前回に取り上げた「神の是認を得ることは永遠の命につながる」(2011年2月15日号)に出ている一文から考えてみよう。
この筆者は「わたしたちがエホバに仕える別の理由は、神が示してくださる比類のない愛です。」と書いて創世記1章27節を取り上げる。「27 そうして神は人をご自分の像に創造してゆき,神の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された。」
そして次のように書いている。「人間は倫理的に自由な行為者で、考えて決定を下す能力を神から与えられています。」
たしかに人間は考えて決定を下す能力を神から与えられていることは確かでしょうが、だからと言って「人間は倫理的に自由な行為者で」あるとは聖書はどこにも言っていない。むしろ聖書は逆のことを主張していると思われる。
パウロはこの点についてローマ人への手紙の中でこう言っている。
「7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」【新改訳改訂第3版】
(ローマ 7:14-15)「 14 わたしたちが知っているとおり,律法は霊的なものであるからです。しかしわたしは肉的であって,罪のもとに売られているのです。15 わたしは自分の生み出しているものを知らないからです。自分の願うところ,それをわたしは実践せず,かえって自分の憎むところ,それを行なっているのです。」
パウロは、キリストを信じてたくさんの人に伝道をして教会さえ作った後にこの告白をしているのである。7章15節を読んでみてください。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」という告白から、パウロは自分のことを「人間は倫理的に自由な行為者で」あると感じていたでしょうか。
もちろん自由などは全くないと感じていたのです。自分は売られて罪の下にあると言っているのです。人間の不幸の源泉はここにあります。
それは筆者が引用した創世記にさかのぼることができるでしょう。3章を見てみよう。
創世紀3:1 「さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(新改訳改訂第3版)
(創世記 3:1) …さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで[蛇]が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」。(新世界訳)
このサタンが化けた蛇の誘惑にのせられてアダムとエバは善悪を知る木の実を食べてしまうのです。その結果、人類の先祖であるアダムとエバは、サタンの言うような神になるどころか、神に罪を犯して神の怒りに触れて楽園であるエデンの園から追い出されてしまいます。
エホバは、筆者の言うように良い父親かもしれませんが、聖なる義なる父親ですから、罪を犯した人類の先祖をそのままにしておくことはできなかったのです。
それから人類は、先祖の犯した罪とその結果を常に背負って行かなければならなかったのです。私たちは神のかけられた呪いのもとにあります。
それも聖書の創世記3章にあります。
創世記3:14『 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』
人間は、神に罪を犯した結果、神さまにある自由を失い、神に呪われた者となってしまったのだ。
この筆者が言う「人間は倫理的に自由な行為者で、考えて決定を下す能力を神から与えられています。」は、聖書の語っていることとは全く違うことを認めなくてはならない。
しかし、彼らは間違っていることが分かっていてもこのことを言わなければならない事情があったのだ。それは彼らは何がなんでもJWエホバの証人の働きバチを行動に駆り立てなければならないのだ。
だから彼らは結局人間には自由があるのだから、頑張ってエホバに奉仕せよというのだろう。人間が真に自由か自由でないかを問題にしているのではないのだ。とにかく奉仕をさせることが目的なのだから。