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「青天を衝け」(14)がより面白くなる 町田明広先生の解説 5/16

2021年05月17日 20時46分05秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
「青天を衝け」(14)「栄一と運命の主君」
内容:
栄一と慶喜、ついに運命の出会い!
初の謁見で、栄一の思いは、慶喜に届くのか!?
朝廷を取り込もうとする薩摩藩・・・
そして慶喜が”天下の大愚物”と、雄藩の大名たちを一喝!
 
栄一と貴作は、円四郎から一橋家に仕官せよと迫られるが、
栄一は慶喜に意見を建白することを条件に出す。
円四郎は遠乗り途中の慶喜に二人を対面させ、
屋敷で謁見させることに成功、2人は一橋家に仕官することになった。
一方慶喜は、薩摩藩が中川宮を取り込んでいることに気づき、
中川宮を問い詰め、島津久光らに天下の大愚物、
”天下の大悪党だ”と言い放つ・・・
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本日は「青天を衝け」14回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
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「青天を衝け」14回目を拝見!渋沢が一橋家に仕官する経緯が、平岡を介して多少コミカルに描写され、かつ当時の政治動向も平岡がうまく紹介してくれました。また慶喜が参与諸侯との緊迫感を高め、薩摩藩と対決する序章が描かれました。渋沢が慶喜を追いかける場面、何度見ても胸熱ですね
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大河ドラマで、政事総裁職の松平直克と老中の水野忠清が登場。しかもセリフあり。個人的には感激した。ちなみに、水野の老中での在任期間の長さは尋常でない。文久2年から慶応2年まで、4年半ほど。この激動期に罷免されなかった彼の政治的動向、政治力は検討に値する。
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元治元年(1864)2月初旬、渋沢栄一は尾高長七郎からの書簡を受け取った。何とその手紙は、小伝馬町牢屋から出されたものであり、中村三平・福田義助とともに捕縛されたことを報じ、悪いことに幕政を批判し、攘夷実行の計画を記した渋沢の書簡を懐中にしたままであったことを知らせてきた。
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尾高長七郎は、幕府は横浜鎖港のために瓦解することは間違いないので、我々が国家のために尽くせるのはその時である。それまでは、京都に居るようにと警戒を促したため、渋沢らは苦心焦慮して善後策を検討した。
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元治元年2月8日、渋沢らは平岡円四郎が一橋家へ推挙してくれたため、仕官することが叶った。平岡はそもそも、渋沢らを一橋家に仕官させたいという野心があったが、渋沢の窮地を救う体を取って、その目的を果たしたのだ。
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一橋家というのは徳川三卿の一つであり、8代将軍吉宗の4男宗尹を祖とする。寛保元年(1741)に江戸城一橋門内に屋敷を与えられ、この事実が一橋徳川の名称の由来となった。2代治済の長男は将軍家を継いで、11代将軍家斉となり、9代目には渋沢と関わる水戸徳川斉昭の子慶喜を迎えた。
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その慶喜は、慶應2年(1866)に15代将軍となる。一橋家の領知は10万石で、西日本では8万石(おおよそ摂州に1万5000石、泉州に8000石、播州に2万石、備中に3万7000石)、関東では意外にも2万石に過ぎない。
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渋沢は一橋家に仕官するにあたり、正式な仕官前に慶喜への拝謁を希望し、「是までの先例にあるかないか知れませぬが、一度君公に拝謁を仰付けられまして、仮令丁寧な御意がなくとも、一言直に申上て後に、御召抱へを願ひたい」(「雨夜譚」)と平岡に依頼した。
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それに対し、平岡円四郎は「其れは例がないから六かしい(難しい)」、つまり前例がないと渋沢は拒否された。至極当たり前の受け答えであり、そもそも、そんな無茶なことを口にする渋沢栄一の方こそ、どうかしているのである。
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渋沢栄一は、「例の有無を仰しやるなら、農民を直に御召抱へになる例もありますまい」と、前例を持ち出すのであれば、農民を直に召抱える前例もありませんと売り言葉に買い言葉で答え、平岡を閉口させた。
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平岡は「そんなに理窟をいつたとて、左様は往かぬ」と拒絶すると、「それが往かぬと仰しやる日には、私共は此の儘にて死ぬとも生るとも、此の御奉公は御免を蒙るより外に仕方がありませぬ」と強情だった。慶喜以上かも知れない。
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渋沢は仕官辞退を言い張ったため、とうとう平岡が折れて、数日後、「ドウカ拝謁の工夫が附たやうだ、併し見ず知らずの者に、拝謁を許す訳にはゆかぬから一度遠見なりとも、彼れが何某で御座ると、御見掛けになる様な工夫をせむければならぬ」と、拝謁の方法を渋沢栄一に話し始めた。
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平岡は「元々家来でないから、好い都合がないが、両三日中に松ヶ崎へ御乗切りがあるから、其途中へ出て居て、御見掛けになる工夫をするがよい、けれども夫れには乗馬だから、駈んければならぬといふことであつた」と、馬で遠出をする慶喜を待ち伏せして拝謁するという無茶なプランだった。
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渋沢は大いに困惑した。というのは、「自分の身体は其頃から肥満して居り、殊に脊も低いから、駈あるく事は極めて難義であつた」からである。しかし、「一橋公の御馬が見えるとすぐに、下加茂辺から山鼻まで、行程十町余りの処を一生懸命でひたばしりに駈けて御供をした」。
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渋沢は、肥満気味の体にもかかわらず、頑張ったと拝謁時の苦労を語っているのだが、この時、実際に言葉を交わしたかどうかは分からない。しかし、事実上の拝謁を果たしたのだ。栄一、スーパー頑張った。
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渋沢栄一は喜作とともに、奥口番・御用談所下役出役(俸禄4石2人扶持、在京月手当金4両1分)で出仕、4月中旬に御徒士に昇進し、この頃、初めて慶喜に内御目見を許され、意見を述べている。
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渋沢は「幕府の命運は危うき状態になり、徳川宗家(将軍家)のためを思われるのであれば、一橋家の勢力を拡大して宗家を擁護すべきであり、そのためには「広く天下有為の士を招致すること第一の急務なり」(渋沢栄一伝稿本)と、人材の登用を勧説した。
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いよいよ尊王志士から一橋家臣、武士となった渋沢栄一の新たな人生が始まったのだ。それにしても、短期間での劇的な人生の大転換である。いよいよ次週から、西郷隆盛など、薩摩藩絡みのストーリーが始まる。期待したい。
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この間の中央政局の動向について、薩摩藩・島津久光の視点から振り返っておこう。八月十八日政変後、いよいよ久光は、具体的な国政参画を期して、文久3年(1863)10月3日に上京した。同月19日に至り、久光は松平春嶽を東本願寺学林の旅宿に訪ね、今後の周旋方針を協議した。
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対外方針については、島津久光生麦事件から始まる薩摩藩と英国との緊張関係もあって、幕府の横浜鎖港談判については、「皇国の御為危き殆たいの至りなり」(『続再夢紀事』)と危惧の念を示した。つまり、横浜鎖港には反対の立場を明確に松平春嶽に示した。
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島津久光は続けて、談判に服さず、列強が大挙して襲来したら幕府はどのような処置をとるのか、その時になって談判以前に戻そうとしても無理である。横浜鎖港に固執することは、内憂外患が一気に噴出して、大混乱に陥ると警鐘を鳴らす。
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ここは一橋慶喜をはじめ、速やかに未来攘夷派の諸侯が上京し、「官武の御一和ハ申す迄もなく開鎖の可否をも議定せらるゝ事」と公武融和はもちろんであるが、開国すべきか鎖国すべきかを議するべきであると述べ、国是を通商条約の容認に導くことを提唱した。
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島津久光松平春嶽に対するこうした言説を見る限り、これまでの、通商条約を容認するか否かの態度を鮮明にしない、どこか遠慮がちな対応から一歩踏み出したことがうかがえる。八月十八日政変の成功も相まって、通商条約の勅許を意識した態度への転換である。
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島津久光は、西国雄藩である薩摩藩の事実上の国主であり、近衛家との濃密な関係が存在していたことから、孝明天皇の信任も厚かった。しかも、八月十八日政変の成功に深くかかわったのが薩摩藩であった。こうしたことを背景にした、久光の自信みなぎる春嶽への意見の開陳である。
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文久3年11月15日、久光は近衛家において孝明天皇宸翰を拝戴した。久光に対する孝明天皇の信頼は、前年の文久2年(1862)4月の浪士を鎮撫した寺田屋事件から継続していたが、その表れである。孝明天皇の真のより所は将軍ではなく、無位無官に過ぎない久光であったのだ。
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孝明天皇は朝廷内でも破約攘夷派グループに押されており、中川宮しか頼りになる廷臣はおらず、孤独感は相当なものであった。孝明天皇の依頼は武臣では久光、廷臣では中川宮に集中しており、この状況は文久3年末まで続くことになる。
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その宸翰には少なからぬ在京諸侯や廷臣が長州藩に同情を寄せ、その復権を画策するという政変後の中央政局の難局を、久光と協働で乗り切りたいとの願望が率直に語られている。そして、具体的な諮問内容が21項目にわたって列挙されていた。その最初の諮問事項が対外政略についてであった。
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孝明天皇は久光に対し、攘夷実行について、武備が不十分な状態での戦争は避けるべきというのが天皇の自論であるとする。しかし、過激な即時攘夷を唱える暴論激派の前では多勢に無勢であり、その上、自分自身が愚かであり、はっきりとものも言えなかったと吐露する。
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孝明天皇は続けて、政変前のような即時攘夷派が思い通りに政局を牛耳る事態となったと言い訳を述べる。そして、今後、皇国が永遠に穢けがされることなく安んじられるために、迅速な攘夷実行の方策を建白して欲しいと訴えた。
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それに対して、島津久光は皇国のみ鎖国の状態にあることは極めて難しいと、暗に通商条約の容認を示唆した。さらに、とても今の武備では勝ち目などなく、一度開戦となれば、皇国のすべての人民が塗炭の苦しみをなめることになると持論を展開した。
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そして、島津久光は武備充実が唯一の策略と率直に述べる。即時攘夷は不可であり、当面は通商条約を容認し、武備充実の上での攘夷実行、すなわち未来攘夷を提唱した。島津久光孝明天皇に対して、とうとうここに至り、未来攘夷を率直に具申したのだ。
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ここまで孝明天皇が信任する島津久光、一橋慶喜が脅威を感じるはずである。
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ところで、八月十八日政変後、幕府の久光に対する態度は一変する。それまで、幕政に関与しようとする久光の態度に、幕閣は極めて冷淡であったが、朝廷からずば抜けて信頼され、中川宮や近衛家という絶対的なパイプを持つ、稀有な武臣である久光に接近し優遇し始めた。
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例えば、一橋慶喜島津久光薩摩藩主に推しており、薩摩藩・久光と幕府の蜜月関係が構築されて、共同で長州藩と対決しようとする姿勢がうかがえる。慶喜は最初から久光を嫌ったわけではなく、むしろ上洛当時は絶大の信頼を置いていた。
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翌文久4年(1864、2月20日に元治に改元)1月、島津久光は朝議に参画することを許され、また、同月に将軍家茂が朝廷の要請に応えて、政変後の中央政局の動揺を抑えるために上洛してからは、二条城の老中御用部屋入りを許され、幕政にも関与が可能となった。
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一見、島津久光の絶頂期に見えるのだが、実際にはいずれも諮問レベルの形式的なもので、体の良いお飾りに過ぎなかった。これは、朝幕双方ともに本音では、久光をはじめとする有力諸侯の政治参画を快く思っていなかったからに他ならない。
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その背景として、久光が朝廷内での更なる庇護者を求め、孝明天皇が嫌う山階宮晃親王の還俗を強硬に主張し、久光は天皇の信頼を失った。しかも久光の朝廷への過度の影響力を恐れた慶喜とも確執を深めたことから、久光の政治的権威は急速に衰え、全ての要職を辞して帰国せざるを得なかった。
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ここに、薩摩藩・島津久光と幕府の蜜月関係は終焉を迎えた。この間、国是については、久光の意に反して慶喜が主導して横浜鎖港と決まり、大政委任を受けた幕府によってその談判が継続された。
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しかし、慶応元年(1865)9月に英仏米蘭の四国連合艦隊が大坂湾に入り込み、朝廷を威圧したことから、孝明天皇も通商条約を勅許せざるを得なかった。ここに期せずして、斉彬・久光が思い描いていた未来攘夷が事実上の国是となった。
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しかし、時代は通商条約の可否をめぐる対外政略の違いによる政争から、王政復古か大政委任かをめぐる国体レベルでの騒乱へと突き進み、明治維新を迎えることになる。話が少し進み過ぎてしまった。
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朝彦親王(1824~1891)について、日本大百科全書で簡単にご紹介。幕末期、公武合体派の中心人物の一人。伏見宮邦家親王第4王子で、1836年(天保7)仁孝天皇の養子。名は成憲、のち朝彦。粟田口の青蓮院門跡となり、尊融と称し、天台座主補せられた。
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青蓮院宮、粟田宮、中川宮、尹宮、賀陽宮などともいい、1875年(明治8)久邇 (くに) 宮と称した。安政の大獄では一橋派を支持して処罰され、文久期(1861~1864)には国事御用掛となり、公武合体派の重鎮として「文久三年八月十八日の政変」を推進、孝明天皇の信任が厚かった。
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しかし、天皇の急死、「王政復古」で政治生命は断たれた。1868年(明治1)には嫌疑を受けて広島へ謫居、1870年京都帰住、1875年から神宮祭主となり、以後伊勢神宮の古儀、旧典の調査、考証に努めた。『朝彦親王日記』2巻(復刻・1969・東京大学出版会)は、幕末活躍期の日記である。
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中川宮は稀有な政治的野心を持ち、実際に政治的権威を自身に収斂させる政治家としての高い資質があった。本日のドラマの中では、ややオドオドした態度であったが、実際はこの程度では全く動揺しない器量を持っていた。なお、中川宮薩摩藩から離れ、これ以降は慶喜と入魂となる。
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参与諸侯に止めを刺した一撃が、元治元年3月25日、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防禦指揮への就任であった。これも中川宮の協力なくして、不可能な人事であった。中川宮平岡円四郎・黒川嘉兵衛の暗躍であろう。
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これを受け、中央政局に見切りをつけた参与諸侯は、帰国を真剣に講じ始め、4月8日には聴許され、15日に久光が退京するなど、ここに諸侯による朝政参与という形態による国事周旋は終焉を迎えた。このあたりも、中川宮と慶喜および側近の連携による政治的策略である。
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松平容保(1835~1893)について、幕末の会津藩主。号は祐堂、芳山。若狭守、肥後守となる。美濃国(岐阜県)高須藩主松平義建の6男に生まれ、会津藩主松平容敬 (かたたか) の養子となり、1852年(嘉永5)襲封した。
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松平容保公武合体論を唱え、1862年(文久2)の幕政改革で幕政参与となり、新設された京都守護職に就任し、即時攘夷運動が熾烈になった京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派志士弾圧の指揮をとった。
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松平容保は、1863年の八月十八日の政変では、中川宮薩摩藩らと協力して長州藩などの尊攘派勢力を追放し、一橋慶喜、松平慶永、山内豊信 、伊達宗城、島津久光とともに参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回を図ったが、内部対立のために失敗した。
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1864年(元治1)、これを好機として禁門の変(蛤御門の変)を起こした長州藩を、薩摩・桑名藩とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総裁職につき、また京都守護職に復した。その後、徳川慶喜と協力して条約勅許問題などで活躍した。
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1867年(慶応3)、薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮の宣旨が出され、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、鳥羽・伏見の戦いに敗れて海路、江戸へ逃れた。慶喜に再挙を説いたがいれられず、会津で奥羽越列藩同盟の中心となり、東北・北越に兵を展開した。
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しかし、松平容保は籠城のうえ降伏、鳥取藩のち和歌山藩に永預 (ながあず) けの処分を受けた。1872年(明治5)許され、1880年には東照宮宮司となった。明治26年12月5日没。今回はあまり目立たない容保であるが、当該政局のキーパーソンであることは間違いない。
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NHK青山講座(対面)「新説 坂本龍馬」
最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。途中からの参加も可能です。

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NHK青山講座「新説 坂本龍馬」
6/19(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件
9/18(土)海援隊と薩土盟約
10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺

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JBpressで連載を開始しました。
「渋沢栄一」①②③④、「井伊直弼」①②③が公開中です。ぜひ、ご覧下さい! 
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白鷺舎講演会「大河ドラマで語られなかった橋本左内-将軍継嗣活動を中心に-」
日時:8月1日(日) 13:00~16:00 オンライン
ドラマにも登場した橋本左内を、それはそれは篤く熱く語ります。ぜひ!! 
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高知県立坂本龍馬記念館 令和3年度連続講演会「龍馬を考える5つの視座」
8月28日(土)「薩摩藩と坂本龍馬」講師:町田明広(神田外語大学外国語学部准教授)

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第229回照國講演会  
9月11日(土)(午前10時30分)「薩摩藩と大英帝国」
神田外語大学 町田明広
 
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