ちんごの地震予測でっ!

わたすの、あてにならない地震予測でっ!

2011.09.07 深夜でっ。

2011年09月06日 22時45分01秒 | 地震

はい!みなたん、こんばんびぃ~~~~。
早速でっが、かなりクロロフィル海色画像に変化が出てまっ!
台風が過ぎ去ったあとの反応でしょうか?









あと、ハープ君にチョイと変化が!


あと、カナダの地磁気にも赤反応が目立っていまっ!


その他の地磁気グラフも・・・・。






柿岡の地電流グラフは、



また、
太陽黒点数が6連続 100以上になってますた。

2011 08 31 109 121 450 1 -999 B2.6 1 0 0 8 0 0 0
2011 09 01 112 119 590 0 -999 B2.9 2 0 0 5 0 0 0
2011 09 02 115 103 650 0 -999 B3.3 1 0 0 12 0 0 0
2011 09 03 119 139 580 2 -999 B4.9 8 0 0 18 0 0 0
2011 09 04 119 114 540 0 -999 B6.3 6 1 0 4 0 0 0
2011 09 05 119 102 440 1 -999 C1.6 1 2 0 2 0 0 0






あっ!世見さんが、こんな内容をアップしてます。
 
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江戸へ


<2011.9.6>

●十八世紀には、江戸の人口は百万人を越えたといいます。今では東京圏には3650万人もの人が生活しているのを見ると、人間の力の凄さを感じますが、今更ながら徳川家康の凄さを感じます。室町後期に太田道灌が築いた江戸城に、家康が何故興味を持ったのだろうか?いや、きっと仕方がなかったからに違いない。確か、秀吉が国替えをさせたと記憶しているのですが、私の記憶は時折学びし事が本だったり不思議な世界の方に教えられたかが分からなくなります。
でも、今は手を止めず先に進む事に致しましょう。

家康の頭の中に太田道灌か源頼朝かと考えたかどうかは分からないが、家康は源頼朝の鎌倉を選ばず、東京・江戸を選んだのです。
今日はどうやらこの頃の江戸へ、不思議な世界の方が導いてくれるようです。
楽しみ、楽しみです。

「エェ、太田道灌時代の東京の地図を調べろ」ですって。

「家康が開削工事をする前の東京を知るのです」とも聞こえた。

420年も経つと、自然界は今の姿が本物のように思えて来るのですが、とんでもありません。それ以前に自然界が自然を作っているのです。

「道三堀には、気をつけなさい」
意味は分からないが、聞こえたから書いておきます。

「人が掘ったり埋めたりする事で、地盤が軟弱になる」とも言われておられますが、その掘ったり埋めたりした場所が、道三堀なの?そう云えば、道三の後に「堀」と云う字が付いています。
サテサテ、この場所へとまいりましょう。
●東京の地盤

<2011.9.7>

関東平野は湿地帯だと、前に不思議な世界の方に教わった。
どうやらこの湿地帯の土って、力強くなく、この湿地帯で埋めた場所も軟弱なようです。
「道三堀」に関わる地域ですって。やっぱり気になります。
神田山って、あの神田かなぁ。
湯島台、やっぱり神田辺りかなぁ。
この台地は、地盤がしっかりしているそうです。
どうやら今日は東京の地盤を教えてくれているようです。
だからと云って、心配され過ぎても、それこそ私が心配ですが、
日頃からの「備えあれば」が大きな出来事が起きた時に役立ちます。
東日本大震災でも先人が残した言葉が人を助けています。

エェ、神田山って、家康が壊したのですって、「残念です」
エェ、又々、エェと云う言葉が出てしまった。JR東京駅周辺って埋立地。

人が住むと云うのは並大抵ではありません。家康が作り上げたと云っても過言ではない東京。
山王台地と赤坂台地、日枝神社に氷川神社はどうやら津波さえなければしっかりした所だそうですが、溜池を作った為に、以前の川の流れが変わり、どうやら以前の川があった辺りも低湿地帯と云え、地盤は緩いそうです。

東京って、人工貯水池が多いのですネ。
此処も興味のある方はお調べ下さい。

人は水がなくては生きてはいけません。
人間の知恵は生きる為に自然を次々に壊していったようですが、そのツケが400年の時を掛けて、いつ今の世の人にツケが回って来るか分かりません。
勿論、今の私達がやっている自然界を壊す働きは、400年後の人々を苦しめる結果になるかも知れません。




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太田道灌 おおた・どうかん

このしとは、こんなしとでっ!




あと、太田道灌時代の東京の地図は、


現在は、



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●上図は大田道灌が江戸城を築いた頃の時代における江戸周辺の地図を現したものです。現代との重ね図から読み取れるとおり、現在とは大分異なった様相を呈していました。

もっとも大きな相違は海岸線です。現在の大手町あたりから芝にかけての部分は日比谷入江と呼ばれた入江状の海になっており、その先に江戸前島と呼ばれた半島状の土地がぶら下がるように突き出ていました。

河川の流れも現在とは大分異なっています。当時平川と呼ばれた神田川は、途中小石川を合流して日比谷入江に流れ込んでいました。小石川は現在はありませんが、ほぼ白山通り沿いの低地を流れていたものと思われます。また、石神井川は不忍池を中継点にして南北方向に流れ、直接江戸湾に流入していました。

この地に道灌が築いた江戸城は、ほぼ現在の皇居東御苑に相当する場所で、北の丸の台地を背にして日比谷入江の海に臨んでいました。守りを重視した築城術であったといえましょう。

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埋め立て地は、気をつけて下さい。