がんばれJW

JWとは、ご存知エホバの証人の事。JWが本当の「エホバの証人」、「キリストの証人」になるのを応援します。

イエスの命令は!

2008-12-28 | Weblog

マタイの福音書28章19節のイエスの命令は確かに大事な命令だと私も思う。JWの人たちはこの命令を、最も大事なものとしているように見える。

このマタイ28:19~20は、このように書かれている。新改訳だが、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・・」とある。この命令である。これがなければ、JWの人たちは生きていけないのではないか、とさえ思われる。だから、と、JWの人たちは続ける。1軒1軒回って神の国を述べ伝えるのだと。

しかし、本当にそうなのか。まず第1に彼らが述べ伝えなければならないのは「神の国」なのでしょうか。パウロは、ご承知のようにイエスの最後の「使徒」言い換えれば「弟子」をもって任じていた。このパウロはいったい、何を述べ伝えていただろうか。

「神の国」でしょうか。いいえ、パウロが述べ伝えていたのは、「イエス」であった。

Ⅰコリント1:23「私たちは十字架に付けられたキリストを述べ伝えるのです。」

Ⅱコリント1:19「わたしたち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに述べ伝えた神の子イエス・キリストは、・・・」とあるように「述べ伝える」という言葉を新約それもパウロの手紙から探してみれば1番よくわかるでしょう。パウロたち、使徒たちが述べ伝えたのは「エホバ」ではない。福音、イエス・キリストの良い便りである。イエス・キリストを信じれば救われる。と述べ伝えたのであって、「神の御名を述べ伝える」などということは一切なかったのである。

では、JW、イエスの後を継ぐはずの人たちは、イエスを述べ伝えるべきではないのでしょうか。また、むしろお勧めしたいのは、もっと聖書を読んでほしいということである。そうすれば、神の御名を述べ伝える、エホバの御名を述べ伝えるなど、素っ頓狂なことは一切言わなくなるだろう。

それでは、JWの人たちは、何のために1軒1軒回って歩くのか、自分の永遠の命のためだというのが、その答えになっているようである。しかし、その永遠の命はJWの人たちにないのだから、始末に負えない。イエスの犠牲を信じているといってもそのことの本当の意味が分かっていないのであれば、信じていることにならないでしょう。

JWの人たちよ。ぜひとも、イエスを信じていただきたい。1軒1軒回って歩くことがあなたがたの救いにつながるのではない。正しい福音、イエスの私たちの罪を背負って十字架についたこのイエスを信じてください。そしてそのことが、私たちの永遠の命、神の罰からの救いになるのだから。

エホバの組織が永遠の命を管理しているのではない。イエスの御名を信じることが永遠の命を与えられることになるのだ。このことなくしては何も始まらないことを信じていただきたい。信じるのは神のみことば聖書でしょう。ものみの塔をいくら読んでもだめでありましょう。どれだけ、聖書と違う事を言っているか調べましょう。ものみの塔は、偽の門である。どうぞ、聖書を読んでください。

 


「ものみの塔」は、一つの解釈!

2008-12-17 | Weblog

「ものみの塔」をただ一つの正しい教えだと思っている人たちは、認めないかもしれないが、「ものみの塔」その他に書かれていることは、聖書を解釈する一つの方法であるということである。

そして、実はそう考える人たちは少ないと言ってよいだろう。解釈でさえないということだ。しかしそういうふうに言ってしまえば終わってしまうので、こう書いておこう。

「ものみの塔」その他に書かれていることは、聖書を解釈する一つの方法であると。そして、それは当然のことながら、聖書ではなく、聖書の読み方の一つである。

「ものみの塔」の読み方の一つの原則は、「常識によって読む」ということである。それは人間の見方で読むことであり、人間の考え方が正しいということを前提にして読むのである。

たとえば、「神は人間になれない」という考えがある。聖書には「神に不可能なことはない。」とあるにもかかわらずである。神の不可能なことを人間の常識によって作ってしまう。そして、それを前提として聖書を読むのである。

聖書を読むと人間の常識では、図れないことをことが、これでもかと書かれている。たとえば、神はローマ皇帝を用いてさえ、イエスをベツレヘムで生まれさせてしまう。本来はマリヤとヨセフはガリラヤのナザレに住んでいたのだから、イエスが生まれるのはガリラヤのナザレである。しかし、突然、ローマ皇帝アウグストが、住民登録をせよという命令を出すのである。その結果、マリヤとヨセフは100キロ以上も離れたユダヤのベツレヘムに行かなければならなくなるのだ。(ルカ2:1~)

聖書を読んでいて、イエスがベツレヘムで生まれるのは当たり前、と読んでいる人は多いのではないだろうか。でもよく考えてみると、それだけでも不思議なことが起こっているのだ。もちろん、それだけではない。旧約聖書の中には、とても人智では、思いつくことも出来ないことがたくさん起こっている。驢馬が口をきいたり、時計が逆回転をしたり奇跡と呼ばれることは、たくさん書かれている。

しかし、「ものみの塔」、エホバの証人はイエスが「神である人」であることを信じない。神が人になることはない。ありえない、と言う。

時は、まさにクリスマスである。神が人として生まれた、その時を祝う時である。ほかの奇跡は信じても、イエスについては頑強に否定する。会のことばを否定することなぞ出来ないはずなのに。なぜなら、彼らエホバの証人は、聖書を神のことばであると信じているはずなのだから。そして、このことにこそ、イエスが救い主である所以、証拠なのであるのだから。だから、「ものみの塔」は、救い主としてのイエスを認めていないということもできるだろう。

では、誰が、エホバの証人を救ってくれるのか。組織か。誰にもそれはわからない、のではないだろうか。