歴史小説の部屋

舞台は戦国時代。織田信長の家臣として生きた滝川一益が主人公です

桶狭間1

2006年05月31日 00時25分00秒 | 滝川家の人々
駿河・遠江・三河三国の大大名である今川義元が上洛戦を始めようとしていた。尾張はその通り道にあり、信長はその総勢五万と言われている軍勢と戦わなくてはならない。織田勢はどうかき集めても四・五千が限度。
 今川義元の上洛が明らかになった時、一益は桑名の義太夫を呼び戻そうと、何度か人を遣わした。しかし、義太夫は桑名にはいない。



 何かあったのだろうと思っている所に、桑名から旧臣の滝川助太郎・助九郎兄弟がやってきて、事の次第を告げた。
「合戦が始まろうという時に、あやつは何をしておるのか!」
 一益は激しく舌打ちした。
「して、左近様。信長公は今川義元と決戦をなさるおつもりなので?」
 滝川助太郎が尋ねた。
「決戦ではない。籠城なさるおつもりのようじゃ」
籠城とは味方の援軍を待つ時などに用いられる戦法で、そんな援軍などない織田軍が、あの清洲城に籠城などしても五万の今川軍に攻め落とされ、全員枕を並べて討死にするのが目に見えているのだが・・。
「信長公は非凡な武将と聞き及びまするが・・」
「まともにやりあっては勝てぬしのう・・。あるいはあの大軍を前に戦うのが馬鹿馬鹿しくなったのかもしれぬ」
 と話していると、俄かに外が騒がしくなった。
 甲高い声が遠くから響いてくる。
「何の騒ぎでありましょうか」
 助九郎が刀を持って立ち上がろうとした。
「一益!一益!」
 と、けたたましく呼ばわる声がした。



「あの声は・・・」
 一益がハッとして腰を浮かすと、信長が供も連れずに入ってきた。
「おお、一益。ここにおったか」
「突然のおこしに驚いておりまする」
 さして驚きもせずに一益が答えた。信長の行動はいつも人の意表をつくもので、突然やってくるなどということは一度や二度ではない。
噂の信長を目の当たりにした滝川助太郎と助九郎は顔を見合わせている。
「そのほうでも驚くことがあるか」
 信長は傍にあった脇息を寄せて座ると、一益をじっと見据えた。
「はい。上様が今川の大軍を前に籠城なさると聞いて、大変驚いております」
「フン、それ位で驚くようでは信長の家来とは言えぬの」
「・・と仰せられまするが、あるいはあの大軍を前に降伏なさるおつもりかと考えておりました」
 一益は信長の顔色を窺いながら言った。むろん、信長が降伏などできる人間ではないことは良く分かっている。
「戦って勝つ法はないと申すか」
 信長が問うと一益は意味ありげに笑った。
「古来、判官義経が平家の大群を前に戦ったときのように、万に一つに賭けるしかありますまい」
 今川義元の本隊に奇襲をかけろと言うのだ。
「万に一つ・・」
 今川の先陣などは相手にせず、一気に本隊を目指して今川義元を討ち取る以外に勝つ方法はない。
「我等が籠城していると聞き、今川方では油断しておりましょう。恐れながら上様には今川勢を油断させるために籠城とふれ回らせたかと存じました」
 一益に己の心を言い当てられて、信長はニヤリと笑った。




「一益」
「ハッ」
「そちならば万に一つかもしれぬがの、奇襲をかけるのはこの信長じゃ」
「そ、それはよく・・」
「信長に万に一つなどというものはない」
「は・・」
「天命我にあり!」
 信長がにわかに立ち上がり、声高に叫んだ。一益はもちろん、滝川助太郎・助九郎兄弟も信長に圧倒されて息を呑んでいる。
(運すらも自分の味方であると・・そう仰せなのか)
 その自信はどこから来るのだろう。そして、時々信長から受けるこの雷に打たれたかのような衝撃は・・・。
 信長は、驚いて見上げる皆に向かって笑った。
「今しばらく籠城じゃ」
「はい。心得ておりまする」
「出陣となったら遅れをとるなよ。家来衆を引き連れてのう、存分に手柄を立てるがよい」
 一益が微笑して頷くと、信長は足早に部屋を後にした。


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柿の木と楓 2

2006年05月30日 00時42分56秒 | 滝川家の人々
 人を寄せ付けない雰囲気をもつ一益に対して、義太夫は整った顔立ちのために人に好かれることが多い。が、それがかえって災いしてしまうこともある。義太夫は意志が弱く、歳が若いせいか自分を押さえることができない。一益はそのことを心配し、注意したはずだったのだが義太夫は城一番の美女に目が眩み、主君の言葉などは忘れてしまっていた。
 こうして祝言が行われた。義太夫は当然、安堵した。
(これで家事から開放される)
 そして諜報活動に専念できる。しかしそれは甘かった。
(とりあえず、このことを殿に報告せねば・・)
 手紙を書いていると新妻が部屋に入ってきた。義太夫は慌てて手紙を伏せた。



「太夫左衛門様、どなた様にお便りを出されます?」
「う、うむ。国元の母御に妻を娶ったとご報告しようかと思うての」
「国元と仰せられますると南江州の?わらわにも見せてくださいませ」
「そっそれは駄目じゃ!」
 手紙を覗き込もうとした楓を押しのけて、書きかけた手紙をくしゃくしゃと丸めた。
「何故そのようにお隠しになるのでござりまする」
 楓は少し怒ってそう言う。
 義太夫が答えに詰まると楓は義太夫の後ろにある刀に目を留めた。
「これは・・立派なお刀でござりまするな」
 と手に取ろうとした所を、義太夫は素早く近づいて取り上げた。
「よい。よいから触るな」
「よろしいではありませぬか」
 と目をむく楓を見て、義太夫は己の過ちに気づいた。佐治新介は義太夫が思っているほど馬鹿でもお人好しでもなかったのだ。恐らく義太夫を怪しいと睨んでこの楓を送り込んできたに違いない。
(自ら家に間諜を招きいれてしまった)
 唇を噛んだが、もう遅い。しばらくは本当の医者になって薬の調合でもしていなければならないだろう。
「さ、楓。向こうの部屋に参ろう」
 義太夫の居間の床下には鉄砲まで隠してあるのだ。『女子には気をつけるように』と言った一益の顔が、目の前にちらちらする。
(殿は何もかもお見通しじゃ・・)
 便りが絶えれば、一益は義太夫がこんなことになっていることに気づくだろう。気づけばどうなるか、怒って追手を差し向けてくるか、あるいは全く無視するだろうか。
(いずれにせよ、今、じたばたとは動けまい)
 どこまでも医者に徹しようと心を決めるしかなかった。



 桑名には各地から様々な人間が集まっている。城下には得体の知れない屋敷などもあり、領主でさえもそれら全てを把握することなどはできないだろう。
 年の頃十五・六の少年が用心深く辺りを伺って、その屋敷の一つに入った。一間しかない屋敷の中には二十歳位の若者が草鞋を編んでいる。
「兄者、義太夫様が婚儀をなされたそうじゃ」
 少年がそう言うと、兄らしき人物は草鞋を編んでいた手を止めた。
「婚儀?まさか・・」
「いや、それが真なのじゃ。柿城の足軽衆に聞いたのじゃが、その相手というは、なんでも城主の母御に仕えておる者とか」
「信じられぬ。義太夫様は何を考えておいでじゃ」
「あの義太夫様というは、昔から女子には弱いお方ゆえ・・」
 少年が調子に乗って喋りだすと、兄の方は目をむいて怒った。
「助九郎!滅多なことは言うものではない」
「す、すまぬ兄者・・」
 助九郎と呼ばれた少年は兄に叱られて小さくなった。どうやらこの兄弟、滝川家に仕えていたことがあるらしい。そういえば、兄のほうは眼光鋭く、ただの侍には見えない。
「したが兄者。左近将監様はこのこと御存知であろうか?」
「御存知ではあるまい。尾張は尾張で今大変な騒ぎじゃからの。義太夫様がお困りなら、我等兄弟で義太夫様のお手伝いをしようと思うていたが・・これは尾張の左近将監様のもとに行ったほうがよいかもしれぬの」
 兄がそう言うと、助九郎も大きくうなずいた。



「それがよい。左近将監様は恐ろしいお人じゃが、今の義太夫様ではどうしようもない」
 と、立ち上がるとバリバリと床板を剥がしはじめた。やがて床下から黒々と光った種子島銃が二十挺ほど姿を見せた。
「これを手土産に尾張に参ろう」
「よし、ここからは尾張が近い。何でも左近将監様も、あの鯏浦から舟で国境を越え、尾張に入られたそうな。我等も舟で参ろう」
 兄の名は滝川助太郎、弟は滝川助九郎。二人が甲賀から慕ってきたのは滝川一益ではなく義太夫だったのだが、二人はさっさと義太夫に見きりをつけると、早くも旅の支度に取り掛かった。
 そして尾張では、この兄弟の言うように織田家存亡の危機が訪れようとしていた。


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柿の木と楓

2006年05月28日 01時17分02秒 | 滝川家の人々
北伊勢は桑名から離れること一里に柿城というのがある。この辺りは長島願証寺の領地ではなく北畠氏の領内で、柿城には北畠家家臣の佐治新介という城主がいる。この城主はいかにも戦国の武将らしく、いつまでも北畠家に仕えているつもりは毛頭ない。
(主家を滅ぼし伊勢を取ってやろう)
 という野望を持っている。
 佐治新介は当年二十歳。まだ若く、甚だ無愛想なので北畠家中の人々から敬遠されていて、その主家との仲の悪さは近隣諸国にまで知れ渡っている。
(御館が無能で人を見る目がないのだ)
 そんな新介だったが、この世でただ一人頭が上がらない人物がいた。新介の母の草野御前である。
 新介が先程から居間をうろうろと虎のように歩き回っているのはこの草野御前に関連している。草野御前は食べ物に当たったのか、先日から腹痛を訴えて苦しんでいる。そこで新介は佐治家の典医(主治医)を始めとし、北伊勢にいる多くの医者を呼び寄せて看せたが一向によくならない。困っていた所に、桑名の太夫左衛門という一風変わった医者が現れた。



『わしの母御が病気じゃ。治せるか?』
 と聞くと、その若い医者は
『それがしが治せぬのは恋の病だけでござる』
 と言って笑った。藁にもすがりたい思いの新介は、その怪しげな医者を強引にこの柿城に連れてきたのだ。
(あやつ、真に大丈夫だろうか)
 と心配になり、そわそわしていると障子に影が写った。
「太夫左衛門にござります」
 医者の太夫左衛門が静かに入ってきた。いかにももの静かに身をやつしているその医者は滝川義太夫である。
 義太夫は神妙な顔をして佐治新介の前に両手をついた。
「母上はどうじゃ?」
「はい。もう大丈夫でござります。明後日には良くおなりでしょう」
「な、何!明後日!そんなに早うに良くなるとか」
「はい。それがしはその辺りにいる医者とは訳が違いまする。どうぞ御安心を」
 新介は半信半疑で草野御前の部屋に入った。障子を開けると、草野御前は静かに寝息をたてて眠っていた。
(これは本当によくなるやもしれぬ)
 新介は安堵して部屋に戻った。
「如何でござりましょうや?」
「・・ん。ご苦労であった。褒美を取らそう」
「いえ、褒美は要りませぬ」
「何、褒美は要らぬと?ではほかに何か望みがあろう?」
 目を丸くする新介に、義太夫は真面目な顔をして言った。
「恐れながらそれがしは南江州より桑名に参ったよそ者にござります。それゆえ、かように腕がよくともなかなかお声がかかりませぬ。そこでお願いと申しまするは・・恐れながら、ご当家の典医の一人に加えて頂きたいのでござります」
「造作もないことじゃ。そちのような医者は我が家も欲しい」
「もう一つお願いがござります」
「もうひとつ?何じゃ、何が望みじゃ?」
「それがしを殿様から、この北伊勢の諸家へ紹介して頂きたいので」
「何?」



 新介はまじまじと義太夫を見た。その申し出が際どい申し出であることは義太夫にも分かっている。しかしここを逃せば機会がない。
「太夫左衛門、おこと、どこぞの素破ではあるまいの」
「滅相もない。それがしはただの医者でござります」
 義太夫が顔色一つ変えずに答えると、新介はなおも腕を組んで考えた。
(どう転がるか・・)
 新介が気づいて刀を抜くことも計算に入れている。煙玉を投げつけて逃げてしまえばいい。
 義太夫が息を呑んで新介を見つめていると、新介が顔を上げた。
「よし、そちは母御の恩人じゃ。その願いも叶えてつかわそう」
「有りがたき幸せ」
 義太夫はホッと胸をなで下ろし、もう一度恭しく頭を下げた。

 こうして太夫左衛門こと滝川義太夫は柿城の典医となり、北伊勢の諸家へも名医として出入りすることになった。
 義太夫は諸国を流浪していたころに医術を身に付けたのだが、佐治新介に豪語するほどの名医ではない。それがどうして誰にも治すことのできなかった草野御前の病を治すことができたか・・・。
 一益に桑名のことを言われてから、正直義太夫は困っていた。目と鼻の先の鯏浦で服部右京を出し抜いてきているのだ。当然、服部右京の監視も厳しい。そこで医者に身をやつし、願証寺ではなく北畠家に潜り込むことを考えた。桑名を取るには北伊勢衆と呼ばれる各城の城主たちを味方につけなければならない。では北伊勢衆に近づくにはどうしたらいいか?
 北伊勢衆の一人、柿城の佐治新介が変わり者で、かつ母想いだと聞き、一計を案じた。毎日柿城に忍び込んで草野御前の膳に少量の毒を入れた。食事の後、必ず腹痛を起こして苦しんだのはそのせいである。どんな医者にも治すことはできない。そこで義太夫が呼ばれた。義太夫は呼ばれた日から毒を盛るのをやめる。そして草野御前に会うと、薬と称して解毒薬を飲ませて体内の毒を解かす・・とただそれだけのことだった。



 義太夫は柿城下に屋敷をあてがわれた。桑名にいるよりも安全だった。と、そこまでは筋書き通りだったが、困ったことがおきた。人を雇うと正体が露見してしまう恐れがある。義太夫は広い屋敷の掃除、食事の支度、洗濯・・と全部一人でしなければならない。
それだけならば義太夫一人で困ればよいことだったが、それだけではすまなかった。
「太夫左衛門、何ゆえ家人を雇わぬ?」
 ある日、ぶらりと屋敷にやってきた佐治新介が、せっせと掃除をしている義太夫に問いかけた。
「は、いやいや身の回りのことくらいは一人でやりませぬと」
 答えに困ってそう言うと、新介は面白そうに聞いた。
「そちは独り者か」
「は、はい。それがし元来粗忽者にて・・」
「嘘を申すな。それほどの美丈夫、女子のほうが捨て置くまい」
 しつこく聞かれて、義太夫は困り果て、
「は、実は先年妻に死に別れまして・・」
 生真面目な顔で言ったから、なかなか真実味があった。新介は義太夫に同情したようだった。
「それは気の毒よのう。よし、わしが良い娘を紹介してやろう」
「えっ!そ、それは・・」
 悪い気はしないが実際困る。伊勢の娘などを迎えては動きが取れなくなってしまう。何より、主君の滝川一益に『女子には気をつけよ』と言われて『この義太夫に弱点などありませぬ』などと豪語して来ているのだ。
「し、しかし殿。それがしのような身にかような・・」
「よいよい、遠慮するな。家中に丁度そちにあう良い娘がおるのだ」
 『家中に』と聞いて、義太夫はますます困惑した。町家の者ならまだしも、武家の娘ならば、義太夫の不審な行動に気づいてしまうかもしれない。
「太夫左衛門、母上に仕えていた楓を憶えておるか?」
「え?楓どの?」
 楓とは草野御前の傍近く仕える侍女で、城一番のたおやめと称されている。憶えているも何も無い。草野御前の元に呼ばれていった時、義太夫は治療の間、患者の草野御前などはそっちのけで、城一番の美女の方ばかりを見ていたのだ。
「その楓がこなたにえらく惚れ込み、寝ても覚めても太夫左衛門様、太夫左衛門様と言いおる。母上も楓を不憫に思うておられての。太夫左衛門の元へ嫁がせてやりたいと仰せられておるのじゃ」
「あの楓どのがそれがしの元へ・・」
 義太夫の心はぐらりと動いてしまった。
「良いようじゃの。ではその旨母上にお伝えしよう」
 佐治新介は笑ってそう言うと、さっさときびすを返して門に向かって歩いていってしまった。
(しまった!)
 新介の後ろ姿を見ながら、義太夫は青くなった。
(拙いことになった。今から追いかけていって断ろう・・)
 と立ち上がりかけたが、思い直してその場に座った。妻を娶れば毎日の掃除や食事の支度から開放されるのだ。
(それに・・・)
 楓ほどの娘が手に入るなど、又とない幸運ではないか。そう思うと義太夫の頭からは先程の杞憂が消えていく。
(なぁに、大丈夫。小娘ずれにわしの正体が分かってたまるものか)


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尾張統一2

2006年05月27日 02時06分39秒 | 滝川家の人々
 織田武蔵守信行は信長のいる清洲城から二・三里ほど離れた末森城にいる。その信行のもとに信長が病で倒れた・・という知らせが来たのは九月だった。
やがて十月に入って危篤の知らせが届いた。
「武蔵守さま、好機でござります。見舞いと称して清洲に参られては?」
 家臣たちがそう進言した。
「というと、兄上を討てというのじゃな?兄上は危篤というではないか。ことを起こさずとも待っておれば・・・」
 信行は元々争いを好まない性格だった。先年の合戦も家臣たちに躍らされて旗揚げしただけのことだ。
「甘うござります!信長は鬼神のようなご仁。持ち直したらなんとなされます。今、清洲に赴いて信長を討てば、一兵も失うことなく清洲をお手に入れられましょう。あの乱暴者の信長がこの国を治めているのは国のためにも民のためにも害となりましょう。したが、今、信長をお討ちなされば尾張一国は武蔵守さまのもの。信長を討つことは皆のためでござります。ご決断くだされ!」
「尾張一国が我がものか・・」
 信行の心がグラリと動いた。
「よし!この国のため、民百姓のために兄上を討とう!」
 こうして信行が再び家臣の口車に乗って信長を討つことを決めたのは十月下旬。病気見舞いと称して信長のいる清洲城に行ったのは十一月二日だった。しかし、それきり信行は末森城に戻らなかった。



 尾張統一は信長の父、信秀の頃からの悲願だった。その悲願は皮肉にも弟を討つことで達成された。
 信長は濃御前や近侍の丹羽万千代、前田犬千代とともに酒宴を開いている。
「今宵の酒はうまいのう、万千代」
「はい。目出度き夜でござりますゆえ」
「こう早く一国が手に入るとは思わなんだわ」
「末森と戦をせずに陥れたのがようございました」
 濃御前が信長の盃を満たしながら言う。途端に信長は不機嫌な顔になった。信行との戦を止めたのは一益だった。一益は勝家を通して『戦よりも良い方法がある』と進言してきたのだ。
『信行を助けよと申すか?』
 信長が眉をひそめると、一益は首を横に振った。
『いいえ、生かしておいては後顧の憂いとなります。が、戦になれば悪戯に兵を失うことに相なりましょう。それを防ぐためにまず、上様にご病気になって頂くのです』
『何、わしが病気?』
『はい。信行様に二心があれば、必ず食いついて参りましょう。見舞いと称して上様を討ちに来る筈でござります。そこを・・』
 と言った時の、一益の陰険な目と歪んだ口元を忘れることはできない。策を持って信行を欺けと言っているのだ。



信長はその時
(弟を討つのに騙し討ちせよとは、なんたる汚い奴・・)
と思ったが、全ては一益の言う通りだった。信長は不機嫌な顔をして一益を下がらせ、一人で考えた。そして(背に腹は代えられぬ)と苦渋の決断をした。これを一益の手柄とは思えない。
「今度は一益どののお手柄でござりましょう。上様からも何かお言葉をかけてやっては如何なものかと・・」
 濃御前が言葉を添えると、信長は冷ややかに笑った。
「フン。あやつには桑名をくれてやる約束をしておる。いらぬ心配をするな」
 濃御前も丹羽万千代も前田犬千代も驚いて顔を見合わせた。
「桑名とは・・・伊勢の桑名のことで?」
「おかしなことを言うぞ。犬千代、尾張に桑名などという地名があるか?」
「し、しかし、あそこは北畠領の・・・」
「桑名ひとつ取れぬようでは、これから先の戦の役にはたたぬわ」
 信長は軽く笑い飛ばした。皆、再び顔を見合わせる。桑名は敵領の真ん中にある。手に入れること事体が不可能に近く、もし手に入れたとしてもそれを守り通すことは手に入れること以上に難しい。
 わずかな兵しかもたない一益にそれが可能であるとは思えない。
 自然、三人に同じ思いがよぎった。それは
(一益どのはこれでしまいではないか・・・)
 ということだった。



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尾張統一1

2006年05月26日 09時37分02秒 | 滝川家の人々
 織田信長は清洲城主だが、まだ尾張を統一していない。国内には信長の弟、末森城主の信行を始めとする反信長勢力が残っている。
(遅かれ早かれ、末森とは戦さになろう)
 と一益は読み、木全彦一郎を度々偵察に行かせている。
(上様のためにもご舎弟には死んでもらわねばならぬ。織田家がひとつになるためには、ご舎弟を生かしておくわけにはいくまい・・)
 信行はともかく、信行の家臣たちは信長と戦さをして清洲城を手に入れようと画策しているのだ。信行が信長に次ぐ織田信秀の後継者である限り、戦さは避けられない。
 信長もそのことに気付いているはずだろう。
 だが、実行に移せない。家臣たちの心が離れていくことを恐れているのだろうか・・。



 何とかうまく信行を始末する方法はないだろうか・・と思案しているところに、木全彦一郎から、信行が遠乗りにでかけるとの情報がもたらされた。
 一益は義太夫と彦一郎を伴って、末森城付近へと向かった。
 しばらく待つと、彦一郎の言葉通り、末森城の方角から十数騎、こちらへと向かってくるのが見えた。
(あれが噂の勘十郎信行か・・)
 遠目ではっきりとは見えないが、家臣たちに踊らされて兄に反旗をひるがえすような馬鹿者にも見えない。
 傍らにいた義太夫と彦一郎が、互いに目配せして鉄砲の火縄に火をつけようとする。
「待て、義太夫!」
 一益は慌ててそれを制止した。
「は・・しかし、またとない好機では・・」
「上様の弟じゃ。大義名分なくして討つことはできぬ」
 この辺りでまともに鉄砲を扱える者は少ない。ましてこの距離から正確に命中させられるものとなると、尾張では五人といないだろう。
 今ここで信行を撃てば、真っ先に一益が疑われてしまう。
「今は勘十郎の顔を覚えるだけでよいのじゃ」
 義太夫は渋々頷いた。
 何も知らない信行が、家来たちとともに馬を走らせている。命を狙われていることなど、知る由もないのだろうか。
(やはり我らが手を下すわけには参らぬ・・)
 織田家での去就を考えても、主の弟殺しの汚名をきることはできない。・・となると、
(上様自らに手を下して頂くほかはない)
 一益はそう決めると、義太夫と彦一郎を促して、そっとその場を後にした。



 夏も盛りになった七月上旬、一益は柴田勝家の屋敷に招かれた。
一益を信長に引き合わせた柴田権六勝家も元々は信行の家老だった。信長に戦で負けてから信長に心服し、家臣となっている
「おお、左近どの。よう参られた。堅苦しい挨拶はぬきじゃ。ささ、こちらへ・・」
 一益は勧められた席に座った。
「さ、左近どの。一献・・・」
 と大きな盃を差し出した。
勝家がわざわざ呼出したのには何か内々に話があるのだろう。
 一益はチラリと勝家の顔を見た。眉が太く、目が大きくて髭が濃い。見れば見るほどいかつい顔をしている。一益や義太夫などと比べれば、武将らしい顔といえる。その場にいるだけで戦場での士気も上がるだろう。
 などと観察していると、勝家はギロリと一益を見た。
「左近どの」
 どすの利いた声だった。こんなふうに凄まれれば、たいていの者は身を縮ませてしまうだろう。しかし、一益は
「なんでござろう」
 無表情に答えた。
「高安とか申す叔父御を斬って甲賀を出奔してきたというのは誠でござるか?」
「誠でござる」
「何故そのような短慮なことを?」
「・・・・」
 一益はあからさまに嫌悪の情を表し、勝家を睨んだ。



勝家が笑った。
「ハハハハ、お気にさわられたら許されよ。左近どの、上様の弟君を御存知か?」
「弟君と申されると・・」
 きたか・・と思ったが、そしらぬ顔で、尋ねてみた。
「信行さまじゃ。信行さまは先年の戦で上様に敗れてから大人しくしておられたが、またぞろ動き出された。我ら家臣どもも、信行さまの言動にはほとほと困っておるのじゃ」
 一益は呆れ顔で笑った。
「上様が未だもって信行さまを生かしておられることが解せませぬ。上様に肉親の情があるとは思えぬが」
 その言い方があまりに人を小馬鹿にしていたので勝家は眉間に皺を寄せた。
「左近どの!その言い方は無礼であろう!」
 一益は一向に気にしない。
「それでは尾張はいつまでも上様のものにはなりますまい」
「そのことじゃ。それゆえ上様は『今度は許せぬ。信行を討とう』と仰せになられた。直に信行さまも兵を挙げられよう」
「戦さをしてはなりませぬ
 一益がピシリと言った。勝家は驚いて一益の顔を見る。
「な、なんと言われる?信行さまと戦をしてはならぬと申されるか」
「いかにも。今、家中で争えば尾張は二つに割れ、隣国の付け入る隙となりましょう。そのことは上様も重々承知しておられる筈」
「では信行さまを放っておけと?」
「いや、幸いにもご舎弟を固める家臣どもは愚か者ぞろい・・。されば、この一益に秘策がござれば、上様へお目通り願いたい・・」
 一益は陰気に光る目を一層光らせた。


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夕顔2

2006年05月25日 08時52分56秒 | 滝川家の人々


 夕顔が目覚めたのは、一益の姿が消えて、半刻ほどしてから。
「夕顔どの・・お目覚めか・・」
 ずっと側で見張っていた義太夫が声をかけた。
 夕顔が驚いて義太夫を見、辺りを見回した。
「義太夫どの・・?」
「お久しゅうござる」
 義太夫は必死に笑顔を作って答える。夕顔が怪訝な顔をしている。
「いや・・実は、盗賊どもが甲賀からさらってきた夕顔どのをつれているのをわしが見つけて、お助けしたのでござる」
「では・・ここは・・」
「尾張の清洲城下でござる」
 夕顔はまだ事態が飲み込めていないようだ。小首を傾げて義太夫を見ている。
「では・・・甲賀へお連れくださるのか?」
「甲賀?・・いや・・いや・・それはできませぬ」
 夕顔の言うことは当然である。甲賀には幼い我が子がいるのだ。
(ここはわしが芝居を打つしかない・・)
 嫌な役目だと思いつつも、先ほどから考え抜いた義太夫なりのくどき文句を並べることにした。
「実は・・かねてより、それがし、夕顔どのに惚れており申した・・」
 夕顔がエッと驚いて義太夫を見る。



「この尾張で偶然再会したのも何かの縁・・。盗賊どもから夕顔どのを救い出すことができたのも、神仏のご加護があったればこそ。これは、天が我に夕顔どのと夫婦になれと言うておるに違いない・・と、殿に申し上げましたが、殿から厳しくたしなめられ申した・・」
 夕顔は、口をはさむこともできずに、ただ唖然と義太夫の話を聞いている。
 驚きで大きく見開いている夕顔の瞳を、義太夫は悲しげに見つめた。
「されば、夕顔どのを再び手放すほどなれば、夕顔どのを斬って、それがしも死ぬる覚悟がござる・・と殿に申し上げました」
 義太夫は肩を震わせ目を瞑ってうつむいた。あまり夕顔の顔を見ていると、目が泳いでしまいそうだ。
「心優しい殿は、『ならば、信長公のお子には、乳母がない・・。夕顔を信長公のお子の乳母とし、お子が乳離れした後であるなら、義太夫との祝言を認めてやろう・・』と仰せになりました」
 言いながら、少し話しに無理があるな・・と気付いた。仕方がないので、男泣きに泣くことにした。この後の展開はまだ深く考えていない。
 俯いて泣き出してしまったので夕顔の反応が見えない。
(これは・・強引に押し倒したほうが早かったかな・・したが、殿や木全がそろそろ帰ってくるかもしれぬし・・)
 と泣きながら考えていると・・・
「義太夫どの、お顔をお挙げくだされ・・」
 と、夕顔の優しい声がした。
 義太夫は顔を上げて、泣きはらした目で夕顔を見た。
「しばし・・しばし考えさせてくださりませぬか・・」
 恐る恐るそう言う。
 義太夫は(しめた!)と思い、
「無論、かような唐突な申し出に、早急に答えを出せとは申しませぬ。心ゆくまでこの屋敷に留まり、お考えくだされ」
 と言った。
 考える時間を与えるつもりは毛頭ない。夕顔がこの屋敷に留まってさえいれば、あとは問答無用で生駒屋敷に送り込み、乳母にしてしまえばいい。
「殿もじきにお戻りになりましょう。ごゆるりとなされよ」
 義太夫はホッと一安心して、そう言った。



 二日後、生駒の方が産気づいたという知らせを受けて、一益は生駒邸に夕顔を送り込んだ。
 織田家に待望の男児が誕生したのは翌朝のことだった。
 一益は、義太夫と木全彦一郎とともに祝杯をあげた。
「どうじゃ、義太夫。お世継ぎであったじゃろうが」
 いつになく饒舌で、明るく笑う一益に、義太夫も笑顔を見せ、
「は・・。真に殿は強運の持ち主にて・・」
「乳母ともなれば上様のお側近く仕えるも同じ。これで上様のお手がつけば、さらに万万歳じゃ!」
 脇息を叩いて笑う一益に、義太夫は危うく手に持った杯を落としそうになった。
「と、殿・・。お世継ぎが乳離れした暁には・・夕顔どのをそれがしに・・」
「義太夫。こなた、まさかあのような戯言を真に受けていたのではあるまいな」
 一益は、興が冷める・・という目で義太夫を一瞥した。
「い、いえ・・まさか・・まさか、そのようなことがある筈がありませぬ。いやぁ、真、夕顔どのほどの器量良しなれば、上様のお手がつくのも時間の問題でござりまする」
「そうであろう、そうであろう!」
 一益は再び声をあげて笑った。



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夕顔1

2006年05月24日 12時22分44秒 | 滝川家の人々


義太夫が桑名行きの下準備に入ったころ、一益は、しきりに故郷甲賀の情勢を調べだしていた。
(殿に里心がついたのじゃろうか・・)
 などと思っていると、やがて一益は木全彦一郎を甲賀に送り込んだ。
 一益は上機嫌で扇子をパチリパチリと開いたり閉じたりしている。
「殿・・甲賀でお気にとめられるようなことがございましたか」
 義太夫が小首を傾げて尋ねると、一益は楽しそうに笑った。
「吉報じゃ、義太夫」
「は・・」
「夕顔を覚えておるか?」
「夕顔どのとは・・確か殿の妹御の・・」
 夕顔とは一益の妹で、家臣の一人に嫁いだ姫だ。
 その儚げな姿が源氏物語にでてくる夕顔を彷彿とさせるので、誰からともなく夕顔と呼ばれるようになっていた。
「夕顔どのは甲賀の滝城におられるはずでござりますが・・」
「夕顔が子を産んだのだ」
 一益が嬉しそうにそう言った。常ならば、妹の出産に喜ぶような一益ではないのだが・・・。
「そ、それは目出度うござります・・」
「であろう」
 一益は嬉しさを隠し切れない様子だ。
「明日あたり、夕顔がここへ参るゆえ、介添え頼むぞ」
「は?夕顔どのが?・・ここへ?お子は・・」
 合点が行かず、目を丸くする義太夫をよそに、一益は、しきりに扇子を叩いて笑っていた。



翌日、木全彦一郎が大きな麻袋をかついで現れた。
「首尾ようやってくれたようじゃな」
 満面笑顔の一益の前に、彦一郎は丁寧に麻袋を置いた。
(ま・・まさか・・・)
 一益に促されて麻袋を開けてみると、中にはやはり、荒縄で縛られた夕顔が押し込まれている。どうやら薬で眠らされているようだ。
「殿・・・これは・・」
 義太夫が色を失って尋ねると、
「大事なお体ゆえ、縄をほどいて隣の間に寝かせてやれ」
 と楽しそうに言う。
(大事なお体・・)
 どう見ても、無理矢理さらって来たように見えるのだが・・。
 確かに怪我はしていないようだ。
 義太夫は夕顔を起さぬように、麻袋を切り、そっと夕顔を抱き起こした。色白なその顔が青ざめて見えた。
(儚げな姫よ・・)
 子をなしてからも、線の細さは変わっていない。
「殿は夕顔どのを如何なされるご所存で?」
「一両日中に、生駒どのに子が生まれるのじゃ」
 生駒どのとは、信長の側室の中でも一番身分の高い女性である。



「それは存じておりまするが・・もしや・・殿は・・」 
 恐る恐る尋ねると、一益は笑顔で頷いた。
「夕顔を上様のお子の乳母とするのじゃ。さすればわしはお世継ぎの乳母の兄となる」
「殿・・未だ生まれておらぬ子をお世継ぎとは・・。万一、生まれた子が女子だったらなんと致しまする?」
「既に上様には乳母の件はお任せくだされと言うておる。乳母にするしかあるまい」
 生まる子が男の子ならば、一益の言うとおり、夕顔を乳母とすることで、滝川家は更に信長に近づくことになるのだが・・。
「夕顔どのが承知されましょうか・・」
 誘拐同然で他国にさらってこられた夕顔が、二つ返事で承諾するとは思えない。
「そのためにそちがおるのだ」
「は・・それがしが・・」
「夕顔は幼きころより義太夫を慕っておった。お世継ぎが乳離れした暁には、夕顔は義太夫にくれてやる。それで納得させよ」
「ゆ、夕顔どのをそれがしに!」
 途端に義太夫の声が明るくなった。
「よいな」
「は・・・いや、しかし・・」
「わしは上様に拝謁してくるゆえ、あとは頼むぞ」
 エッ?と困惑する義太夫をよそに、一益はさっと立ち上がると、木全彦一郎を伴って清洲城へ行ってしまった。


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津島踊り3

2006年05月23日 12時11分41秒 | 滝川家の人々


 一益が思案していると早くも船は桑名についた。信長は船を下りた。そのあとに一益が付き従う。
「噂どおりの大きな町じゃな」
「はい。ここを押さえれば、資金集めも容易となりましょう」
「銭があれば鉄砲を増やせる」
 もう夜明けが近く、桑名の町にそびえる矢田城がぼんやりと霞んで見えた。
「あれが矢田城か。一益、あれを取れ!」
「は?」
 さすがの一益も驚いて信長を見た。信長の顔は真剣である。戯れているわけではなさそうだ。
「長島を取るには時間がかかろう。手始めに桑名をとるのじゃ」
 一益は返す言葉がなかった。矢田城だとて取るには時間がかかる。矢田城は無人の城ではない。ちゃんと願証寺の息のかかった城主がいる。それを、まるで木の実でも取るように『あれを取れ』とは・・。
「わかったな。あの城を取れ。さすれば桑名はくれてやる」
「ハッ・・・」
 とかろうじて返事はしたものの、心中穏やかな筈がなかった。この敵領の真ん中にある桑名をどうやって取れというのか。
「その間、わしは尾張の統一を果たして美濃を攻める。蝮から譲り状も受けておる」
信長からの援軍なくして伊勢を攻略することは不可能だろう。が、その信長は美濃攻めをするという・・。
「上様のお志はいずこにあるのでござりましょうか?」
 一益は当惑して尋ねた。
「我が志は天下に有り」
 一益は驚いて信長を見た。息詰まるような威圧感、何かにとり憑かれたような目、漂う不可思議な空気・・。その気迫に押されて返事を返すことができなくなっていた。
(このお方は・・なんというお方であろうか・・いや・・あるいは、この方ならば・・)
 信長ならば百年続いたこの戦国を終わらせることができるかもしれない。
「それゆえ、一益。桑名をとるのじゃ!」
「ははっ!」
 


 信長の行動はいつも突飛で、周囲には予想がつかない。この日、信長が一益と伊勢に行ったことを知っていたのは、側近の中でもごく限られた者だけだったろう。一益も船を出して暫くするまで桑名に行くことすら知らなかったし、ましてその臣下の義太夫が知るはずもない。
 祭りが終わってからも、彦一郎の姿は見つからなかった。義太夫は小首を傾げて屋敷に戻った。
 翌朝、義太夫が目を覚ますと、一益はもう朝食を済ませていた。木全彦一郎も何もなかったかのように傍に控えている。
「義太夫、遅いのう」
「殿!この義太夫に何も仰せにならず・・昨夜はいずこへ・・」
「わしは上様とともに桑名に行った」
「桑名に?」
 義太夫は目を丸くした。敵領である桑名に、わざわざたった二人で出向くとは・・。
「そうじゃ。そこで上様はわしに『一益に桑名をとらす。桑名をとれ』と、かように仰せられた」
「桑名をとらすと仰せに・・。恐れながら桑名は北畠領では・・」
 義太夫が困惑した表情で尋ねる。信長らしい無理難題だと思ったのだ。
・・が一益は真顔で、
「取らねばならぬ」
「上様からの援軍は・・」
「上様からの援軍がきては我等の手柄にはならぬ。我等の力だけで取るのじゃ」
 無理だと思った。100人にも満たない兵力で、どうして伊勢の要所を取ることができるだろうか・・。



「我等の力だけで・・桑名が取れましょうか?」
「そのことよ。それゆえ、こなた桑名に潜んでくれるか?」
「それは・・殿の仰せとあらばどこへでも参りますが」
 一益はどうやって桑名を攻略しようというのか。
「北伊勢で起きたことはどんな些細なことでも知らせよ」
「かしこまってござりまする」
 義太夫が神妙な顔で返事をすると一益は妙な顔をして笑った。
「義太夫、くれぐれも女子には気を付けてのう」
「は・・はい。そのような・・殿もお人が悪い・・」
「誰しも弱点はあるものじゃ」
「殿、この義太夫には弱点などござりませぬ。見ていてくだされ」
「よし!頼むぞ義太夫」
 信長は並み居る織田家譜代の臣ではなく一益を北伊勢攻略に・・と考えている。一益が期待に答えることができれば、ここで一気に織田家の重臣たちに並ぶこともできるだろう。
(したが我等だけで桑名を取ることなど可能であろうか・・・)
 信長に捨石にされるのではないか・・という不安が頭をよぎる。
 しかし一益は、そんなことは百も承知で、滝川家単独で桑名を手に入れようとしている。
(我等の力で桑名を取れば・・織田家中はもとより、諸国に我等の武勇が響き渡る・・いよいよ我等の力を示すときなのか)
 不安は尽きないが、偉大な主君の一益が行動を起こすことに、義太夫は大きな喜びを感じていた。

津島踊り2

2006年05月22日 12時05分40秒 | 滝川家の人々


 一益は
(余程の悪行を重ねなければここでの出世は望めまい)
 そう思って鯏浦を飛び出してきた。しかし
(手段を選んでいては出世はできぬ)
 織田家にきてからそう考えるようになっていた。
 障子に黒い陰が写った・・と同時に静かに障子が開いて木全彦一郎が入ってきた。
――お呼びで?――
 と書いた白い紙を出した。
――おこと、鉄砲が使えるなーー
 一益があらかじめ書いておいた紙を出すと彦一郎は大きく首を横に振った。一益は苦笑した。
――嘘を申すな。分からぬと思うていたかーー
 一益がその鋭い目でじっと見据えると、彦一郎は観念したように頷いた。
――またおことの力を借りたいーー
 スラスラと書いた字を見て彦一郎は頷いた。一益は更に先ほどから考えていたことを書き綴る。世にも静かな密談だった。

 七月十八日は晴天だった。
 領主の織田信長が祭りを挙行するというので、尾張はもとより、美濃、伊勢、三河からも多くの人が津島に集まってきていた。当然、伊勢鯏浦の服部右京の密偵も紛れ込んでいたのだが・・。
 信長主従の踊りが終わった後、津島の人々がお返しの踊りを踊った。餓鬼に扮していた義太夫と彦一郎は木の陰で休んでいた。
 一番目立つように餓鬼に扮しよう、と言い出した当の一益は祭りが始まるとどこへともなくいなくなってしまった。二人は目立ちすぎるため、辺りをうろうろとする訳にもいかない。村の者たちは珍しがって寄ってくるし、反対に女子供は恐れて逃げていってしまう。
(えらい役目を仰せつかったものよ)
 義太夫はふと、隣に座って汗を拭っている彦一郎を見た。確かに恐ろしい姿である。見れば見るほどゾッとしてしまう。
「やれやれ、我等が殿はいずこへ参られたのか・・」
 視線を感じて顔を上げると、村人がこちらを指差して騒いでいる。
「ここは目立つ。彦一郎、も少し目立たぬところへ・・・おや?」
 気づくと先ほどまで隣にいたはずの彦一郎の姿がない。辺りを見回したが、目立ちすぎるその姿がどこにもなかった。
「殿といい彦一郎といい、何が起きているのじゃ!」
 義太夫が叫ぶと、義太夫を珍しげに見あげていた子供が驚いて泣き出した。



 津島が祭りで賑わっているころ、津島の横を流れる川を静かに下っていく船が一隻あった。船を漕いでいるのは滝川一益。船の真ん中にどかっとあぐらをかいているのは津島で天人に扮して祭りに出ている筈の織田信長だった。
「一益、船を漕ぐのがうまいのう」
「おそれいってござります」
 一益はここ数ヶ月、彦一郎から船の扱いを習っていた。
「長島は船がなければ攻められぬか」
「はい。長島は川に囲まれた天然の要塞にて・・。上様はこれより長島へ参られるので?」
 一益は信長に『船を漕げ!』と言われただけでどこへいくのか聞かされていない。
「ハハハハ、それも面白いが長島ではない」
「では小木江でござりますか?」
 織田領の小木江城は四月に願証寺の服部右京に奪い取られている。
「違う」
「では蟹江で?」
 蟹江も服部右京に奪われていた。
「違う」
「では・・・」
 やはり桑名か・・と思った。



「分かったか、一益」
「桑名・・でござりましょうか」
「桑名じゃ」
「上様、供も連れずに桑名とは・・服部右京に首を差し出すお覚悟でござりましょうや?」
 桑名は敵領である。しかも、蟹江、小木江の向こうで遠い。
 心配する?一益に、信長は舌打ちした。
「一益、供など連れて行ったら『ここに信長がおります』とあの服部右京に教えてやるようなものではないか」
「は、確かに・・」
「それに供ならそちがおる。そちはわし一人すら守れぬか」
「いいえ、この身に代えてもお守り致しまする」
「嘘を申すな。万一服部右京が手の者に見つかり信長が討ちとられたら、さっさと逃げ出すつもりであろうが」
 信長は声を上げて笑った。
 無論、供は一人ではない。木全彦一郎が気配を隠して着いてきている筈だ。
「一益、こなた尾張にくる前は伊勢にいたと申したな。伊勢をどう思った?」
「伊勢・・伊勢は豊かで良い地でござりまする。それがし、桑名がたいへん気に入り、ぜひとも我が手にしようと心に決めておりまする」
 一益は正直に胸の内を信長に明かした。気の小さい主君ならここで(とんでもない野望をもつやつ)と警戒しただろう。しかし信長は一益の答えに満足したように大きく頷いた。
「小気味のよい奴よ。一益、この信長が伊勢をとった暁には、桑名はそちにくれてやろう」
「く、桑名をそれがしに?!」
 一益はあまりのことに船を漕ぐ手を止めた。
「確かにここで約束する。それゆえ・・しっかり漕げ」
「ハッ!ありがたき幸せ」
 一益はこの信長の振る舞いに感動した。桑名は豊かな地である。たとえ一益の力で手に入れたとしても、信長は自分の直轄領にするつもりだろうと考えていた。
(しかし・・・話がうますぎるな・・)
 少し不安になった。何か裏があるのではないか。

津島踊り1

2006年05月21日 12時00分10秒 | 滝川家の人々


年が明けて弘治二年(1556年)4月、美濃の蝮と言われた斉藤山城守道三が息子の義竜と戦って死んだ。その時、娘婿の信長に美濃の譲り状を残したと言われている。
 信長は後ろ盾を失って、いよいよ苦しい立場に立たされた。皆、この非凡な武将が何か始めると見ている。そんな中、滝川一益は信長に呼ばれた。
「お呼びで?」
「ん、一益か」
 二十三歳の青年武将は、足音も立てずに現れた素破の頭目をちらりと見て言った。
「津島を存じておるな?」
「はい。清洲とならぶ町と聞き及び、伊勢から尾張に参りましたる折りに最初に立ち寄りました」
「ならば話が早い。一益、わしは津島で祭りをやるぞ」
 信長は一益を見据えていった。この奇妙な言動に一益がどう反応するか、よく観察しようというのだ。
 一益はあまり驚かなかった。信長のやることはすべて人の意表をついていることだとよく分かっている。
「それは村の者もさぞ喜ぶことでござりましょう」
「そのことよ。戦続きで皆疲れておるゆえの。しかし、ただの祭りでは面白うない。わしは家来衆に変装させようと思うた」
「かしこまりました。それがしの家臣からも数名出すといたしましょう」
「ん、七月十八日に挙行するゆえな」
 一益は平伏して信長の前を引き下がった。



 滝川主従は信長に仕えるようになってから城下に屋敷をあてがわれた。その屋敷も川の傍らだった。やはり縁があるのだ・・と一益や義太夫が喜んだのは言うまでもない。
 そこに戻る道すがら一益はあれこれと考えた。一益が信長に仕えるようになってからすでに一年余りたっている。その間、個別に呼び出しを受けたことは一度もなかった。少し不安に思っている所に今日の呼び出しであった。それが、この村祭りの要請・・。
(上様のお志はいずこにあるのか・・)
 この時期、領主自らが呑気に村祭りをやること事態が尋常ではない。何か裏があるのだろうが・・。
 そんなことを考えて屋敷に入った。プンと飯を炊く香りがした。
 炊事は甲賀から呼んだ義太夫の妻桔梗と木全彦一郎がやっている。
「おお、殿。おかえりで」
 義太夫が魚を焼いている。義太夫は一益が信長に仕えたころから一益を『殿』と呼んでいる。
「殿、今日は虹鱒でござります」
 煙にむせながらそう言った。
「ほう。義太夫も釣りがうまくなったようじゃ」
 一益は感心して居間に入った。床の間に富士の掛け軸が飾ってある。これも木全彦一郎が書いたものである。甲賀で生まれ、甲賀で育った一益は富士を見たことがない。サラリと富士の絵を描く木全彦一郎が不思議である。



「殿」
 顔を煤だらけにした義太夫が入ってきた。
「面白い顔じゃのう、義太夫。ここに膳を三つ並べよ」
「ははっ」
 義太夫が嬉しそうに笑って台所に戻っていった。一益が信長に呼ばれた時から義太夫は嬉しそうにしている。一益はそんなに陽気にしていられない。祭りをやる七月十八日まであと四日しかない。
(津島か・・)
 やがて居間に膳が並べられた。
 一益はそれには気づかない。まだ何か考えている。
(津島からは伊勢が近い・・)
 伊勢から来た木全彦一郎を見た。じっと俯いている。その、もの言いたげな表情に一益はハッと気づいた。一益がいつまでも箸を取らないので、義太夫も彦一郎も食べられずにいたのだ。
「ハハハハ、すまなかった。二人とも箸を取れ」
「ハッ」
 義太夫がホッとして箸を取った。それを見て彦一郎も箸を取った。
「殿、上様は何と?」
「津島で祭りをやると仰せられた。しかも家来衆に仮装させて・・」
「津島で?」
「おぬしらにも祭りに出てもらう。二人とも踊りの稽古をしておけ」
 信長はいいかげんな踊りを踊る者を斬るという評判がある。それを知らない義太夫は笑って頷いた。

うつけという名の鯛4

2006年05月20日 11時52分52秒 | 滝川家の人々


 昼過ぎになってから、権六からの使いが来た。
「上様がお目通りくださるゆえ、早急に参られるようにと・・」
「左近将監さま!」
「よし、参ろう」
 一益は義太夫と木全彦一郎を連れて清洲城に赴いた。
 清洲城は平城で、五条川沿いに建てられている。
「川があるというのが縁起がよいのう」
 一益は真顔でそう言った。一益が縁起を担ぐのは珍しい。義太夫はクスリと笑って頷いた。
 城門を潜った頃から義太夫は緊張し始めた。豪胆な振りをしているが、実は義太夫はとても気が小さい。手足がカタカタと震えて歩くのに難渋するほどである。それは、チラチラと城内を観察して歩いている一益には分からず、気づいたのは鯏浦の小者、木全彦一郎だけだった。
 主従が歩いていると柴田権六が急ぎ足で近づいてきた。
「滝川どの。まずはこちらへ参られよ」
 と案内されたのは土蔵であった。非常識も甚だしい。さすがに義太夫は苦笑したが、一益は顔色一つ変えなかった。信長が一筋縄ではいかないのは噂に聞いている。
 権六が蔵番に蔵を開けさせた。
「こ、これは・・」
 中を見て、二人は言葉を失った。鉄砲がずらりと並べられていたのである。それも百や二百ではきかない。五百挺はあると一益は計算した。これだけそろえるのには長い年月と金がかかったことだろう。



「どれでも好きな物を選んで来るようにとの仰せでござる」
 それで分かった。信長は一益の鉄砲の腕をみようというのだ。一益は心得て一番手前の火縄銃を手に取った。
「次はこちらでござる」
 と案内されたのは案の定、馬場であった。
(あれが・・)
 一益の目はいち早く、そこに立っている若い武将を捕らえた。色白で細面、切れ長の目、神経質そうな眉間・・どれを取っても一益の想像とは違った。
「一益か?」
 信長が一益の顔をじっと見据えた。
「ハッ。初めて御意を得まする。それがし南近江は甲賀の滝川左近将監一益と申し・・」
 一益が傍らに鉄砲を置いて挨拶しようとすると信長は手を振ってそれを制した。
「挨拶などはどうでもよい。それよりも一益、あれを見よ」
 と遠くの的を指差した。あれを撃てというのだろう。しかし、さほど遠くはない。
(容易いものだ)
 一益は安心した。
「撃ってみよ」
「ハッ」
 一益は片膝ついて狙いを定めた。信長は面白そうに見ている。
 辺りに銃声が響いた。一益は鉄砲を降ろして汗を拭った。
「命中でござる!」
 的の傍で近侍が叫ぶ。おおっとどよめきの声が起きた。信長は鼻先でフフンと笑った。
「こんなのは当たり前じゃ。一益、次はこっちじゃ」
 信長はさっさと馬場を出ていった。一益は慌てて後に付き従う。



 本丸を出て、北の丸に入った所で信長は初めて立ち止まった。
「ここらでよかろう。万千代」
 傍らの近侍、丹羽万千代を呼んだ。
「これを持って向こうに立て」
 自分の扇子を渡した。
(今度はあれを撃てと言うのか・・)
「上様、この辺りでよろしゅうござりまするか?」
 三十メートル程離れて万千代が言った。
「いや、まだじゃ」
 四十メートル程離れて、万千代はまた振り向いた。
「この辺りで?」
「まだじゃ!」
 と更に遠くにやる。どんどん小さくなる万千代を見て、一益はどっと汗が出てきた。
 丹羽万千代は信長の近侍である。もし撃ち損なって大怪我でもさせたらただではすまない。
「上様、これでは・・」
 たまりかねて柴田権六が信長に声をかけた時は、丹羽万千代は五十メートルほど離れていた。
「なんじゃ、権六。そちが一益は鉄砲の名手じゃと言ったのじゃぞ」
「ハッ・・しかし・・」
「まだまだじゃ、のう一益」
「ハッ」
 一益はこわばった顔で返事をした。ここでできないと言えば、信長は一笑して一益を退けるに違いない。傍らで見守っている義太夫は真っ青だった。いくら一益でもあんなに遠くに離されては撃てようはずがない。



「よし!もうよい万千代!」
 丹羽万千代が六十メートルほど離れた時、信長はやっとそういった。火縄銃の射程距離を超えている。
「これでよい。一益、撃ってみよ」
「ハッ」
 柴田権六が心配そうに自分を見ている。一益は笑ってみせた。
 昨夜、義太夫の手にあった包丁を砕いた時、義太夫と一益の距離はもう少し近かった。しかも切羽詰まっていた。外れて手に当てる覚悟で撃ったのだ。
(今度はそうはいくまい・・)
 丹羽万千代は扇子を広げて立っている。
(あの扇子の外側を狙おう・・)
 人間に当てるよりははずしたほうがいい。
 丹羽万千代はというと、一益の鉄砲の腕を知っている筈がないのだが、恐れた様子もない。当たることを恐れていないというのだろうか。・・が、それが唯一の救いだった。怯えて震えていたりしてはかえって当たってしまう。
 一益は片膝ついて構えた。頬に当たる銃床がいつもより冷たく感じる。
(なるようになれ!)
 ダキューンと辺りに響いた銃声が、先ほどより少し長いような気がした。撃った瞬間、一益は(外した!)と思った。
 居並ぶ者たちは皆、かたずを飲んで丹羽万千代を見た。義太夫は気が遠くなりそうになっていた。



 やがて遠くから
「命中でござりまする!」
 という声がした。丹羽万千代の持っていた扇子が折れている。ワッと歓声が上がった。
「一益、天晴れじゃ!」
「ハッ」
 一益は少し微笑んで、構えていた鉄砲を降ろした。
「五百貫つかわす」
「ありがたき幸せ」
「それと・・その鉄砲もくれてやる。さ、戻ろうぞ」
 信長はさっさと本丸にきびすを返した。
「おお、義太夫・・と申したな」
 と不意に振り向いて言った。
「どうじゃ?鯛は釣れたか?」
「お、恐れ入ってござりまする」
 義太夫は真っ赤になって平伏した。信長は笑って歩き出した。
「左近将監さま!」
 義太夫は一益のもとに喜んで駆け寄ってきた。義太夫自身、一益の腕が相当なものだということは知っていたが、これほどに傑出しているとは思ってもみなかったのだ。
「義太夫・・木全彦一郎は如何いたした?」
「は?木全・・そういえば、先ほどから姿が見えませぬな」
(やはりそうか)
 一益は笑った。
「義太夫、的に当たったのはわしが撃った弾ではない」
「は?・・と仰せられますると?」
「・・・それは・・まぁ、よい。早う参ろうぞ」
 首を傾げている義太夫を尻目に一益は本丸に向かって歩き出した。

うつけという名の鯛3

2006年05月19日 11時45分32秒 | 滝川家の人々


 翌朝、柴田権六が一益の前に現れた。
「これより上様に滝川どののことをお話いたそう」
「かたじけない」
「いや、まだ分かりませぬぞ。上様がお会いになると仰せられたら屋敷に使いを出すゆえ城に参られよ。しかし、もし使いが来なかったら・・・」
「わかり申した。ご縁がなかったと思うて諦めましょう」
「では後ほど・・・」
 柴田権六が部屋を出ると、入れ違いに義太夫が鯏浦の小者を連れて入ってきた。二人とも綺麗な着物を着せられている。
「おお義太夫。・・・と、おことも来たか」
 一益はこの小者の名も知らなかったことに気づいた。
――名は何と云う?――
 すると小者は一益から筆を受け取り
――木全彦一郎――
 と書いた。
(もくぜん・・?)
 木全と書いて『こまた』と読む。一益はこの時『もくぜん』だと思った。
「柴田どのは早、城に参られた」
「いよいよでござりますな」
「いよいよじゃ」
 一益は窓から城があると聞かされた方角を見た。むろん清洲城は見えない。



 清洲城主織田信長の朝は早い。柴田権六が目通りを願い出てきた時には、朝駆けを終えて正室の濃御前と戯れていた。
「何、権六が来たか。よし通せ」
 と近侍に命じてから、濃御前のほうを振り向いた。
「どうじゃ、お濃。最近では権六め、まめにやってきよるわ」
 信長が少年のように屈託なく笑うと、濃御前もつりこまれて微笑んだ。
「にしても今日は又、いつもより早いようじゃ。何かあったかのう」
 話していると柴田権六が真面目な顔つきでやってきた。
「おお、権六。如何いたした」
 と単刀直入に聞いた。柴田権六は神妙な顔をして話し出した。
「実はそれがしが昨夜上様の御前を下がって城をでますと、川のほとりで夜釣りをしている者がおりました」
「何じゃ、そんな話か。夜釣りなど珍しくないわい」
「はい。しかし、それがしが『何をとろうとしておる』と尋ねると、その者は『鯛だ』と申しまする」
「何、鯛?フフン、それで?」
「それがしが『川で釣れる鯛とはどのような鯛じゃ』と聞くと、その者は『うつけという名の鯛だ』と申しました」
 そこまで言うと信長の顔色が変わった。濃御前は感心して聞いている。



「権六」
「はい」
「その者を連れて参ったか?」
「それがしの屋敷で待たせております。お目通りが叶えば呼ぶことになっておりますが・・」
「待て、そやつの名は?」
「さればこの者は滝川一益という者の家臣でござりまする」
「タキガワカズマス?面白い名じゃ。どこの者じゃ?」
「甲賀の出とか。滝川家は素破の頭目にて、この者自身は鉄砲の名手にござります」
「鉄砲?」
 信長の目がキラリと光った。
「面白い。すぐ呼べ!・・いや、待て!その者をな、土蔵に連れて行ってな・・」
「は?土蔵・・でござりますか?」
 権六は怪訝な顔で聞き返した。信長は悪戯っぽく笑っている。

うつけという名の鯛2

2006年05月18日 11時39分49秒 | 滝川家の人々


 土手を滑り降りた。草が足に絡みついて歩きにくい。
「ここらがよいであろうか・・」
 義太夫は懐から包丁を取り出して、その場に両膝をついた。
「左近将監さま、お許しを!」
 と叫んで自分に向けた包丁を振り上げた。
 月の光に照らされた刃がキラリと光った瞬間、バアンという音とともに包丁の柄が弾け飛んだ。
「アッ!」
 義太夫は驚いて仰け反った。バアンという音がする前に銃声が聞こえたような気がする。
(鉄砲だ)
 と義太夫が気づいて顔を上げると、暗がりの向こうに人影があった。その手には煙の棚引く火縄銃がある。
(左近将監さま・・)
 一益はゆっくりと近づいてきた。暗がりの中でも、唇がわなわなと震えているのが分かる。義太夫はその場に両手をついた。
「義太夫!よりにもよってあのような物で腹を斬ろうとは滝川の面汚しめ!そんなに死にたくばこれで斬れ!」
 一益は腰の脇差を義太夫の前に叩き付けた。小石が小さく跳ねた。
「如何いたした!早う斬れ!」
「ハッ・・」
 義太夫は震える手で脇差を掴もうとした。
「義太夫、おのれは!」
 一益は義太夫の襟首を掴んで自分の方に引き寄せた。
「左近将監さま・・」
 義太夫は一益の顔を見上げてハッとした。一益の目が真っ赤だった。
「お許しくださいませ・・」
 絞り出すようにようやくそれだけ言った。一益は唇を噛み締めて義太夫を睨み付けている。普段の喜怒哀楽の乏しい一益とは違った。義太夫はその場に泣き伏した。草むらの陰に隠れて二人の様子を見守っていた鯏浦の小者も泣いた。



 と突然、草むらの陰から小者が飛び出してきた。
「如何いたした?」
 義太夫は驚いて顔をあげた。一益の背後から近づいてくる人影があったのだ。
「お取り込み中、失礼じゃが・・」
 聞き覚えのある声がした。
「柴田権六どの!」
 義太夫が声をあげた。つい先刻、この川のほとりで会った柴田権六が立っている。
「なに、柴田どの?!」
 一益はそれを聞いて慌てて立ち上がる。
「その鉄砲は貴公のものでござるか?」
 柴田権六は一益の左手にある鉄砲を見て、少し驚いたように言った。鉄砲などはそう安々と手に入るものではない。
「い、いかにも」
「信長の殿にご奉公を願うておられるようじゃが・・」
 柴田権六は義太夫をチラリと見てから一益にそう言った。二人の様子で、一益が義太夫の主人であることが分かったのだろう。
「ハッ。それがしは甲賀の者にて滝川左近将監一益。これなるは甥の義太夫益重でござる」
「それがしは織田家の臣にて柴田権六郎勝家と申す者。如何でござろう、滝川どの。これより我が屋敷へ参られぬか?」
「それは・・それは願っても無い・・」
「では案内いたそう。こちらでござる」
 柴田権六は馬にまたがると先に立って馬を歩かせた。義太夫はもちろん、一益も目を丸くしている。



 柴田権六の屋敷につくと、権六は義太夫の目の前に一組の刀を置いた。昼間売り払った義太夫の刀である。
「これは?」
「お返しいたす。そこもとのものでござろう?」
「ハッ・・」
 義太夫は恐縮して家宝の刀を押し頂いた。
「一益どのの鉄砲の腕はなかなかのものでござったな」
 権六は一部始終をみていたのだろう。義太夫は顔が真っ赤になった。しかし一益は平然と
「はい。甲賀にいたころより鉄砲の稽古を積んでおり申したゆえ」
「実は上様も鉄砲にご執着で日夜稽古に励んでおられるのじゃよ」
「そのことはよく存じております」
「ほう、御存知であったか」
「はい。滝川家は素破の家にて諸国の情報は甲賀にいながらにして分かり申す」
「何、素破!」
 権六が驚いて一益を見た。一益は内心、余計なことを言ったと思った。素破といえば侍扱いされないかもしれない。
 しかし権六の態度は変わらなかった。むしろ更に二人に関心をもったようだった。
「それは益々面白い。明日、上様にお引き合わせいたそう」
「御前よしなに・・」
 一益は未だ半信半疑で権六の前を下がった。
 二人はその夜、風呂のもてなしを受け、床についたのは四ツ半(十一時)を過ぎていた。
 寝つかれなかった一益は、これも眠れないらしく先ほどから何度も寝返りをうっている義太夫に尋ねた。
「義太夫。おぬし、柴田どのにどうやって近づいた?」
 一益の声がもう怒っていないので、義太夫は夜釣りの出来事を話して聞かせた。
「成る程・・。そちはなかなかの切れ者よ。権六どのは素知らぬふりをしながらも義太夫のことを調べておったのじゃな」
 鉄砲を持って旅篭を飛び出した一益の姿も、相当な人目を引いていた。権六は二人を見張っていた間諜から知らせを受けて、一益の後を追っていたのだ。
「兎も角、こたびのことは義太夫の手柄じゃ。そちが刀を売らなければこうはなってはいまい」
「左近将監さま・・。そのような意地の悪い・・」
 一益はハハハと笑った。
「さ、もう眠れ。明日は忙しくなろう」
「はい」
 義太夫は目を瞑った。明日は諦めていた信長に会う。
(いよいよ我等の運が開ける)
 甲賀を出奔して一ヶ月目の夜のことであった。

うつけと言う名の鯛1

2006年05月17日 11時34分53秒 | 滝川家の人々


うつけとは馬鹿とか間抜けという意味である。尾張の人々は織田信長をうつけと呼んでいた。それがどうやら違うかもしれない・・と皆に思わせたのは、信長が本家の清洲城を奪って尾張一国をほぼ統一した頃からだ。といっても尾張の全てが信長のものではない。岩倉城の守護代織田信安や、信長の弟織田信行の動きは已然怪しい。
 柴田権六勝家は織田家の重臣である。信長の弟信行を擁立して反乱を企てたが、信長に鎮圧された。その後は信行から離れて信長に仕えている。
「信長の殿はうつけではない」
 と彼が気づいたのは信長に敗れてからだ。
 その日も柴田権六は清洲城の信長に伺候して屋敷に帰るところだった。
 みすぼらしい格好をした痩せ侍が夜釣りをしている。上機嫌だった柴田権六は、その侍に興味を持って馬を寄せてみた。
「そこの者、何をしておる?」
 権六が声をかけると先ほどから釣りをしていた滝川義太夫はチラリと権六を見た。
「釣りじゃ。見て分からぬか」
 と無愛想に言った。
 普段の権六だったらカチンときて刀を抜いていただろう。それをしなかったのは義太夫がそのみすぼらしい格好に比べて華やかな容姿をしていたためかもしれない。
「この川で何を釣ろうとしておる」
「鯛だ」
 権六はついに笑い出した。鯛が川で釣れないことは子供でも知っている。
「川で釣れる鯛とはどのようなものじゃ」
 権六が尋ねると、義太夫は横目で権六を見て、
「うつけという名の鯛よ」
 平然とそう答えた。
「なに、うつけという名の鯛?!」
 権六は始めて真顔になって義太夫を見た。うつけという名の鯛とは清洲城主織田信長のことに違いない。
(こやつ、何者であろうか)
 権六は義太夫にもう一歩近づいた。その顔はただの痩せ浪人には見えない。しかし驚いたことに丸腰である。
「鯛は釣れそうか?」
「釣れそうにない」
「ではどうする?」
「釣れるまで待つしかなかろう」
「ま、根気強くやることじゃ」
 権六は何事もなかったかのように馬の首を屋敷へと向けた。



(やはりだめか)
 義太夫は落胆した。あの髭の濃い侍が織田家の重臣柴田権六勝家であることは知っている。何とか注意を引いて織田家に仕官を願いでようと夜釣りをしていたのだ。
 鯏浦の服部右京の元からこの尾張に来て、もう半月ほどたっていた。尾張に来たからといって織田家に知り合いがいるわけでもない。他国者の一益が信長に仕えることは容易ではない。持ってきた銭はみるみるうちに減り、義太夫は着物を売ったりして金を作った。一益は旅篭に泊まっている。銭がなくなれば追い出されてしまう。
 金策に困った義太夫は、ついに今日、家宝の刀を売ってしまった。
(これが左近将監さまに知れたら・・)
 烈火のごとく怒るだろう。それを考えると辛い。それでも旅篭に足を向けた。一益が待っている。

「義太夫は遅いのう」
 一益は誰にともなくそう言った。傍に控えている小者は耳が聞こえない。
 日が落ちてからかなり経っている。五ツ(八時)を過ぎたころだろうか。ようやく義太夫が帰ってきた。
「おお義太夫、遅かったのう」
「ハッ」
「義太夫・・・。刀は如何いたした?」
 一益が怪訝な顔をした。義太夫は「ハッ」と答えたまま何も言えなかった。
「義太夫!」
 事態を察した一益が一喝した。
「は・・売り払いましてござります」
 義太夫は平伏してそう答えた。恐ろしくて一益の顔が見られない。
 一益が怒りで肩を震わせて
「売り払ったと?!・・それで・・その方、丸腰で帰って参ったか」
 旅篭中に聞こえるかのような大声で怒鳴った。
「恥を知れ、義太夫!」
「ハハッ」
 義太夫は床に額を押しつけた。次の一益の言葉を待った・・。が、次はなかった。



 しばしの沈黙の後、義太夫は恐る恐る顔を上げた。一益は義太夫に背を向けて押し黙っている。
「お許し下され、左近将監さま・・」
 一益は返事をしない。
(もはやこれまでか)
 義太夫は深々と一益の背中に頭を下げると、心配そうに自分を見上げる小者に銭の入った包みを渡し、そっと部屋を出た。刀を売り払ったときから覚悟は決まっていた。
 一人暗い道をとぼとぼと五条川のほとりを歩いていく。月夜に照らされる川の流れは故郷の甲賀を彷彿とさせた。義太夫はフフフと笑った。尾張にさえくれば道は開ける・・と思っていた自分の甘さが可笑しかった。

桑名2

2006年05月16日 11時25分04秒 | 滝川家の人々


 しかし尾張との国境付近は警備が厳しい。やはり船で津島あたりまで逃げるしかないのだが、一益も義太夫も山育ちで船を使えない。
 思いあぐねていると先程の小者が茶を持ってきた。一益はその茶を一口すすってから「待て!」と小者を呼び止めた。小者は気づかず、部屋を出ようとしている。
(そうか、聞こえないのだ)
 と気づいて、小者の腕をぐいと引いた。小者は驚いて振り向いた。
「義太夫、紙と筆を」
 義太夫も心得てサッと紙と筆を差し出した。一益はそれを受け取るとサラサラと書いた。
――我等は此れより尾張へ参る。案内して呉れぬかーー
 小者は驚いて一益を見た。一益はその顔を見て『頼む』と目で訴えた。この小者が服部右京に全てを告げてしまったら、一益も義太夫もまたひと暴れして逃げなくてはならない。
 小者は暫く考えていたが、やがて顔を上げて大きく頷いて窓の前に立って外を指差した。何を言いたいのかは分からない。どうするつもりか・・と見ていると、なんと小者はヒラリと窓の外に飛び出した。
「あっ!」
 二人は息を呑んだ。ここは三階なのである。



慌てて窓に近寄って下を見ると、小者はピンピンして暗がりの中で手招きしている。
「お、驚きましたな。あの者も素破・・でござりましょうか?」
「・・のようじゃの。しかも手招きするということは・・」
「我等の素性を存じている・・ということでござりまするな」
「兎も角、急ごうぞ」
 二人は荷物を抱えてヒラリと飛び降りた。小者はそれを確認すると駆け出した。足も速い。この暗がりの中で石にもつまずかずに疾走できるということは、この小者が紛れも無く素破であることを物語っていた。
(こやつ・・何者であろうか)
 一益は不気味に思いながらも小者の後ろに付いていった。
 やがて岸についた。船が沢山つけてある。当然、警備の兵がいる。
「義太夫」
 『やるぞ』と合図すると義太夫もうなずいた。・・・が、二人が刀を抜くか抜かないかのうちに小者は一人で兵のいるところに駆けて行ってしまった。
(如何いたす所存か?)
 一益は唖然として小者を見た。次の瞬間、一益と義太夫はもう一度「あっ!」と驚きの声をあげた。
 駆けて行った小者は、スラリと腰の刀を抜きざまに一人目の兵を斬り、返す刀で二人目を斬り、驚いて飛び出してきた三人目が刀を振り上げた瞬間に左から右に真横に斬りつけたのだ。三人ともあっという間に倒されてしまった。その恐ろしい早業を『甲賀流』という。代々甲賀の素破に伝わる秘伝だ。



(あやつ甲賀者か)
 二人は声も出ないほど驚いた。小者は平然として手招きしている。
「左近将監さま、参りましょう」
 と義太夫が一益に声をかけた。
「よし」
 一益は気を取り直して船に乗り込んだ。船はゴトリと揺れて動き出した。この小者は船を漕ぐのにも慣れている。
「こやつ、何者でござりましょう?」
「わからぬ・・が、助かった」
 一益はホッと息を吐いた。後方を見るとみるみる内に鯏浦の砦が小さくなっていく。服部右京は今ごろカンカンになって二人を捜しているだろう。目に浮かぶその姿が滑稽で、一益はクスリと笑った。
「左近将監さま?」
「いや・・。尾張は近いのう・・」
 一益はまだ見ぬ地、尾張を思って胸を躍らせていた。