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司通信第8号 【知多の歴史】 吉岡 正裕

2013-06-21 08:30:01 | 司通信 

「河 和 城」 

 

半田支部 吉岡 正裕 (半田市)

 

 長禄年間(1457年~1461年)、三河碧海郡の土豪・戸田宗光は海を渡り、河和に砦を築いた。

 美浜町役場の南500メートルほどにある、高さ30メートルほどの丘の北端に位置し、北側から東側にかけては崖、その下に新江川が廻る要害の地であった。ほぼ時を同じくして渥美の田原にも進出した戸田宗光は、渥美半島の統一、さらには三河湾の制海権を狙い、知多に橋頭堡を確立すべく翌年師崎に陣代を置き、勢力を伸ばした。

 1500年、宗光の跡を継いだ憲光は、河和砦を増強し、城としての体裁を整える。現在も、その遺構がよく残されてをり、西側の知多厚生病院正面玄関の前の道から登ることができる。1506年、牧野氏の居城・今橋城(豊橋市)を攻め落とし、念願の渥美半島の完全制覇を成し遂げた憲光は、知多でも動いた。

 兵を北上させ、冨貴を制圧し、半島東浦の南部を押さえ、三河湾の制海権を確立すると、1509年には本拠・田原城を嫡男・政光に譲り、自らは河和城に隠棲し、知多での支配をより確実なものにした。憲光の死後、河和城主は親光、繁光と受け継がれ平穏な日々が刻まれたが、南進してきた緒川の水野勢の前に冨貴城を奪われ河和城も落城の危機に瀕した。しかし、領民の激しい抵抗に水野勢は和睦の道を択び、娘を跡取り守光に嫁がせることで、領土を安堵した。

 下って1590年、秀吉の小田原北条氏攻めに出陣していた守光が討死すると、よほど悪政であったのか領民の反発を受け、城を攻め落とされ、廃城になった。その後、守光の遺児・光康は母方の水野姓を名乗り、徳川家康の実母・於大の取り持ちで河和に領土を得、尾張徳川家に仕え、城跡の北東に屋敷を構え、十代続き明治となった。

 なお、渥美の戸田本家は、徳川に仕え、松本藩を始め6家の大名および20家ほどの旗本を輩出し、大いに栄えた。

 



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