Neue Caecilianische Bewegung

ローマ・カトリック教会の典礼音楽に関する公文書や中世の典礼に関する論文を中心に掲載していきます。

国井健宏 『ミサを祝う ー最後の晩餐から現在まで

2009年05月15日 22時13分54秒 | Weblog
国井健宏 『ミサを祝う ー最後の晩餐から現在まで』,オリエンス宗教研究所、2009年

目次
 序にかえて

第一部 ミサの成り立ち
 はじめに
 第一章 起源
 第二章 形成期
 第三章 成長と固定化
 第四章 フランク王国の発展
 第五章 典礼共同体の崩壊
 第六章 規則と儀式主義の時代
 第七章 刷新の世紀

第二部 現代のミサ
 はじめに
 第八章 開祭
 第九章 ことばの典礼
 第十章 供えものの準備(感謝の典礼一)
 第十一章 奉献文(感謝の典礼二)
 第十二章 交わりの儀(感謝の典礼三)
 第十三章 閉祭

参考文献

全241ページ。

 典礼は,特にミサはカトリック信徒のまさに中心にあるものである。また,第二バチカン公会議により劇的な変化を遂げたものでもあり,現在でも典礼をめぐって様々な意見がある。それだけ,典礼は重要なものである。このようにミサの歴史から説き起こし,現在のミサのあり方を説明するものは,日本でも比較的多く出ていると感じる。特に,ヨハネ・パウロ2世の晩年あたりから,典礼について教皇庁は色々な面で,指示を出している。ミサの総則なども改訂され,指針『あがないの秘跡』(2004年)が出され,現教皇ベネディクト16世の時代になっても『愛の秘跡』(2007年)や自発教令が出されている。典礼は教会にとって非常に重要なものである。

 本書は,ミサがどのように成立してきたかを,最後の晩餐から説き起こしている。このことは,別段特別なことではない。しかし,著者は,現代の聖書学の聖歌などを弾きながら,イエスの最後の晩餐は過越祭の食事ではなく,過越祭の雰囲気の中で行なわれたという考えを紹介して,それを肯定しているところが面白い。個人的にも読んでみて,一番面白かったのが,第一章であった。
 しかし,いつも不満に感じるのだが,日本のいわゆる典礼学者は中世をあまりにも否定的に扱いすぎる。著者は,特に典礼共同体という側面を強調するからか,中世において,ミサが司祭の専売特許になってしまったことを指摘している。典礼共同体を強調するのは,おそらくは第二バチカン公会議で特に強調された「交わり」を強調する立場に立っているからであろう。中世において,聖体拝領が次第に稀になってくる。修道者でさえ,まれにしか聖体拝領をしないということもある。アッシジのキアラはその『会則』の中で,年7回、聖体拝領をするように勧めているだけだ。このように聖体拝領が稀になってくるのは,聖体におけるイエスの現存の問題がある。11世紀のベレンガリウス論争の影響である。ただ,著者はこういう神学上の問題の影響に触れないで,聖体拝領が稀になったのは中世からだというが,こういう言い方はあまり公平なものではないだろう。典礼は色々な状況の中で変貌していくものである。なぜなら,人間が行う祭儀だからである。だから,典礼史を考えるには社会史の成果を押さえていなければならないだろう。また,中世においてもミサの中で説教は行なわれている。パドヴァのアントニオの主日説教集はそのようなものだ。さらに,ミサ以外の場でも,聖書をテーマにした連続講話も行なわれている。プロテスタント教会で行なわれているような講解説教のようなものも行なわれている。もちろん,これらは修道者や聖職者相手のものも多かったことは事実である。しかし,それでも俗語での講話も行なわれていた。みことばに対する関心の高さは,今のカトリックの信徒よりも強かったかもしれない。また,中世において民衆がラテン語を知らなかったので,典礼共同体の崩壊が行なわれたということもよくいわれるが,少なくとも12世紀以降の都市の民衆はかなり聖書のラテン語を理解していたと思われる。なぜなら,ワルドーにしても,アッシジのフランチェスコにしても聖書のことばを解したから,あのような運動を行なっているのである。フランチェスコが朗読用福音書を開いて自分たちの活動方針を決めたことはよく知られている。
 いずれにせよ,日本の典礼学者が書くものは中世に対してあまり知らないということがあると思う。例えば,フランスのEric Palazzoの“Liturgie et société au Moyen Age"( Paris, 2000)のようなものには,目を通していないだろうと思われる。

 第二部を読むと著者の典礼に対する立場がはっきりと見えてくる。彼は保守主義社ではない。第二バチカン公会議後の典礼改革を押し進めようとする立場である。典礼の改革は,古代の典礼をも半年,歴史の中でついた不要なものをなるべく削り,そして地域の特性にあわせていこうとするものである。そのときに,先にも述べた「交わり」を強調する。しかし,他方、ミサの重要な要素はイエスのいけにえ,つまり「犠牲」という観念であり,これも大事なものである。
 ところで,「犠牲」ということに関連して,ミサの奉納祈願へと招く祈りに「皆さん,このささげものを,全能の,神である父が受け入れてくださるように祈りましょう」というのがある。この司祭の祈りに続いて,会衆は「(前略)司祭の手を通してお捧げするいけにえをお受けください」と答える。この個所に関して著者は,「司祭の手を通して」という表現が,ささげものをするのが司祭であり,共同体ではないとして,「日本の教会では,この答えを唱えないようにと勧められている』(188ページ)としている。しかし,具正も(もは言ベンに莫)の『典礼と秘跡のハンドブック』(教友社,2009年)では,『いけにえの神学』の立場から,この会衆の応答を沈黙に変えるように勧める日本の教会の態度して「キリスト教の使信が文化の中に受肉することがどれほど難しいかを物語っている」(60ページ)と述べている。また,著者は,「司祭の手を通して」という表現が,ささげものをするのが司祭であり,共同体であるという理由を挙げているが,これはちょっとおかしな理由である。「司祭」ということが「交わり」の神学をそこなうのであれば,例の「また司祭とともに」もきちんと批判しておくべきであろう。
 いずれにせよ,具は「いけにえの神学」を強調する傾向があるが,著者はどちらかというと「交わり」を強調する。しかし,この「いけにえ」も「交わり」も典礼において欠かすことのできない二つの柱であることは,きちんと理解しておかなければならない。

 著者は,続唱に関して,ピオ5世の『ミサ典礼書』(1570年)が発行されたとき,5つだけ残されたとしている(170ページ)。しかし,スターバト・マーテルは1727年に認められているから,正しくは4つ。

 典礼は,現在保守,進歩派の対立点となっているといってもよいものである。だから,典礼についての解説書を読む時には,一つではなく,複数のものに目を通しておく必要がある。