありませんでした。グリム兄弟をはじめ、七人の教授の行動に感動して、ドイツ全土からはげましの手紙や、生活に困るだろうと、たくさんの寄付金がよせられました。グリム兄弟には、ある出版社から、仕事がなくなってたいへんだろうから、この機会に大きなドイツ語辞典を作ってくれないかと依頼がはいりました。これが、のちにグリムの『ドイツ語辞典』として全十六巻三十三冊からなる世界でもまれにみる辞典となったものです。グリム兄弟が書いたのはアルファベットの「F」の項目のところまでで、それから先は、後をついだ人たちが百年もかけて編纂をつづけ、一九六一年になってようやく完成しました。ドイツが東西に分裂していたときも、西と東でそれぞれ手分けして作られていたというエピソードがあります。   

■ドイツの良心として
 ヤーコプもヴィルヘルムも、学問ひとすじの人でしたが、ドイツという国の将来を考え、国王ではなく市民のがわにたった自由なものの考え方をする人でもありました。言うべきときにおそれずに発言し、行動するという精神を忘れず、その後、ドイツで初めて国会が開かれるときにも議員として選ばれ、統一されたドイツ最初の憲法の草案などにも積極的な提案をしています。
 すこし難しい話になりますが、ヤーコプ・グリムが提出した草案には「ドイツの国土にはいった人間は、いかなる者も自由である。ドイツはいかなる隷属(奴隷の身分)もゆるさない」という、当時としてはたいへん進んだ文章が書かれていました。この提案は、結局採用されませんでしたが、なんと第二次世界大戦が終わり、西ドイツであたらしい憲法ができたとき、その前文には百年近く前のヤーコプ・グリムの提案とそっくりそのままの文章が使われていたのです!
 ドイツは二つの悲しくむごい戦争の結果ようやくグリム兄弟の精神を学びとったということも言えるでしょう。そして、グリム兄弟は二百年も早かった! ともいえるのではないでしょうか。
 一九九○年になって、別れていた兄弟がひとつ家にもどったように、東西ドイツが再統一されたとき、人びとはまっさきにグリム兄弟のことを思い出し、発行された新しい一○○○マルク紙幣にグリム兄弟の肖像を入れました。ドイツ人は、グリム兄弟に「良きドイツの心」を感じ、尊敬しているのです。
 グリム兄弟の生涯にあったこのような出来事を知ると、グリム童話を読みかえすときまたちがった味わいも生まれてくるのではないでしょうか。

■グリム兄弟、アンデルセンと会う
 もうひとり世界の童話作家として忘れることができないハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805-1875 )がいます。デンマークのアンデルセンは、グリム兄弟の同時代の人で、兄弟よりすこし若い世代でした。すでに作家として売り出していたアンデルセンは、有名なグリム兄弟に会おうと、当時ベルリン大学の教授になっていた二人の家を訪問したことがありました。内気な青年で、あらかじめ約束をとらず、突然グリム家のドアをたたいたといいます。
「グリムさんはいらっしゃいますか?」
「どちらのグリムさんでしょうか?」
 出てきたお手伝いさんにたずねられたといいます。アンデルセンは、うっかりして、
「たくさん書くほうのかたです」と、いってしまったそうです。
「それでは、兄のヤーコプ様ですね」
 弟のヴィルヘルムはちょうど不在で、お手伝いさんは兄のヤーコプを呼びました。
 グリム兄弟といっても、兄のヤーコプはあまり社交的ではなく、人と話をするのが苦手でした。弟のヴィルヘルムのほうは、陽気で話もうまく、人をそらさぬ性格だったようです。つまり、運悪く兄のヤーコプが応対に出てきてしまったのです。
「私はデンマークから来たアンデルセンと申します」
「はあ、アンデルセンさん?」
 そう名乗っても、出てきたヤーコプはあまりピンとこなかったらしく、なんだかぎこちない出会いになってしまいました。繊細で傷つきやすいアンデルセンは、これを冷たくあしらわれたと勘違いして、ろくな話もできずすぐに帰ってしまいました。
 ところが、ヴィルヘルムが帰ってきて、この話をすると、訪ねてきたのが『即興詩人』や『みにくいアヒルの子』の作者のアンデルセンだったことに兄のヤーコプもようやく気がつきました。これは悪いことをした! と、思いましたがアンデルセンはもう帰ったあとでした。そこで、ヤーコプは翌年、自分が北欧を旅行することになったとき、デンマークのアンデルセンの家をわざわざ訪ね、「せっかく訪ねてくれたのに、申し訳ないことをしました」詫びにいきました。アンデルセンも誤解がとけて感激し、それ以後、グリム兄弟との友情が彼らが亡くなるまで続きました。弟のヴィルヘルムとも後年ベルリンで会うことができ、自分の作品をたいへんほめてくれてうしかったとアンデルセンは日記に書いています。グリム兄弟とアンデルセン。世界の童話に名前を残す人の性格をよく表すエピソードです。
 グリム兄弟は、父親をはやくに失って、苦労しながら育ったこともあり、ほんとうに兄弟や家族を大事にしました。ヤーコプとヴィルヘルムは生涯一つ屋根の下で暮らし、独身だったヤーコプもヴィルヘルムに家族ができてからもから「もうひとりのパパ」と呼ばれて愛されました。ヴィルヘルムは少年時代から体が弱く、たびたび大病をしました。そんなとき、兄のヤーコプは心配のあまり、大学の講義の最中に弟のことを思い出して話を中断させてしまい「申し訳ない、弟の病状が気になってつい思い出してしまいました」と、学生に謝ることもあったそうです。家族を思いやる気持ちは、今日でもすべての基本であるはずです。グリム兄弟は、ごく自然にそれを実践していました。グリム童話が『子どもと家庭のためのメルヘン集』と題されたのも偶然のことではなかったのです。
                                


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