川のほとりで

個人的な備忘録

東大闘争の思い出(6)そして留年

2005-03-31 16:14:36 | 学生運動
安田講堂に機動隊が突入し、中に立てこもっていた大勢の学生が逮捕された。その中には、うちの大学から支援に行っていた学生も含まれていた。1年先輩T氏の逮捕を聞いて、私は驚いた。先輩は、寮で2年間、同じサークルで寝食をともにしたが、いわゆるノンポリ(一般学生)で、安田講堂に立てこもるような活動家ではなかったからである。やさしい性格で、めがねをかけて、いつもニコニコしていた先輩の横顔が目に浮かぶ。

大阪に本社がある民間会社に就職は決まっていたが、とても就職する気には、なれなかった。
期末試験を1科目残して、ごく自然に留年することとなった。
東大闘争が、私の人生の大きな節目になったことは、間違いない。

東大闘争の思い出(5)安田講堂陥落

2005-03-29 15:56:58 | 学生運動
スト解除の大義名分を取り付けた大学当局は、いったん中止を決めた入試再開に向けて、最後の賭けに打って出た。機動隊による全共闘最後の砦、安田講堂の封鎖解除である。

1月18日から開始された機動隊の攻撃には、ヘリコプターや放水車が動員され、テレビで全国に生中継された。私がいた学生寮では、大勢の学生が食堂にすえつけられたテレビの前で攻防戦を見守った。
恐らくどこの大学でも同じような光景を見ることができたはずだ。
我々全共闘世代は最後の世代であるとは、ある評論家の言葉である。
若い仲間が、権力を握っている古い世代相手に勝ち目のない戦いを続けている。
ただテレビの前で見守るしかない無力感。見殺しにする罪悪感。


翌日、安田講堂の封鎖が解除されたが、大学当局の期待に反して、文部省は入試中止の決定を変えることはなかった。

東大闘争の思い出(4)秩父宮ラグビー場

2005-03-23 14:47:16 | 学生運動
9日の夜は、記憶がはっきりしないが、東大駒場の教職員会館で一夜を過ごしたのではないか。
当時駒場の構内では、全共闘と民青の対立に加えて、全共闘の中でも、カクマルと社青同解放派が激しく対立し、それぞれ建物を占拠し、武力衝突を繰り返していた。
団交が開かれる秩父宮ラグビー場は、地下鉄外苑前のすぐ近くである。鉄パイプと竹ざおで武装した部隊をすんなり通すはずが無く、地上出口には、機動隊の阻止戦が待ち構えているとの予想に反して、すんなり地上に出た。予想していた機動隊の姿は無く、ひょうしぬけしたが、ラグビー場近くで、いきなり道路の植え込みから機動隊が飛び出てきて、片っ端から逮捕をはじめた。完全に包囲されており、逃げ道は無い。
機動隊員に思い切り蹴飛ばされ、ヘルメットと眼鏡が飛んだ。抵抗をあきらめ、観念した。
おとなしくしていると、逃げないと思ったのか、ここに立っていろといって、他の学生を逮捕するためにその場を離れていった。眼鏡がないと周りがよく見えない。逃げられるなんて思ってもいなかったが、2,3歩動いても機動隊員の制止がない。また2,3歩動く。制止は無い。服装を整えてゆっくりと、もちろん内心はびくびくしながら、大股でその場を離れた。たどりついた駒場の構内で仲間を探したが、ほとんどの学生が逮捕され、全共闘は、壊滅状態であった。7学部集会は5000名の秩序派を集めて、予定通り開かれ、10項目の合意書が締結され、1月19日の安田講堂封鎖解除に突き進んでいく。



啄木と鴎外

2005-03-18 15:54:34 | Weblog
啄木秀歌(著者・遊座昭吾)を読んでいたら、森鴎外は、親交のあった啄木の妻・節子を念頭に「安井婦人」を書いたという個所があり、早速図書館から鴎外全集を借りてきて、読んでみた。
なるほどと納得。 安井婦人・お佐代さんの墓は、高輪のお寺に眠っている。千葉市の大日寺には、若くしてなくなった息子の墓もあると言う。いつの日か、訪れてみたい。
高校生のときに、読んだことがある「阿部一族」を今回再度読んでみた。背伸びして読書した若いときに見えなかったものが、この年になって見えてきたものがある。
彼がなぜ、決して有名人と言えない市井の人物の事跡にこだわって書いたのか、すこしわかるような気がする。 天皇制国家の軍医として、自分の意見を自由に発表できない彼なりの精一杯の抵抗のような気がする。今回鴎外全集を読んで一番面白かったのは、山椒太夫創作の楽屋裏を自ら書いた「歴史其の儘と歴史離れ」である。民話の人物でも、歴史的事実を無視しては、描けないという鴎外の几帳面な性格がよく出ている。
啄木と渋民村(著者・遊座昭吾)を読んでいると、昭吾氏の祖父が亡くなったお寺に、友人である啄木の父が住職として強引に入ってきたために、小さい子供を抱えた遊座家がお寺を追い出されたこと。お寺の金を使い込んで啄木の父が寺を追い出されたこと。昭吾氏の父がまた、住職として帰ってきたことなど、興味深いはなしが出てくる。同氏が館長をしているという啄木記念館にも、一度いってみたいものである。


東大闘争の思い出(3)絶体絶命

2005-03-18 14:18:41 | 学生運動
集会が終わったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。参加者はいくつかの部隊に分かれ、民青系が占拠する建物を攻撃した。
当日の新聞によると、負傷者が100名と言うのだから、激しい攻防戦が行われたようだが、暗い中をただ前の人間の後にただついていただけでよくわからない。大学当局の要請により、大学当局に機動隊の出動を要請した経済学部の代表が自民党の町村議員ということは最近知ったことだが、この日2度にわたって3000名の機動隊が導入され、50名の学生が逮捕された。暗闇の中に機動隊だと言う声が響き、気が付いたら逃げ惑う学生の列に飲み込まれていた。機動隊に追い詰められ、いつしか大学病院の裏手に。
後ろに迫る機動隊。前は、高さ6メートルのがけ。絶体絶命とはこのことである。
見るとポーン、ポーンと学生ががけの下に飛び降りている。がけの下は道路で、路上駐車の車が何台か停まっている。この高さでは、飛び降りて、怪我をするかもしれないが、逮捕されるよりはと、覚悟を決めて飛び降りた。車の屋根に着地するとクッションのように衝撃が和らぎ思いのほか簡単に着地することができた。
これも今になってわかったことだが、この日の激しい衝突を見て、大学当局は10日の団交会場を本郷の農学部グラウンドから青山の秩父宮記念ラクビー場に変更した。

東大闘争の思い出(2)安田講堂前集会

2005-03-18 10:39:50 | 学生運動
10日に予定されていた7学部集会は、スト解除した学部代表と加藤学長による大衆団交であり、入試と卒業を予定通り実施して大学の正常化を図りたい両者の間の手打ち式であり、東大闘争の幕ひきであり、東大全共闘として到底認められないものであった。7学部の学生代表は本郷構内での開催を強く希望しており、集会開催に反対する全共闘は、9日の午後から総決起集会を開催し、集会を実力で阻止しようとした。
当時小生は、4年生で、すでに某保険会社に就職も決まっていたが、東大闘争は、この時点で、全国学園闘争の象徴的存在になっており、苦境にたった東大全共闘を助けたいという気持ちにつき動かされ、支援の学生と、大半は下級生であったが、一緒に東京へ上京したのである。
集会は、午後から安田講堂前で開かれ、全国から支援学生を集めて、総数2500名。当時の本郷の状況は、安田講堂は全共闘、経済学部や教育学部の建物は全国から動員された民青系2000名が占拠し、にらみ合っていた。地方都市から上京したばかりの私は、この争いの真っ只中に投げ出されたのである。
集会当日の格好は、今でも忘れられない。
頭に青ヘルをかぶり、鉄パイプに紐をつけて背中に担ぎ、10メートルちかい長竹ざおを手に持って構内を行進した。集会の真中には、東大全共闘の部隊が黒ヘルで、白ヘルの日大全共闘、赤ヘルの中大全共闘が両脇を固め、支援セクトの色とりどりのヘルメットと旗で安田講堂前が埋めつくされ、戦国時代の戦場のような華やかさと不思議な高揚感が集会を包んでいた。

東大闘争の思い出(1)よみがえる記憶

2005-03-17 21:39:41 | 学生運動
人間の記憶ほど、あいまいなものはない。東大闘争の前後の記憶が、飛んでしまってどうしても思い出せない。 今日図書館で、当時の新聞収縮版を調べ、年来の疑問が解けた。東大闘争を支援するため、68年11月22日安田講堂前で開催された東大、・日大全国総決起集会に参加したとばかり今まで、思っていたが、実は、小生が参加した安田講堂前の集会は、69年1月9日であり、あくる1月10日には、秩父宮ラグビー場で予定されていた加藤学長と民青系・一般学生による7学部団交を阻止するために青山の街頭に出ていたのである。
当時の新聞によると、11月22日の集会には、代々木系と反代々木系が全国動員をかけ、安田講堂前の全共闘系の集会には、8000名、赤門前には、代々木系の学生が、、6000名とある。
今思えば、東大全共闘が絶頂を極めたときといえよう。
その後、卒業、入試を目前にして民青系・一般学生(いわゆる秩序派)が台頭し、各学部学生大会でスト解除が相次ぎ、全共闘が孤立化していく。1月9日の集会は、ちょうどそのようなときに開催されたのである。

ローマ人の物語 13最後の努力を読んで

2005-03-15 14:02:59 | Weblog
4頭政時代(なぜ東と西にそれぞれ正帝、副帝の4人の皇帝をたてて帝国を治めたのか)
コンスタンチヌス大帝が、キリスト教を公認した理由など、高校受験以来の長い間の疑問が解けた。
考えてみれば、受験時代と言うのは、基本的な疑問を抑えて、ひたすら、細切れの事実を覚えこんだものである。
キリスト教を公認した理由も、キリスト教徒が増大したため、弾圧から公認に政策を転換したのだろうと考えていたのだが、そうではなく、人口の5パーセント程度と相変わらず少数派であったが、専制君主としての皇帝の権威を正当化するため、伝統的な多神教から一神教に宗教政策を転換し、キリスト教を国教として公認したという著者の説明は、説得的である。そう考えると、帝国の首都を、共和制と多神教の伝統のあるローマから、東方に移して自分の名前を付けて、新たに建設した理由も納得できる。
それにしても、帝国を守るために4頭政を考え、自ら生前退位したデイオクレテイヌス帝は、
悲劇の人である。


「啄木秀歌」を読んで

2005-03-09 11:29:52 | Weblog
「啄木秀歌」の著者、遊座昭吾は、啄木が、少年時代すごした渋民村の寺の庫裏で、
少年時代をおくり、啄木への関心を深め、啄木が学んだ盛岡高校の教師として
教壇にも立ち、ライフワークとして啄木の人と歌を探求した人である。
「啄木秀歌」には、秀歌を詠む啄木と彼を取り巻く群像が活き活きと描かれている。
特に啄木の妻として薄幸の人生を送った節子へそそがれる著者の視線はやさしい。
啄木のフアンにとっては、啄木のロマンにどっぷり浸れるうれしい本である。