下北沢ムジナ通信社

「アート&文学」よもやま話。シモキタの路地裏系ネタ話、知られざるアーティスト発掘、再開発計画阻止とか。

日本への祈りと再生。木崎湖畔「アートイベント&収穫祭」

2011年10月11日 | 日記
  
水と稲と生き物たちの祭り。稲心「イナゴコロ」。   
アートイベントによる収穫祭。 10月8、9日(土日)


   
「スパン子」ライブ。スパン子さん、熊谷義人さん。   


「イベントの神」が降臨する依代オブジェを背景に、次第に巫女と化すスパン子。
幻想的な「鳥女」が凄いぞ!


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音楽、絵画、オブジェをアルプスの自然神に奉納。
木崎湖畔の収穫感謝祭!

下北沢アートキャラバン、再び、木崎湖畔に参上

10月9日~11日にかけて、「木崎湖畔アートフェス」&「収穫感謝祭」が開催されました。長野県大町市の稲尾。今年たいへんな危機的状況に陥った日本の再生への祈りをこめて、古民家民宿「あたらし屋」を中心に、木崎湖畔で展開いたしました。
古民家の囲炉裏端ステージで「カントリーロード」を唄う平井哲子さん、
ギターは、イベントをプロデュースした冨士井康人さん。
背景のディスプレイは染色家の園田弘美さんの制作。(稲とアキアカネと湖)



■この古民家民宿「あたらし屋」の風格ある建造物は、築270年と推定され、民俗学・建築史的な資料としてもたいへん貴重なものです。http://navinagano.com/0261-22-1899/
あたらし屋・地図





古民家内部構造写真は「遊びと学び,創造の基地・山のあしおと小学校」http://blog.goo.ne.jp/yamanoasioto/c/f4f70fbdf0b3b61c27199dece45d0bbaから勝手に拝借しました。
すいません。


古民家を背景に、沖縄民謡を唄う古館純さん。

 
巧みな話術で湧かしながら場を盛り上げてくれました。
                 
             
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囲炉裏端のにわか舞台で、お能の実演。

観世流梅若門下能楽師・古室知也さん。『高砂』『鵜飼』など五演目を披露。

強い陽射しの下、古民家広場にて、野外能と演目の説明講習。


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「東京下北沢→信州木崎湖」  アート&音楽のキャラバン隊

■長野県安曇野の北に位置する大町。大糸線を北に登ってゆくと、糸魚川街道添いの仁科三湖のひとつに、木崎湖が見えてきます。今回のイベントの参加メンバーは、下北沢と日本各地を結ぶミュージシャン、アーティスト、伝統芸能・工芸関係者、ただの酔っぱらい、さらに、木崎湖地元農家、協力者の方々による、流動的、軟体動物的なネットワークです。

■木崎湖畔のマイナスイオンに満ちた大気の中で、音楽、即興絵画、伝統芸能などにより、五感を再活性化し、体内のミトコンドリアも元気にさせようという魂胆。この付近は縄文遺跡も多い土地柄です。湖畔のアートイベントは、「寿ぐ」「言祝ぐ」という行為を、歌や詩やオブジェ制作によって行うことで、われわれ自身の内側をチューニングする表現行為でもあります。つまりは、アート・食・農を通して、「縄文・木崎湖原人」ともいうべき存在として、メタモルフォーゼしようという趣向ですね。

■夕方、れわれが炉端でだらだらしていると、たまたま炭を起こしに来た宿のご主人が、築270年の古民家の由来、昔の生活ぶりなど、いろいろと豆知識を披露してくださいました。まさに地元の方による炉端民俗学講座です。
 二日目には、風光明媚な湖畔農地にて、脱穀などの農業体験もオプションとして追加。二日間に渡る、稲、米、水、太陽、大地への感謝祭ともいうべきイベントでした。

木崎湖の湖面と上諏訪大社の鏡は、
人間と自然の循環を映し出す


■梅若流能楽師の古室知也さんは、囲炉裏端のステージで、『高砂』『羽衣』『鵜飼』など、能そのものを五演目演じてくださると同時に、すでに酒気帯びの素人衆の稚拙な質問にも、懇切丁寧に応じてくれました。
■そこで見えてきたことなのですが、日本の「見立て」の文化というのは、省略の文化と深く結びついたひとつの哲学でもあること。芸能というものは、象徴がぎっしりと詰まっている日本人の潜在意識そのものを、魅力的な絵皿にもられたごちそうとして差し出してくれると同時に、われわれの内部世界へ誘う暗示的な道標だということです。
つまり「見立て」というのは、世界を、比喩や、相似形や、鏡像として探り当てることなのですね。    
           

■「日本の神=集合的無意識」は、ことさらに奸計・詭計・策略・謀略を嫌うのではないか。そして、そのココロをシンボリックに形として表したものが「鏡」なのではないか。このような考え方は、まさに奸計・詭計のお家元である西欧近代全体に対するイロニーでもあります。
 いいかえれば、われわれの日本文化は、欧米にやられ放題なのではなく、その構造を根底からクリティカルに映し出すのです。
■祭りや芸能というものは、単純にエンターティンメントとして楽しめるものであると同時に、魂の秘密、潜在する故郷を教え諭してくれるキー・イメージなのですね。
 もし、世界が意識の比喩であるという、日本人のDNAに埋め込まれたままで眠っている、神道的とも、唯識的とも、『華厳経』的ともいえる共通認識を、われわれ自身が再認識したときには、何か大きな事が変わってくるのではないでしょうか。
個々人は、単なる電通好みの消費者、マーケティングの一単位、福島原発の研究材料の背番号つきモルモット、業者の野心の材料――ではなくなるはずです。つまりは、ある種のマジシャンになるのです(これで、本ブログはトンデモ認定!)。 
          
 

 木崎湖海ノ口・上諏訪神社


■ここはまた、諏訪信仰の地でもあります。諏訪大社の神は、龍神とも大蛇ともいわれますが、上諏訪神社、下諏訪神社と、信州を中心に日本各地で信仰されています。
木崎湖、青木湖も、いわばその子供、孫、親類筋のようなもの。この龍・蛇は、西洋ふうのevilな悪魔ではなく、天地と水を司る稲作文化の守護神ともいうべき、崇高なる自然霊なのでしょう。

■翌日、湖畔および小熊山を一周巡りました。杉木立に囲まれた上諏訪神社は、なかなかに神寂びた風情。まさに、ここのご神体が、一抱えほどもある大きな「鏡」なのですね。
 心でもあり、水面でもあり、智恵でもある「鏡」。
 そして、お社の手前に、まるで能楽師の古室師匠を待っていたかのように、巨大な神楽舞台が控えておりました。これはかなり古く、かつ大型の舞台です。古色蒼然としながらも、たいへん威厳のある趣きです。師匠、しきりにコツコツと床や壁を叩いたり、柏手を打ったりして、音響の具合を確認しているようでありました。

■折しもその時、湖面から怪しい一陣の風が吹き起こり、
「待ちくたびれたぞよ。そなたを長いこと、待っておったぞ~」
と、諏訪明神の低い声が、聞こえてきたとか…、こなかったとか…。
これは、木崎湖・湖畔能の幕開けでしょうか。やがて新たな動きが始まるやもしれませぬ。   
              

冬の湖面はまるで鏡となる。 
            
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水と、稲と、生き物たちの祭り         

■それにしても、この北アルプスの麓の村では、山と水と湖、人間と農作物の関係が、じつに手に取るようにわかります。エコロジーだの、生態系だの、バカバカしいことを、わざわざ文字で習う必要がない。まわりを見まわせば、森や渓流や岩肌に、書いてある。
 そして、特にこの稲尾の地は、米が物凄~く、旨い。
村のあちこちから無限に湧き出ているアルプスの伏流水、そのミネラルたっぷりな水で育てられ、山が堆積した枯葉や朽ち木や、魚たち獣たちの滋養分が輪廻しつつ、湖の泥に流れ込む。それらを濃縮したのが、美しい湖畔を縁取る黄金の田圃というわけです。しかも合鴨農法だァ~。

■ここで作られた米は、それ自体で完結しているような至福の食い物、白銀のマナであります。本ブログ管理人などは、朝食で三膳も食べて顰蹙をかいました。(普段の朝はコーヒーのみで朝食をとる習慣なし)これは、もう本当に、麻薬のような罪なご飯であります。都会生活と原発騒ぎで萎れていたわれわれのミトコンドリアも、見事に活性化いたしました。

鱒を追いかけ渓流を辿ると、居谷里湿原へ。初夏は菖蒲や水芭蕉が咲き乱れる。
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最後に、木崎湖を眺望しつつ、湖から安曇野まで見渡すような小熊山の頂上付近で、古室知也さんが、北アルプス全山をふるわす発声で言祝ぎの謡を納めました。

ここはハングライダーの出発点らしい。
湖の右手遠方が、安曇野方面となる。手前に田圃。


旅芸人の記録……。祭りの後。
            
          

2011年前半の辛苦と穢れを洗い流す

 いつかどこかで見た風景……。

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 地震、放射能……そして治癒へと向かう季節

■今年は日本にとって、さんざんな年でした。
あやまちの都市文明、ヤラセの民主主義、無能な植民地総督府、いつわりの貨幣経済、広告代理店式ニセ文化、いんちきエネルギー行政――そんな文明の動脈硬化、瘡蓋みたいなものが、すべて音を立てて崩壊していく。
 しかし、危機の際には、もう一度、自然という神々の懐に潜り込めばよい。木崎湖の静かな湖面を眺めていると、そんな実感が湧いてきます。世界を数量化して解釈するという、知性と欲とが野合して生んだ金融資本主義の「毒素」は、デトックス可能なはずです。人類は、二酸化炭素すら株のように取引しようとするくだらない動物になってしまった。(幸い、失敗しかかっている)

■貨幣とは、交換のツールとしてはたいへん便利だけれども、交換してはいけないものまでむりやり値札をつけて、そのシステムに取り込んでしまう。例えば、人の命とか、人格的価値とか、誰にでも天が与えている共有資源とか、作物の種子とか(TPP)。
 そういう行為は、思考スタイルそのものが自分自身の生命力を衰弱させ、自然や環境とのエネルギー回路を塞ぐことになるでしょう。

■それでも日本は、何度でも追い詰められ、何度でも岩戸開きから再生することでしょう。自然と文化の融け合った信州に来ると、いっそうそんな元気が湧いてきます。日本は、それだけの文化と歴史の厚み、つまりは民族の潜在意識の奥行きを持っているはずです。
 日本の自然というものは、単なるほったらかしの山林ではなく、われわれの魂がこの土地と共同創造した、比喩と物語の一大曼荼羅のようなものなのではないか。だから日本の自然は、むしろ自己発見に導いてくれる。――そんな気がする今日この頃であります。

ここは子供たちが元気になる場所

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 ――夕暮れ。その日は、満月にほぼ近い月でした。
 山影を映したさざなみも藍色、銀色に染まります。
 アートキャラバン隊が、名ごり惜しくも木崎湖畔を去る頃には、山際の向こうに、オレンジ色とも桃色ともとれぬ、まるで日の出のような不思議な月が昇っておりました。












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