P87~88
つぎに、「措定」ということばの意味です。ヘーゲルはこれを、つぎのようにもちいています。
「ところで、有と無との統一という全体が、有という一面的な規定性のなかにあるというのは、一個の外的反省である。この統一の否定のなかで、すなわち、あるものと他のもの、等々のなかで、はじめて措定されるものになるであろう。」(上の一、119ページ)
ここの意味は、かんたんにいえば、こうです。
定有のなかには、肯定的な面と否定的な面がある、有と無がふくまれている。こんどは、「或るものと他のもの」にいきますと、或るものが有で、他のものが無であり、或るものが肯定的なものになり、他のものが否定的なものになる。このことを「措定される」といっているわけです。
たとえば、商品に内包されている矛盾が、価値形態のなかで、相対的価値形態と等価形態になるなんていいますが、このことを「措定される」といったりします。「措定される」というのは、展開されるとか、表面にでるとか、明確にするとか、いろんな意味がありますが、このばあいは、なかにふくまれているものを明確にする、an sichなものをfur sichにする、そういうのとほとんどおなじ意味です。
setzenということばは、マルクスも、明確にするという意味でしきりに使います。マルクスも使っていますから、おぼえておいてよいことばです。このごろは「定立する」と訳したりします。だけど、われわれは、使わないほうがよい。
こういうことばを使うと、内容やイメージなしに、分析なしに、ことばでごまかしてしまう、それですませてしまう。措定なんてことばは、みなさん、若いかたは、ぜったい使わんように。
あの新左翼の連中がよく使う。あれをまねしたらだめです。あれを使うと、インテリがよろこぶのですけれど、いまのインテリをよろこばすのでは、とてもだめです。古くさいといわれても、われわれは、分析しなくてはいけない、明瞭にいわなければいけない。措定するというと、他人にわからないだけでなく、ご本人もわからない。こういうことばを使いなれて、これでなにか解決したような気になる。
疎外なんてことばもおなじです。労働者のつくったものが、自分のものになるのか、ならないのか、われわれは生産を統制できるのか、できないのか、こういうことを具体的にいえばよいのに、これが疎外なんてことばを使うと、だんだん自分でものを考える力をうしないます。そういう点で、新風を、新しい学風を、ひとつおこしてください。マルクスも使っていますから、そういう意味では、ことばは理解しなければなりませんけれども。
引用文献
『見田石介 ヘーゲル大論理学研究 ①』
大月書店 1979年
つぎに、「措定」ということばの意味です。ヘーゲルはこれを、つぎのようにもちいています。
「ところで、有と無との統一という全体が、有という一面的な規定性のなかにあるというのは、一個の外的反省である。この統一の否定のなかで、すなわち、あるものと他のもの、等々のなかで、はじめて措定されるものになるであろう。」(上の一、119ページ)
ここの意味は、かんたんにいえば、こうです。
定有のなかには、肯定的な面と否定的な面がある、有と無がふくまれている。こんどは、「或るものと他のもの」にいきますと、或るものが有で、他のものが無であり、或るものが肯定的なものになり、他のものが否定的なものになる。このことを「措定される」といっているわけです。
たとえば、商品に内包されている矛盾が、価値形態のなかで、相対的価値形態と等価形態になるなんていいますが、このことを「措定される」といったりします。「措定される」というのは、展開されるとか、表面にでるとか、明確にするとか、いろんな意味がありますが、このばあいは、なかにふくまれているものを明確にする、an sichなものをfur sichにする、そういうのとほとんどおなじ意味です。
setzenということばは、マルクスも、明確にするという意味でしきりに使います。マルクスも使っていますから、おぼえておいてよいことばです。このごろは「定立する」と訳したりします。だけど、われわれは、使わないほうがよい。
こういうことばを使うと、内容やイメージなしに、分析なしに、ことばでごまかしてしまう、それですませてしまう。措定なんてことばは、みなさん、若いかたは、ぜったい使わんように。
あの新左翼の連中がよく使う。あれをまねしたらだめです。あれを使うと、インテリがよろこぶのですけれど、いまのインテリをよろこばすのでは、とてもだめです。古くさいといわれても、われわれは、分析しなくてはいけない、明瞭にいわなければいけない。措定するというと、他人にわからないだけでなく、ご本人もわからない。こういうことばを使いなれて、これでなにか解決したような気になる。
疎外なんてことばもおなじです。労働者のつくったものが、自分のものになるのか、ならないのか、われわれは生産を統制できるのか、できないのか、こういうことを具体的にいえばよいのに、これが疎外なんてことばを使うと、だんだん自分でものを考える力をうしないます。そういう点で、新風を、新しい学風を、ひとつおこしてください。マルクスも使っていますから、そういう意味では、ことばは理解しなければなりませんけれども。
引用文献
『見田石介 ヘーゲル大論理学研究 ①』
大月書店 1979年