☆☆☆
透明な輪郭が消えゆくまで、静っと見送っていた西行の前を、ゆらゆらと、ほの白い小さな花びらが舞い降りて来る。
どれだけ触れようと手を伸ばしても、蝶のようにその横をすり抜けていく。
決して触れることを許さず、目の前をすれ違いながら降りてくる。
そのまま音もなく浮遊する小さき白を、終着の出会いの時を感じながら眺めている。
天空の芯には、鏡のように透き通った月が張り付く。
月光を独り占めしたように、西行の隣には、あの時の白桜が寂と立つ。
西行と桜の深い影が、伸び並ぶ。
「西行――いえ、義清」
背に聞く、あまりにも最愛(いと)しい声。
あの夜、一度きり囁かれただけの声。
二度と聞くことの叶わなかった声。
途端、西行の世界は滲む。
溢れるものが止まらぬまま、すべての想いが戻りゆく。
「義清――あなたなのですね」
超常月の下、白桜を仰ぎ見ていた二葉は、光源に入る西行の背中に、一抹の疑念もなく問いかけた。
もう、何淀むことなく戻ってくる答えを、ただただ安心して待ちわびて。
「――璋子様」
月下に散りゆく桜を残し、その体をゆっくりと反転させる。
「お逢いしとうございました、義清」
終着の世界で、桐詠と等しくすべてを解明した二葉の言葉は、憂いなく西行へ向かう。
「お久しゅうございます、璋子様」
宮中の庭に咲き誇る、たった一度だけの逢瀬を見つめていた桜の下、それぎり逢うことが許されなかった二人の願いが成就した瞬間だった。
再び言葉を通わすことを許された、二人の時だった。
「漸く、想いを遂げることが叶います。あの夜、あなたの詠われた声が、私の耳から失われることはありませんでした。その姿を忘れることはありませんでした。実ることのない想いに、何度泣き暮れたことでしょう。あなたを想い、何度月夜を仰いだことでしょう。桜の散るを見て、何度想いを断ち切ろうと思ったことでしょう」
璋子の霊を宿した二葉は、流れ来る感涙に煽られる。
「お別れの言葉さえ、お伝えすることが叶いませんでした」
乾坤一擲(けんこんいってき)の振る舞いさえ許されず、絶対的な世界に黙するしかなかった悲痛が蘇る。
「私がいけなかったのです。私が勇気を持てずにいたことが、すべていけないのです。本当にあなたを苦しめてしまいました。あなたの生涯を苦しめてしまいました。お詫びのしようもありません」
身動ぐこともできずにいたのは、璋子とて同じである。
それどころか、身分の違いという言葉などでは到底済ますことのできない天地の差を、彼女以上に痛感している者はいない。
西行以上に、秩序の要塞の不自由さに縛られていたのである。
それでも、可能な限りの考えを及ぼそうとしてくれていたことだろう。
それだけで、その想いだけで、西行の胸には大波が去来する。
「そのお言葉、そのお気持ち、身に余る光栄でございます」
「いいえ、光栄などと仰らないでください。心が痛みます。けれども、それも終焉です。もうこれで、終着です。私どもの霊は、ここで成就します」
――わたくしども。
璋子の口にした、二人称の言葉が終着の鉤となり、封印の一首を解き放つ。
重い蓋に閉ざされ、奥底に沈められ、届けることを許されなかった歌が生まれ出る。
何百年も前から決まっていたかのように、刻限を告げる鐘が鳴り響くかのごとく詠じられる。
唯一声にできなかった歌
唯一耳に届かなかった歌
決して伝えてはならなかった想い
決して許されなかった想い
心のままに声にする
心のままに耳に響く
「嗚呼、あなたの声。まごうことなき、あなたの声。これまで、どうしても耳に響かなかった、あなたの歌。平安の世、遂に届けてもらえなかった、あなたの想い。もう一度、どうかもう一度聴かせて――あなたの声で」
漂うようにゆらゆらと、西行のもとへ歩み寄る。
受け継がれてきた璋子の想いが、今まさに西行の想いと重なる。
桜の下、面影二つ永遠に結い。
面影の 忘らるまじき 別れかな
名残を人の 月にとどめて
(つづく)
透明な輪郭が消えゆくまで、静っと見送っていた西行の前を、ゆらゆらと、ほの白い小さな花びらが舞い降りて来る。
どれだけ触れようと手を伸ばしても、蝶のようにその横をすり抜けていく。
決して触れることを許さず、目の前をすれ違いながら降りてくる。
そのまま音もなく浮遊する小さき白を、終着の出会いの時を感じながら眺めている。
天空の芯には、鏡のように透き通った月が張り付く。
月光を独り占めしたように、西行の隣には、あの時の白桜が寂と立つ。
西行と桜の深い影が、伸び並ぶ。
「西行――いえ、義清」
背に聞く、あまりにも最愛(いと)しい声。
あの夜、一度きり囁かれただけの声。
二度と聞くことの叶わなかった声。
途端、西行の世界は滲む。
溢れるものが止まらぬまま、すべての想いが戻りゆく。
「義清――あなたなのですね」
超常月の下、白桜を仰ぎ見ていた二葉は、光源に入る西行の背中に、一抹の疑念もなく問いかけた。
もう、何淀むことなく戻ってくる答えを、ただただ安心して待ちわびて。
「――璋子様」
月下に散りゆく桜を残し、その体をゆっくりと反転させる。
「お逢いしとうございました、義清」
終着の世界で、桐詠と等しくすべてを解明した二葉の言葉は、憂いなく西行へ向かう。
「お久しゅうございます、璋子様」
宮中の庭に咲き誇る、たった一度だけの逢瀬を見つめていた桜の下、それぎり逢うことが許されなかった二人の願いが成就した瞬間だった。
再び言葉を通わすことを許された、二人の時だった。
「漸く、想いを遂げることが叶います。あの夜、あなたの詠われた声が、私の耳から失われることはありませんでした。その姿を忘れることはありませんでした。実ることのない想いに、何度泣き暮れたことでしょう。あなたを想い、何度月夜を仰いだことでしょう。桜の散るを見て、何度想いを断ち切ろうと思ったことでしょう」
璋子の霊を宿した二葉は、流れ来る感涙に煽られる。
「お別れの言葉さえ、お伝えすることが叶いませんでした」
乾坤一擲(けんこんいってき)の振る舞いさえ許されず、絶対的な世界に黙するしかなかった悲痛が蘇る。
「私がいけなかったのです。私が勇気を持てずにいたことが、すべていけないのです。本当にあなたを苦しめてしまいました。あなたの生涯を苦しめてしまいました。お詫びのしようもありません」
身動ぐこともできずにいたのは、璋子とて同じである。
それどころか、身分の違いという言葉などでは到底済ますことのできない天地の差を、彼女以上に痛感している者はいない。
西行以上に、秩序の要塞の不自由さに縛られていたのである。
それでも、可能な限りの考えを及ぼそうとしてくれていたことだろう。
それだけで、その想いだけで、西行の胸には大波が去来する。
「そのお言葉、そのお気持ち、身に余る光栄でございます」
「いいえ、光栄などと仰らないでください。心が痛みます。けれども、それも終焉です。もうこれで、終着です。私どもの霊は、ここで成就します」
――わたくしども。
璋子の口にした、二人称の言葉が終着の鉤となり、封印の一首を解き放つ。
重い蓋に閉ざされ、奥底に沈められ、届けることを許されなかった歌が生まれ出る。
何百年も前から決まっていたかのように、刻限を告げる鐘が鳴り響くかのごとく詠じられる。
唯一声にできなかった歌
唯一耳に届かなかった歌
決して伝えてはならなかった想い
決して許されなかった想い
心のままに声にする
心のままに耳に響く
「嗚呼、あなたの声。まごうことなき、あなたの声。これまで、どうしても耳に響かなかった、あなたの歌。平安の世、遂に届けてもらえなかった、あなたの想い。もう一度、どうかもう一度聴かせて――あなたの声で」
漂うようにゆらゆらと、西行のもとへ歩み寄る。
受け継がれてきた璋子の想いが、今まさに西行の想いと重なる。
桜の下、面影二つ永遠に結い。
面影の 忘らるまじき 別れかな
名残を人の 月にとどめて
(つづく)