はじめの家

井関広志

海を飛ぶ夢

2008-10-27 02:25:04 | 映画ノート
スペイン映画
  監督 アレハンドロ・アメナーバル
  主演 ハビエル・バルデム

 スペインのガリシア地方。主人公ラモンは28年前の事故により首から下が動かない四肢麻痺となり、寝たきりの生活を送る。家族の世話になりながらベッドの上で余生を過ごす。そんな彼が願うことは、自分の命を絶つこと。尊厳死を訴えるラモンのもとに、支援団体の紹介で弁護士フリアが訪れる。フリアはラモンに詩の才能を認め、裁判の準備をするかたわら、本の出版を勧める。いつしか二人に恋情が芽生えるが、フリアも脳血管性痴呆におかされ不治の病であることが判明する。二人は、本が出来上がり出版されたときに、死ぬことを約束する。しかし……。


 尊厳死という重たいテーマを軽いタッチで描き、さわやかといってもいい映画になっている。
主人公ラモンは、周りの人の愛情に恵まれ、女性が絶え間なく訪れ(義姉から「ハーレムみたいね」と揶揄される)、好きな音楽を聴き、感性豊かな詩を書く。体は不自由だが、それ以外は普通の人の生活よりうるおいに満ちており、感謝はすべきだけれど不満を述べることなどないではないか、と思われる。
しかし、いろいろなシーンから内面の苦渋がほのめかされる。たとえば、始めのほうに義姉から「袋を取り替える? 時間がかからないから。」というセリフがあって意味がわからなかったが、あれは体が動かず感覚もないラモンの排泄物を入れるための袋だと思う。皿からスプーンで口に運んでもらい食事をし、爪を切ってもらい、髪を洗ってもらうというシーンがさりげなくはさんである。頭が明晰で表現豊かなラモンが、3歳の子供よりも行動が劣り、下の世話や体をいじりまわされたりすることに耐えなければならないのだから、屈折した感情を持つようになる。
「人に依存する生活を送ると、泣き顔を見せないように笑うしかないんだ」というラモンは、またニヒリストでもある。「死んだ後には何もない。生まれる前のように無の世界だ」
と最後に言う。社交的で、冗談や軽口が好きで、女性に愛され、詩を好むラモンの本当の心は最後まで明かされない。奥深いところに、誰も理解し得ない孤独と寂寥感がある。これは、「自分の言葉を実行するためや私たちの組織のために自分を追い込んだりしないで」と最後の説得をする支援団体の女性に言う言葉にもあらわれている。「君もみんなと同じだね」とラモンはこたえる。
 中ほどで、同じ四肢麻痺で教会に属するフランシスコ神父と「尊厳」に関するやり取りをする。尊厳死は自殺であり、体が不自由でも生きる価値はあるとする神父は「命を代償とした自由は自由ではない」と言う。教会を信用しないラモンは「自由を代償にした人生は人生ではない」とやり返す。平行線をたどり結論は出ない(この場面は戯画化されており、クスクス笑ってしまった)。
 裁判の場面はあまり重要視されていないが、裁判所に到着するまでのシーンは良かった。久しぶりに外出するラモンにとって、なにげない風景が新鮮に映ってくる。死を決意した末期の目でラモンは観ており、道行く親子・トラクター・自転車選手・風車までが、すがすがしく感じられてくる(音楽の使い方もうまいなあ)。
 この映画は観ていくにしたがって、ラモンを中心とした家族ドラマとして捉えたほうがよいのに気づく。弟ラモンの金銭的面倒をみる兄は、死にたがる弟が「ぼくは兄さんの奴隷じゃないか」というと「(こんなに尽くしている)おれのほうがおまえの奴隷なんだ」と怒り悲しむシーン。「家族の愛情が足りない」と公言する神父に対して「あなたの言葉は一生忘れません」と精一杯の皮肉を言う義姉のシーンなどは明確に心理を浮き彫りにしている。 
 
尊厳死についてその結論は述べていないが、素晴らしい問題提起をしている。同じテーマでアカデミー作品賞を受賞した「ミリオンダラー・ベイビー」があるが、「海を飛ぶ夢」のほうが良くできている作品だ。
 32歳でこの映画を監督したアメナーバルは製作・脚本・編集・音楽を兼ねている。この若さでこれだけの映画を作るのは驚きとしか言いようがない。ラモン役のハビエル・バルデムもほとんど寝たきりの状態であり、顔の表情だけで人を楽しませる演技をしている。実年齢35歳で50代後半のラモンを熱演している。この二人の映画を堪能させてもらった。

(アメナーバルの前作「アザース」もバルデムの前作「夜になる前に」も感心しなかったんですが。)

                        (旧記 2006.5.19)