マタイの福音書28章19節のイエスの命令は確かに大事な命令だと私も思う。JWの人たちはこの命令を、最も大事なものとしているように見える。
このマタイ28:19~20は、このように書かれている。新改訳だが、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・・」とある。この命令である。これがなければ、JWの人たちは生きていけないのではないか、とさえ思われる。だから、と、JWの人たちは続ける。1軒1軒回って神の国を述べ伝えるのだと。
しかし、本当にそうなのか。まず第1に彼らが述べ伝えなければならないのは「神の国」なのでしょうか。パウロは、ご承知のようにイエスの最後の「使徒」言い換えれば「弟子」をもって任じていた。このパウロはいったい、何を述べ伝えていただろうか。
「神の国」でしょうか。いいえ、パウロが述べ伝えていたのは、「イエス」であった。
Ⅰコリント1:23「私たちは十字架に付けられたキリストを述べ伝えるのです。」
Ⅱコリント1:19「わたしたち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに述べ伝えた神の子イエス・キリストは、・・・」とあるように「述べ伝える」という言葉を新約それもパウロの手紙から探してみれば1番よくわかるでしょう。パウロたち、使徒たちが述べ伝えたのは「エホバ」ではない。福音、イエス・キリストの良い便りである。イエス・キリストを信じれば救われる。と述べ伝えたのであって、「神の御名を述べ伝える」などということは一切なかったのである。
では、JW、イエスの後を継ぐはずの人たちは、イエスを述べ伝えるべきではないのでしょうか。また、むしろお勧めしたいのは、もっと聖書を読んでほしいということである。そうすれば、神の御名を述べ伝える、エホバの御名を述べ伝えるなど、素っ頓狂なことは一切言わなくなるだろう。
それでは、JWの人たちは、何のために1軒1軒回って歩くのか、自分の永遠の命のためだというのが、その答えになっているようである。しかし、その永遠の命はJWの人たちにないのだから、始末に負えない。イエスの犠牲を信じているといってもそのことの本当の意味が分かっていないのであれば、信じていることにならないでしょう。
JWの人たちよ。ぜひとも、イエスを信じていただきたい。1軒1軒回って歩くことがあなたがたの救いにつながるのではない。正しい福音、イエスの私たちの罪を背負って十字架についたこのイエスを信じてください。そしてそのことが、私たちの永遠の命、神の罰からの救いになるのだから。
エホバの組織が永遠の命を管理しているのではない。イエスの御名を信じることが永遠の命を与えられることになるのだ。このことなくしては何も始まらないことを信じていただきたい。信じるのは神のみことば聖書でしょう。ものみの塔をいくら読んでもだめでありましょう。どれだけ、聖書と違う事を言っているか調べましょう。ものみの塔は、偽の門である。どうぞ、聖書を読んでください。