イルゼビルはタバコを灰皿のうえでクシャクシャとつぶした。くだらない記憶を押しつぶすみたいだった。
「もう一杯ついでくださらない」
それで二本目のワインが空になる。
「そこの煙草をとってもいいかな」
私が紙巻きを一本吸いおわるうちに、イルゼビルはグラスも空にした。それから、ゆっくりこちらにむきなおった。
「なぜなのかしらね。あなたは、ずいぶん遠くからきた人なのに、ずっと身近に感じるわ。なんだか余計なことまで話してしまいそう」
「幼なじみみたいにかな」
その言い方がすこし気に触ったようだったが、気がつかないふりをした。
「でなかったら、そうだな」と、一息いれた。「わたしが、彗星のように近づいてきて、また、無限に遠ざかるのがわかっているからじゃないかな。なにを話しても、秘密を遠く持ち去ってくれる」
「寂しいこというわね」と、イルゼビルははじめて悲しそうな顔をした。
そのとおりだ、とわたしも心のなかでつぶやいた。
ふいに外の雨音が強くなった。
ふたりして長いことそれに耳を傾けていた。ヤナーチェクのレコードはとっくにオートリターンの針を引き上げて沈黙していた。