デスクにすわると電話が鳴った。
「丸尾印刷です」と、ミドリちゃんの声だった。「さっき頼むのわすれてしまって。午前中に見てほしい刷りだしがあるんです。折り込みのチラシなんですけど文字数が多いので神尾さんにお願いしたいんです。直でたのまれた仕事なんですけど、いいですか」
「ああ、これからとりにいくよ」
そういって電話を切り、すぐに階段をおりていった。
ミドリちゃんのいうとおり、現物はB版の折り込みチラシだったが、なるほど文字がぎっしりつまっている。〈金運をあげる奇跡の護符!〉、〈買った翌日に宝籤に当選〉、〈縁遠かった娘に良縁が〉といったゴシックの見出しと、幸運をつかんだ体験談が細かな文字でつらなっている。中国の風水の聖人の揮毫による黄金招来の文字を彫り込んだ金の御札だという。写真はまだアタリをつけただけの空欄になっていたが、体験者の顔写真がはいっているところがミソのようだった。名前をだしておきながら、山本弘子さん(仮名)と、なっているのはいかにも奇妙だ。ときどき新聞のチラシにはいってくるのを見たことがある。
「原稿は?」
「以前のチラシと差し替え原稿がこれです。上段の宣伝文に変更はないです」
ミドリちゃんの言葉が、〈冗談の宣伝〉の駄洒落に聞こえたが、そんなことをいう娘ではない。
「差し替え分だけ見ればいいの?」
「まえのものにもけっこう誤字がはいっているようです」
「で、いつまでに」
「四時頃には版をつくりたいんですけど。金曜日の折り込みなんですって」
「じゃ、いそいで見るよ。午後からお客がくるようだし」
「すみません」と、ミドリちゃんはまたちょこんと頭をさげた。
午後になって臨時の仕事はすぐに片づいた。内容についてはことさら考えないことにした。鰯の頭も信心からだ。『昭和戯文集成』のつづきは、まだはいってきていなかったから、とりあえずは中等学校同窓会の記念文集のゲラをひっぱりだして最終チェックをいれることにした。終わったら丸尾印刷から発送してもらえばいい。なんだか、客待ちのゆるい仕事になったが、夕方になっても客は来なかった。朝からさわがせられて、結局なにもない一日になった。普段どおりということだ。
『猫文書』の依頼主は来なかったが、五時をすぎたとき、以前に経理をやっていた赤塚さんが階段をあがってきてドアをたたいた。赤塚さんは、砂土原町の奥に住んでいるといっていたから、なにかのついでに寄ったらしい。
「社長さんいる? いないわよねえ」
と、なにしにきたのか曖昧な物言いでいくらでもある椅子のひとつに腰かけた。
「ほんと、だあれもいなくなっちゃったんだって? 神尾さんだけ? そう、さびしいわねえ」
ずっと冷蔵庫にはいりっぱなしだった麦茶をだした。五月の連休頃につくったやつだ。赤塚さんはあまり水物は飲まないから、まあ愛想だ。「悪いわね」といいながら、案の定口をつけるようすはない。お酒好きな赤塚さんは、夕方お茶を飲むとビールがまずくなるわ、といつもいっていたのだ。
「それで、お給料はちゃんとでているの?」
いちばん興味があることを聞いてきた。歩合制になって半額になっているとこたえてやる。
「ほんとなの? 困るわねーぇ」と、ながく語尾をのばして、そのあとにつづける言葉を言いよどんでいるようすだった。
「赤塚さんにも未払い分があるんですか? 辞めたのが急だったから」
ぐっと腰をのりだしてきた。あたりのようだった。
「そうなのよ、いくらでもないんだけど、急に来なくていいっていわれて腹がたったから、日割りの分受けとりに来てないのよ」
「いくらぐらいなんですか」
「二万三千円よ。あたし経理でしょ。数字だけはしっかりつけてんのよ」
すこし迷った。赤塚さんは、二万三千円が気になって、わざわざ来たらしい。
「出勤簿ありますよね」
「ほら、後ろのキャビネットの青いファイルよ。出勤簿に八日分の判が捺してあるからまちがいないわ。もっとも自分で捺したんだけどさ」
いわれたファイルを引っ張りだすと、四ヵ月前の出勤簿があった。一日から土日をはさんで十日まで赤塚さんの印が捺印されている。十日目の日のあとに斜線が引いてあって退職とインクで書かれていた。
「それもあたしの字よ」と、首をのばしてきた。赤塚さんの化粧の匂いがうっすらとした。昔、授業参観に来た母親の匂いのようだった。
もういちど考えた。
「いいっすよ。仮払いで出してあげますよ。社長にはぼくから言っときます。小口の支払いは任されていますから。受け取りだけいただければ」
「悪いわねえ」
赤塚さんは、思いがけなかったのか、すこし顔を上気させた。二万円といえど主婦のパートさんには大きいのだ。かまいはしない。沈みゆく船で救命ボートを降ろしてやるのとおなじだ。
手提げ金庫から二万三千円をとりだして、適当な封筒にいれているあいだ、赤塚さんは安心したのか「あなた、ちゃんと御飯はたべているの? 独り者じゃ野菜がたりないんじゃない」などと、こちらを心配するような口ぶりになった。あまりたちいられたくなかった。適当にあしらっていたが、むこうもただの愛想のようだった。
「今度なにかご馳走してあげるわよ」と、さらに愛想をいいながら、赤塚さんはほくほくしたような顔をして出ていった。こちらは、出金票に記入して金庫をしめれば、この件はお終いにしたかった。残金七万あまり。自分のポケットの中身とおなじだ。来月あたり結論をださねばな、と呟いた。独りでいると、つぶやきの数が多くなる。