神からのメッセージ  光であるあなたへ

あなたの光を取り戻すために

気づきの為に ③

2017年09月26日 | 日記

多くの人々の救い(光)となっていると言われている方についてのメッセージです 

これらのメッセージから、あなたが光への道に進むための 気づき を受け取られることを願っています


メッセージに際して
江原啓之くん について  と質問をしたら、返事はあまりクリアーに受け取れなかったので、彼は光ではないのですか?と質問すると、ようやく答えが流れ出してきたので以下に記します。


光につながる人と人間の中で生きることの違いは自由か自由でないか

自由(になるか)か、自由でないか、 そのものとして生きるか
形になる前の(に)生まれたか生まれてないか 
そのものとして生きるか生きないか

江原くんが自由か自由でないかというと自由でない、自由でない世界を生きている
彼は形にこだわった 形の中で生きることを選んだ かたちの中で生きることは足かせができる 枠の中で生きようとする それが形の中で生きるということ 自由でない 成長しない 彼は成長をやめてしまった 
人を助けたいと思っているのではない そうではなく 助けられたいのは自分 自分を助けたいために人を助けている 
常に答え、真実を求めている しかし行きつかない それは枠があるから、自由ではないから 
自分自身を生きていない 彼には純粋性がない  

彼は生き方を間違えた もともとは光とつながるものであるはずなのに つながりをやめた そうなったら自由ではない 自由の中には生きていない 彼は孤独 孤独の中に生きている 彼の世界を理解するものはいない 自身さえも理解していない 理解するすべがない、理解できない 自身を忘れた(置いてきた)生き方をしているから それが自分自身を生きていないということ

魂が肉体を選ぶ時にも間違えた、その肉体を選ぶと自由がなくなるとわかっていたのに試したかったのもあった それは自身を試したいという思いと欲もあった 
入った時は上のことを伝えたいという純粋性はあったのに   その肉体を選ぶべきではなかった  

自由でない生き方をするとどうなるのか、光に戻れなくなる、戻ってこられなくなる 光ではなくなってしまったから 人間になっていくこと 
自由でない生き方をするということはそういうこと

純粋性とは与えられたもの で、どう使うかはその人次第 いかようにもなる 
純粋性とは神とのつながり つながらなくなると存在しない(消えていく) 

その意味で 江原くんは 今は暗闇の中で手探りで自分の答えを探し求めている状態 入った肉体が欲、権力 そういうものを獲得しやすい(魅力を感じる、求める)肉体だった 彼はそういう肉体を選んだ





今回を持ちまして、このブログを終了とさせて頂きます。  ありがとうございました。     

  

気づきの為に ②

2017年08月28日 | 日記
多くの人々の救い(光)となっていると言われている方についてのメッセージです 

これらのメッセージから、あなたが光への道に進むための 気づき を受け取られることを願っています



飯田史彦氏

この者も大いなる者、大きなものを持って産まれています。そして、我々のために、我々とともに動く者の一人です。
我が仕えし神の下に集まりしものの一人です。そして、大いなる者からメッセージ、言葉、力を頂いている者の一人です。そして、この者にはこの者の役目があるのです。
それは、遠き過去よりこの者が抱えてきたこだわりを、この者は、そのこだわりを取ろうと今動いています。
大いなる者から生れた時から、この者はその役目を持って産まれています。

あなたと同じように我々とつながる者の一人です。 この者は大きな志、野望を抱いて、彼の地に降りていきました。
人々を救う者となるために、彼の地に降りて行ったのです。
だが、その時、降り方、降りる道をこの者は間違えたのです。この者は人の中に降りるべきではないのです。人と交わってはならないのです。

この者は声を伝える者として動く役目を持って産まれています。ですが、この者の役目でないことをすでに始めているのです。
それは、我々の言葉を伝える者としての役割ではないこともこの者はやっているのです。
この者もまた多くのものを救いたいと願い、彼の地に降りて行ったのです。そして、彼の地で多くの人、多くのものを助けています。
だが、人々の欲望に巻き込まれて行ってしまっている。でも、この者の望んだことでもあるのです。多くの者、多くの者とつながりたいとこの者が望んだのです。
そして、多くの者とつながることに喜びを感じて生きてきたのです。

だが、この者は多くの者と繋がるべきではないのです。この者には、この者の役目があるのです。それは、大いなるものと繋がるのが、この者の役目だったけれど、この者は人とつながっています。人を求めてさまよっているのです。
それは、この者が多くの悲しみ、自分がなしえなかった事への多くの悲しみを持っているから、この者は人々の為にと動いてしまうのです。

だが、この者は人のためには動いてはならないのです。この者は人と繋がるべき者ではないのです。人と繋がってはならないのです。

この者に多くの闇がついています。多くの闇を持つ者が、この者に、この者のまわりについてしまっています。
だから、この者は身動きがとれない状態。絡まった状態になっています。人々の思いは強い。人々の念はそれだけ強いのです。
この者がそれで苦しめられている。がんじがらめにされて身動きがとれない状態になっている。そして自身も、闇が付いている事には気づいていますが、どうやって取って良いのか、取るべきなのかさえもこの者は判断力を無くしている。思考力を無くしてしまっているのです。

自らがその中に降りて行った。はまって行ったのです。その中に自らが居続ける限り、この者がそこから出てくることはできないのです。

遠き過去より我々と共にいたこの者はすでにこの者の役目を忘れてしまっています。
この者は人と繋がる者ではないのです。この者は大いなる者、我々とつながる者、我々の言葉、エネルギー、力を降ろす者として彼の地に生まれていったのです。
だが、この者はその役目を果たそうとはしていません。果たせないのです、もう。

この者にとってその役目をできない自分になってる。役目を果たすためのパワー、力が残っていない。
この者は多くの者にエネルギーを吸い取られていっています。そして闇の者の中に身をうずめて行っています。
それは、この者の中にもつ、呼び合うもの、多くの者を助けられなかったという思いが、そこに居続けさせる。呪縛となってしまっている。
だから、この者はそこから出ることが出来ずに自身が動いているのです。

そこに居る時には、大いなる者の力、エネルギーは入ってはいかないのです。この者はそれをすでに望まなくなってしまっているから、
我々のエネルギーはこの者には行くことはないのです。

大いなる者のエネルギー、力を降ろす者、我らとつながりし者として彼の地に降りて行きましたが、この者は降り方を間違えた。降りる道を間違えた。降りていって、自身を見失ってしまっているのです。
この者が何をなすべきか、自身が何の力を持っているのかもすでにこの者には届かない。届く術がないのです。
我々とのつながりは絶とうとしている。自らがつながってはならないとこの者はすでに気づいています。
自身が闇の中で、闇に囲まれた人の中で、自身が生きていくことを決めているのです。この者がそうすると、この者は光に戻ってくることは出来なくなります。自身が闇の者の思い、念を引き受ける者となった時から、この者は闇の者に取り憑かれた者になっていったのです。

そこに私たちのエネルギー、力が入っていくことはできないのです。
この者が闇の者の下で、動こうと決めた時、我々とのつながりは、つながることが出来なくなったのです。
この者が闇の者ではないのです。この者の回りにいる者、周りにぶら下がっている者が、多くのこだわり、多くの思いを持つ者としてまとわりついてしまっているのです。

この者は人の前に出すぎた。出すぎてしまった。多くの闇の前に自身をさらけ出してしまったから、闇が気づいた。
光し者としての自分達の願いを聞きとる、受け入れて、叶えてくれる者だと闇し者達は気づいてしまった。だから、この者を動かそうとした。そしてこの者も動いてしまった。
自身が多くの闇にさらされたことにこの者自身が気づかなかった。だから、この者の回りには闇し者が付いたのです。

人の中に入り過ぎた。人と関わり過ぎてしまった。人間として動き過ぎてしまった。人間でありたいとこの者が望んだ。
だから、人間になっていった。人間として生きることを決めてしまった。
神と共に居る者としての学びがそこで途絶えた。そこで切れてしまった。

この者は多くの者の前に出すぎました。繋がる者としてのエネルギーを受け取っている間はそれでも良かった。だが、段々と受け取れなくなった。
この者の光が隠されてしまったから。目印が無くなってしまった。

エネルギーを降ろすためには目印が必要。つながる者としての印を持って降りています。目印がある。だから、目印に向かってエネルギーを降ろしている。言葉を伝えようと。伝えている。 だが、目印が無くなると、闇に覆われてしまうと、我々は手が出せなくなる。
エネルギーが届いて行かないと、光し者は光し者でなくなる。自身が何をすべきかということを忘れていくのです。
遠き過去よりこの者がやってきたこと、やってきた課題さえも、すべて忘れて行ってしまう。
我々と共にいた者だったということも忘れていくのです。

繋がりし者は人々と繋がってはならない。人々の思いを感じてはならない。感じとってはならない。
繋がりし者は我々と共に歩みし者だから人と繋がってはならないのです。この者は多くの者と繋がり過ぎたのです。

この者の中のこだわりがそうさせた。たくさんの悲しみをこの者が続けてきた自身が助けられなかった人々の思いをこの者が感じとってきた。
人々の中でそれを癒していきたいと思った。自身が癒されることを望んだ。人々とのつながりの中で。この者自身がそれを望んだ。
自身の役目ではないことも引き受けてしまったのです。

繋がる者としての力はもうこの者には残ってないのです。遠き過去より我々と共にいた記憶はこの者の中には残ってはいないのです。遠き過去より我々と共に過ごしたこの者は、すでにこの者でもなくなってしまっているのです。遠き過去よりやってきたすべてをこの者は忘れてしまっています。我々と共に過ごした事、大いなるもの、大いなる愛さえもこの者の記憶には残ってはいないのです。
この者が迷った時、我々は多くのメッセージをこの者に届けました。でも、この者は受け取ることは出来ませんでした。多くの闇し者がもうこの者についていたからです。我らの願いをこの者に届けることはできなかったのです。
我々の力の届かぬ所にこの者は行ってしまったのです。もう我々の力及ばぬ所にこの者は降りて行ってしまったのです。この者自身の望んだ事でもあったのです。人々の中で生きたい。人々とつながりたい。人々の愛を感じたい。人々の苦しみを知りたい。この者の望んだことであったのです。
この者が人として彼の地に降りたいと望んだ時、我々はこの者がその道を選ぶことを気づいていました。この者の望みがそこにあったからです。我々と、我々から離れた時、この者はこの者自身の道を行くことを決めたと思いました。我々のエネルギーはこの者には届いてはいかないのです。

光し者ではもうなくなっています。この者の周りには多くの闇し者がついています。人の中で生きるということはそういうことなのです。
多くの闇し者の中で生きていくということは、自身が何であるかを見失ってしまうのです。自身を見失った時、もう光ることは出来ないのです。
この者自身が自らの光を消してしまったのです。闇し者と生きることをこの者が選んだ時、この者は闇し者になっていくのです。もう光し者に戻ることは出来ないのです。

多くの光し者が闇し者になっていきました。我々のエネルギーが届かない所にこの者達は行ってしまったのです。そこには、多くの闇し者が存在しているのです。
人々、人間の持つ闇はそれだけ深いのです。多くの光し者が闇し者にとらわれていったのです。光し者は光し者でなくなっていったのです。この者がそれを望んだのです。自身が光し者でならない道をこの者が選んでいったのです。我々のつながる者ではもう無くなっています。すでに闇し者が、多くの闇し者がまわりについております。そしてこの者のエネルギー、力を奪って行ってしまうのです。光し者に戻ることはできないのです。この者自身の歩む道です。

「終わりにしようと思いますが、まだ伝え残したことはありますか?」
あなたのまわりにも多くの闇し者が来ます。だが、その闇し者についてはならない。自身が自身の闇を持ってはならないのです。闇し者は闇し者につきます。お互いが呼び合うのです。だから闇し者には、あってはならない。 
光し者で居続けなければ、我々のメッセージは届かぬものになってしまう。だから闇とつながってはならない。闇を感じてはならない。自身のエネルギーを外してはならないのです。闇し者は呼び合うから。自身の闇を作ってはならないのです。闇し者とはならないように。闇し者につながってはならないのです。

闇し者がわからない光の者たちへ
あなたにはわからないと思います。闇し者は何であるか、闇とはなんであるか、あなたには見えない。気づかない。知ることができない。あなたには闇がないから。闇し者でないから。だから、気づくことができない。だが、闇し者はくる。だからつながってはならない。闇し者につながってはならない。あなた自身が闇し者になっていくから。だから、慎重に言葉を伝えなくてはならない。




気づきのために ①

2017年08月28日 | 日記
多くの人々の救い(光)となっていると言われている方についてのメッセージです 

これらのメッセージから、あなたが光への道に進むための 気づき を受け取られることを願っています



佐藤康行氏

この者も大きな光を降ろす者、言葉を伝える者の一人です。
だが、この者は言葉を伝える者になっていない。なっていない道を選びました。この者自身が言葉を伝える者としての道を拒んだのです。

この者にはこの者のやるべきことがありました。多くの者を救いたしと彼の地に降りて行きました。そして、この者自身のやるべきことをこの者がこの者の中で見つけ出したのです。
それは、言葉を伝える者としてではない道をこの者が選んだのです。だが、この者のやるべきこと、やるべき課題に通じていること。
この者は気づいて自身がそれをやることを選択しました。

この者には多くのサポート、多くの力が付いています。それは、この者自身の望み。助けて欲しいと強く願ったから多くのサポートが入ったのです。

この者が望みんだこと、自身がしようと決めた時、多くの亀裂。多くの天の歪み、学びを変えるということ、学びの変更は上の歪みにもなるのです。
だが、その学びはこの者にとっては必要な学びだったのです。
この者の願いは多くの者を救うこと。多くの者に教えを広めることがこの者の望んだことだったのです。
その為には、声を伝えし者としてだけでは動けない。十分でないとこの者が望んだのです。そして、そこに大きな天の亀裂が入ったのです。この者もこの者の学びを辞めたことで、この者自身の成長が遅れてしまう。滞ってしまう。それをこの者は知っています。
でも、この者がそれをやらねばと決め覚悟し、動くことには、多くのサポートが必要となります。そして、この者は一人では出来ないと悟った。知っていた。だから多くの力、多くのサポートを求めた。
懇願したことで、多くのサポート、多くのエネルギーがこの者の中に入っていったのです。この者の学びが変わっていった。変わらざるを得なかった。

この者自身の学びを辞め、人々の学びを成長させることをこの者は選んだのです。そこには、自己犠牲も入っている。
自身の学びを辞めることはこの者にとっては、辛いことだったけど、自身が学ぶより人々を成長させねばとこの者は気づいた。悟った。
自身が学んでも、自身が学ぶことだけが神の成長ではないと気づいた。だから多くの者の学びを深めようとした。
自身の学びをさておいてまで、この者は多くの学びを求めようとしたのです。それには、この者の力だけでは成すことが出来ない学びが入るのです。

多くの者を動かす事、この者には必要でした。だから多くの力がこの者には入って行きました。そして、人々を成長させる為にこの者はその学びをやろうとしました。大きな傷つきの中でこの者は学びを選んだのです。

だから、この者自身はこの者自身の学びに手をつけていない。そして、手をつけられない状態になっている。

この者を求めて多くの者がこの者の下に来ます。そして、この者自身から学ぼうと多くのものを持っていこうとするのです。この者自身が選んだ道です。
そこには、大きな喜びもありますが、大きな傷つきも共にあるのです。
この者が選んだ事、選んでいない事もこの者には起きてしまいます。この者の望まないことも、この者には起きてしまうのです。
それは、この者がこの者の自身の学びを辞めたから。
この者が多くの者を救うことを自身の喜びとした時から、この者の学びが違ってしまったから。

この者はこの者の学びを続けられなくなったのです。多くの者を救う事がこの者の望みではありました。
だが、自身を犠牲にするのは、この者の学びではなかったのです。多くのことを伝える者としてのこの者自身には、この者の学びがありました。

我々とつながりる事がこの者の学びだったのです。そこには、多くの人が存在していない。介在するべきではない。この者自身がこの者の学びをやるために彼の地に降りたのです。

でも、この者はこの者自身の学びよりも優先しなければならないことに生まれて気づいたのです。自身の学びより、自身の課題がそこにあった。日本にあったのです。彼の地を救いたいという思いが、この者の中に芽生えてしまったのです。多くの者が繋がりし事が喜びだとこの者が気づいたのです。

だが、繋がる時に繋がらなければなりません。繋がるべきでない時に、繋がってはならぬのです。上ばかりを見て生きるのではないのです。
そこには、人間の学び、人としての学びがあるから。上を見すぎてはならないのです。

だが、この者は上を見すぎています。上を見すぎてしまった。自身が繋がる者だから。上と繋がる者だから。上と繋がることが、喜びだとこの者は知っているから、自身の喜びは皆も喜ぶと勘違いしてしまったのです。そこには、この者のこだわり、核ができてしまったのです。皆が上と繋がることが、上と繋がる者になれることが、この者は喜びだと思ってしまったのです。

だが、そうではないのです。上と繋がりる者には繋がる事の学びがあります。役目があります。
でも、上と繋がることが、繋がることだけが学びではないのです。
自身の中にやるべきことを持って産まれています。自身の学びをやることが、学び、自身の課題なのです。
大きな喜びと思っているのは、この者自身のこだわりなのです。

人は繋がるべきでない時には繋がってはならないのです。自身の中でやる課題をやることが学びなのですから。大いなる者のエネルギーを感じすぎてしまったら自身の学びにはならないのです。人が上を見すぎてはならない。人間は人間として生きていくことの学び、重要な学びなのです。
繋がる事がだけが学びなのではないのです。人間の中で生まれて苦しんで成長していくことが、学びなのです。見る方向、求める方向を間違ってはならないのです。繋がりばかりを求めてはならないのです。自身の力でやるべき時も必要なことなのです。多くの者が繋がりたいと、繋がる事を望み、繋がりたいと思って繋がってこようとしますが、繋がることが、喜び、幸せとなっていくだけではないのです。

上を見すぎてはならないのです。自身の学びを自身の学びに気づくことが学びなのです。
多くの者を助けたいとこの者は思っていますが、この者の学びではないのです。この者自身のやるべきことではなかったのです。光と共にいることがこの者の学びだったのです。
光の、光し者になることがこの者の学びだったのです。この者は光し者になることを放棄、すでに放棄しております。自身よりも他を優先させてしまっています。
今生で自身の学びが出来ないことにも気づいております。それも、この者自身が選んだこと、望んだことだったのです。

この者は助けられなかったという思いを残す限り、自身の学びをすることが出来ないのです。自身の学びを気付くことさえも、出来なくなってしまうのです。
自身が何ものであったかということさえも、この者は忘れています。自身が人を助ける者として生まれたと思っていますが、この者は人を助ける者ではないのです。
自身は繋がる者だということをすでに忘れています。だから、気づかないのです。自身の学びが何であったかということにさえを気づかなくなっています。
この者の学びはまだしばらくすることができません。
自身の学びをしないと、上に戻ってくることは出来ないのです。
自身が学ぶことを忘れている限り、自身の学びを忘れている限り、この者は上に戻る事はないのです。
この者自身の役目を気づく事がこの者自身に残された課題、気づくべき事なのです。自身が何者であったかということを、早く気づく事が我々の望む事なのです。
大いなる者の愛を受け取りし者として、この者自身が望むようになることを望んでいます。
多くの光、多くの光に戻りし者、繋がる者、自身の学びを忘れてはならないのです。

「伝え残したことはありますか?」
この者自身の学びに気づくこと、思い出すことが重要です。自身が何者であるか、何のために生まれたか、自身のやるべきことは何なのかということに、早く思い出さなくてはならないのです。自身の学びを思い出すことが、この者にとっては重要なことになっています。例え人を救ったとしても、この者自身の学びにはならないのです。この者がそれに気づかない限り、上に上がってくることは出来ないのです。そしてこの者自身の学びは永遠に続くのです。人を救いたいと願うこの者自身のこだわり、思いを消さなければ、自身の学びに気づくことはないのです。大いなる者の学び、愛は、今この者には届かない状態になっています。この者自身が、この者自身の学びに気づいた時、大いなる者の愛、メッセージがこの者の中に届くでしょう。大いなる者と繋がりし者としての、この者自身の学びが始まるのです。この者が、この者自身の学びに気づいた時、この者に喜びが訪れるでしょう。









  


食べる

2017年07月04日 | 日記

人間は食べる意味を間違っている 食べることを勘違いしている

食べることと、生きることは違う

言葉の解釈を間違えてはいけない

同義語ではない 


食べる ということの 霊的な意味は 生かされること

生きるということ を   

人間は取り方、解釈を勘違いしている 

食べなくても生きていける 生かされているから 役割があれば生きていける それぞれの役割があるから生かされている

上の(魂の)生きる と 肉体の生きる の意味は違う

言葉の解釈を間違えてはいけない


食べることがイコール生きることではない


そもそも人間は生きていない 霊的な部分で生きていない、生きようとしていない

それを食べるという行為に置き換えている 

食べることで肉体を維持すること それで生きているという感覚を維持しようとしている

そうではない 

上とのつながりの中で生きること  人間の役割、目的を持って生きること

上の役割 そのつながりの中で生きること 

だから人間は生きていられる 生かされている



<異常な食欲について 霊的な意味>

隠された過去 人間の中にある過去のトラウマ

傷つき 悲しみ 怒り 存在の意味 役割を見失った など それらが満たされない時に出てくる

役割を思い出すこと 取り戻すこと


食に興味を示すのは 自由になりたいという希望・意志・思い 


食への異常な興味は 孤独、  個(部分)で生きようとしている 全体性の役割を忘れた生き方 取り戻せない過去(生まれる前の光だった過去、その輝き)にしがみつく葛藤 



<摂食障害 の霊的な意味>
   
自由でないと思っている 自分の力での自由でなく、周囲の力による自由


形を意識しないこと、 肉体を意識しないこと 

そういう満たされない思いを肉体で表現している、肉体を通して表現しなくていいのです あなたたちは自由なのです

あなたが自分を自由でないと思ってしまったのは、あなたの優しさ そう決めてしまったから 

  


 

尾骨 その霊的な意味

2017年07月01日 | 日記
尾骨 

人間にはなくてはならないもの 動きを司るもの 

魂の動き 上の動き との関連

動かなくなるとそこが固まる 形を変えていく 役割が変わっていく

柔軟に動かさねばならない   魂と直結 結びついている

昔はもっと動いていた 動かなくなった人が多い 

そこの役割は重要 



尾骨の骨折 の霊的な意味

やるべきことをやっていないから 本来やるべきことを忘れてしまっている 

やるべきことは何なのかを思い出すこと 本来の自分を取り戻すこと
 
自分自身が何者であるか なすべきことは何か ということ

本来の自分を取り戻さないといけない



<Nさんの場合の尾骨の骨折の霊的な意味>

言うべきことを言わなかった やるべきことをやらなかった 自分自身を取り戻す為に自分自身で決めた しかし彼女は取り戻せなかった 自分自身を思い出しなさい やるべきことは何なのか 


<Aさんの場合の尾骨強打によるひび  の霊的な意味> 

やるべきことをやってないから 自分自身が気づく道を絶ってしまった 早く気づかないと取り戻せなくなる 道が限られてくる 上に戻らなくなってくる 気づきなさい




尾骨骨折、尾骨の怪我 をした人たちは、知りあいを探しなさい 周りに本来やるべきことをやっている人がいる 探しなさい 周りを見なさい そして気づきなさい 本来の自分を 




人は生まれる目的を持って生まれてくる 本来の(魂の)目的を持って生まれる そこへ進むと魂が成長していく 上のエネルギーを感じられるようになる 上と繋がって生きていくことができる 

それをやるかやらないかはあなた次第  

それをしないということは自由でなくなるということ 人としての本来の生き方が出来なくなる 心の奥に孤独感・喪失感を抱える生き方になる 本来の喜びの中で生きることはない