がんばれJW

JWとは、ご存知エホバの証人の事。JWが本当の「エホバの証人」、「キリストの証人」になるのを応援します。

続・聖霊によって理解すること

2011-07-28 | Weblog

前の項で指摘したエホバの証人統治体が「ものみの塔」などで、何度も、何百回も指摘していることですが、エホバは愛ある神だから人を苦しめるために「地獄」などはお造りにならないというのです。

これは、本当のことなのでしょうか。

エホバ神は、愛の神だからといって、お怒りにならない神ではない。人の好いおじいさんのような神様を想像しているととんでもないことです。

それは罪を犯した人間に対する神様を見てもはっきりわかることです。創世記314節からの神様のお怒りは、罪を犯した人間も、誘惑した蛇に対しても徹底して罰をお与えになっておられる。それは創造者である神様にふさわしいことだと思う。

マタイの福音書罪を犯して、悔い改めない人たちに待っている底知れぬところや、火が永遠に消えないところのことを弟子たちに何度も話した。マタイ13章などを見ると泣いて歯ぎしりするところが何回も出てくる。たとえば

 

13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。

 13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

 13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、

13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイの福音書)

イエス・キリストは神様のなさることしかしないと言っているので、このたとえも神様のされることに等しいのです。

 

ここに中南米エクアドルの独りの少女の体験実話があります。ぜひよく見ていただきたい。

『あなたの神に会う用意をしなさい。』という題です。

 

http://www.divinerevelations.info/Documents/Prepare_to_meet_your_God/Japanese_Prepare_to_meet_your_God.pdf
http://www.divinerevelations.info/Documents/Prepare_to_meet_your_God/index.htm

 

「愛する人がエホバの証人に!!」のサイトもご覧ください。

 


聖霊によって解釈する!?エホバの証人の聖書の読み方

2011-07-24 | Weblog

エホバの証人は言う、「聖書は聖霊によって書かれているので聖霊によって理解しなくてはならない」

一見正しい議論のように思われる。

「聖書は聖霊によって書かれている」ことは正しいと思われる。が、彼らの言っている意味はどういうことなのでしょうか。

聖書は聖霊に動かされて書かれた。だから聖書に書かれていることは神のことばであって正しい。

 

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。(1テモテ1:15

 

ここにあるように、聖霊によって書かれた聖書であっても「そのまま受け入れるに値する」ということなのです。いや、むしろ正しいことであれば「そのまま受け入れるに値する」と言ってよいのではないでしょうか。なぜなら、神様は聖霊を受けていない罪人である人間のためにみことばを下されたのだから。

もちろんすべてのみ言葉が聖霊を受けていない罪人である人間にとってわかりやすいことではないことは確かであるから、聖霊に教えを請わなくてはならないときも確かにあるでしょう。しかし、そのまま受け入れて理解することができるのに、聖霊に教えを請わなくてもよいでしょう。

このような当たり前だとおもわれることを言うのは、エホバの証人はすべての聖書のことばを聖霊によって理解しなければならないと主張するからである。

そしてその理解はすべて聖霊の唯一の経路であると主張するエホバの証人統治体の理解によらなければならないとするのだ。その理解というものは、驚くことに聖書に「白」と書かれてあることでも「黒」と理解しなさいというのだ。

聖書は聖霊によって書かれたことを認めたはずであるのに、エホバの証人統治体の理解は聖書に書かれていることを完全に否定するのだから、開いた口がふさがらない。

これは要するに、聖霊によらなければという本当の意味は、何事でもエホバの証人統治体に従えというに等しいのである。

エホバの証人はそのことを「聖霊によって理解する」というのである。

 

エホバの証人が真に聖書を神のことばとして「そのまま受け入れるに値する」書物として受け入れる日が早く来ることを祈ります。そしてそのとき、エホバの証人である人が聖書をそのままに受け入れるとき、神に導かれる新しい人生が待っていると思います。(この項終わり)

 

今度新しい「愛する人がエホバの証人に!!」というサイトを立ち上げましたので、そちらもご覧ください。そちらにも同じものを掲載します。


救いが来るのは神からのみ!!

2011-07-06 | Weblog

エホバの証人は、聖書が正しいと信じている。また聖書は神のことばだとも信じているらしい。それならば、結構!!聖書は神のことばともっと信じていただきたい。そうすれば救いは目の前に来ている。

人間が神から創られたとき、神から親しく話をしていただき、エデンの園に暮らしていた。一人ではさびしいと理想の女性エバと共に。今の私たち人間の理想の姿であったでしょう。神様のみことばを聞き、美人であったに違いないエバと一緒に、生きがいのある暮らしをしていたのだ。

しかし、蛇に化けたサタンにだまされてその夢がなくなってしまった。神様からこれだけは食べるなと言われていた善悪を知る知識の木の実を食べてしまったから。ここから人間の独り歩きが始まったのだ。その結果は良いことはなかった。

挙句の果てに神様から裁かれて地獄の責め苦に遭わなければならないということになってしまった。

なぜなら神様は、ご自身の命令に逆らい、さらに逆らい続けていくことははっきりしていた人間に対して罰を与えなければならなかったのだから。そして楽園エデンの園から人間を追い出してしまわれた。

そして人間はどのように神様の赦しを受けるべきなのだろう。

さまざまな試み、しかしどの試みも失敗に終わった。神様は人間に赦しを用意された。それは神様が遣わされた方イエス・キリストを信じること。それが神様が用意された赦しでありそれ以外に赦しはない。聖書に書かれてある通り。行いではない。聖書に書かれてある通り。

であれば私たちはどのようにしたら、神さまから赦しをいただき、アダムとエバの平安に、あの楽園での生活に戻ることができるのだろう。

答は・・・・・聖書にも書かれている通り、神から遣わされた方を信じること。神さまが遣わされたイエス・キリストを信じること。この一点である。イエスご自身も福音書に書かれている通り何度もご自分を信じることを言っている。ヨハネ6:39~40

パウロも言っている。ローマ3:21~

私たちのすべきことはこの1点にしぼられている。もしこれではないという人や本があるならそれを言う人や書いた人は、神のご命令をここでも無視または反逆するサタンと言っては言い過ぎだろうか。(この回終わり)


エホバの証人が聖書の真理にたどり着けない理由!!

2011-06-12 | Weblog

エホバの証人が聖書の真理にたどり着けない理由は、何だろうか。ということを問う前に、エホバの証人が確かに聖書の真理にたどり着いていないことを言わなければならないと思うが、それはもうすでに何度もこのブログで書いてきたことなのである。

それでも反復を恐れずにやはり書かなければならないであろう。それは、聖書にはイエスキリストによる救いということが何度も書かれてあるのだが、JWはそれを救いと認めないことなのだ。

それは、エリシャがアラム人ナアマンにヨルダン川で7た身体を洗えばらい病が治るといわれたのに、それがあまり簡単なことだったので、信じようとしなかったことに酷似しているようにも思われる。

JWは、信じるということをバカにする傾向がある。信じるということはすべての初めにある大事なことである。JWであっても、ものみの塔にあまりばからしい(失礼)あまり突飛なことが書かれているのに、驚いてなかなか信じられなかったことであろう。しかし何度も言われたり、他の人たちが信じているのを見て、おかしいことでも信じようとなったはずだから。

JWのみなさんは、もう一度その所に帰ってみてみてはどうかと提案したい。つまりおかしいことはおかしいとすることです。信じられないことは信じられないとすることです。そしてあなたが今何を根拠に、JWとして奉仕をしているのか、考え直してみてもらいたいのです。

それは他の、JWではない、クリスチャンが何を信じているのかを問い直すことにもなるでしょう。

そしてJWであるあなたは何を根拠に行動をしているかということ。

JWであるあなたは、聖書のことばに信頼しているのだろうか。

それともものみの塔に書かれていることに信頼しているのだろうか。

それとも友達の言うことを信頼しているのだろうか。

長老の言うことを信頼しているのだろうか。

ひとつではないかもしれない。でもそれなら何と何を信じているのか。

いずれにしても、あなたが信じているのは霊的なことである。神様に、エホバに関係していることである。それなら聖書がその根拠に入っていなければならないだろう。

問題はその聖書の読み方になってくると思う。あなたが読んでいる聖書は何語で書かれているだろうか。日本語でしょう、普通。英語かもしれない。いずれにしても人間が使っている言葉なのである。であれば人間に理解できるはずである。

書かれたとき、聖霊によって書かれたと主張する人もいるかもしれないが、それであれば尊いことがそこに書かれているということだ。神様の真理が書かれているということだ。でも人間のために書かれてあるのだから、理解ができるはずである。

この事が先ず前提になっていなければ、あなたは聖書を理解することはできない。聖書は、人間であるあなたが理解するために書かれているのだから。

そしてそのことを基礎として聖書を今一度読んでみてもらいたいのである。他に夾雑物を入れないで聖書を読むことをやってみてもらいたいと思います。

それが私が思う真理に到達する道であります。(この項終わり)


もう一度、信仰義認!!!

2011-06-07 | Weblog

聖書には、イエス・キリストを信じることによって、その信仰が義と認められると書かれている。義と認められるということは、決して普通のことではない。

アダムとエバが罪を犯して以来、人類はその罪に泣いてきたのである。律法のにない手であるユダヤ人はどんなにたいへんな思いをしてきたことだろうか。律法を守ることがどれだけ大変なことであるかは、創世記、レビ記、民数記、申命記におけるユダヤ人たちの苦労、また律法を破ったことによって、彼らはアッシリヤや、バビロ二ヤなどへの捕囚を味わわなければならなかったのである。

罪の魅力とは、どんなに人を引き付けることだろう。これは今、現代においても決して褪せてはいない。それが証拠に連日連夜と言ってよいほどに新聞、雑誌には、またテレビラジオなどの報道でもはっきりとわかることです。

その罪人の私たち、アダムとエバの子孫は、さらにその罪によって誘惑され続けている。ということは、私たちはこのままでは神の裁きを受けなければならないということなのだ。

<Rom>
3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。【新改訳改訂第3版】

(ローマ 3:21‐24) 21 しかし今や,律法からは離れて神の義が明らかにされました。律法と預言者たちによって証しされているとおりです。22 そうです,イエス・キリストに対する信仰による神の義であり,信仰を持つすべての者のためのものです。差別はないからです。23 というのは,すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからであり,24 彼らがキリスト・イエスの[払った]贖いによる釈放を通し,[神]の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。(新世界訳)

反復をおそれずもう一度ローマ人への手紙3:21から24を引用しました。

私たちは、アダムの昔から、罪人でありこの罪に苦しんできているのです。この罪を解決してくださるのが父なる神が送って下さった、神の子イエス・キリストなのです。このイエス・キリストが私たちの罪をあがなうために十字架に死んでくださったことを信じたひとは、神様から義と、つまり正しい者と認められるというのである。

と書くと、ほんとにそれでいいのですか。と反論が来るとおもいます。「それでわたしたちは、正しくなったのですか。」

聖書は、よく読んでください。24節 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」いえすきりすとを信じる者は「義と認められる」ということです。

わかりにくいかと思うので、たとえば私たちが神様の法廷に出させられたと思ってください。イエスキリストが私たちの罪を背負って罰を受けてくださったということなのです。私たちの罪をもう裁く方はいないのです。私たちの罪をイエス・キリストが背負って十字架上に罰を受けてくださったということです。このことによってわたしたちの罪は赦されたということです。信じられないことですが、このことが聖書に書かれてあることなのです。

「それでは私たちはもう罪を犯さないようになったのですか。」ですって?!良い質問です。いいえ、私たちは未だ罪の性質は残っています。だから神様から聖めてもらう必要があります。聖霊によって清めてもらうのです。そして少しずつイエス・キリストに似たものとされていかなくてはならないのです。これを聖化と言います。そしてイエス・キリストにお会いするとき、本当に似たものと変えられるのです。

ですから私たちは神様によってもうすでに罪を赦してもらっていると言ってよいのです。他の人や物によって罪を赦してもらう必要はないのです。もし誰かがこの奉仕をしなければ神(エホバ)から赦されない、とか是認されないとか言われるとしたら、聖書は何のために書かれたのでしょうか。

すでに赦された者にもう一度罪をかぶせることにならないでしょうか。ない罪におびえることはありません。もう一度聖書をよく読んで神様からの赦しを確認して喜びましょう。聖書にはこの喜びの知らせがたくさん書かれているのです。(この項終わり)

 


人間は、倫理的に自由な行為者か???

2011-06-02 | Weblog

前回に取り上げた「神の是認を得ることは永遠の命につながる」(2011年2月15日号)に出ている一文から考えてみよう。

 

この筆者は「わたしたちがエホバに仕える別の理由は、神が示してくださる比類のない愛です。」と書いて創世記1章27節を取り上げる。「27 そうしては人をご自分の像に創造してゆき,の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された。」

 

そして次のように書いている。「人間は倫理的に自由な行為者で、考えて決定を下す能力を神から与えられています。」

 

たしかに人間は考えて決定を下す能力を神から与えられていることは確かでしょうが、だからと言って「人間は倫理的に自由な行為者で」あるとは聖書はどこにも言っていない。むしろ聖書は逆のことを主張していると思われる。

 

パウロはこの点についてローマ人への手紙の中でこう言っている。

7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

 7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」【新改訳改訂第3版】

 

(ローマ 7:14-15)「 14 わたしたちが知っているとおり,律法は霊的なものであるからです。しかしわたしは肉的であって,罪のもとに売られているのです。15 わたしは自分の生み出しているものを知らないからです。自分の願うところ,それをわたしは実践せず,かえって自分の憎むところ,それを行なっているのです。」

 

パウロは、キリストを信じてたくさんの人に伝道をして教会さえ作った後にこの告白をしているのである。7章15節を読んでみてください。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」という告白から、パウロは自分のことを「人間は倫理的に自由な行為者で」あると感じていたでしょうか。

 

もちろん自由などは全くないと感じていたのです。自分は売られて罪の下にあると言っているのです。人間の不幸の源泉はここにあります。

 

それは筆者が引用した創世記にさかのぼることができるでしょう。3章を見てみよう。

創世紀3:1 「さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(新改訳改訂第3版)

 

(創世記 3:1 …さて,エホバが造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで[]が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,とが言われたのは本当ですか」。(新世界訳)

 

このサタンが化けた蛇の誘惑にのせられてアダムとエバは善悪を知る木の実を食べてしまうのです。その結果、人類の先祖であるアダムとエバは、サタンの言うような神になるどころか、神に罪を犯して神の怒りに触れて楽園であるエデンの園から追い出されてしまいます。

 

エホバは、筆者の言うように良い父親かもしれませんが、聖なる義なる父親ですから、罪を犯した人類の先祖をそのままにしておくことはできなかったのです。

 

それから人類は、先祖の犯した罪とその結果を常に背負って行かなければならなかったのです。私たちは神のかけられた呪いのもとにあります。

 

それも聖書の創世記3章にあります。

創世記3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。

 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

 3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

 3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。

 3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』

 

人間は、神に罪を犯した結果、神さまにある自由を失い、神に呪われた者となってしまったのだ。

 

この筆者が言う「人間は倫理的に自由な行為者で、考えて決定を下す能力を神から与えられています。」は、聖書の語っていることとは全く違うことを認めなくてはならない。

 

しかし、彼らは間違っていることが分かっていてもこのことを言わなければならない事情があったのだ。それは彼らは何がなんでもJWエホバの証人の働きバチを行動に駆り立てなければならないのだ。

 

だから彼らは結局人間には自由があるのだから、頑張ってエホバに奉仕せよというのだろう。人間が真に自由か自由でないかを問題にしているのではないのだ。とにかく奉仕をさせることが目的なのだから。


「神の是認を得る」ことは、エホバの新しい基準!?

2011-05-31 | Weblog

ものみの塔2011年2月15日号の表記の記事「神の是認を得ることは永遠の命につながる」である。そしてここには「神の是認」という新しい基準と思われることが書かれている。

 

エホバの新しい恵みが示されたのであろうか。読んでみてガッカリした。またびっくりもした。ガッカリしたのは、新しい預言がなされたわけでもなく旧約聖書と新約聖書を読みなおしただけだったから。びっくりしたのは、今までのエホバの恵みはどこへ行ってしまったのかと思ったから。

 

はっきり言えば、ここに書かれていることは、聖書とは何のかかわりもないことのように思われる。全く聖書に書かれていないエホバ神がここに現れているように思う。

 

エホバの証人は聖書の通読を何度もしているらしいと噂に聞いているが、それはほんとうだろうか。この記事を書いている人は一般のJWとは違うお方なのだから、さらによく聖書を読んでいるらしいことは引用が新約から旧約に至っているから判るが、彼は聖書の何を読んでいるのか理解できない。

 

引用が多岐にわたっているだけに特にその理解のおそまつさではなく、その不可思議さは理解不能である。

いや、ひょっとするとこれは故意にこのように書いているのだろうか。とすればその意図の邪悪さは計り知れない。

 

何故かと言えば、エホバは罪に苦しんでいるあなたや私のことを哀れに思われてイエス・キリストをこの世界に送られたのだ。そしてこのイエス・キリストは十字架(苦しみの杭でもよい)で私たちの罪のために苦しんで死んで下さったおかげで神(エホバ)はそのことを信じる私たちの罪を赦してくださったのである。(文末参照)

 

そしてそのことをパウロは、「神はめてくださった」と書いている。そのことを省略して「義認」といって私たちは喜んでいるのだ。

 

この記事の筆者は、この「義認」のほかに是認があると言っているのである。しかし、聖書にこのような言葉はない。少なくともJWの新世界訳以外には見当たらない。ここには神の基準(教え)以外の何かが書かれているのだ。ここに書かれていることを実行したならば聖書に書かれているエホバの恵みは受けられないということになるでしょう。

 

この「ものみの塔」を神の言葉の注解と信じている人たちはそのことに気が付くべきでしょう。気が付いたならば、即刻JWエホバの証人を辞めることをお勧めする。

 

それでもなお、まだ分からないという人はさらにこの続きを読んでそのことを確信してもらいたいと思う。

 

ローマ人への手紙3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

【新改訳改訂第3版】

 

(ローマ 3:21-24 21 しかし今や,律法からは離れての義が明らかにされました。律法預言者たちによって証しされているとおりです。22 そうです,イエス・キリストに対する信仰によるの義であり,信仰を持つすべての者のためのものです。差別はないからです。23 というのは,すべての者は罪をおかしたのでの栄光に達しないからであり,24 彼らがキリスト・イエスの[払った]贖いによる釈放を通し,[]の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。(新世界訳)

 


エホバの証人の「聖書」は、「神のことば」ですか???

2011-05-16 | Weblog

エホバの証人にとって、聖書は「神のことば」として信じていると思っていたが、やっぱりちょと違うことがわかった。

エホバの証人は、聖書が正しいというのは、①自分にとって都合の良い時。②統治体(ものみの塔)がそういう時。

この2通りの時であることが分かった。何をいまさら!という方もあるかもしれないが、私はあり得ないことかもしれないが、ロマンを感じたい。エホバの証人を信じたいというところが少しはあったのだ。

何をごちゃごちゃ言っているのか?!と言われそうだ。実は創世記1章の内容についてだ。ちなみに一部を引用する。

【新改訳改訂第3版】
<Gen>
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
 1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
 1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
 1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
 1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。
第一日。
 1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
 1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
 1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日
 1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
 1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
 1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
 1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
 1:13 夕があり、朝があった。第三日
 1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
 1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
 1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
 1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
 1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
 1:19 夕があり、朝があった。第四日
・・・・・・

このように6日で、天地のすべてのものを神は創造したと聖書に書かれている。そして7日目に神はお休みになられたのだ。そのことから1週間は7日で最後の1日は休日となるのだ。

このことを神は6日で全世界を創ったのは、信じられない。事実と違う。なぜなら何百万年も昔にできたと科学者は言っているではないか。1日や6日でこの世界ができるわけはない。というわけだ。こんなことは小学生だってしっていることだろう。

では聖書はうそを書いたのか。彼等エホバの証人は聖書は神のことばだといつも繰り返し言っているではないか。

するとエホバの証人はこう言う。聖書は聖霊によって理解しなければならないでしょ。

では、科学者のことばは、聖霊のことばというわけだろうか!!これで化けの皮が剥げてしまった。

彼らは、ものみの塔や、めざめよなどの機関紙によってそのことを知ったのだ。そして得々と教会に行っているクリスチャンをバカにしようとしているのだ。

では、どう考えたらよいのだろうか。神のことばは間違っているのか。いや、そうではない。神にとって、1日は1000日のようであり、1000日は1日のようであるのだ。ここに書かれている「1日」「2日」は神にとっての時間なのだ。だから聖書のことばは間違っていない。これが正解である。

この聖句は、エホバの証人は、よく知っているはずであるが、教えられたときにしか思い出さないのだ。つまり統治体のテープレコーダーまた、あやつり人形となってしまっている。あなたの信仰はどこにあるのですか。

エホバの証人さん。これではキリストの証人に成れないですよ。

使 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります

使 1:22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」

(この項終わり)


イエス様の役割は?!・・・とんでもない結末!!

2011-05-12 | Weblog

前3回のJW統治体の創世記3章の換骨奪胎劇を見てのご感想はどうだったでしょうか。サタンのだましを神に対する提案とは、まったく失礼にもほどがあると思われます。

しかしここでは、まったくイエス様は出演されなかったのですが、どういえつもりなのでしょうか。しかしまたJW統治体は、ヨブ記から離れようとはしません。最後にイエス様の役はちゃんと残しておいてあります。

「聖書は実際に何を教えていますか」の第5章に贖い――神からの最大の贈り物と題してイエス様のことが書かれています。イエス様はアダムが犯した罪の贖いを果たされる(ここにも問題があるけど)と同時に、この模造劇の主役?
として書かれています。

「聖書は、死を前にしたイエスが耐え忍んだ苦しみを詳しく描いています。イエスはむちで激しく打たれ、残酷にも杭につけられ、その苦しみの杭の上で死にました。」と前置きをして続けています。

「イエスはなぜそれほどの苦しみに会う必要があったのでしょうか。この本のあとの章で学びますが、サタンが疑問を投げかけていたのです。それはエホバに仕える僕(しもべ)の中に、試練のもとでも忠実を保つ人間がいるかどうかということでした。イエスはひどい苦しみの中でも忠実に耐え忍ぶことにより、サタンが唱えた異議に対してこれ以上は考えられない良い答えを提出しました。自由意志を持つ完全な人間は、悪魔が何をしようとも、神に対する忠誠を保てるということを、イエスは証明したのです。」

イエス様は、ここにあるように「エホバに仕える僕」なのでしょうか。そしてまた「試練のもとでも忠実を保つ人間」として苦しみに耐え忍んだのでしょうか。

大体サタンが異議を唱えたという虚構にイエス様を参加させることにどのような意味があったというのでしょう?

JW統治体は、イエス様は良きエホバの証人のひとりであると言い、さらにそのエホバの証人の模範であると書こうとしたのかもしれません。そしてイエスに見習って人に何か言われても我慢しろと!?

だとしたら、神の御子に対する冒涜ではないでしょうか。

そしてそのあとでイエス様の贖いを、あとで付け加えるように書いてあるのですから。 イエス様は犠牲の小羊として使命を全うされたわけですが、その崇高な使命をことさら貶めることになってはいないでしょうか。確かにそのように感じられます。

彼等JW統治体は、イエス様を信じるだけでは救われないと宣伝しまくっているのですから。彼らの巧妙な戦術と言えるでしょう。

神さまが用意された御子イエス様の贖いを無駄にされないように、わたしたちは注意してしすぎることはないと思われます。

<Rom>
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。【新改訳改訂第3版】

(この項終わり)

 

 

 


続続JWの聖書解釈:サタンから提出された「非常に重要な論争?!」

2011-05-03 | Weblog

以下、少し長いのですが、創世記(新改訳聖書3版)からの引用ですが、ぜひお読みください。読みやすい訳になっていると思います。

 3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

 3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

 3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

 3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。

 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

 3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

 3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。

 3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

 3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。

 3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

 3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

 3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(新改訳聖書3版)

 

そして神の保護の下にある楽園で暮らすことを禁じられると共に、再度楽園へ入ることも禁じられたのです。神の裁きは即時であり、徹底した裁きだったと言ってよいでしょう。ここにおいて神とサタンとの論争など行われていないし行われる余地もありません。神の主権を犯すように提案したサタンと、それにしたがって罪を犯したアダムとエバが裁かれているだけです。

 

ここにはただアダムとエバに対する罰があるだけでなく神の救いの預言もあると言われています。1419節です。ここには人間男と女に対する神様の呪いがあります。土地も呪われて、いばらとあざみの生えている土地を耕して苦労して食物を得なければならないと言われています。またサタンに対する呪いも語られて女の子孫によって頭を踏み砕かれるとの予言がされています。この箇所(15節)には原福音と言われているイエス・キリストの救いの予言がありますが、彼らはそのことには一言も触れません。

 

しかし彼らJW統治体は、アダムとエバの堕罪をなぜ神とサタンの論争にしたかったのでしょうか。それは、神がアダムとエバの堕罪に責任があるとしたかったのではないでしょうか。それは今の人間の苦しみに神にも責任があるとすることでもあります。

 

そしてなによりもこれらの聖書の預言を真実とするよりも、神とサタンの論争という事にしてしまうことによってイエス・キリストの贖いの事実、救いの事実が神の救いの方法とはしたくないのだろう。そして神が初めからそのように預言していたこととしたくないのではないでしょうか。

 

また彼らJW統治体は神(エホバ)に、楽園から出た後の人間の苦しみに責任があるとしているように思われます。「論争」であれば、それは双方に神とサタンに責任があるということになりますね。

 

神(エホバ)は、たしかにアダムとエバを楽園から追い出し、その後も楽園に入れないようにされた。しかしそれは人間が神(エホバ)の命令に従わなかったからで、神(エホバ)は、それを許されないと予めおっしゃっておられたのだ。

サタンのだましを提案とはおこがましいと言ってよいだろう。

 

それでは、そのように楽園から追い出されたアダムとエバ、人間はどのようにしてまた再び楽園に帰ることができるのでしょうか。神(エホバ)は、すでにこの3章の中に原福音として約束されておられるように見えますが、、、

(この項終わり)