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「青天を衝け」(20)がより面白くなる 町田明広先生の解説 6/27

2021年06月27日 21時01分15秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
「青天を衝け」(20)「篤太夫、青天の霹靂」
内容:
家茂(いえもち)が亡くなり、
慶喜(よしひさ)の将軍就任が確実視される中、
篤太夫は「今、将軍になっても国中の非難を一身に背負うだけ」
と慶喜に進言する。
一方、薩摩の大久保一蔵(利通)は岩倉具視(ともみ)と共謀し、
王政復古を画策していた。
慶喜が徳川宗家(そうけ)を継ぎ、
篤太夫は嫌っていた幕臣になってしまう。
そんな中、新撰組副長・土方歳三とともに
謀反人の捕縛に向かうことに・・・。

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③関連史料 史料(デジタル史料含む)

1>町田明広@machi82175302 2021年6月27日   
本日は「青天を衝け」20回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。本日は、土方歳三?
2>
「青天を衝け」20回目を拝見!本日は慶喜の宗家相続(将軍就任)に反対し、幕臣となって慶喜と距離ができ、鬱積する渋沢の心情が巧みに描かれた。また、幕臣捕縛で土方歳三とのやり取りが、史実をベースに展開され、2人の心の絆や渋沢の前向きになる気持ちの推移が描かれ、秀逸だった
3>
慶応2年(1866)6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃から、第2次長州征伐(幕長戦争)が開戦となった。幕府軍は1年以上に及ぶ大坂滞陣に辟易しており、しかも、病気も蔓延して士気は停滞していた。そこに、薩摩藩を始めとする諸藩は出兵を拒否したため、幕府にとっては痛手となった。
4>
7月20日、島津久光・茂久(忠義)父子は征長反対の建白書を提出した。薩摩藩は、「小松・木戸覚書」(いわゆる薩長同盟)も相まって、一貫して長州再征には反対しており、あからさまに、抗幕姿勢をより鮮明にした。困った幕府は、松平春嶽勝海舟薩摩藩との仲介を依頼するなど試みた。
5>
長州藩は、大村益次郎による軍制改革によって、家臣団軍隊の改編が進んでいた。この経緯は、日本史における武士団解体の歴史における重要な画期となっている。幕府は散兵戦術に長け、薩摩藩の名義借りで購入した近代兵器を使いこなした長州軍に大敗を喫した。武器の優劣の差ではない。 
6>
7月20日、将軍家茂が大坂城で急逝(脚気衝心)した。家茂の遺言は、ドラマで描かれたとおり、将軍候補として田安徳川家(御三卿)の7代当主田安亀之助(静岡藩初代藩主家達)が指名されていた。しかし、亀之助がまだ4歳であるため、和宮などの反対にあった。 
7>
老中板倉勝静は、病床の家茂に対して、継嗣について確認することを何度も思い立ったが、さすがに遠慮したと語っている。慶喜しかいないことは、自他共に認めるところであり、どのタイミングでどのように受けるのか、そこがポイントであった。
8>
7月27日、慶喜は徳川宗家の家督相続を承諾したものの、実は手に入れたかったのではないかと考える将軍職は固辞した。それにしても、当然のことであった徳川宗家=征夷大将軍に待ったをかけ、慶喜は宗家家督と将軍職を切り離して対応しており、その発想の転換には驚かされる。
9>
8月8日、松平春嶽らの反対意見を退け、慶喜は参内して自らの出陣の勅許を奏請して聴許された。孝明天皇によって、戦争の継続が沙汰されたことになるが、天皇は慶喜以上に、あくまでも長州再征の継続にこだわりを示し続けたのだ。 
10>
出陣の勅許まで獲得した慶喜であったが、九州方面での敗報が届くと手のひらを反し、8月13日、関白二条斉敬に征長出陣中止の勅命を内請した。このあたり、慶喜の思考回路の鋭敏さではあるものの、変わり身の早さと捉えられ、その行動に周囲はついて行けなかったであろう。 
11>
孝明天皇は、慶喜の長州ヘの大打ち込み中止の奏請に、当初難色を示したものの、8月16日にしぶしぶ勅許した。慶喜は、諸大名を召集して、天下公論で国事を決める姿勢を示した。しかし、慶喜を支持し続けた関白二条斉敬朝彦親王の朝廷内の権威失墜に繋がったことは自明である。 
12>
また、慶喜の幕長戦争への対応は、会津藩にとって、由々しき事態であった。一会桑勢力(一橋慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬)と言われていたが、この段階で大きなきしみが発生したことも見逃せない。このあたり、ドラマでもうまく演出されていた。
13>
慶応2年8月11日、渋沢栄一は幕長戦争への従軍を命ぜられ、勘定組頭に御使役を兼任し、御用人手附を拝命した。万が一に備え、手書および懐剣を夫人に贈って別れを告知した。ドラマでは、それらを受け取った千代の姿が感動的に描かれ、涙を誘われた 
14>
慶応2年7・8月ころ、慶喜が将軍継嗣と取りざたされるに至り、渋沢栄一は渋沢成一郎とともに、黒川嘉兵衛に代わって用心筆頭になった原市之進に対し、その不可である理由を切論した。その内容を、『雨夜譚』によって、少し詳しく見ていこう。 
15>
渋沢栄一は、「今日の徳川氏は、これを家屋に譬へていふと、土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちた、大きな家の如きものである」と、現在の幕府(徳川宗家)は土台も柱も腐った崩れかけた家のようなもので、救いようがないと分析する。 
16>
渋沢栄一は、「然るに今一橋公は賢君であるの材能が多いのといつて、御継統の将軍となし奉つたとても、恐れながら君公一人ではドウすることも出来ず或は却て滅亡を早くするやうなことがあるかも知れぬ」と、慶喜がいくら有能であっても、1人ではどうすることもできないと訴える
17>
渋沢栄一は、「然るに今一橋公は賢君であるの材能が多いのといつて、御継統の将軍となし奉つたとても、恐れながら君公一人ではドウすることも出来ず或は却て滅亡を早くするやうなことがあるかも知れぬ」と、慶喜がいくら有能であっても、1人ではどうすることもできないと訴える。 
18>
渋沢栄一は、「今一橋公が大統を継いで将軍家の御相続をなさるといふは、丸るで死地に陥るので、実に失策の極、危殆千万な事柄である 故に何卒相続の事は切に御止まりにならんことを願ひたい」と、将軍就任は死地に陥る下策であり、絶対に相続してはならないと切言した。 
19>
渋沢は、「其代りに自分等の考案は、此の累卵の如き危い幕府たりとても、これをして一日も長く保つ様にするのには、一橋公は御相続を御辞退になり、他の親藩から幼弱の人を撰んで、将軍家の継統として、一橋公には相替らず御輔佐の地に居られて」と、渋沢の意見として、現状維持を訴える。 
20>
渋沢栄一は、「依然として京都守衛総督の御職掌を尽さるゝが、御双方の得策であると思ふ、」と、慶喜に一橋家に留まり、禁裏御守衛総督を全うすることを勧める。あくまでも、将軍職は辞退し、現状維持のまま、幕府を補佐することを全身全霊で進言したのだ。
21>
渋沢栄一は、「併し此の総督の大任を完全に尽すといふ日には、兵力といひ財用といひ、現今の有様では何の役にも立たぬから、宜く此の機会に投じて、畿内又は其近傍に於て、五十万若くは百万石の封土を御加増になるといふ計画になされたいものである」と、渋沢らしい論を展開する。
22>
渋沢栄一は、つまり、禁裏御守衛総督を完全に全うするためには、兵力と財力が必須であり、今のままではどうにもならないため、この機に乗じて畿内ないしその近郊で50ないし100万石の加増を受けるべきと進言している。渋沢の、リアリストとしての面目躍如のプランであろう。 
23>
渋沢栄一の意見を開陳された原市之進は、慶喜に直訴することを渋沢に勧めた。しかし、それも叶わず、渋沢は失望して鬱積状態となっていった。このあたり、ドラマからも渋沢の心情が伝わってきたが、吉沢栄一の演技力も流石であった(^^) 
24>
原市之進について、 朝日日本歴史人物事典によると、生年は天保1.1.6(1830.1.30)、没年は慶応3.8.14(1867.9.11)、幕末の幕臣。水戸藩士原雅言の子。藩校弘道館に籍を置き、また会沢正志斎藤田東湖に学ぶ。嘉永6(1853)年、昌平黌に入学。 
25>
原市之進は、安政2(1855)年帰藩、弘道館訓導、次いで史館に勤務の傍ら、菁莪塾を経営し子弟の教育に当たる。同5年8月の戊午の密勅降下を機に尊王攘夷運動に参加。老中安藤信正の襲撃を画策した。文久2(1862)年12月徳川(一橋)慶喜に随従して上洛した。 
26>
原市之進は、元治1(1864)年4月選ばれて一橋家御雇、慶喜の謀臣として長州再征条約勅許の工作に当たる。慶応2(1866)年7月目付に登用され、慶喜の将軍就任に力を注いだが、翌年8月14日、微禄の幕臣に殺害された。年38歳。その背後関係は不詳である。
27>
慶応2年9月7日、慶喜の宗家相続を踏まえて、渋沢栄一は幕臣となり、陸軍奉行支配調役に転身した。御目見え以下に格下げとなり、直接慶喜に意見の具申をすることは、まったくできなくなったのだ。渋沢の鬱積は、一層強まった。 
28>
渋沢栄一は、書院番士大沢源次郎を逮捕し武勇を称揚されたが、勘定方を外され、11月に至り致仕(徳川家から出奔)を決意した。ところで、大沢捕縛にあたっての経緯を、渋沢自身に語ってもらおう。 
29>
渋沢は、「麾下で禁裡番士を勤め京都に駐在して居つた大沢源次郎といふ男が、薩州の者と手紙を往復したとかで当時非常に薩摩を怖がつてた幕府から不軌を企つるものと見做され」と、大沢の人となりと、その罪状等を説明する。 
30>
渋沢は、「その頃大阪に政庁を置いてた幕府の陸軍奉行より、同人へ御不審の廉あるに付江戸へ護送して吟味致すべき旨申渡し、其場で同人を召捕ることになつた」と、捕縛決定に至る経緯を述べる。 
31>
渋沢は、「その時の陸軍奉行調役組頭は臆病な男で、大沢が撃剣に達して居るといふ事を耳にし、自ら出かけるだけの勇気無く、私へ其の役を転嫁して来た」と、渋沢自身が捕縛に赴くことになった経緯を開陳する。渋沢にとっては、ありがた迷惑な話である。 
32>
渋沢は「私が新撰組の者数人と共に大沢の寓居であつた紫野大徳寺の境内へ、陸軍奉行からの申渡状を持参して赴く事になつたのは此の時であるその際近藤勇は、本来ならば自分で同道する筈だが、所用の為同道し得られぬから、代理として土方歳三を遣はすとの事」と、土方出動の経緯を述べる。 
33>
渋沢は「同人(土方)は四人ばかりの壮士を率ゐて私の護衛に来たのである。同日午後探偵を放つて大沢源次郎の動静を窺はせるとまだ寓居へは帰つて居らぬとの事で、一同は晩餐の為小さな飲食店に立寄り弁当を食べてから、大沢の帰宅を確めて紫野大徳寺境内なる同人の寓居へ赴いた」とする。 
34>
渋沢は、「私が申渡しをしてから同人を縛るか、縛つてから私が申渡しをするかに就て私と新撰組の壮士との間に意見を異にし、遂に私の意見に従ひ、私が陸軍奉行よりの命を伝へてから後に大沢の大小を取り上げ、同人を新撰組壮士の手に引渡すやうにした」と、土方らとのやり取りが出てくる。 
35>
もう少し、渋沢と土方歳三のやり取りを見ておこう。晩餐は、「都大路もこの頃はとかく血なまぐさい風に吹まくられて、歳暮と云うに夜に入れば店は早々大戸をたてゝ、只一軒蒲焼屋の風流な懸行灯に「まむし」の文字のみ明い、二階座敷は灯も華かに」と、まむしという蒲焼屋の2階であった。
36>
土方は、「今日貴殿が大沢源治郎を糺弾に向はるゝにつき、御警護を陸軍奉行より命ぜられましたにつき、彼は中々の腕利、かつ種々戒心あるよしも耳にいたしました故、腕に覚えの有る者をすぐつて同道いたしてまゐつた故、はゞかりながら御安心下されたい」と、渋沢に述べる。 
37>
土方は続けて、「只今しのびの者を彼の宿所大徳寺へつかはしてござれば、そのたちもどるまでに捕縛の手筈を御打ち合せ申さうでござらんか」と言うと、渋沢は、「手筈と申す程の事は無用でござらう、拙者が出むいて御奉行の命を伝達いたすまでのこと」と、大見得を切る。 
38>
渋沢は、「成程大沢方では多数の壮士を養うと云う聞き込みもござれば、万一それ等が拙者を遮る様のことでもござつたら、その者どもの始末、御手数ながらよろしく御頼み申します」と、あくまでも助勢レベルを期待した。渋沢も強気である。 
39>
土方は、「いや、しかし大沢は自身も中々不敵な侍、事の破れと見て自暴自棄となり、いかなる危害を貴殿の御身辺に加へましようやも計られません、こりやまづ拙者たちが踏み込んで、大沢を縛り上げて後、貴殿が御申し聞けられた方が万全の案かと存じるが」と、その意見を遮る。
40>
しかし、渋沢は「いまだ御不審かゝつたる身とも知らぬ重き身柄の侍を、有無も云はせず縛り上るは義理から申しても正しくござらん、又、情から申すも武士の情にはづれた仕打、渋沢に左様な卑怯なふるまひは出来ませぬ」と、あくまでも自説を主張して譲らなかった。 
41>
土方以外の隊士が、「新撰組の我々が護衛してまゐりながら、その御当人が相手に切られてしまつたでは、あなたの面目は立つにしても新撰組の面目がつぶれ申すわ、こりや是非まづ大沢をくゝし上げずばなりますまい、のう、方々」と、あくまでも新選組主導での捕縛を主張する。 
42>
渋沢は怒って、「横車を押さるゝか、さらばこれより陸軍奉行に御同道してこの旨を報告し、警護をつけらるゝ事を御辞退いたし、拙者は単身大沢方へ出向き申す」と、席を立とうすると、新撰組の隊士らもいきり立った。そこで、土方が双方を押止めた。そして隊士を諭し始める。 
43>
土方は「まづ静まられい、方々渋沢氏の御言葉を何と聞かれた、こりや恥を知る武士として御もつともの御説ではござらんか、土方は心服いたした、いや渋沢氏、御胸中拙者は十分了解仕つたによつてこれらの人々に異存は申させません、只大沢の旅宿の玄関までは御同道を許されたい」と述べる。 
44>
土方は続けて、「万一奥の間に剣戟の音でも起らば飛込んで御助勢もいたしたし、そこもとに万一のことのござつた場合は、せめて御亡躯に辱めの及ばざるやう、又下手人を取逃さぬやうの手配もいたさねばなりませんから」と、その場を収めようとした。 
45>
渋沢は「こちらからこそ御配慮頼み入ります、先刻からの無礼の言は使命を思ふ余りと御容赦下されい」と土方に述べ、土方も「何の何の、こちらこそ、とかくこの面々は腕をたのんで血気にまかせて角目立ち、組の頭立つ者に世話を焼かせます、若い者の常と御聞き捨て下されたい」と謝罪した。 
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こうして、渋沢栄一と土方歳三は胸襟を開く仲となり、世間話をしながら杯を重ねた。そこに、「エー、只今大沢は旅宿へもどりましてございます」と注進があり、捕縛に向かった。渋沢はうまく大沢を説得し、新撰組に引き渡す。 
47>
渋沢は、「土方氏、大沢は御申し渡しの趣、神妙に受けられました、ついては大沢の身柄は御辺に御ひき渡しいたす、さし出た申し分ながら、態度殊勝に見うけました、その辺御斟酌あつてよろしくはからはれたい、拙者はこれより報告の為本能寺へまかりこす、御免下され」と、土方に告げた。
48>
こうして、「土方はそのまゝ奥へ、人々は表札をはづす等、それぞれ働く中を渋沢はゆうゆうと帰つて行く」という展開となった。ドラマの展開とはやや差違があるが、全く問題は感じない。これこそ、渋沢の後日談ではあるが、史実に基づいた大河ドラマである。 
49>
ところで、渋沢栄一の近藤勇の評価が高い。「会つて見ると存外穏当な人物で、毫も暴虎馮河の趣なんか無く、能く事理の解る人であつたのだ。一見暴虎馮河の士の如くに世間から誤解せらるるやうにもなつたのである」と、土方に会う前に会談した時の印象を語っている。 
50>
近藤勇の評価は、随分と変わってきている。斯く言う私も、政治家としての近藤勇を大いに評価している。 
51>
最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。途中からの参加も可能です。
52>
7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生 8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件 9/18(土)海援隊と薩土盟約 10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺
53>
JBpressで明日から、新連載を開始します。渋沢栄一と時代を生きた人々「徳川慶喜」全6回シリーズです。ぜひ、ご覧下さい!#青天を衝け 
54>
日時:8月1日(日) 13:00~16:00 オンライン 町田明広氏「将軍継嗣問題と橋本左内」 角鹿尚計氏 「橋本左内の道中日記を読む」
55>
第229回照國講演会  
 9月11日(土)(午前10時30分)
「薩摩藩と大英帝国」 神田外語大学 町田明広
*6月28日時点でHPを表示出来なくなっています。
56>
事後ツイートですが、幕末編までとさせていただきます。ということは、残りあと5回くらいと思います。オリンピックによる休止を挟むかどうか?いずれにしろ、カウントダウンが始まりますが、事後ツイートの最終回まで、引き続き、どうかよろしくお願いいたします。



1>>桐野作人@kirinosakujin    
将軍家茂死去。 
御台所、和宮内親王の和歌が 哀しい。 
「空蝉の唐織衣何かせむ 綾も錦も君ありてこそ」   
2>
昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」。慶応2年(1866)7月20日、折からの第2次長州征伐中、大坂城中での将軍家茂の死去。享年21。死因は脚気衝心。脚気は周知のようにビタミンB1不足に起因。江戸煩いとも呼ばれ、箱根を越えると直るといわれたほど、江戸での白米食への偏重が主因とされる。 
3>
脚気が悪化すると脚気衝心と呼ばれ、急激な心臓機能の不全により呼吸困難、胸苦しさ、嘔吐など起こし、急死することも少なくない。家茂はまさにこれだったのだろう。家茂の大坂滞在日記「昭徳院殿御在坂日次記」(『続徳川実紀』四)によれば、7月初めから家茂は容態に異常が出たらしい。 
4>
7月5日には朝廷から典薬頭が派遣され診療しているほど。折から防長方面から幕府軍の敗報や味方の死傷者などの知らせが続々と送られていた。家茂の心痛やストレスのほどが察せられる。国立公文書館のツイートで家茂についての興味深い原史料が紹介されている。

5>
家茂が甘党だと知って各方面から見舞いの品が贈られているが、その内訳を見ると、お菓子など様々な甘味が大量に贈られている。時系列に並べると、まず一橋慶喜が「大平糖」、戸田助三郎(大垣藩主か)が名産の真桑瓜、関白二条斉敬からリンゴ、桃、梨、真桑瓜、トウモロコシ、サツマイモ、 
6>
近衛忠房からお菓子、干菓子、中川宮朝彦親王から茶菓、本願寺門跡から氷砂糖、大目付・目付、勘定奉行・大坂町奉行から御茶菓子、摂関の鷹司・一条家から茶菓、御側衆から懐中ぜんざい数千、一橋慶喜から2度目で梨とブドウという具合。まさに怒濤のような甘味攻勢です。 
7>
一方、江戸の天璋院と御台所の和宮からも奥医師を派遣している。切ないのは、すでに家茂が死去したのち、和宮からは砂糖、単衣や襦袢、腹巻などの衣類、天璋院からはいんげん豆、雪の下まめ、鼻紙袋、センス、料紙や瀬戸物など身の回りの物が贈られているが、当然間に合わなかった。 
8>
家茂は大坂進発に際し、和宮に西陣織を土産に買って帰ると約束したものの、果たせなかった。家茂の棺が江戸城に帰ってきたとき、棺に家茂が買い求めた西陣織が掛けられていた。その悲しさを詠んだのが先に紹介した和歌。なお、家茂の遺骸は防腐のため、水銀に漬けられていたという。 
9>
なお、和宮は夫家茂の死去から11年後、明治10年(1877)9月2日、折から療養中の箱根塔ノ沢で死去した。享年32。死因は脚気衝心。奇しくも家茂と同じ病気だった。やはり仲よく江戸煩いだったといえるかも。写真は京都御所内の和宮生誕地と東京増上寺の和宮の墓所。 


10>
大河ドラマ「青天を衝け」。この間、渋沢栄一と一橋慶喜を同時並行的に描く手法が奏功。何より史実寄りの脚本がいい。渋沢の自伝「雨夜譚」が十分活かされている。下手な創作するよりも、史実の見せ方の工夫だけで十分面白いのは、数年前の「真田丸」もそうだったが、今回も実証された。 
11>
幕臣(陸軍奉行支配調役)となった渋沢が幕臣(書院番士)の大沢源次郎なる者が国事犯の嫌疑あるとして、新選組と共に捕縛に出かける場面。典拠史料は自伝「雨夜譚」と渋沢の孫の『市河晴子筆記』あり。大沢の居所は後者に大徳寺とあり。講談のような筆致で『雨夜譚』のほうが信措けるか。 
12>
渋沢に同行した新選組の頭は、『雨夜譚』では近藤勇とし、『市河晴子筆記』では「泣く子もだまる土方歳三」とする。ドラマでは後者を採用した。大沢の居所を確認するのに、前者は「探偵係」、後者は「しのびの者」を使ったとする。「探偵係」はいかにも明治風、「しのびの者」は戦国風。 
13>
ドラマでは派手な斬り合いがあったが、『雨夜譚』によれば、大沢は就寝中であり、呼びかけると眠そうな寝間着姿で出てきて、抵抗もせず、あっさり縛に就いたとある。これが史実に近いだろう。ドラマは少しサービスしたというところか。



















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