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ペトロ七種神父様の葬儀ミサにあたって
2017年5月26日(金) 於 カトリック五反城教会
2月20日に七種神父様は、腸閉塞ということで愛知県豊明市にある藤田保健衛生大学病院に入院したわけですが、当初は、入院はおろか、再び教会に戻ってくることができなくなるなど思ってもいませんでした。入院が決まってからも、1週間から10日、長くても2週間程度で退院できるとずっと思っていました。昨年の3月9日に、大腸に穴が空いていることが見つかり、緊急手術を受けたこともあって腸を動かしているので、腸閉塞を起こしているのだと思われていました。だから、腸が通るようになれば問題なくこれまでと同じような生活ができるものと考えていたのです。しかし、回復の兆候は多少みられたものの、一向に改善の兆しが見えないまま、時が過ぎていきました。
3月8日、わたしと七種神父様は、担当の医師から説明を受けました。勤めている高校で、わたしが担当する科目の定期考査が行われた日でした。今後何があってもいいようにということで200人分の採点をその日のうちに終わらせ、夜の7時を過ぎて五反城教会に向けて車を走らせていたとき、病院から電話がありました。担当の医師の都合を考えて、すぐに病院へと向かい、説明を受けることにしました。すでに夜の8時を回っていました。
医師の説明によると、神父様の腸は現在、通常の1割くらいしか通っていないこと、そして閉塞の原因が癌性腹膜炎、つまり骨盤のあたりに癌の腫瘍があり、それは検査の数値と触診によりほぼ間違いないであろうということが告げられました。そして、そのような場所にある癌を見つけるのはきわめて困難なこと、さらにそのような癌が見つかるということはすでに癌は末期状態であるということが伝えられました。
入院している病院が大学病院であることから、手術によって回復を目指す可能性について、あらゆる方面からの様々な説明が1時間以上にわたって行われました。しかしながらどのような方法をとったとしても成功の可能性が極めて低く、もし成功できてもすぐに次の癌の手術を受けることになるだろうし、手術自体が成功したとしても手術後に今と同じような会話ができる状態を保つことができるかどうか保証はできないというものでした。その大きな原因は、神父様の肺でした。神父様の肺はスポンジ状にスカスカになっていて、さらに癌の転移の兆候もみられるということから、手術の前提となる麻酔をかけること自体が難しいというものでした。
そのときの神父様の肺に関して、担当の医師の見解によれば、昨年の手術からの一年間は、日常生活を普通に送ることが困難だったのではないかというようなことを伝えられました。さらには、そもそも昨年3月の大腸の手術がなぜ成功したのか分からないというようなことすら言われました。昨年の大腸の手術は緊急手術だったこともあり、もし精密に検査をしたならば医師が手術を行うことをやめたのだと思います。しかしそのままにしておいたら翌日にでも死ぬということで、手術をおこなってくださったのでした。執刀医が「人道的な見地から手術を行います」と言われたのを思い出します。そして、幸いにも手術は成功し、そのときはまだ他の場所への転移の兆候は見られないとのことで、経過を見ながら生活することになりました。手術後の神父様は、多少の息切れは合ったものの、ほぼこれまでと同じように、さほど問題もなく毎日の生活を送られました。そして、大腸にいいものをということで、毎日の料理に関する熱が高まったことは言うまでもありません。
この一年間、もしくはそれよりも前の、もしかしたら2015年の11月にこの教会で神父様が司祭叙階50周年の金祝を迎えることができたこと、そして、今日までこの五反城教会でいろいろな人たちとの関わりを通して「ルンルン気分で」時を過ごすことができたことは、もしかしたら病気で苦しんでいてもおかしくなかったのにそうならなかった、本当に恵まれていたのかもしれない。さらに、手術をしなければ、この先しばらくは意識もはっきりしたまま、いろいろな人たちとの関わりを通して有意義な時を過ごすことができる。成功の可能性が極めて低い手術をしてまでいのちの長さをいたずらに追求するのではなく、残された時間を大切に生きることがいいのではないか。神父様にそのようなお話をすると、神父様は静かに「そうだよな」とつぶやき、そして「それでいい」と言ってくださいました。病のうちにあって神が与えられた残りの日々をキリストの受難に重ね、信仰のうちにキリストとともにその道を歩む決意をされたのだと私は思いました。
担当の医師からの説明を受けた翌週の月曜日、管区長の意向を確認した上で担当の医師にその旨を伝えた日のことは決して忘れることはできません。可能性が極めて低いとはいえ、手術をすればもしかしたらもう少し生きられるかもしれない、その命の長さをわたしのひとことで短くしてしまったという思いがある中で、神父様に残りの時間を最大限に大切に生きてもらうために、最後まで神父様とともに歩む覚悟を決めた日でした。担当の医師から、「私もその選択が一番いいと思います」と言っていただいたのが本当に救いでした。
まず考えたのは、病院を移ることでした。豊明市にある藤田保健衛生大学病院は五反城教会から1時間以上もかかることから、気軽に神父様を訪ねることができず、寂しい思いの中で病室での生活を送られていました。手術をしないことを選択しことから、教会から遠く離れた大学病院で過ごす意味はあまりありません。そこで、緩和ケアセンターがある中村日赤に移るための手続きをお願いしたところ、手続きに多少時間がかかるということで、それまでを過ごす病院を探してくださいました。それが、3月30日に転院した、中村日赤に近い鵜飼病院でした。奇しくも、神父様が洗礼を授けたかたが関係する病院でした。
教会からとても近くなったこともあって、連日たくさんの方が病室を訪れてくださいました。神父様の病状について、神父様のご兄弟のほか、かつて司牧に関わった教会や社会福祉関係の方々に病状を知らせるファックスをお送りしたこともあり、神父様のご兄弟をはじめ、北は北海道から南は九州まで、いろいろな方が病院を訪ねてくださいました。多い時には1日20人以上もの方が訪れてくださいました。鵜飼病院には本当にご迷惑をおかけしたことと思います。退院の時に看護師の方にお騒がせしましたという言葉を述べると、「誰もお見舞いに来てくれない方がたくさんおられる中で、あんなに多くの方に来ていただけたのは、本当に幸せでしたね」と言ってくださったのは本当にありがたかったです。
腸閉塞を患っていることもあり、神父様は口から物を食べることができない生活を送っていました。それは、ご聖体を受けることができないことを意味します。ただ、口を湿らせる程度の水は飲んでもいいということから、小さく小さくすればご聖体を頂くことはできたのです。そこで神父様にその旨を伝えると、「わたしはいつも霊的にご聖体を受けているから、大丈夫です」と言ってくださいました。ミサに与ることも、ご聖体を受けることもできない、しかし自分の代わりにミサに預かっている人たちがいる。自分の代わりにご聖体を受けてくれる人がいる。そのような人たちが病室を訪ねてくれている。私はあえて神父様にご聖体をお持ちすることはしませんでしたが、神父様はいつも五反城の主日のミサのうちに私たちと共にいて、そこで私たちが受けるご聖体の恵みをいつも受けておられました。病室のベッドの上にあって、神父様は教会に足を運ぶことができなくても、教会の交わりにおける一致の喜びにあふれていました。ミサにおいてキリストの体である聖体に手を伸ばすことができなくても、キリストの体である聖体の恵みに満たされていました。
いよいよ最期の時が近づいた日の朝、神父様は中村日赤の緩和ケア病棟に移られました。訪れた人たちと景色がいい広い庭で散歩しながら、これまでの思い出話に花を咲かせながら、残りの時を有意義に過ごしてほしいと願って移ることを望んでいた緩和ケアセンターですが、病院に移った時にはすでにその景色を見ることもできなくなっていました。しかし神父様は病室に入り病室のベッドに移った時、本当に穏やかな顔をされていました。窓から入ってくる爽やかな風を受けながら、自分が望んでいた場所に来たこと、そして最期の時が来たこと、そのような場所でいろいろな人たちが一緒にいることの喜びにあふれていたのだと思います。そして五反城教会の連絡網を通して、神父様が転院したこと、そして神父様の容態があまり良くないことを知った信徒の方が病室を訪れてくださいました。神父様は多くの人に見守られながら、多くの人と一つになっていることの喜び、そしてその中心にキリストがいることの喜び、また神が神父様に与えられたキリストの道を歩み終えた喜びを浮かべているかのような穏やかな表情で、わたしたちのもとから天の父のもとへと旅立って行かれました。入院から3か月、末期癌の告知から2か月後の5月23日火曜日、午後3時52分のことでした。
癌の手術をしないというわたしたちの選択がよかったのかどうか、実のところわかりません。今年の1月まで普通に過ごされていた神父様が入院からわずか3ヶ月でこの世を去って行かれたという現実を目の当たりにする時、これでよかったのだろうかという思いが心に引っかかります。しかしながらそれを打ち消すかのように、神父様は残された時間の中で出会った様々な人たちとの関わりを通して、私たちにキリストの道を歩む信仰に生きることの大切さと、その喜びを余すところなく見せてくださいました。そのことは私にとっての慰めであると同時に、私たちにとっての希望です。「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られたイエス・キリストと共に、与えられた時間を信仰のうちに歩み終えた七種神父様の姿をわたしたちはこれからも自らの心のうちに留め、その喜びがあふれる教会と、ミサにおけるキリストの体に結ばれながら、信仰の道を歩んでいきたいと思います。
七種神父様、闘病生活、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。天の父のもとでの安らかな憩いのうちに、いつもわたしたちのためにお祈りください。アーメン。
南山教会主任司祭 新立大輔
(前 五反城教会主任司祭)
ペトロ七種照夫神父様の通夜にあたって
2017年5月25日(木) 於 カトリック五反城教会
ここにお集まりの皆様お一人お一人に、七種神父様との思い出がおありのことと思いますが、もしかしたらその多くは「よく怒られた」とか「こわかった」というようなものなのかもしれません。私が4年前に協力司祭ということで五反城に来るようになった時に、ある方から「今はだいぶ丸くなったけど、昔はもっとすごかったですよ」と言ってくださる方がおられました。ただ私も、そのあたりの時のことをまったく知らないわけではありません。
わたしが七種神父様と初めて出会ったのは、ちょうど26年前、16歳の時でした。神父様が長崎の聖ルドヴィコ神学院の院長として着任されたことで、わたしは神父様と2年間生活を共にすることになりました。教会司牧の現場を離れて神学生の養成に携わることになったこと、また社会福祉活動に携わってこられた名古屋を離れて長崎で生活することになったことに対して、気持ちの整理がつけられずにいるかのような思いが時折言葉の中ににじみ出ていることもありました。そのような中でも、神学生の指導にまさに体当たりで取り組んでくださったのですが、その有り様は皆様がご存知の神父様そのものでした。
しかし、わたしが4年前に協力司祭として五反城教会に来た時からの神父様の印象は、これまでとは大きく違ったものでした。もしかしたらある人にとってはさほど変わらないのかもしれません。あるいは、以前の私が単に気づかなかっただけなのかもしれません。とにかく、この4年間、特に主任司祭として五反城教会に着任して神父様と共に過ごした3年間の中で思ったことを皆さんに分かち合いたいと思います。
1.謙遜
神父様の10年にわたる五反城教会主任の時代を経て、わたしが五反城教会の主任となったのは3年前、2014年の4月でした。その前は神言神学院で志願者の指導司祭をしていたこともあり、その年の復活祭を待たずに任命通り4月1日から五反城で生活をすることになりました。ただ、神父様の10年にわたる五反城での司牧への感謝はちゃんとした形で行いたいと思い、復活祭のパーティーの時にそのようなセレモニーを行おうと考えました。そこで神父様に「確かに任命はすでに私が主任司祭なのでしょうが、復活祭までは神父様が主任司祭のつもりでいてください」とお願いいたしました。
そのような中で迎えた聖週間。神父様には聖金曜日の典礼をお願いしました。キリストの受難の朗読は役割を分担して朗読が行われますが、当時はマイクのケーブルが今のように長くなく、マイクが朗読台まで届かなかったこともあり、3人が別々の場所に立って朗読するように段取りを組んでいました。しかしその時に神父様は大きな声で「このようなやり方は典礼的ではない。こちらに来てください」とおっしゃられたのです。
そしてミサが終わった後、神父様はとても申し訳なさそうな顔をして、「私は主任司祭ではないのに、主任司祭のように振舞ってしまった」とすごく反省されていたのです。その時から神父様は、典礼や教会の様々なことに対して決して「こうしてください」「ああしてください」は言われなくなりました。
主日のミサについて、私は「神父様のお話を楽しみにしている人もいるので、月に2回でも3回でも4回でもミサを司式してお説教を聞かせてください」と常々言っていました。それに対して神父様は「一週おきにやるとわたしが主任で神父様が協力司祭の時と変わらないので、自分があたかも主任のような立場で信徒に話をするかもしれない。月に1回で十分です」とお話しされ、さらに「平日のミサも神父様が全部やってください」とおっしゃられました。そして神父様は、それらの席に必ず一緒に座ってくださいました。
これまで主任として働いていた場所で続けて住み続けることは、決していいことばかりではありません。むしろ辛いことが沢山あります。自分のやってきたことが時としてひっくり返され、否定されてしまうことを目の当たりにするからです。自分なりの意味があってこうしてきたということがあるにもかかわらず、神父様は決してわたしのやり方に対して決して意見を言われることはありませんでした。私を信頼して、自分とは異なるやり方であっても決してご自分の意見を主張されなかった神父様の思いと苦しみは、計り知ることができません。そのような思いに応えて、わたしはできるだけ神父様がやってこられたことを大切にしながら、五反城の小教区をよくしていくにはどうしたらよいかということを考えて、この3年間を過ごしてきました。
2.奉仕
神父様はわたしに自由にやらせてくださったのみならず、そのために、つまりわたしを支えるために、自分ができることを一生懸命やってくださいました。その大きなものが、「食事を作ること」でした。
そもそも神父様が自炊を本格的に始めるきっかけは、数年前に患った脳梗塞のためでした。幸い早い段階で見つけることができ、これといった後遺症が残ることもなく、その後も元気に過ごすことができたのですが、お医者さんから「あなたは神父さんでしょう。そんな食生活をしているのですか」などと言われてプライドをくすぐられたのでしょう、「じゃあやってやろう」ということで、お医者さんが薦める野菜中心の食生活を始めることにしたのだと思います。
わたしが五反城に着任した時、お医者さんの勧める食生活を続ける神父様に、わたしはどのようにして食事を準備すればいいのだろうと心配していたのですが、神父様は私にこう言ってくださいました。「私は神父様が作る食事は食べられないと思います。おいしい、おいしくないという話ではなく、油の使い方とか、使っている材料などで、お医者さんからだめだと言われているものがあるとわたしは食べられない。わたしの食事は自分で作るから心配しないでください。ただ、神父様さえ良ければ、わたしは神父様の分も作ります。一緒にいただきましょう」と。これよしとわたしは「ぜひお願いします」と言って、神父様に食事を準備してもらうことにしました。
わたしたち二人は基本的に、朝晩はいつも一緒に食事をしました。その中で神父様のこれまでのいろいろな思い出話もたくさんしました。叙階してから最初の任命地・吉祥寺でのこと。ボーイスカウト活動の中で、子供たちの口車に乗って湖に飛び込み、そのような出来事を通して関係がぐっと深まったこと。学生紛争時代のさ中、大学のカトリック研究会で指導をしていた神父様がそれらの活動の余波を受け大変だったこと。南山教会の助任から急に主任になることが決まり、サバティカルをとって色々な予定を立てていた神父様がふてくされているところを信徒の方々が助けてくれたこと。知立教会のこじんまりとした共同体で過ごした日曜日の楽しい時間。長崎生まれの神父様が秋田教会に赴任することになり、雪かきの苦労から腰を痛めたことや、信徒の方がたと最初はなかなか打ち解けることができなかったけれど最後には秋田にずっといたいと思うほどになったこと。もちろん、わたしがともに過ごした長崎のルドヴィコ小神学院のことや、五反城教会のこともたくさん出てきました。どれも楽しいお話でした。
神父様は食事のみならず、料理そのものにも楽しみを見出しておられました。「残り少ない時間、食べられる量は限られているんだから、美味しくないものは食べたくない」と言って、毎日違ったものをおいしく料理することに力を注いでおられました。名古屋駅の東急ハンズに行って使いやすい鍋や便利な調理用具を買ってきたり、高島屋の地下でテレビで紹介されていた珍しい食材や調味料を買ってきたりしました。さらには、ご自身で料理ノートを作り、レシピがその数60を超え、「これだけあれば毎日違ったものを飽きることなくおいしくいただける」と得意げに話してくださいました。
だけど、それは決してご自身の健康、ご自身の楽しい食生活のためだけではなく、わたしのためだったのです。自分の役割は主任司祭を支えることだと思っておられ、わたしのためにおいしい食事を準備してくださっていたのです。1月の終わりか2月の初め、今から考えればその時から腸閉塞の影響があったわけですが、食べ物をあまり食べられなくなり、台所に立って調理する元気が無くなっていた時、わたしの食事ということで、台所のテーブルに巻き寿司と惣菜が置いてありました。隣のスーパーから買ってきたものでした。神父様は「今日はこのようなものしか準備できなくて、申し訳ない」と言われました。そのくらいならわたしが買ってきてもさほど苦でもないことなのに、神父様は体調がすぐれない中でわたしのために買い物に行き、食事を準備してくださったのです。神父様の手作りのおいしい食事ではない、スーパーで売られている食べ物を前にして、わたしはこれまで神父様がわたしのために準備してくださった数々のメニューを思い起こしました。そしてその時になって神父様のわたしに対する奉仕の思いに気がつかされ、思わず涙が溢れそうになりました。
3.感謝
五反城の長年の懸案、それは新しい司祭館・信徒会館の建設でした。神父様が五反城に着任して間もなく、男性部の旅行でそのことが大いに盛り上がり、実現のために動き出すことになりました。しかしながら資金面の問題もさることながら、いろいろな人の意見がなかなかまとまらず、建設の計画は一向に進みません。そうこうしているうちに時間だけが過ぎ、教会の創立50年に合わせてなどといった目標はどんどん過ぎて行き、神父様の引退までに完成はおろか、計画にゴーサインを出すこともできませんでした。
私が五反城に着任してすぐに取り組んだのがこの建設の案件ですが、いいものを建てるというより、とにかく建てることに全力を尽くしました。引退された神父様を1日でも早く、少しでも長く新しい建物で生活していただきたかったのです。計画とそのための積み立ての開始からあまりにも時間が経ってしまっていたということもありました。幸いにも、教会に来た人が気軽に立ち寄れるホールが欲しいという意見は信徒共通の思いであると感じたわたしは、ホールを中心にした新しい建物を建て、広さや機能が不足している他の部屋に関しては、幸いにも壊さなくてよかった隣の文化センターの建物を活用しながら利用する考え方で計画を進めることにしました。資金的な幾つかの幸運にも恵まれ、ちょうど2年前の4月になんとか完成させることができました。
引退から1年以上が過ぎ、七種神父様はようやく新しい建物で生活を始めることができたのですが、おそらくそれは神父様が当初から思い描いていた理想の司祭館ではなかったことと思います。とにかく1日でも早く引退した神父様に新しい司祭館に住んでいただきたいと思っていたので、それが実現できたのは良かったのですが、どうしてもそのような申し訳なさが消えません。ある日神父様に「神父様が思い描いていた司祭館とは違うかもしれません。このような建物になってしまい、すみません」とお話しすると、神父様は「とんでもない。とても住みやすい。引退後の生活を私はルンルン気分で過ごしています」と答えてくださいました。また、昨年大腸を患いストーマを装着することになってから、トイレの使い勝手が悪いだろうと思い、「もし必要であれば改造しますけどいかがですか」とお聞きしたところ、「とんでもない。とても使いやすいです」と答えてくださいました。そして、「こんな立派な建物をわたしの代わりに建ててくれて、本当に感謝しています」と言ってくださいました。不満を漏らさないばかりか、感謝の言葉をも述べてくださる神父様には、本当に頭が下がる思いでした。
新しく完成した司祭館・信徒会館の1階で、主日のミサの後神父様はよく信徒の方々とおしゃべりをしたりコーヒーを飲んだりして、楽しい時間を過ごしていました。今となっては分からないのですが、主日のミサの後のわたしはいつもなぜか忙しくウロウロしていました。そのような中でわたしは信徒の方々と楽しい時間を過ごす神父様のことを羨ましく見ていました。それはわたしが考えていた教会の理想の姿でもありました。神父様がそのように、私たちに与えられた司祭館・信徒会館での生活を感謝のうちに楽しく送られていたその姿は、今も忘れることができません。
神父様が私を受け入れてくださったからこそ、一緒にいてくださったからこそ、支えてくださったからこそ、神父様とともに過ごした私の五反城での3年間は本当に素晴らしいものになりました。そのような中、予想もしていなかったわたしの人事異動、そして思いがけない神父様の入院と末期癌による闘病生活によって、しばらくは続くと信じて疑わなかった五反城教会でのわたしと神父様との生活は、この3月をもって突如終わりを迎えました。
南山教会の主任司祭の任命を受けたことを神父様に伝えたとき、新たな主任司祭との生活を1から作り上げなければならない不安がある中で、そのような不安を決して口にすることはなく、わたしが南山教会の主任司祭になることを自分のことのように心から喜んでくださいました。自らが若干39歳で主任となった南山教会、大きな教会であるゆえ大変さもたくさんあることをご存じでありながら、受ける喜びも同じだけ大きいことを知っておられる神父様だからこそ、五反城を離れる寂しさと大きな教会の中に入っていくことの不安の中にあるわたしに対して、わたしを励ますかのように「おめでとう、よかったね」と言ってくださったのだと思います。
不安や不満がある中でもそれらをしっかりと見つめ、自分の生き方を神に聞き、「従順」「奉仕」「感謝」のうちに生きることによって、神の愛の喜びのうちに生きておられた神父様でした。神父様がわたしたちに見せてくださった「謙遜」「奉仕」「感謝」のうちに生きるその姿を決して忘れることなく、わたしたちはこれからの信仰生活、宣教司牧に励んでいきたいと思います。
南山教会主任司祭 新立大輔
(前 五反城教会主任司祭)
七種照夫神父様のためにお祈りくださったすべてのみなさまへ
名古屋市昭和区・カトリック南山教会主任司祭の新立大輔です。
ペトロ七種照夫神父様は、昨日5月23日(火)午後3時52分、名古屋市中村区の名古屋第一赤十字病院にて帰天されましたことをご報告いたします。享年82歳でした。
七種照夫神父様は2月20日に愛知県豊明市の藤田保健衛生大学病院に入院され、癌性腹膜炎による腸閉塞の疑いがあるとの診断とともに、末期の癌であることが告げられました。手術が困難であることから神父様は手術を行わず、緩和的なケアを受けながら多くの人と時を過ごすことで残された時間を大切に過ごすことを決断されました。そこで五反城教会近くの名古屋第一赤十字病院の緩和ケアセンターに移る手続きを始めましたが、時間がかかることから、それまでの間を名古屋第一赤十字病院に近い鵜飼病院で過ごすことになり、3月30日に転院されました。
神父様は腸閉塞のため2月に入ってから食事ができない状況が続いておりましたが、末期癌による大きな痛みに襲われることもなく、意識も会話もはっきりした状態で穏やかに過ごしておられました。そのような中で、神父様が鵜飼病院に転院されてからはほんとうにたくさんの方に病院を訪れていただき、神父様を支え励まし勇気づけてくださいました。多くの方がお祈りをささげ、ミサの中で受けたキリストの体の恵みを神父様に届けてくださることによって、神父様は霊的な聖体の恵みとキリストに結ばれた人々との一致の喜びのうちに病院での生活を送っておられました。多い日には20人以上もの方が病室を訪れるほどの賑やかさ(騒がしさ?)であったにもかかわらず、そのような状況を鵜飼病院の方々は寛大に受け入れてくださいました。さまざまな方がたに支えられて、神父様は人生の最期の時を教会の交わりの喜びのうちに過ごすことができたのだと私は思っています。
しかしながら点滴だけでの栄養摂取の時間が長くなるにつれて栄養状態の悪化が進み、体力の低下から神父様の特徴でもある大きな声は徐々に弱々しくなりました。それでも先週の前半までは会話ができたのですが、週の後半から神父様の容態は急速に悪くなっていきました。そのような中、当初考えていた名古屋第一赤十字病院の緩和ケアセンターへ入院することができることとなり、5月23日、つまり亡くなる日の午前中に転院しました。移ったばかりの時はすべてに安心されたかのように穏やかにされていたのですが、昼過ぎから熱が高くなり、体を大きく震わせるようになりました。その時、神父様の転院の連絡を受けて信徒の方々が病室に駆けつけ祈ってくださり、また神父様の手足をさすってくださることにより、やがて神父様は穏やかになられました。苦しみのうちにあっても、キリストが共にいる、そしてキリストと結ばれたたくさんの人たちがいる。そのような確信に満ちあふれ、すべてを神に委ねたかのように、多くの人が見守る中で、神父様は静かに息を引き取られました。
これまで七種神父様を支えてくださり、本当にありがとうございました。神父様に代わって心よりお礼申し上げます。なお、通夜は5月25日(木)午後7時から、葬儀ミサ並びに告別式は5月26日(金)午前10時から、両日とも五反城教会(名古屋市中村区二瀬町27 電話 052-412-3456)で行われます。神父様の永遠の安息のためにお祈りくださいますよう、お願い申し上げます。
2017年5月24日
南山教会主任司祭 新立大輔
(前 五反城教会主任司祭)