藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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正式な「長州三家老首実検」の現場は別の場所だった

2020年04月02日 01時07分12秒 | 芸藩志第三部(第
*途中現代地図のリンクあり
一部の長州藩士が脱藩して京都で挙兵しようとしているとして、
三家老が引き留め工作をしようとしていたが、
ミイラ採りがミイラになってしまった。
結果的に三家老が「禁門之変」の首謀者になってしまう。
これに対し、孝明天皇は、全責任は毛利大膳父子にあるとし、
毛利追討を命じた。
毛利家の弱体化を図りたい幕府と毛利家を守りたい長州側の間で
水面下の駆け引きがあった。
まず長州側から言い訳を訴える行動が起されたものの、
幕府から長州封じ込めの命があり、
長人は国外に出る事を禁じられた。
是により、朝廷、幕府に言い訳する事さえ許されず、
他藩に助けを求める事も出来なくなった。
但、藝藩(広島藩)だけは、幕長の仲介として周旋を任されていた。
まず、藝藩年寄野村帯刀と薩藩大島吉之助(西郷)が協議し、
長州征討総督に任じられた尾張前大納言に戦争回避の提言を行う。
尾張前大納言も戦争を回避したい意志があり、
毛利支藩の岩国吉川監物に使者を派遣する。
これを受けて吉川監物は歎願書を提出、
その中に三家老の処分も書かれていた。
(是に関しては、内々に勧告があったのかもしれないが、
一般に云われているような、
幕府から三家老の首級を差し出す様に命じられた
とは『藝藩志』には書かれておらず、
吉川監物からの申出という形になっている)
これを受け取った尾張総督は、このままでは幕府が受け取らないので、
藝藩から提出するという形に書き直す事を命じた。
藝藩は歎願書を提出したが何時まで経っても沙汰はなく、
其内に各藩進発の命が下る。藝藩は先鋒を命じられた為、
長州の代わりに歎願書を提出しているにも拘わらず、
実際に兵を国境近くに進軍、宿営するところまで行った。
これは拙いということで、
藝藩年寄筆頭辻将曹と薩藩大島吉之助等が協議し、
岩国へ急行し「幕府の御沙汰を待っている情況ではない。
直ちに三家老の首級を差し出すべきだ。」と訴える。

十一月十三日三家老の首級が廿日市駅に到着、
翌十四日朝に
正午廣島国泰寺に於て長州三家老の首実検式が行われた。
絵図の端に池があるが、現在も残っている「愛宕池」である。
この場所、毛利輝元時代の海辺の岩礁(愛宕池の岩)がANAホテル前に現存。
埋め立て開発により、文久年間の海岸線は現在の鷹野橋辺りで、三家老の首が船で運ばれ、上陸した場所とされている。

首実検式の当日、総督代理の成瀬隼人正により、
在広諸藩重役が総督本営に招集され、
十一月十八日の攻撃開始を見合わせるから
再令を待てと執達されていた。

尾張総督が廣島に到着したのが十一月十六日であり、
正式な首実検は十一月十八日に総督府が置かれた
八丁馬場の浅野右近(三原城主・筆頭家老)屋敷で行われた。
【地図】(グリンアリーナと広島市立中央図書館の敷地の南半分)
首実検が終わると国泰寺に戻され、翌十九日に広島藩に引き渡され、
二十二日に吉川に引き渡されたと記録されている。
進撃開始日の十一月十八日に間に合わないから
取敢えず進撃中止をする為に仮手続きを取ったものが、
一般的に云われている「三家老の首実検」として伝わっている様だ。
しかも十一月十三日と云われている様だが、「藝藩志」では
廿日市駅を出て船で出て、十四日朝に国泰寺村新開に着船、
首実検は十四日の正午に行われている。
この辺りの日時の違いはどうして生じたのだろうか。
*廿日市から国泰寺村新開まで船で運ばれた理由は、
海田市駅、廿日市駅間が治安維持の為に立ち入り禁止区域に指定され、
陸路通行が出来なかった為。
主として長州からの越境侵攻を警戒する為であった様だ。

ところで、『藝藩志』の中では、
大島吉之助がやったことは尾張総督に平和的解決を上申したのと、
吉川監物に三家老の処分を急いで実行する様に説得に行った事だけだった様だ。
その際には藝藩士も同行して一緒に当っていたし、
この間ずっと幕長の間で周旋活動をしていた。
では、大島吉之助はどういう役割だったのか、という疑問が生じる。
具体的な周旋活動は藝藩が担っていたのだから、
藝藩に活動の主体があったと考えて良いと思う事から、
どちらかといえば、藝薩の経済的協力関係と連動した協調行動
であったと考えるべきかもしれない。
しかし、他に何の役に立ったのか説明がつかないのだから、
濃い顔で強めな口調で訴えたら相当な威圧感があるだろうと推測され、
それだけの為に呼ばれたのではないかと勘繰りたくなる。


(拡大して見たい場合こちらをクリック)
*尚、『藝藩志』が保管されていたのは
「浅野図書館」(現広島市立中央図書館)である。
首実検の現場だった場所である。


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