きっと忘れない

岡本光(おかもとこう)のブログです。オリジナル短編小説等を掲載しています。

窓の中、碧い世界 (後編)

2010年04月03日 | 小説 (プレビュー版含む)
(6)


夏がきた。



兆候は、穏やかに始まった。遥か東にある王都が、隣国に攻め落とされたという知らせが、旅の商人から届けられた。彼はありったけの荷物を荷馬車に詰め込み、足早にこの村を去っていった。西へ逃げろと言い残して。





秋がきた。




東からの風に、血の匂いが混じった。村人たちは、一人、また一人と姿を消していった。ある者は東へ行ったきり戻らず、ある者は西へと逃げ、ある者は数少なくなった村の守り手としての使命を果たし、死んでいった。




冬がきた。



アインも、フィアも、ゼクスも、少なくなった大人たちに混じり、それぞれの仕事をこなすようになった。私たちの授業で繰り返し繰り返し学んだ技で、彼らは獣を焼き払い、切り裂き、爆ぜさせていった。そして私も、この村と子どもたちの生活を守るため、巨人や亜人間を狩った。追い払うなどという悠長なことをする余裕は、もう村にはなかった。私の剣は血で汚れ、欠け、そして磨り減っていった。




ある日、本当に久しぶりに、新しい冒険者が村を訪れた。
バニィと名乗るその若者は、青いローブを被った黒髪の若い青年だった。




「東の王都は、完全に崩壊しました。黒い鎧を来た兵士の一群が、あっと言う間に城を焼き払って…」




バニィは悔しそうに目を伏せ、私たちにそう言った。




「ここまで逃げてくるのが精一杯でした。仲間もばらばらになってしまって…。おそらく、もう…」

村長の提案で、バニィはこの村の自警隊の一人として組み込まれることになった。彼は氷の術の使い手だった。この世界では、あまり見ないタイプの術なのだが、彼曰く、その術はどんな敵をも凍らせ、一瞬で砕く…らしかった。村は今、ひとりでも多くの手を借りなければならない状況だ。自警団に魔法の使い手が増えるのはありがたかった。

バニィの魔法は、私たちの予想より遥かに強力だった。氷の嵐が敵の動きを止めることで、私たちの仕事は遥かに楽になった。私は、凍りついた亜人間の身体を剣で砕き、足で蹴りつけた。動けない敵を相手に、私の身体は身軽になり、手足は確実に敵を捉えた。




「あなたは、ずっと一人で戦ってきたんですか?」




ある日、バニィが戦いの後、私に尋ねた。

「私? そうね…。一人じゃない時もあったけど…」

あの時は確かに独りではなかった。でも…。かつてのオンラインゲーム仲間たちと戦った日々が、私には遠い過去の記憶に思えた。

「貴女は孤独に強いんですね。村を離れて、他の強いギルドに入って暮らす手もあったでしょう?」

「強くはないです。独りに慣れただけ」

私は、荒く手入れした剣を鞘にしまいながら、無愛想な顔でそう答えた。

「でも」

バニィは笑って言った。

「それでも貴方は強いですよ。僕は王都を追われた・・・負け犬ですから」

「それでも、その負け犬のあなたの力が、村のみんなには必要なの」

私は気弱に笑うバニィに向き直って、まだ幼さの残るその白い顔に、大きな声で告げた。

バニィの瞳には、むこうの世界から来た者だけにわかる、暗い光があった。けれど私は、彼に過去を尋ねる事は出来なかった。私自身と同じように、バニィも何かを抱えて、あの現実の世界から、この世界に入り込んだのだろう。それは、別に私が知る必要のないことだ。・・・けれど。

「それでも、あなたは、強いの。私がそれを知ってる」

そう言って、私は地面を軽く蹴り、バニィに向かって右手を伸ばした。彼の細い右手が、ためらいがちに差し出され、私に触れた。その手は柔らかく、温かかった。私たちは、笑顔で握手を交わした。


(8)


そしてさらに数ヶ月が経ち、王都を襲った黒い軍隊が村を襲った。彼らは一瞬で村の門を焼き払い、なすすべのない村人たちを虐殺していった。数日間、村の外に亜人間退治に出掛けていた私とバニィが戻った時には、村は既に、黒く煤け焼きただれていた。

村に立ち上る黒い煙が、遠い平原から見えた。異変に気がついたわたしとバニィは、村へと駆け、その惨状を目の当りにしてただ呆然とするだけだった。絶望感すら感じないまま、私は、教会に向って歩いた。万が一、もしかしたら、子どもたちだけでも、奴らは見逃したかもしれない。ありえない願いを心の中でつぶやきながら、私は歩みを進めた。

教会の扉は、堅く閉ざされたままだった。

「アイン、フィア、ゼクス!」

扉を開ける。小さな礼拝所には、誰もいなかった。

「…」

バニィが無言で私の後に続く。

「そんな…」

私は、ゆっくりと膝を折り、崩れ落ちた。バニィがあわてて私の肩を支える。その時、かたりと物音がした。

「せんせい?」

幼い声が、礼拝所の壁に反響した。

「せんせい? せんせい!!!」

ぼろ布を身にまとったフィアが、女神像の裏からおずおずと顔を出した。

「フィア! 無事だったのね!」

フィアは、足を引きずり、よろめきながら私たちの元へと進んだ。バニィが駆け寄り、優しく彼女を抱き上げた。

「みんな、みんな、みんな…」

フィアはうわごとのように呟くと、小さく息を吐いた。その息は小鳥のさえずりよりも小さく、弱弱しかった。

「先生? 先生だよな…」

教会の鐘つき台に登る梯子の上から、ゼクスの声が小さく響いた。

私は、フィアをバニィにまかせ、梯子を登った。村を見渡す鐘つき台には、ここ数ヶ月で、見違えるように大人びた顔つきになったゼクスがいた。

「よぉ先生。走ってくるの、見えたぜ」

鐘つき台の床に横たわったぜクスは、擦れた声でそう言った。

「…先生がさ、帰ってきたら、すぐわかるようにってさ。フィアがうるさくてさ…」

ゼクスの顔は青ざめ、額には汗が滲んでいた。

「もう俺とフィアしかいないからさ、俺があいつを守ってやらなきゃって」

私は、ゼクスの頬に手を当てた。…一年前にはあんなにきれいだった桃色の頬が、青黒く染まっていた。

「…がんばったね、ゼクス、がんばったね」

私は、彼を抱きしめることしか出来なかった。

「先生たちが狩りに出ていってすぐに、大きな軍隊が来たんだ…」

ゼクスは、ぽつぽつと語り出した。

「黒い鎧の連中が、いきなり村を襲ってきた。俺たち、必死で戦ったんだ。村長まで剣を取って」

私は、自分の服の袖をナイフで切り裂き、それからその切れ端でゼクスの頬を拭った。

「もういいよ? ゼクス。もういいから…」

「最初に村長が死んで、それから大人たちが総崩れになった。誰も逃げなかったけど、でも、何も出来なくてさ。アインは…」

ゼクスの肩が、びくりと痙攣した。

「アインは、その時、死んだんだ。痛いよ、痛いよって。にいちゃん、たすけてって、そう言って」

ゼクスの頬を涙が伝った。

「俺、何も出来なかった。フィアを連れて、教会の床下に隠れるしか出来なかったんだ。ずっと息を殺して、小さくなって」

「ゼクス…」

「俺たちがずっと隠れてたら、床の上が静かになったんだ。俺とフィアが床下から這い出したときには、あいつらはどこかに消えてた。それから、フィアと二人で、先生を待つことにしたんだ」

風に吹かれ、教会の鐘がカランと鳴った。

その音を聞いて、ゼクスの表情が、一瞬、一年前出会ったときの子どもっぽい笑顔になった。

「先生、俺、剣も魔法も下手だけど、頑張ったんだ」

「えらいね、ゼクス」

私は、精一杯の笑顔を作った。笑わなきゃいけない。彼のために。今だけでも。

「俺さぁ…先生が帰ったら、言おうと思ったんだ。ありがとう、って」

ゼクスは静かに目を閉じ、ほんとうにかすかに、息を吐いた。

彼の左足は、膝から先が失われ、血だらけの布が巻かれていた。きっとフィアが巻いたものだ。

「ありがとな。先生が教えてくれたんだ。戦い方を全部。剣の振り方も、盾の持ち方も」

彼の肩が揺れる。私には、もう何も出来ることはなかった。

「ごめん、ゼクスは一生懸命がんばったのにね。私がもっと…」

「フィアが」

ゼクスが、かすかな声で呟く。

「フィアが下で」

彼の声は、その言葉を最後に、途絶え、失われた。私に、その続きの言葉を聞く事は、もう出来なかった。

教会の鐘が、もう一度だけ、カランと鳴った。わたしは、大切な何かを、また失った。


(9)


教会を後にし、バニィとフィアと一緒に、ゼクスの亡骸を裏庭に埋めた。アインの遺体は、いくら探しても見つからず、私たちは、彼の大切にしていた練習用の剣をゼクスのとなりに埋め、墓標代わりの小さな石を二つ、彼らの眠る土の上に置いた。

彼らの埋葬を終えた私の頭上には、いつもと変わらない、青い空が広がっていた。その色は限りなく青かった。私は、大きく息を吸った。村の空気は血と煤の匂いがした。

どこかで、小鳥の鳴く声がした気がした。






「せんせーフットサルってさー」

記憶の中のゼクスが私に笑いかける。

「キーパーがどうしてもボールをとめれないときは、どうすんだ?」

フィアとアインは、無邪気に歓声を上げながらボールを追いかけている。

「強いシュートとか来たとき?」

わたしはしばらく考えて、こう言った。

「怪我するから、逃げなさい」

「いいのかよ? 点数はいっちゃうぞ?」

「いいのよ、怪我するくらいなら逃げていいんだから。フィアにもアインにも、そう教えなきゃね」

私は、ふと思いついたように言う。

「…そうね、そうだ。授業で剣も魔法も教えてるけどね」

ゼクスの目をじっと見て、私は言う。

「もし私が居ない時に強い敵が来たら、すぐ逃げて。フィアとアインを連れてね」

ゼクスは少し首をかしげて考えてから、ゆっくりと答える。

「そっか…みんなを怪我させちゃいけないんだな?」

「そう、正解。いい子ね。約束よ」

わたしは、満面の笑みで、そう答えた。遠い日の、記憶。暖かな夏の日の出来事。





思い出に浸り、ただ立ち尽くす私の顔を、フィアが心配そうに覗き込む。

「せんせい、だいじょうぶ?」

彼女の身体には、大きな傷はひとつもなかった。ゼクスは、私との約束をきちんと守ったのだ。

「うん、大丈夫よ」

私は笑う。ゼクスが私との約束を守ったこと、それがフィアを救ったのだ。ならば、私は、2人のために、笑わなければならない。何がなんでも。

「大丈夫。フィア、あなたは私が守るから」

笑顔でそう告げる。

「…どうします? これから」

バニィが途方にくれた顔で呟く。

「そうね、とりあえず山側の道を…」

言いかけて、私は大きなめまいを感じた。バニィの身体が薄く、霞のようにゆらめいていた。

「…さん、サーバーが不安定で…不具合が…」

バニィの声が途切れる。彼だけではない、私自身の身体も陽炎のように揺れ、次第に色を無くして行く。

「…んせい? せんせい!」

フィアが叫ぶ。…まだダメだ、私は、まだ、彼女を。祈るように、手を伸ばす。

「フィア、わたし…」




「サーバーエラーです。回線を中断します。復旧は未定です」




機械的な音声が私の頭の中に響き、世界は黒く閉ざされた。私の身体から重さがなくなり、フワリとどこかに投げ出されるような感触が、一瞬だけ私を包んだ。

世界が終わる、プツンという音が、小さく響いた。







その画面の向こうには、果てしない暗闇が広がっていた。

小さな部屋の片隅、背中を丸めて、私はモニターを見つめていた。

もう一週間もお風呂に入っていない。私の長い髪は縺れて、歪んで、小さな胸の先で揺れている。

…気にしない。何も気にしない。私はもう「私」ですらないんだから。

マウスをクリックし次のサイトを探す。私の生きている場所。本当の自分のいる世界。わたしは、それを探し続ける。

そして、私は見つけた。見慣れたトップページに記載された、見慣れない文字を。

【サービス終了のお知らせ。オンラインRPGブルーワールドは4月1日をもって全サービスを終了致しました。ご利用ありがとうございました】

しばらく呆然としていると、パソコンの画面の隅に電子メールの着信サインが光った。反射的にメールトレーをクリックする。

(こんにちは、バニィです。リアルでは初めまして、ですね)

意外な相手からのメールに、私は驚いた。

(手短にお伝えします。あなたがサーバーダウンで消えた後、僕は、もう少しだけあの世界に留まることが出来ました。その間に僕は、フィアさんに僕の杖と魔道書を渡し、西の商都の孤児院まで送り届けることが出来たんです。あなたの言うとおり、僕は強くなれた。フィアを守り通せるくらいには)

彼のメールをリアルで読むのは、なんだか奇妙な感じだった。全てはゲームの中の出来事のはずなのに。

(ゲームサービス終了直前でしたが、フィアからあなたへの伝言を預かりました。お伝えしておきます)

フィアは、今はもうどこにも存在しない。消えてしまった、0と1との電気信号とプログラムソースの塊でしかない。それなのに何故、こんなに胸が痛むんだろう。フィアのやさしい笑い顔が心に浮かぶ。

「先生は、いまどこにいますか。私は、大丈夫です」

大丈夫な訳がない。たった一人で。西の商都までは、何ヶ月もかかるのに。商都だって、いつ襲われるか分からないのに。なにより、その商都はもう存在しないのに。

「先生。教えてくれたこと、いっしょうわすれません。ありがとう」

どうして? 彼女の一生は、プログラムの中にしかないのに。そのプログラムは、もう消えてしまったのに。

「この村からどこか別の場所に行ってしまっても、ずっとずっと、みんなのいい先生でいてください。大好きです。ありがとう」

私は、モニターの前で、大声を上げて泣いた。

私は、無力だ。どうしようもなく。




そうして何時間か泣いた後、私は顔を上げた。

私は無力だ。

…でも、それでも、もしかしたら、私は。

あの金髪の、背の高い戦士のように。あの世界の「私」のように。

このリアルの世界でも大切な何かを見つけ、そして今度こそ、守り通すことが出来るのかもしれない。

バニィからのメールに「ありがとう。またメールします」と短い返信を送り、マウスをクリックしパソコンの電源を落とした。壁に掛かった時計が、かちりと音を立てる。午前7時、これから長い一日がはじまる時間だ。

(さて、何からはじめてみようかな。運動でも、してみようか…)

そう考えながら、私は、椅子から立ち上がり、背筋を伸ばし、小さく伸びをした。

私はあの世界に確かに居た。そして、あの世界の人々は確かに生きていた。暖かい日差しの中で。

だから、私は、今日、立ち上がるのだ。例えこれから何度、剣を折られたとしても。


(了)



うたを歌う猫のはなし 前編

2010年04月02日 | 小説 (プレビュー版含む)

(1)

 結局、こんなふうになってしまった今も、僕は彼女の事をよくわからないままでいる。彼女がどんな存在であり、僕に何を渡して、そしてどこへ行ってしまったのか。けれど、あの時彼女がそこにいた事、そして僕に忘れられない爪痕を残した事は、紛れもない事実だ。

 だから僕は、彼女と、彼女の歌を忘れないために、この物語を残そうと思う。



 それは僕が四十八回目の就職試験に落ちた日の夕方だった。僕はコンビニで買い物を終え、六畳一間のアパートに帰ろうとしていた。なけなしの生活費でおにぎりと唐揚を買い、ささやかな夕食を一人でとるつもりで、ふらふらと人気のない路地を歩いていた。


 道端の電信柱の蔭に、一匹の猫が居た。小柄な三毛猫だった。目は切れ長で、手足は小枝のように細くて長かった。こころなしか元気がなく、お腹を空かせているように見えた。

 普段の僕であれば、気にも留めなかっただろう。猫は猫、僕は僕、だ。
 
 でもその日は違った。
 
 僕はシャケおにぎりの包みを破り、わざわざ中の具を指で取り出して、その猫の目の前に置いた。このおにぎりはコンビ二メニューの中では高級品で、実はけっこう値が張るのだが。

 猫はシャケの切り身と僕の顔を交互に見ながら、難しい顔をしてしばらく「フゥー」と唸っていた。

「食べていいよ」

 僕のその言葉を聞くと、猫はおずおずとシャケの切り身をかじりだした。どうやら、よほど腹を空かせていたようだ。
 猫は小さくコクンと頷くと、むしゃむしゃと美味しそうにシャケを口に入れ、舌をペロリと出した。まるで僕の言うことを全部わかっているみたいで、僕はなんとなく満足げな気持ちになった。


(2)


シャケを全部たいらげた後も、猫はじっと僕の顔を覗いたまま座り込んでいた。

「おいおい、もう君の食べられるような物はないよ」

 僕は持っていたビニール袋をがさがさと振り、中身をアピールした。

「にゃあ」

 猫は納得いかない様子で唸り声を上げた。唐揚って、猫が食べても平気だっけ? 僕はそう思いながらビニール袋から唐揚を取り出してから、そいつがホットチリ味だったのを思い出した。多分猫には辛過ぎる。

「…うにゃあ」

「他は煙草くらいしかないや。ごめんな。またの機会ってことで。そんな機会、二度とないかもしれないけどさ」

 猫に対してその場を取り繕っても仕方ないのだが。僕はそう思いつつ、恨めしそうな顔をする猫を残して、立ち去ろうとした。

「………」

 しばらく歩くと、後ろに気配を感じた。あの三毛猫だった。

(家までついてきても、冷蔵庫には氷くらいしか入ってないんだけどな)

そう思いながら、僕は少し後ろをついて来る猫を振り返った。僕の不機嫌な顔など意にも介さず、猫は「たまたま進む方向が同じだけ」と言いたげなすました表情でゆっくりと歩いていた。

 猫は、僕の住む二階建てのアパートに着くまでの十数分間、ずっと僕の後ろを離れなかった。玄関の鍵を開ける瞬間、振り返ると、猫は「してやったり」という顔でペロリと舌を出した。僕は「まんまとやられたな」と思いながら、玄関の扉を開け、後ろ手で「しっしっ」とした。だが猫は「当然」といいたげな素振りで、僕と並んで、我が家へと入っていった。そして猫は、僕の狭い六畳一間の一等地にちょこんと腰を下ろし、毛づくろいをはじめたのだ。

 結果的に彼女(調べてみたらメスだった)を部屋に招きいれた僕が最初にしたことは、ネットで猫の習性を調べることだった。彼女がどうやら追い払っても居つくつもりでいる以上、僕も真剣に向き合うべきだと思ったのだ。

 自慢ではないが、僕は動物が苦手だ。ペットなど一度も飼った事がない。それでも彼女を家に上げる気になったのは、多少の気まぐれと、ほんの少しの寂しさと、ひとかけらの同情からだった。それでも、一度こうして家に上げてしまった以上、無責任に放り出すつもりはない。

 いくつかのサイトをチェックし、当面必要なものをメモした。どうやら明日にでも獣医に連れて行って、健康診断を受けさせなければならないらしい。

「おい、明日からは病院通いだぞ」

 僕が彼女にそう言うと、彼女は「みゃあ」と納得したように声をあげた。

(3.5)

 ひとしきりネットで調べものをした僕は、今度は猫の身体検査を始めた。

「首輪の跡、ないよな。…お前、ずっと野良だったのか?」

「みゃ」


 僕の言う事をわかっているのかいないのか、彼女は僕の言葉に、一々律儀に返事をしてみせた。まるで会話をしてるようで、僕は少し嬉しくなった。

「もしかして、僕の言ってる事がわかるのか?」

 そんな訳がないと思いながら、僕は彼女の目を見て言った。

「にゃ!」

 彼女は、一際強い声でそう鳴くと、こくりと頷いてみせた。

「…ありえないだろ」

 僕は、そう呟くと、さっきの自分の考えを打ち消した。猫が人間の言葉を全部理解してると思うなんて、どうかしてる。

 彼女は、そんな僕の様子を見ると、ひらりと身を翻し、部屋の壁に爪を立てた。

 ガリガリと壁をひっかく音が狭い部屋に響いた。

「…にゃ」

 しばらくして、彼女は僕の膝にすとんと乗ると、何も言わず僕の顔を覗き込んだ。

「何か言いたいのか?」

 僕が尋ねると、彼女は、またスタスタと壁際まで歩き、壁をトントンと叩いた。

 そこには、爪跡で「Y E S」という文字が刻まれていた。

 僕は今度こそ、言葉を失ってしまった。 


(3.8)

 翌日、僕はバイトを休んで、彼女を動物病院に連れて行った。診察を済ませ、猫を飼うための心得を獣医さんから聞き、その足でペットショップへと向った。
 夕方には、僕の財布はすっかり空になり、かわりに僕の部屋には様々な猫飼育グッズが並んだ。
 僕は、親切な獣医さんである主治医の吉田先生のアドバイスに従い、猫に名前をつける事にした。先生曰く、ペットに名前もつけずに動物病院を訪ねてきた飼い主は、僕がはじめてだそうだ。

 僕はコトコの特殊な能力のことを、当面誰にも話さないことにしていた。話しても信じてもらえる訳もないし、何より話す相手がいなかった。コトコが現れるまでの数ヶ月、僕は仕事と面接以外でまともな会話をしたことがほとんどなかった。今になって気が付いたのだけれど。

 その日の夕方、西日が差す六畳間に座り、僕と彼女は命名式をはじめた。

「どんな名前がいいと思う? それとも、もう名前があるのかな」

「うにゃ」

 彼女は一声鳴くと、壁のYESの文字の横に、「N O」と書いた。

「そうか。なら僕は君に、コトコ、という名前をつけようと思う」

 僕は彼女の顔を覗きこんで言った。コトコは、しばらく首をかしげてから、壁際に歩いて行き、YESの文字を前足で押さえた。

「…で、君は、僕以外の人間の言葉も理解してるのか?」

「にゃ…」

 コトコはすこし迷ってから、壁の「YES」の文字を押さえた。

「その、YESとNOって言葉は誰に教えてもらったんだ?」

 コトコは、壁に刻まれたYESとNOの文字の間を、トントンと叩いた。わからない、という意味らしい。

「じゃあ…前世は人間だったとか、誰かの霊が乗り移ってるとか…」

 凄まじい勢いでNOを連打するコトコに、僕は半ばあきれながら

「よっぽど人間扱いされるのがイヤなんだな。OK、君は生粋の猫だ。認めるよ」

 と応えた。コトコは満足そうに、

「にゃーご」と喉を鳴らした。


 それから後も、僕とコトコは色々な話をした。ほとんど具体的な事はわからなかったけど、どうやらコトコはある程度の日本語を理解できる、特殊な猫らしい。だが、僕がどれだけ教えても、YESとNO以外の言葉を書く事は出来ないようだった。
 コトコの正体について、僕らは様々な可能性を話し合った。だがしかし、僕の言葉は理解できても、あくまで猫。それがコトコの主張でもあり、僕の最終的な結論でもあった。

 普通の人は、こんな猫を拾ってしまったら、どうするのだろう。気味悪がって捨ててしまうか、それともTVにでも出して、見世物にしようとするのだろうか。
 僕は、そのどちらもする気にはなれなかった。ただ、友達になりたいと思った。
 その晩、コトコの了解を得て、彼女を胸に抱いてベッドに入った。コトコは少し迷惑そうだったが、それでも、僕の腕から抜け出さずにいてくれた。
 眠る直前、どこからか、綺麗な歌声が聞こえてきた。
 見ると、コトコが鼻歌を歌っていた。聞いた事もない言葉で。
 僕はその心地よいリズムに包まれて、久しぶりに穏やかに眠りに落ちた。
 

(3・9)

 今思い返せば、あの頃の僕はどうしようもなく何かにすがりたくて、それでいてその何かを見つける事が出来ないでいたのだと思う。僕は、「積極的に死にたいとは思わないけど別に死んでもいいや」という気分で毎日を過ごしていた。その気分に取り立てて理由がある訳ではなかった。強いて言えば、いつまでも続くバイト生活と、いつまでたっても代わり映えのしない世の中に飽き飽きしていたのだ。そして、それを受け入れている自分にも。
 二十五年生きてきて、僕はまだ本当に生きているという実感を得た事がなかった。人と何かを競う事も、自分自身の中にある何かを突き詰める事も、僕にはできなかった。ただ、流されるままに実家を出て、そのまま毎日の暮らしを保つために時給を稼ぎながら、何をやりたいと思うでもなく就職活動を続けていた。
 コトコに出会ったあの時、実のところ、僕は練炭でも炊いて自殺しようかと考えていた。本当にそれを行動に移したかどうかはわからない。ただ。
僕は本当にこの世界から消えてしまうつもりだったのだ。もしコトコに出会わなければ。

(4)

「先生は…」

 あれから数ヵ月後、僕はすっかりおなじみになった動物病院の診察室で、吉田先生に…彼女は白衣の似合う三十代の美人獣医なのだが、ある相談を持ち掛けていた。

「先生は、猫が人間の言葉をどれくらい理解するもんだと思いますか?」

 吉田先生は、あまり似合っていない眼鏡をかけたり外したりしながら、「うーん」と考え込んでから言った。

「飼い主によるわね。自分の言っている事、猫が全部理解してると思う人もいれば、そうでない人もいるし…」

 場所が悪いのか、いつ来てもほとんど人気のない動物病院だが、吉田先生の診察は丁寧だった。そのせいか、人間嫌いのコトコもこの先生にだけは懐いていて、僕も安心してコトコを任せる事が出来た。
 診察室は雑然としていて、あちらこちらに英字の科学雑誌がうず高く積まれていた。本人はあまり話したがらないが、彼女は数年前までアメリカに住んでいて、それなりに名の通った獣医師として有名だったらしい。もっとも、これはバイト先の常連のオバサンから聞いていた話だから、あまりあてにはならないが。
  
「じゃあ例えば、こちらの質問に対して意思表示をしたりするなんてこと、ありますか?」

「それは、食事の合図に鳴き声で答えたりはね」

 コトコはキャリーバックの中ですやすやと眠っていた。
 この数ヶ月、僕とコトコは様々な話をした。それは例えば夕食のメニューについてだったり、明日の天気のことだったり、僕が読んでいる本の内容についてだったりした。
 コトコは機嫌の良い時に鼻歌を歌った。聞いたこともない異国の言葉のような、なんとも表現し難い歌声とメロディーだったが、その旋律は例えようもなく心地よく、僕の心に安らぎを与えてくれた。
 コトコは僕の予想以上に頭がよかった。テレビやラジオの番組の内容もそれなりに理解していたし、人間社会のおおよその仕組みもわかっていた。
 それでも、コトコは人間と積極的に関るつもりはないようだった。いや、どちらかというと、いつも「人間社会なんてまっぴら」という様子で、僕以外の人間と会話をするつもりもなさそうだった。

 狭い診察室の片隅に置かれたさらに狭いキャリーバックの中で、コトコは丸くなって佇んでいた。

「…じゃあ先生は、もし猫と会話が出来たら、何を聞きます?」

 僕の質問に、彼女は眼鏡を弄んでいた手を止めて

「もちろん、どうやったらこの動物病院が繁盛するか、よ」

 と真剣な顔で言った。そして

「まぁがんばりなさい。精一杯向き合えば、種族が違ったって理解しあう事は出来るわ。必ずね」

 そう言って、片目を瞑った。どうやらウインクのつもりらしい。
 この人と話していると、僕は時々、何が冗談で何が本当の事かよくわからなくなる。とはいえ、当面、僕とコトコが頼れそうな人は、この先生以外にはいなかった。

(5)

 結局、僕は吉田先生に肝心な事を言い出せないまま、コトコと家に帰った。診察の結果は良好で、特に薬も出なかった。鋭いのか鈍いのかよくわからない吉田先生だが、コトコの事を診察している時には、少なくとも医者らしいアドバイスはしてくれる。それは本当にありがたかった。 

 コトコは、部屋に戻るとすぐにキャリーバックの扉をトントンと叩き、ひらりと床に下りると、そそくさと部屋を出て行ってしまった。相当に機嫌を悪くしたらしい。もしかしたら、僕と吉田先生の会話を寝たふりをしながら聞いていたのかもしれない。

 (…まてよ。じゃあコトコは、僕が彼女が僕と会話できることを吉田先生に話すのには反対なのか?)

 そう考えながら、僕はショートホープを咥えて、静かに火を点けた。

 以前その事をコトコに持ちかけたとき、彼女はYESともNOとも言わず、めんどくさそうに前足で耳を掻いていた。

 (正体を探られるのがいやなのなら、何かその理由があるって事だよな)

 (例えば? そう、今更何か隠さなければいけない秘密があるのなら…その秘密は一体なんなんだ。)

 ショートホープの灰が床に落ちた。

 その日から数日の間、コトコは帰って来なかった。


うたを歌う猫のはなし 後編

2010年04月02日 | 小説 (プレビュー版含む)

(6)

 何日かしてコトコが帰ってきたとき、彼女は手足に傷をつくり、きれいな毛並みを血で汚していた。前の日の夜、窓の外から彼女の歌声が聞こえていたので、どうやらこの辺りで過ごしていたのだけは確かなようだ。何処かでネズミでも獲っていたのか、他の猫とケンカでもしていたのか…。僕が手当てをしようと近寄っても、彼女はヒラリと身をかわし、触れる事を許さなかった。

「なあコトコ、怒ってるんなら怒ってるんでいいからさ…」

 せめて傷の手当てだけは、と言おうとする僕を一瞥し、彼女はぷいと横を向いて、僕のパソコンのキーボードの上に陣取って昼寝をはじめた。会話はおろか、ありとあらゆるコミニケーションを拒絶していた。

 昼寝を終えると、コトコは「何か出せ」と言いたげに冷蔵庫の前に移動した。僕はこの日に備え買っておいた最高級の猫缶と鮭の切り身を、このうえなく丁寧に皿に盛り、あくまでさりげなくテーブルに置いた。
 コトコは、僕が準備をしている間、まるで興味がないというふうに部屋をうろうろしていた。皿が並んでから数分後、はじめて気がついたかのように首をかしげ、ゆっくりとご馳走に手を出した。そのあまりのわざとらしさに僕は内心ニヤニヤしながら、無表情を装って洗濯物を畳んでいた。

 そんな事が、何度かあった。

 コトコはだんだん遠出をする日が増え、時には一週間近く僕の部屋に戻らない日もあった。
猫というものは本来そういう生き物だとは承知していたけど、それでも僕は、少なからず寂しさを切なさを感じていた。
 コトコは、僕が一緒にいない時間に何をしているのか、決して話そうとしなかった。それを質問しても、あいまいにイエスとノーの間をいったり来たりしてばかりだった。僕の呼びかけそのものに答えない時もあった。
 そしてコトコは、次第に歌わなくなっていた。


(7)

 また、何ヶ月かが過ぎた。コトコが僕の部屋にやって来る頻度は日を追って減り、僕もまた、コトコのための食事を用意する事が少なくなっていた。僕達はお互いにだんだんと互いのための時間を減らし、その時間を自分達のためにあてるようになっていた。けれど僕もコトコも、まだ、お互いの存在を完全に無視している訳ではなかった。

 ある雨の日の晩、コトコは珍しく小さな声で歌っていた。その歌声は相変わらず綺麗で、綺麗な分だけ僕には悲しく思えた。コトコはその小さな身体を震わせ、小さな声で、懸命に歌っていた。まるで命を削るように。そして一瞬、彼女の手足に、ぴしり、と傷が走るのを僕は見たような、そんな気がした。

 そしてずっと、コトコの手足の傷は、減ることはなかった。

 ある日、僕は、バイト先のコンビ二で週刊誌をめくっていた。深夜三時の雨の日のコンビ二には、まばらにしか客が来ない。商品の入れ替えが始まる明け方までは、こうして退屈をしのぐしか仕方ないのだ。同僚は、ひたすら携帯電話でメールをしているし。
 それはほんの偶然だった。その薄い雑誌のモノクロページに、僕はコトコを見つけた。その記事には、こう見出しがつけられていた。

「人の寿命を読み取り、患者を看取る猫。アメリカ・ロードアイランド州」

 看取る猫? 僕は目を疑った。モノクロの小さな写真だったが、それは確かにコトコだった。ふてぶてしく退屈そうな顔でカメラを睨んでいる。それは、ある海外のサイエンス雑誌に載った論文を元に書かれた記事だった。端から端まで、一時間かけてその記事を読んだ。決してオカルトの類ではなく、きっちりとした調査の上に書かれた論文を元に記載された内容だった。

 ある高齢者介護施設で飼われていたその猫は、数ヶ月後にせまった人の死を感じ取ることができるというのだ。入居者の死の直前に、そのベッドの脇に座る猫…。

「なんだって?」

 僕は思わず声に出して呟いていた。同僚が携帯電話の画面から顔を上げ、怪訝な顔で僕を睨む。知った事か。
 
 この猫はコトコではない。それは確かだ。論文の発表時期は最近で、僕とコトコが出会った時期と重なっている。なにより、どうやったらアメリカからここまで、一匹の猫が人の手を借りずに日本の田舎町までやって来ると言うのだ。

 …同じ猫でないとしたら?

 僕は、一つの可能性に思い当たり、また、小さく呟いた。同僚は完全に僕に構う気を無くした様子で、今度は携帯ゲーム機を取り出して遊んでいた。もはや無法地帯だが、こんな田舎のコンビ二では深夜バイトの補充もままならないのが現実なのだ。もっとも、だからこそ僕が未だにこの仕事を続けていられるのだけれど。

 それにしても、こんな偶然がありうるのだろうか。

 コトコが何者なのか。何処から来たのか。そしてコトコが何をしようとしているのか。

 僕は、確かめずにはいられないと、感じていた。

(8)

 家に帰りドアを開けた。コトコは、開けっ放しの窓から僕の部屋に入り込んでいた。それが偶然なのかどうかはわからない。ただ、彼女は、今まで僕が見たどんな時よりも、儚げに見えた。

「なあ、コトコ…」

 あれほどに確かめなければと感じていた事が、なかなか口に出せなかった。それは戸惑いでも、不安でもなかった。ただ、漠然とした感情が形になるのが許せないと感じていた。

「俺は、もうすぐ死ぬのか?」

 コトコは、僕をじっと見つめていた。一言も鳴かず、ただ、僕の目を覗き込んでいた。

「…いつもみたいに答えてくれよ。気休めなんかいらないんだ。それに…」

 それに、俺は、と言いかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。
コトコが僕の脇をすっと通り抜け、初めて出会った日に柱に刻んだあの「YES」の文字の前に座り込んだからだ。
 
「それならさ、それで…」

 言いかけた僕の言葉を遮って、コトコは柱の壁に刻まれたYESとNOの文字の間を、トントンと叩いた。

 振り返り僕を見た彼女の表情は、何かを問いかけているようだった。

「なんだよ、それ。わからないとかそういうのってないだろ。別に誤魔化してなんか欲しくないんだ。ちゃんと答えてくれよ!」

 話しながら、怒鳴り声になっていくのが自分でも分かった。どうでもいいと思っていたはずなのに動揺している自分が情けなかった。

「昔読んだ本に、こういう話があったんだ。一人暮らしの男の家に、一人の女が迷い込んでくる。男はせっせと彼女の世話を焼き、やがて彼女を愛するようになった。そして、男が彼女に全てを捧げると約束したその時…彼女は男の魂を奪ったんだ」

 コトコは、無表情に僕の話を聞いていた。話を聞くまでもなく、全てを理解しているという様子で。

「そう、彼女は死神の使いだった。最初から男の寿命を知っていたんだ」

 僕は、ふうっ、と息をつき言った。

「なあコトコ、君が死の国からの使いなら、遠慮なく俺を連れていってくれ。
本当はずっと、もうどうでもいいって思ってたんだ。君が来る前から…」

 思い出す。四十八回目の就職試験に落ちたあの日、僕は確かに死のうと思っていた。漠然と、けれど確実に。

 そんな時、僕はコトコと出会ったのだ。

「でも、まあ君に連れていかれるなら…」

 僕は、無理やりに笑顔を作って、やっとそう言った。

 コトコは、僕の言葉を最後まで聞き終わると、「にゃあ」と一声鳴くと、静かに「NO」を指差した。

「……」

 何かを伝えようとする彼女の意思を、僕はどうしても理解する事が出来なかった。何時の間にか、僕は何一つ、彼女の思いを受け取る事が出来なくなっていた。彼女の「NO」が何を意味するのか。彼女が僕に何を伝えたいのか…。

「コトコ…」

 半ば諦めた気持ちで、僕は彼女をそっと抱きかかえた。その小さくて柔らかい身体を抱きかかえた時、僕は何か、全てを受け入れられる気がした。僕がこの先どうなるにせよ、こうして、ちょっとした奇跡と出会えたのは、事実なのだ。

「君の歌、好きだったけどな」

 僕はそういって、コトコを玄関の外にそっと放した。これ以上、彼女と一緒にいてはいけない、そんな気がしたからだ。

 コトコは振り返らず、ゆっくりと、僕の部屋を離れていった。 

(8)

 また数ヶ月が過ぎた。結局、僕はこれまでと同じように暮らしていた。コトコの「NO」の意味に思いを廻らせながら、今日も僕はバイトと面接に明け暮れていた。
 そしてある日、懐かしい人が僕の家を訪れた。顔を見ただけでは、一瞬誰かわからなったが、少しくたびれた白衣と眼鏡姿に、それが吉田先生だと僕は気付いた。

「そんなに驚いた顔しないでよ。スッピンだと別人って言いたいのかしら?」

 気のせいだろうか、口調まで変わっているようだ。

「伝えたい事があってね、来たのよ」

 吉田先生はそう言うと、狭い僕の部屋にずかずかと上がりこんできた。遠慮もなにもあったものではないが、別に困るという事もない。
 部屋を見渡し、妙にスッキリとした様子を見て、彼女は言った。

「やっぱ、あの子、出てっちゃった?」

「というか、追い出したというか…」

 戸棚の奥から急須を取り出しながら、僕は答えた。

「もしかして、気が付いてるかもしれないけど…」

「コトコの正体、ですよね」

「わかってるなら、話は早いわね」

 吉田先生は、ショルダーバックから分厚い資料を取り出し、テーブルの上に並べ始めた。そこには、コトコと似た姿をした猫達の写真と、様々な数値が並んでいた。 

「56例。国内では4例。全て同じ種よ」

 眼鏡を指でくいっと持ち上げながら、彼女は言った。

「…死神、じゃなかったんですか?」

 僕は唖然として、そう答えた。まさか合理的な説明がつく話だとは、思ってはいなかった。まして、こうしてデータ化されて書類にまとめられるような話だとは。

「君がどう思っていたか知らないけど」

 吉田先生は言った。

「あの子は死神なんかじゃないわ。特殊な猫には違いないけど」


(9)

「確認された個体は全て、絶滅したフレイア・フォレスト・キャットの特徴をそのまま持っていたの。外見上、ほとんど分からないけど…。彼らは3年前に一斉に現れて、そして一斉に消えてしまった」

 吉田先生は僕がいれた不味いお茶を飲みながらそう言った。

「問題は、なぜあの子たちが人の言葉を理解したり、人の寿命を読み取れたり出来たのか、なんだけど」

「どこから来て、どこに行ったか、は関係ないって言うんですか?」

 僕は彼女にそう言って、資料を捲った。一見した所では、どの猫もコトコと殆ど違いがわからなかった。じっと観察してようやく、微妙な差異を発見する事が出来る、それくらい彼女らの容姿は似通っていた。

「それがわかれば苦労はしないんだけど…」

 吉田先生の表情が曇った。

「だからこそ、あなたの所に来たの。コトコちゃんから何か聞いてないかと思って」

「気付いてたんですね」

「まあ動物の心に関してはプロだしね。それに…前から知ってもいたしね」

 言葉を濁して、彼女は息をついた。

「それで結局、コトコたちの正体はなんだったんです?」

「…わからないわ。ただ、これはあくまで私個人の仮説なんだけど…」

 彼女は息をすうっと吸い込み、言った。

「あの子たちは、人の寿命を読み取っていた訳ではないと思うの」

「どういう事です?」

「これを見て」

 彼女は、書類の束から一つの資料を取り出した。

「確かに、あの子たちのうちの何匹かは、死に瀕した人間の側に寄り添って離れなかった。けれど、全部の飼い主が死に瀕していて、そのまま死んでしまったという訳ではないの。君や…私みたいにね」

「どういう事です?」

「…彼女達は、死に瀕した人間に寄り添っていた。けれどそれは、死を待っていた訳でない、って事よ」

 そう言って、吉田先生は胸元のポケットから、小さな写真を取り出した。彼女がコトコを抱いている写真だった。…いや、違う。

「これは…」

「そう、私も出会ったの。あなたと同じように」

 彼女は寂しそうに微笑んで言った。

「まだアメリカにいた時の話よ。あの子…ロイスが迷い込んできたのは」

 それは、今まで見たことのない彼女の表情だった。

「ずっと側にいてくれたわ。時々、何もかも理解し合えた気がした。けれど、あの子もやっぱり消えてしまった」

 眼鏡を外し、背筋を正すと彼女は言った。

「アメリカでね、旦那が死んだの。交通事故だった。あっけすぎて、涙さえ出なかった。丁度そんな時よ」

 彼女の凛とした表情の向こうには、確かに触れがたい何かがあった。けれど、少くなくとも、今の彼女の顔には、死の影はなかった。

「死にたいとまでは思っていなくても…」

 僕と彼女が、同時に口を開いた。僕と彼女は、言葉は違っても、同じ事を言おうとしていた。

「つまりそれは」

 僕はやっと理解した。コトコがあの時、何故「NO」を指したのか。

「そう、死を看取るのでなく、私たちの死を回避しようとしていた。おそらくは、自分自身の命を削って」

 吉田先生のその言葉に、僕は表情を失っていた。それはおよそ、僕が考えていた事とはまるで正反対の真実だったから。彼女の作っていたあの傷は、ケンカなんかで出来たものではなかったのだ。あれは、彼女が自分の命を削った時に出来たもので…。あの歌声は彼女達の身体すら削るもので…。その力は僕を…。

「何でそんなことをする必要が…。僕は何も…」

「私だって何もしてないわ。でも、あの子たちが」

 吉田先生は一瞬だけ目を伏せて言った。

「もしあの子たちが私たちを友達と思ってくれていたなら、ただそれだけで、彼女たちにとってはそれをする意味はあった、って事じゃないのかしら」

「そんな…」

「コトコちゃんは、多分、飼い主と言葉を交わせた唯一のフレイア・フォレスト・キャットだった。だからもしかしたら、って思って来たんだけどね」

 僕には返す言葉がなかった。僕は、命を賭けて僕を救ってくれた友達を疑い、裏切り、追い出したのだから。

「あの子たちは突然現れて、突然消えてしまった。そして、私たちはあの子たちに…」

 僕はただ、そう呟く吉田先生をただ呆然と見ていた。今更どうしようもない。それでも。
それでも僕は、彼女に。

「ねえ、例えば」

 吉田先生はゆっくりと立ち上がり部屋の窓を開けて、僕に問いかけた。

「ねえ、例えば、もし神様なんてものがいたとして、既に滅んだ種をメッセンジャーにして私たちをテストしたなら…」

「それは獣医の言う台詞じゃないですよ」

 僕はどうにか冗談めかした笑顔を作り、そう答えた。

 こんな話は、荒唐無稽なおとぎ話に過ぎないのかもしれない。しかし、それが、もしありえないおとぎ話だとしても、僕たちは出会い、そして日々を過ごした。そうして彼女が僕に忘れられない爪痕を残した事は、紛れもない事実なのだ。たとえ神様なんてものが、どこにもいなかったとしても。

「そんなふうに試されていたなら、私たちはそのテストに合格したのかしら、ね」

「それは…どうなんでしょうね? ただ、僕は」

「君は?」

「僕は、その答えを探します。この先ずっとね」

「そうね、それがいいと思う」

 吉田先生は、眼鏡の奥の目を細めて、笑っていた。

 開け放した窓から風が暖かい風が吹き込んできた。どこからか、コトコの歌が聞こえた気がした。けれどそれはすぐに消え去り、僕はどうしてもその歌声を思い出せないまま、窓の外に耳を澄ませ続けていた。

(了)