戯人舎

『夢あるいは現』日記

「夢あるいは現」日記33

2011-01-30 | 日記
 阿部野神社の摂社に旗上稲荷社がある。我が戯人舎の旗上げの時にお参りしている。と言っても偶然の産物で、戯人舎を旗上げするにあたって神仏の加護を願ってと言う積極的な動機ではなくて、たまたま第二回公演を計画して、何か名前があった方が良い、何が良いだろうとあれこれ考えて、よし、戯人舎にしようと決めた時に、偶然通りかかって、旗上げの時に、旗上稲荷とは何と幸先の良いことだとお参りしたまでだ。幸先が良かったのかどうかはわからないが、もう20年以上もこの名前でやってきた。
 劇団を辞めての、第一回公演は森下昌秀企画公演だったと思う。ずばり過ぎるようでもあるが、つかこうへい事務所のように森下昌秀事務所ではなく、森下昌秀が企画する公演だと少し斜に構えてもいる。だから二回目の公演で早々と止めてしまった。それで戯人舎と名前を付けたのだ。台本と役者(戯曲の戯と人で戯人舎)にだけは徹底的にこだわっていこう。いわゆる一つの決意表明だった訳でもあったのだ。幸い付けた本人も意外だったけれど、案外覚えられやすいらしい。
 冬の日だまりの中で、阿部野神社の休憩ベンチに腰掛けて、さっき引いたおみくじを読んでいる。ここの自動おみくじ機はあの時のまま健在だ。


「夢あるいは現」日記32

2011-01-03 | 日記
 暮れの31日に高峰秀子さんの逝去を報道で知った。28日に亡くなられたらしい。本人達の望み通り、近親者のみの密葬だったと書いてあった。夫婦で出来るだけ身の回りの整理をして、誰にも迷惑をかけずにひっそりと去って行くことを望まれて、その通りに実行された。報道で知った時、何だかこれで本当に「昭和」が終わったような気分がした。ついこの前の日記に、演出者の芝居の昭和へのこだわりを書いたばかりだから、尚更その感を強くした。
 高峰さんに会ったのは一度きりだ。劇団を辞めて、いろいろな仕事をしている時に、松山善三さんが大阪で演出する芝居の演出助手を頼まれて、今は建物すらない、難波新地の大和屋での稽古でお会いした。松山善三さんの後ろの席で、スクリーンよりいくらか歳をとってはいたけれど、きれいに老いた伝説の高峰秀子さんが微笑みをたたえながら稽古を観ていらっしゃった。
 僕はまだカリカリした仕事の仕方の年代だったので、うまく出来ないスタッフを楽屋まで呼びつけて怒鳴り散らしていたら、高峰秀子さんが、僕の分のお寿司を取り分けながら「松山はあれで仕事で怒ったことは一度もないのよ」とさりげなくたしなめてくださった。あの日以来、僕は稽古で大声は出すけれど、劇場へ行ってからはなるべく大声を出さないように自分を戒めるようになった。
 昭和と同じに年を重ねて逝った親父の一つ年上の「きれいな姉さん」の高峰秀子さんがやってきて照れ屋の親父はさぞや照れては居るだろうが、どうぞ好きな映画の話でもしてください。