天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

プラハ幻想 『サフラン通り』20

2011年02月12日 12時32分10秒 | 文芸

 イルゼビルはタバコを灰皿のうえでクシャクシャとつぶした。くだらない記憶を押しつぶすみたいだった。

「もう一杯ついでくださらない」

 それで二本目のワインが空になる。

「そこの煙草をとってもいいかな」

 私が紙巻きを一本吸いおわるうちに、イルゼビルはグラスも空にした。それから、ゆっくりこちらにむきなおった。

「なぜなのかしらね。あなたは、ずいぶん遠くからきた人なのに、ずっと身近に感じるわ。なんだか余計なことまで話してしまいそう」

「幼なじみみたいにかな」

 その言い方がすこし気に触ったようだったが、気がつかないふりをした。

「でなかったら、そうだな」と、一息いれた。「わたしが、彗星のように近づいてきて、また、無限に遠ざかるのがわかっているからじゃないかな。なにを話しても、秘密を遠く持ち去ってくれる」

「寂しいこというわね」と、イルゼビルははじめて悲しそうな顔をした。

 そのとおりだ、とわたしも心のなかでつぶやいた。

 ふいに外の雨音が強くなった。

 ふたりして長いことそれに耳を傾けていた。ヤナーチェクのレコードはとっくにオートリターンの針を引き上げて沈黙していた。

 

 

 



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