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「評価読み」の世界・新 (森田 信義)

古くて新しい読みの世界を学校に。

意味段落分けという行為

2016-02-17 22:20:10 | 日記

  (画像をクリックして下さい。大きな画面で読むことができます。)

 本当に久しぶりに書き込みをします。(国語教育クリニックというブログにも同じものを投稿しておきます。)
 先日、研究会(自宅での月例会)に、「どちらがなまたまごでしょう」(教育出版 3年生)が持ち込まれた。授業がなかなかスムーズに行かなかったということであった。そこで、教材研究からやり直してみることにした。
 授業では、最初に,意味段落分けをさせたが、これが難渋したという。
 そもそも、「意味段落分け」とは、いかなる意義を持つ行為であろうか。私たちの日常の読みにおいて、意味段落に分けるなどということはしない。しなくても困らない。また、文学の場面分けも,日常的な行為ではなく、しかも支障はない。
 どうやら、精読のための部分を設定するための手続きのようである。むろん、意味段落が、根本的に不要というわけではない。意味段落は、読みの最終段階において把握でき、それによって,文章の構造の特徴が理解できるということになるのであり、通読後に簡単に把握できるようなものではないのである。
 文章全体の意味段落は、直ちに把握できるものでないとするなら、いつもいつも教材文の全体を読みの対象にするしかないのか、あるいは,一読法のように部分の積み重ねしかないのかということになるが、それも問題がある。
 文章には、明らかに、一つの意味のかたまりを有する部分がある。「ここからここまでは、一つのまとまりになっている」という部分である。教材文全体の意味段落は把握できなくとも、文章の中の「まとまりを持つ部分」については把握できることが多い。いつもいつも、「はじめ」「なか」「おわり」という定式を求めて苦労することは賢明とはいえない。「まとまりとして把握出来る部分」を摘出して、結果として、文章全体の構造が分かればよい。教材文を利用しながら、それを実践してみよう。
 「どちらがなまたまごでしょう」は、14段落からなる文章である。これをいきなり、「はじめ」「なか」「おわり」として分析的に把握することは至難のわざであるが、③段落と④~⑩段落、⑪段落と⑫~⑬段落は、「問い-答え」という仕組みを持つまとまりである。このことの理解は、さほど難しいものではない。「問い-答え」は、一年生の時の説明文で学習済みである。この部分が分かれば、③段落から⑬段落までの大半の部分の段落の役割が分かる。敢えて言えば、③から⑩までの部分と、⑪~⑬の部分とが、どのような関係になっているのかが分かれば、本教材の論理構造の重要部分の把握は、ほとんど済んだと言ってもよい。⑩で、いったん答えを出し、⑪~⑬で、その答えの補足説明(解明)をしているのである。残る段落は、①②と⑭であり,これを「まえがき」「あとがき」とすれば、多くの児童も納得がいくであろうし、クイズのような、手探りで非論理的な意味段落分けという難事業から解放されるはずである。
 意味段落分けについてへあ、結論的に、次のようにまとめることができる。
  一読後に,文章の意味段落分をさせるというのは無理な行為である。しかし、文章の中の部分としては、ある種の「まとまり」を持ったものを発見することはできるであろう。把握できる部分の構造をとらえ、また、他の部分との換券をとらえることで、文章の重要部分の論理構造をとらえることが可能なことが多い。結果として,文章全体の論理構造とそのような構造や表現を生み出した筆者の工夫とその達成度及び問題が発見できれば、それで十分であり、これが、私たちにとって、無理のない読みである。

案内

2014-06-04 04:35:48 | 日記
 「評価読み」に関するブログの更新が遅れ気味になっております。
 このたび、「国語教育クリニック」なるブログを開設しました。そこでは、評価読みはもちろん、国語教育に関するあらゆる問題について、みなさんと一緒に考え、解決を図るためのコミュニケーションの場を提供しています。ぜひ、覗いてみて下さい。

 http://blog.goo.ne.jp/kokugoclinic

実の場の論理的思考と行動

2014-05-12 21:50:40 | 日記
 このところ、奇妙な事件、事故、あるいは政治・経済的状況ないしは問題が多発しています。情報化社会にあっては、テレビ、新聞、雑誌、インターネット等を通じて、否応なしに多種多様な情報が入り込んできて、その処理に戸惑うことになります。
 しばしば行われる放送局や新聞社によるアンケートの回答に多いのが、「どちらともいえない」という一時しのぎです。問題を切実に考えていないか、考えるのが面倒、どう考えればよいのか、その方法が分からないということを表現しています。生死に関わる問題の場合は、このような対応はしないでしょうが、ついつい、複雑な問題、割り切れない問題の場合は、一時しのぎに、このようなことになるのです。選挙でいえば、「支持政党なし」という立場に通じます。現状を見ると、支持したい政党がないこともよく分かりますが、限られた選択肢から選ばざるを得ないときには、結局、何かを選択する決意をしなくてはなりません。(私も、選択肢が存在しなくて、投票率の低下もひとつの批判、批評になるかと考えて、投票に行かないことがありますが、「支持者なし。」「適格者なし。」と書いてくることもあります。)
 事故への対応についても、他者の意見や指示に従っているだけでは、命の保証がないことが,先のフェリーの大事故によって明らかになりました。続いて起こった地下鉄事故では、フェリーの場合と同様のアナウンスがあったにもかかわらず、乗客は,我先に外に跳びだして事なきをえました。切実な経験が、選択の方法を変更する力になったのです。
 経済も大きく動いています。教育改革も行われようとしています。多様な状況をどうとらえ、どう行動すればよいのか分からないことが少なくありません。このところテレビ番組に「白熱教室」が流行しています。これなどは、問題をどう考えればよいのかの手引きをする番組だと思われます。また、専門家による解説番組も特別番組として放映され、人気を博しているようです。
 分からないことは分かっているひとに尋ねる、専門家の説明や講義を聴くというのも解決方法の一つです。国語の教科書などは、このような種類の行為を要求しがちです。専門家の説明、解説、主張は、素直に理解し,従いましょうということになる。教科書に収録されているほどの文章であり、それを書いた人物なのだから、間違っているはずはないということです。しかし、このような読みが、常に正しいとは言えないこと、原則として受け容れるということがしばしば誤った対応を生み出すことが,次第に明らかになってきました。つまり、「判断の丸投げ」は、学校から消滅したわけではありません。

 大人の私たちが困っている状況は、過去の学習、経験の積み重ねの結果です。現在の児童、生徒にも、私たちの子ども時代と同じような教育をしていれば、成人して,今の私たちと同じ状況になるに違いありません。
 佐賀県では、官民一体の小学校が開校する運びになっているようです。このことには、私は大いに批判的ですが、参入する塾の責任者は、「最初は、高校生を対象に始めたが、高校からでは遅いことがわかったので、小学校から始めることにした。」と、至極もっともなことを言っている。同じ事を、もう100年以上も前に、アメリカの経験主義の実験(大学附属)学校の指導者が、報告書の中に書いているので(歴史に学ばないというのも、わが国の教育の混乱の元である)、とても、新しい発見とは言えないが、真実であることに間違いはありません。
 私たち教育関係者は、人間の成長過程において、可能な限り早い時期から、ものごとを,自分の頭で、客観的、論理的にとらえ、自信を持って結論、決定がく出せる機会を提供しなくてはなりません。しかも、生活体験と関連させつつ指導しなくてはなりません。この当たり前のことが、これまで出来ていないのです。幸か不幸か、国語科は、最多の時間配分をされている教科であり、しかも、現実の生活との関係の深い内容を抱え込んでいると考えています。読むこと,書くこと、話すこと・聞くこと、言語のすべての内容が、主体的思考、判断、行動に関連しています。現実の生活では、これらが有機的に関連して行われます。戦後まもなくの「経験単元」が、すべての言語活動の総合性に目をつけていたのは、当然のことでした。ただ、今は、戦後まもなくという時期ではありません。歴史の成果と問題に学んで、現在の実の場に生きる子ども達の思考、判断夜行働を支えるための教育を追究する必要があります。それを、児童に対する国語の学習指導から始めてみましょう。未来の私たちのために。

非教育的あるいは自虐的な試み-『どうぶつの赤ちゃん』の扱い-

2014-01-15 02:22:26 | 日記
 第一学年用の代表的な,長寿教材「どうぶつの赤ちゃん」(ますい みつこ)には,次のような特徴がある。
 1.文章の構造が、「はじめ」-「なか」-「おわり」ではなく、「問い」-「答え」となっていること。
 2.「どうぶつの」という壮大な対象にかかる説明、解説の行為であるのに、わずかに「ライオン」と「しまうま」という二種類の動物しか取り上げていないこと。
 言わずもがなのことであるが、低学年用の説明文教材は、決して易しい読み物ではない。幼い者に対して行う説明は、論理も言葉も単純なものでなくてはならず、また分量的にも極めて限られている。低学年の児童に対する説明文作成行為は、実は至難とも言える性格を持っている。
 物事には、「はじめ」があり、「なか」があり、「おわり」があるのが普通である。文章・作文も、基本的にはこのような構造を持っていることを指導したい。変形のものがあるにしても,基本型として教えておきたい。
 しかし、低学年教材には、「問い」-「答え」という構造が少なくない。その理由は、構造が単純であることである。つまり、筆者が設定した問題とそれに対する答えとの対応関係がとらえやすいのである。「はじめ」-「なか」-「おわり」という基本型の持つ難点(低年齢の幼児・児童に対しての)は、端的に言えば、「おわり」に存在する。
 「おわり」とは、「総括」「まとめ」であり、換言すれば「抽象化」である。低年齢の児童は、ものごとを「具体的な相」でとらえている。物事を具体的にとらえることが不要なわけではない。具体的な相で把握することを、わが国の伝統的な作文教育である生活綴り方では、「概念くだき」と称して重視している。これは理由があることで、例えば、「昨日運動会がありました。楽しかったです。」というような概念的な作文(つまり概念的な認識をした結果)を書く児童が少なくない。「『楽しかった』という言葉を使わないで、楽しかったことが分かることをくわしく書きましょう。」という指導する意図も分かる。作文が,描写という手法で、生き生きしてくるのである。
 ところが、概念くだき、描写には、そのよさとともに限界もある。それは、抽象化の行為であり、一般化、法則化(他の物事にも通じる、本質の認識)がしにくいということである。(生活綴り方には、「概念づくり」という用語もあるが、それは、ここで言う抽象化行為に関わるものである。)小学校も後半学年になれば、抽象化能力も格段に発達するが、低学年に多くを期待することはできない。こういう問題を考慮した結果が、「問い」-「答え」という論理構造の文章なのであろう。
 私が、研究のアドバイザーとして関わった広島県福山市のA小学校で、この教材の研究をする際に,当然、上記のような話をした。この教材の特徴、長所と問題、限界を理解すれば、単純に「問い」-「答え」の構造を指導して終わるのでは不満になってくるのもまた無理からぬことである。いわば冒険がしたくなるのである。
 一年生担当のK教諭は、公開研究会の事前に行われた学習指導案検討会の場で、この教材の存在しない「おわり」に取り組む授業を構想していた。なぜ「おわり」がないのかを,児童に発見させようというのである。
 常識的には、そのような授業構想は避けるはずである。一年生が、真面目に、一生懸命に頭を働かせて、「おわり」を作ろうと努力した結果、「終わり」は書けない、どうしても無理だ、だから「おわり」がないのだと気づかせるのは、教育的でない。あまりに自虐的である。しかし、K教諭の熱意は冷めることがなく、私は、「思い切って、やってみよう。」と同意したのである。
 公開研究会当日、私は、高学年の授業の講評を担当していたので、一年生の授業を観察することができなかったが、低学年の授業の講評者から、とても面白い授業であったという感想を聞くことができた。一年生は、がっかりするのでなく、「おわり」がないという理由を、苦労の結果として発見することができたと感動したもののようである。
 児童は、わずかに二種類の動物を事例として取り上げただけの文章につけられた「どうぶつの赤ちゃん」という題名では、動物一般の子どもの特徴をまとめることは難しいことを認識した。私は、このことを認識しただけでも大したものだと思う。が、児童には、さらに、「どうぶつの赤ちゃん」という題名に問題があるので、それを変えようという代案を出すほどの力がある。そのような反応があることは、他の小学校の事例としても耳にしている。これは、問題の認識を超えて新しい文章(建設的な認識の結果としての)の創造である。児童は、学習過程の随所で、このような創造行為を発揮し、観察者を驚かせる。
 一年生は「ただ者ではない。」ということである。
  

複数教材の扱い方

2014-01-07 22:49:13 | 日記
 専攻科生の演習で、東京書籍5上用教材「動物の体と気候」を取り上げ、教材研究と模擬授業をしてもらった。
 「動物の体と気候」は、増井光子氏の手になる、なかなか面白い文章であるが、改訂前(平成16年検定)には、
「動物の体」という名前で、やはり同じ筆者の文章が収録されている。
 このような二つの教材を前にすると、まずは、両者を比べてみようという気になるはずである。さらに、比べた
結果として、どのように異なる個性を持ち、どちらが説明として上質、妥当であるかを吟味・評価することになる
はずである。
 学生の教材研究も、そのように進められた。
 ちなみに、二つの教材の違いとは、上記のように「題名」が異なっている。さらに、事例として、平成16年版
には、後半に、ヒトコブラクダが8段落にわたって説明されている。
 なぜ、ヒトコブラクダの事例を取り上げたかは、次の段落で明らかにされている。
 ⑭「動物たちの環境への適応の仕方は、これまでに述べてきたような、外から見える形だけではない。体の中の
  仕組みも、それが住んでいる環境に適応している。」
 前半の事例が、外から見える形(体型、体格、毛皮)に対して、後半は、体の中の仕組みを取り上げているので
ある。このような論理構造は、「体を守る皮ふ」という教材にもあったことを思い出した。児童に、ぜひとも出会
わせておきたいものの一つである。
 これらの他の両者の違いは、「題名」である。そのほかにも些細な違いがあるが、今は、それを問題にはしない。
 さて、題名が異なり、事例が異なる二つの文章であるが、意外なことに、まとめの段落は、全く同じである。そ
の段落を、以下に引用しておく。(教材全文をここに引用することは避ける。改訂前の教科書といえども、つい先頃
まで使用していた教科書の教材であるから身の回りのどこかに存在するはずである。)
 ⑭あるいは㉒
 「環境に適応しながら生活を営んでいるのは、これまでに挙げたような動物に限らない。動物たちの体は、それぞ
 れに、すんでいる場所の気候や風土に合うようにできているのである。それは、自然が長い年月をかけて作りあげ
 てきた、最高のけっさくであるといえるだろう。」

 ここまでの教材研究は、だれでもできるであろうし、またできなくてはならない。問題は、この先である。これ
らの解明された事実を、主教材(現行教材)の読みを確かなものにするために、どう生かすことができるのであろう。

 試みに、次のように問いかけてみよう。
 「二つの教材は、題名も、取り上げた事例も違うところがあります。それは、小さな違いとは言えません。二つ
 の教材のは、まずヒトコブラクダの事例のある文章があり、それからヒトコブラクダの例をなくしという関係に
 なっています。
  さらに、題名も『動物の体』から『動物の体と気候』に変わっています。
  でも、両方の教材のまとめの段落は、全く同じです。このことは、少し奇妙なことですね。ヒトコブラクダの事
 例を削除してしまったことを考えながら、まとめの段落を読んで、何か気づくことがありませんか。」

 かなり高度な問いかけかもしれないが、私が観察し、報告を受けた授業では、児童は、すぐに「風土」という読み
慣れない語句が突然出現することに違和感があると反応している。
 教材の題名「動物の体と気候」に照らせば、風土という言葉を使用する必要はなかったであろう。

 ここで、まとめの中の用語を確認し、整理しておきたい。

 1 環境 2 気候 3 風土

 これらは、どういう関係になっているのであろうか。何の説明もないので、児童は想像するしかないが、おそらく、
 「環境」という上位概念の下に、「気候」と「風土」があるという関係なのであろう。しかし、それにしては、「風
土」という語の内容は、複雑である。何の配慮もなしに使用してよい語ではない。児童は、国語辞典で、「風土」の語
義を探すであろうし、そうすべきであろう。すると風土の中に、気候が含まれているような説明が多い。両者は、「や」
で列挙される関係とは言えないかもしれないのである。
 ヒトコブラクダの事例は、砂漠という暑く、水の欠乏を条件とする環境である。これは、「気候」という言葉で処
理しきれない環境であり、筆者は、それを「風土」としたのであろう。この事例がなくなったのであるから、まとめの
段落の「風土」も、削除した方が分かり易かったのではなかろうか。

 内容としては面白いが、論理的に読もうとすると、いくつかの不具合が生じる。増井氏は、『どうぶつの赤ちゃん』
の特徴を、ライオンとしまうまの二つだけで説明しようとした(これも昔はカンガルーの事例をもつ教材が存在した
のであるが、それにしても三種類に過ぎない)ほどに大胆な人であり、この教材でも大胆かつ大ざっぱなとらえ方とい
う個性が随所に見られるのであるが、それは、致命傷というほどではない。しかし、ヒトコブラクダの事例を削除した
結果の処理には、十分と言えない問題が残っていると言わざるを得ない。

 5年生の児童が、この教材にどう取り組み、どう読み深め、どう評価するか、挑戦してみてほしい。