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都井岬

2010-10-30 18:11:52 | 旅行
秋分の日から一度たりとも暑い日が訪れなかったと感じている。今年は春の冷え冷えした空気が絶えることなく今に至っている気がする。特に5月前はその冷気に怯えながら過ごしていた。寒いのは嫌いだ。特に今の時分は、益々寒くなる一方であることを思えば自ずと気は重くなる。やはり今年は寒い年だ。そんな想いがここ最近の冷え込みで否応なく迫ってくる。ずっと空に蔓延っては離れなかった春の冷気に厭らしさを感じていたが、今になってもその冷気は結局去らず、また次の新たな冷気がやって来る。冷気への怯えは日毎暖かくなる季節せさえ拭い去ることはできなかった。暑い夏の盛りでさえも、それは変わらなかった。兎に角、今年は寒い年なのだ。
寒くなると、これは生理的と言ったほうがいいのだろうか、言いようのない虚脱感に襲われる。それが色々な悪いことを誘引する。沈んだ面持ちで日々を過ごすことのやり切れなさは、ただ単に寒さを理由にした自分への甘えから来るものというよりかは、寒さを原因とする一種の逃れ切れない疾病の如くして、心を暗がりのなかへ向かわせてしまう。
そういう時は部屋でじっと本でも読むか、海にでも行くかして気分を変えるしかない。特に外に出ることは、気持ちの変化は内発的になるというよりも、自分を取り巻く環境から外発的に変化を促されることになる。良く言えば、心に風を通したい。そのためには外の風に触れるのを以ってのほか無い。或る時は海を凝と見ていたい気分になる。吹きすさぶ風に引き千切られる波間を見るのでも良い、或いは凪いでかもめが飛んでいる温穏な海を見るのでも良い。波は幾度打ち寄せるのだろう。海はどこまで遠く、その水の指先を岸壁になぞるのだろう。そういうことを想いながら海を見る時間が好きだ。

鹿児島には桜島がある。この頃は秋の入り陽を、その無機質で筋の入った山肌に投影して、薄紫から紅に変わる色の移り行きを見せている。鹿児島市のある薩摩半島から見ればそれは色彩変化の劇を我々にみせ、反対側の大隅半島から見れば、西日を背負うた桜島は翳となり、雲が茜色から紅に至るまでの色の移り行きを見せる。
しかし秋の陽が沈むのは早く、桜島を過ぎ行く色はいつのまにか褪め引いてゆき、後には薄紺の空に佇む姿しか表していない。さながら生きているうちは鮮やかな色に輝いていた魚が陸に上げられ、息を苦しませながら死に行くのと共に褪めてしまう色のように、美しい色は息絶える前にあることを想起させる。
桜島は夕暮れのある一時だけを秋の陽に紅らめさせることを許している。空も同調して、その色を保とうとするが、桜島だけが急に色を褪せてしまい、それまでの色を続けていた空から取り残されて、切り絵のように稜線をくっきりと浮かび上がらせる。
何と良い秋の夕暮れか。この頃はそういう桜島を見ては鹿児島に来て良かったと思っている。

今年は季節の移ろいをあまり実感せずに過ごしてきた。「秋」は釣れるというが、その秋は一体いつの時をいうのだろう。時は過ぎ去りして、人は秋を感じる。日連なる脈のなかにおいて、「秋」は或る一日を示しているのではなく、やはり夏の盛暑から冬の北風の到来にかけてに在る日々を云う。その間で、秋は或る印象的な一日が訪れることにより人はより、秋を想う。冬来たりて、「あぁあれは秋の日々だった」と、空や流れる雲、色づく雲を回想するのかで、或る印象的な一日――それは人によって違うが、釣り人であれば肌冷やす風のなか大釣りをした記憶や、旅人であれば奥山の紅葉の記憶――を以ってして、或る年の秋は確固として印象付けられる。

部屋に凝としていては、その或る一日を逃してしまい、有耶無耶なままに冬を迎えなくてはならない。聞けば河では魚が全然釣れないそうだ。先日行った時も随分と魚の気配が減ったものだと思った。秋の大釣りという語り草を今年は実感することなくして終わるのだろうか。いつの日か、或る秋の一日を過ごしたい、そういう思いが自分を岬に行くことを一層駆り立てた。
天高く馬肥ゆる秋――願わくば、抜けるような秋空のもとで草を食む馬を見たい。かねてからこの思いは去年よりあった。行く機会を逃していたので、今年は是非とも行こうと思った。しかし、ここ最近の天気の悪さに挫きかけたこともしばしばで、天気予報を見ては晴れの日を待ち、その日こそどんな予定でも投げ出して行ってしまおうと決めた。そこまで行きたかったのには他でもない、「天高く馬肥ゆる秋」を見たかったからだ。夜はランタンのもとでゲーテを読もう。月は上弦か。秋の夜風に吹かれ、一夜を地面の上で過ごそう。思えば思うほど期待は大きくなるのだった。

去年の今頃は静岡にいた。よく大学の休み時間に、ベンチに腰をかけて空を見上げると抜けるように高く、そして詰め込んだような青の濃さを以って目に逼ってきた。そういう天気を見ると、平常な一日を部屋の中で過ごすのが勿体なく感じられ、せめてその日だけはどこか遠くに行くべきなのだと思っていた。

今週の火曜日は幸いにも天気は晴れた。行くならこの日しかない。さぁ、一年に一度きりの秋空のもと、馬と青い天を仰ぐのだ。部屋を出た自分は桜島フェリーに乗り込み、錦江湾を横断して対岸の大隅半島に上陸してから一路都井岬を目指した。鹿屋を超え、太平洋側の志布志に出て、宮崎県に入り、串間を超えて岬についたのは午後を回っていた。
勿論、釣竿も積んできた。折角遠出するならばヒラスズキ釣りもしてみたかったので、釣りに馬見と読書と目的はてんでばらばらだった。ひとつ共通することといえば、ただ岬に居たいという其れであった。

岬の果てに着く。白い背の低い灯台が青空の下に座っている。それに続く一本道を歩くと、灯台の門をくぐった。中年の女性と、軽トラックの傍にいる作業夫が喋っている。
「見学ですか」女性は自分の姿を見るやそう言った。
「えぇ・・・いくらですか」見物料をとるのか、と一寸気を障したが、そう高くはないだろうと思い、入ることにした。
     
灯台に上るえんじ色の階段を昇ると、塔のドアが開いていた。ドアの上には緑青の浮かんだ鉄板が嵌められ、左読みで「都井岬燈臺 初點昭和四年十二月廿二日」と書かれている。
珍しいことにこの灯台は中に入ることができる。そうした灯台は全国で15基あるそうだ。二階はテラスになっていて外に繋がっている。テラスの奥まで歩いていくと望遠鏡があり、幸島のほうを眺めることができる。アダンの緑に濃く詰まった葉が艶を放って柵にかかっている、
灯台のなかは螺旋階段が廻り、3等フレネルレンズの真下まで昇ることができる。厚いレンズは午後の光を緑色に歪めて透かしていた。昼間だったのでレンズは動いていなかったが、夜になると23.5海里先の海まで光を届けるそうだ。
灯台の白壁を背にして、海を見下ろしてみる。眼下には黒潮と、陸から伸びている岩礁が黒い影となって延びている。それはやがて30mほどのところで急に消え、その先からは海は同じ色に続いている。一箇所突き出た磯場があり、潮が洗って白い泡をつくっている。
あそこに行きたい、と思った。そのためには深い木々に囲まれた急峻な崖を降りていかなければならない。どこかに経路はあるだろうか。
門に戻り、女性に尋ねてみた。すると、隣の売店にいるおばあちゃんが磯釣りをやるから詳しいでしょう、と紹介してくれた。
行ってみると、串団子が炭にかかっている後ろで店番をしている人がいた。聞けば、最近はスズキを釣りに来る人は減った、磯に行く道も1時間かかる、道も荒れていて一人で行くのは道が判らないかもしれない、とのことだった。
「でも、磯に行けば気が済むでしょう。私らも行かんと気は済まないけれど、行ってみて釣りができないと判れば気は済むでしょう」と同情してくれた。
蝿が串団子に集って来るのを蝿叩きを手にとって振り回しながら、おばぁさんと自分の親しみをもった話しは続いた。トタンに留まった蝿を打ち損ねると、ガーンッと派手に音が響いた。
「取り敢えず、行ってみます」と別れを告げて、教えられた経路を探しにその場を離れた。曲がり続く道を下りて下りて、果たしてその道はあった。舗道ともつかない石だらけの道を進むと、大きな影を目の前にしてはっと車を停めた。見ると馬だ。4頭の馬が、こちらを気にすることなく道の真ん中に生える草を食んで向かってくる。
おい、何をそんな一心不乱にしているのかい、と近寄ってみても、馬は相変わらずこちらを気にもせず、鼻息を草に吹きかけながら草を食んでいる。芝を刈るかのように、ゆっくりと、草を吸い取るかのように顔を左右させながらこちらに向かってくる。
その光景をじっと見詰めていたら、馬は目の前にやってきた。そして漸く自分に気がついた。咀嚼しながら顔をあげ、あぁなんだという風に口を動かしながら自分を見つめる。その様子がちっとも慌てた感じを与えず、むしろこちらがその場を邪魔させたので退きたい気にさせた。

道はずっと続いているが、こうにも馬に憚られては前に進むことはできない。引き返して、離れたところで釣りの身支度をしてもう一度馬のところへ向かった。
馬はまだ草を食んでいる。ある一頭は道端の小さな梢に顔をうずめている。そいつが横目で、こちらが竿を持っている姿を認めると急に身を翻した。それにつられたように他の馬も慌てふためき、馬の間には一時の興奮状態が生まれた。尚もこちらが近づいていくと、馬はそそくさと道はずれの木立のなかに消えていった。

道は歩けど歩けど海は近くならず、ただ波の音だけが聞こえる。そのうち道を覆う梢も多くなってきた。草や梢の間を縫うようにして大きな女郎蜘蛛も巣を張っている。なかには獲物を糸で丸め込んで食事にとりかかろうとしているものまでいる。
しかし彼らの巣を破らなければ道は通れない。網目の巣を引っ張り梢に結び付けている一本の芯糸を竿の先で突っついてみる。蜘蛛は突然の同様に慌て、その芯糸を辿り葉の裏に避難しようとする。「君のご自慢の巣を壊してごめんよ」と詫びながら、竿先で芯糸を絡め執ってぷつりと切ると、力を失くした網目はふわりと空に漂ったのち、もう一方の芯糸で張りが残っているほうに向かって被っていった。あぁ、折角の巣だったのに、また元に戻るのは幾日の後だろうか。自分が一人通るために、普段人も立ち入らぬこの場所で安泰と巣を張っていた蜘蛛に悪いことをした。と、気持ちの一方では蜘蛛を気味悪がりながらも、一方では彼らの生活を破壊したことを悪く思った。
さて道は愈々木々に遮られてきた。日もそろそろ沈もう。しかし岬の先へは依然として辿りつかない。埒が明きそうにないので引き返すことにした。
綻んだ蜘蛛の巣を見やりつつ戻っていると、一本の木の脇に獣道を見つけた。よもやこの道を行くと海に出られるかもしれない、そう直感した自分は道を降りていった。

木々のトンネルを抜けると、視界が一気に開けた。ごろた石に打ち砕ける波と、遠くの岸辺が見える場所に出た。
日暮れまで時間はない。息つく間も無くルアーをつけ、サラシを打っていく。押し寄せる波のときに引けば手元の感触はなくなり、引きゆく波にルアーを泳がせれば動きすぎてしまう。間隔をとるのは中々難しいことだと知った。
ロープの垂れ下がる崖もあった。先人たちの志の後か。

魚は何も釣れなかった。

夜、海が見える高台に停まる。遠くで漁火か、貨物船の白い灯りがみえる。風はびゅうびゅうと吹く。雲はごろごろと空に落ちていた。月は丘の向こうにある。
寒い風が吹いていた。隙間風が一層冷たく思わせた。ランタンを点けて、薄い肌掛けを敷き、ファウストを読む。
月は未だか。丘の向こうで、ぼやぼやしているのか。いや月もきっと寒いのだろう。雲を毛布にして風をよけているのだろう。うつらうつらとした頭がそんなことを思う。辺りは冷気があって自分を臆病にさせる。陶器の底にいるのはこういう気分なのだろうかと思った。音も通さぬ、陶器の底。冷えた空気だけが沈殿してゆく、陶器の底。
・・・眠ってしまった。月は一度だけ辺りを明るくした。深夜2時を回った頃だった。

翌朝は昨晩からの風が吹き荒んでいた。しかし太陽は顔をのぞかせていた。
丘に登ろう。月の隠れていたあの丘に登ろう。寝起きにそう思ったが、またうつらうつら眠ってしまう。どうやら冷気に心持をすっかりやられたようだ。
ひとつ目の丘は白蛇神社がある丘だった。その神社にはご神体として、生きた白蛇が祀られている。宮の中にはいるとガラスケースに覆われた祭壇があり、小さな鳥居と神棚が拵えてある。そこを白蛇が棲家にしているのである。
見ると、神棚のしたで置物のように微動だにせぬ白蛇がいた。何かを見詰めたまま動かなくなってしまったように、じっとしている。よく肥えていて、白い肌からうろこがぷくぷくと浮き出ている。背には明度の高い薄黄色の柄が浮かんでいる。
この社に入ったのは平成6年だというから、かれこれ16年もここに住んでいることになる。その年月の長さを、暴れもせずに横たわっているのは、一種の達観している姿勢を思わせた。

丘に登ると、馬がいた。どれもこれも、草を食んでいる。みな穏やかな目をしている。注意書きには、馬に近寄ると危険と書かれているが、この雰囲気ならどうやら近づいても平気そうだ。草原に寝そべり、思うままに写真を撮った。気が済めば海にもっとも近い丘のほうまで行き、すすき色に輝く秋の枯れ穂のうえを寝そべった。

枯れ草のような馬の乾屎のうえを、艶やかな虫が歩いている。マジョーラの色のように、光を浴びるとそれは何処かの宝石のように輝いた。すぐさまそれがセンチコガネだということがわかった。幼いころ、昆虫図鑑で見たことがあった。しかし実物を見たことは無かった。漢字では雪隠黄金と書くのだが、汚らしい雰囲気は全然無く、実際手にとってみると忙しそうに歩き回った。指のあいだに頭がつくと、ぐいと押し上げるようにして間を割ろうとした。それが思いの外強い力だったことに驚いた。落ち着きの無い虫で、逃がしてやると乾屎の下に潜り込んだが、軽い寓居はごとごとと揺れていた。

また別の丘に行けば、仔馬がいて、寝そべって見ていると自分に興味をもったのか近づいてきた。顔には飯粒をつけた子どものように、鮮やかな若緑色をしたくっつき虫を二三粒つけている。しばらく自分の寝姿を眺めていると、やがて鼻先を靴につけて匂いを嗅いだ。好奇心と或る親しみをもったその仔馬は自分を確かめると、そのうち親馬とおぼしき馬のほうに歩いていき、後ろ足のあたりに顔をうずめて乳を呑んでいた。





どの馬も秋風のなか草を食んでいた。時には雨や凍て付く風の日もあるだろう。そんなときにも彼らは草を食んでいるのだろうか。食むことを厭わず、ただ与えられた業のように今日も草を食む馬たち。自分は人間が仕事を行うことと馬たちの姿を照らし合わせていた。辺りも見ず、地面ばかりを見て、時にいばりをし、或るときには他の馬と肌を噛み合い掻いてやる。また或る春の日には雌馬に牡馬が無造作に凭れ掛って種をつける。暑い夏の日には毛は抜け落ちて、木陰で水を飲みつつ蝿を振る。寒い冬の日には毛が覆って湿った鼻先を風が凍て付ける。


馬は牡馬を中心にしたハーレムを作っている。その馬々が、枯れ草と生きる草の入り混じった丘のうえにぽつぽつと点在している。面白いことにあるハーレムには鹿が混じっていた。立派な角をした鹿であった。ただ馬と比べて随分臆病なのか、こちらを認めると草の茂みに伏せてしまい、じっとこちらを伺っている。馬は一向その様子を気にしていない。「君は自分の事を馬だと思っているのかい」と語りかけながら、こちらも何食わぬ素振りで海のほうに目をやり一向気にしていない振りをする。

丘のうえに目をやると、1頭の馬が、赤子がだだをこねるように、足を天にむけて掻きながら背中を地面に擦っている。ひとしきり気が済むと、また草を食み始める。何処かで弓を弾くような嘶きが聞こえて来る。
きっと今日は秋の平和な一日なのだろう。そう思うだけで、今日ここに来てよかったと思った。
丘を吹き抜ける風に指先が凍えれば、仔馬の首筋を撫でて暖をとる。柔らかなビロードの毛は肌に近く、血の気の良さが温かみを通して伝わってくる。仔馬は目をつむり、うっとりとしているのか、慣れぬ人肌に戸惑っているのか、しばらく立ち止まった。


かくして、或る秋の一日は夕暮れを迎えた。その日の桜島は茜色の空のなか、黒い影を映していた。
そういえば、釣りは昨日の一度きりしかやらなかった。すっかり魚を求める気分にはなっていなかったからであった。どうやら魚よりも求めていたものが他にあったからなのだろう。身を危険に晒してまでも釣りをするのは実際大儀に思われた。いずれ釣りに行こうと思う気が起きる日もあるだろう。
同じような節を漱石の草枕に思い出した。主人公の「余」も、キャンバスを手にしながら、景色人物をみてはとやかく言って終わってしまう次第でなかったか。
気が乗るときにやればいいのだ。ましてや強いられた仕事でもないことだ。気の赴く時を待てば良い絵が生まれるだろう。


ともあれ、良き秋の一日であった。