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資本論事始め

資本論を読んでいく過程を日記風に記してみました。

第3部第3編15章第3節

2025-04-13 16:21:14 | 日記
第15章 この法則の内的な諸矛盾の展開
第3節 人口の過剰に伴う資本の過剰
マルクス、恐慌論を語る(その2)

(1) 次に紹介したいのは、利潤率の低下の侵攻のなかで、恐慌が発生することを論じた文章の一つ。
 「抗争する諸能因の衝突は周期的に恐慌にはけ口を求める。恐慌は、つねに、ただ既存の諸矛盾の一時的な暴力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一瞬間回復する暴力的な爆発でしかない。
 矛盾は、ごく一般的に言えば、次のような点にある。すなわち、資本主義的生産様式は、価値やそれに含まれている剰余価値を離れてみれば、また資本主義的生産がその中で行われる社会的諸関係をも離れて見れば、生産力の絶対的な発展への傾向を含んでいるが、同時に他面では既存資本価値の維持とその最高度の増殖(すなわちこの価値のますます速くなる増大)とを目的としているという点にある」。

(2) 資本主義的生産様式のなかで恐慌がどういう位置を占めるかについて、マルクスの見解を述べたのが、次の文章。
 「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが生産の出発点と終点、動機と目的として現れるということである。生産はただ資本のための生産だということ、そしてそれとは反対に生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成してゆくための単なる手段なのではないということである。生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような制限のなかでのみ運動することができるのであるが、このような制限は、資本が自分の目的のために充用せざるを得ない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは、絶えず矛盾することになる。手段――社会的生産力の無条件的発展――は、既存資本の増殖という制限された目的とは絶えず衝突せざるを得ない。それだから、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくり出すための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する世界市場を作り出すための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する社会的生産関係とのあいだの恒常的矛盾なのである」。

 マルクス、恐慌論を語る(その3)
(3)利潤率の低下云々とは関係なしに、恐慌の根拠となる生産と消費のあいだの矛盾が、独自の角度から説明されている。
 「欲望の充足ではなく利潤の生産が資本の目的なのだから、また、資本がこの目的を達成するのは、ただ生産量を生産規模に適合させる方法によるだけでそれとは逆の方法によるのではないから、資本主義的基礎の上での極限された消費の大きさと、絶えずこの内在的な制限を越えようとする生産とのあいだには、絶えず分裂が生ぜざるを得ないのである」。

(4) それに続く文章で、マルクスは、「諸商品の過剰生産を否定」しながら「資本の剰余価値を認める」経済学者たち(リカードウの後継者たち)の不合理を批判する。その中で、「一般的過剰生産」とは区別して、「生産部門間の不均衡」が生み出す過剰生産について論じ、「結合された理性」が生産過程を管理する社会(共産主義社会)との比較論にまで話を進めているのは、大変興味深い。

 「もしも、一般的な過剰生産が生ずるのではなくていろいろな生産部門のなかでの不均衡が生ずるのだというならば、その意味は、資本主義的生産のなかでは個々の生産部門の均衡は不均衡からの不断の過程として現れるということ以外の何事でもない。なぜなら ば、資本主義的生産では総生産の関連は自分を盲目的な法則として生産当事者たちに押し付けるのであって、彼らの結合された理性によって把握され支配された法則として生産過程を彼らの共同管理のもとに置いて来たのではないからである」。
(5)
 「最後に、もしも、資本家たちはただ自分たちのあいだだけで商品を交換し合って消費してしまえばよいのだ、というのならば、それは、資本主義的生産の全性格を忘れているのであり、問題は資本の増殖であって資本の消費ではないのだということを忘れているのである。要するに、過剰生産という明白な現象に対するいっさいの異論(こんな異論をこの現象は少しも気にかけない)が帰着するところは、資本主義的生産の制限は決して生産一般の制限ではなく、したがってまたこの独自な生産様式、この資本主義的生産様式の制限でもないということである。ところが、この資本主義的生産様式の矛盾は、まさに、生産力の絶対的な発展へのこの生産様式の傾向にあるのであり、しかもこの発展は、資本がそのもとで運動しておりまたただそのもとでのみ運動できる独自な生産条件と絶えず衝突するのである」。

 以上、五つの文章を見てきたが、これらは、どれも、恐慌の根拠の問題を主題として、恐慌について語った文章である。

 第1編~第3編をふりかえって
 第1編では、私たちは、資本主義の生産過程で労働者の搾取によって生み出される剰余価値が、資本家の意識のなかでは、搾取とも労働とも無関係な「利潤」として現れることを、見て来た。

 第2編では、この「利潤」の観念が経済を動かし、「平均利潤」が成立し、それによって価値が「生産価格」に転化することが、研究された。逆立ちした観念でも、それが資本家階級の全体の意識を支配すれば、経済を動かす物質的な力を発揮する。

 第3編では、生産力の発展に伴う平均利潤率の運動が研究され、古典派経済学者たちを長く悩ませてきた利潤率の傾向的低下の謎が、見事に解明された。
 これだけのことが、剰余価値の利潤への転化から生み出される諸問題として、第1編~第3編で展開されてきた

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