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都井岬

2010-10-30 18:11:52 | 旅行
秋分の日から一度たりとも暑い日が訪れなかったと感じている。今年は春の冷え冷えした空気が絶えることなく今に至っている気がする。特に5月前はその冷気に怯えながら過ごしていた。寒いのは嫌いだ。特に今の時分は、益々寒くなる一方であることを思えば自ずと気は重くなる。やはり今年は寒い年だ。そんな想いがここ最近の冷え込みで否応なく迫ってくる。ずっと空に蔓延っては離れなかった春の冷気に厭らしさを感じていたが、今になってもその冷気は結局去らず、また次の新たな冷気がやって来る。冷気への怯えは日毎暖かくなる季節せさえ拭い去ることはできなかった。暑い夏の盛りでさえも、それは変わらなかった。兎に角、今年は寒い年なのだ。
寒くなると、これは生理的と言ったほうがいいのだろうか、言いようのない虚脱感に襲われる。それが色々な悪いことを誘引する。沈んだ面持ちで日々を過ごすことのやり切れなさは、ただ単に寒さを理由にした自分への甘えから来るものというよりかは、寒さを原因とする一種の逃れ切れない疾病の如くして、心を暗がりのなかへ向かわせてしまう。
そういう時は部屋でじっと本でも読むか、海にでも行くかして気分を変えるしかない。特に外に出ることは、気持ちの変化は内発的になるというよりも、自分を取り巻く環境から外発的に変化を促されることになる。良く言えば、心に風を通したい。そのためには外の風に触れるのを以ってのほか無い。或る時は海を凝と見ていたい気分になる。吹きすさぶ風に引き千切られる波間を見るのでも良い、或いは凪いでかもめが飛んでいる温穏な海を見るのでも良い。波は幾度打ち寄せるのだろう。海はどこまで遠く、その水の指先を岸壁になぞるのだろう。そういうことを想いながら海を見る時間が好きだ。

鹿児島には桜島がある。この頃は秋の入り陽を、その無機質で筋の入った山肌に投影して、薄紫から紅に変わる色の移り行きを見せている。鹿児島市のある薩摩半島から見ればそれは色彩変化の劇を我々にみせ、反対側の大隅半島から見れば、西日を背負うた桜島は翳となり、雲が茜色から紅に至るまでの色の移り行きを見せる。
しかし秋の陽が沈むのは早く、桜島を過ぎ行く色はいつのまにか褪め引いてゆき、後には薄紺の空に佇む姿しか表していない。さながら生きているうちは鮮やかな色に輝いていた魚が陸に上げられ、息を苦しませながら死に行くのと共に褪めてしまう色のように、美しい色は息絶える前にあることを想起させる。
桜島は夕暮れのある一時だけを秋の陽に紅らめさせることを許している。空も同調して、その色を保とうとするが、桜島だけが急に色を褪せてしまい、それまでの色を続けていた空から取り残されて、切り絵のように稜線をくっきりと浮かび上がらせる。
何と良い秋の夕暮れか。この頃はそういう桜島を見ては鹿児島に来て良かったと思っている。

今年は季節の移ろいをあまり実感せずに過ごしてきた。「秋」は釣れるというが、その秋は一体いつの時をいうのだろう。時は過ぎ去りして、人は秋を感じる。日連なる脈のなかにおいて、「秋」は或る一日を示しているのではなく、やはり夏の盛暑から冬の北風の到来にかけてに在る日々を云う。その間で、秋は或る印象的な一日が訪れることにより人はより、秋を想う。冬来たりて、「あぁあれは秋の日々だった」と、空や流れる雲、色づく雲を回想するのかで、或る印象的な一日――それは人によって違うが、釣り人であれば肌冷やす風のなか大釣りをした記憶や、旅人であれば奥山の紅葉の記憶――を以ってして、或る年の秋は確固として印象付けられる。

部屋に凝としていては、その或る一日を逃してしまい、有耶無耶なままに冬を迎えなくてはならない。聞けば河では魚が全然釣れないそうだ。先日行った時も随分と魚の気配が減ったものだと思った。秋の大釣りという語り草を今年は実感することなくして終わるのだろうか。いつの日か、或る秋の一日を過ごしたい、そういう思いが自分を岬に行くことを一層駆り立てた。
天高く馬肥ゆる秋――願わくば、抜けるような秋空のもとで草を食む馬を見たい。かねてからこの思いは去年よりあった。行く機会を逃していたので、今年は是非とも行こうと思った。しかし、ここ最近の天気の悪さに挫きかけたこともしばしばで、天気予報を見ては晴れの日を待ち、その日こそどんな予定でも投げ出して行ってしまおうと決めた。そこまで行きたかったのには他でもない、「天高く馬肥ゆる秋」を見たかったからだ。夜はランタンのもとでゲーテを読もう。月は上弦か。秋の夜風に吹かれ、一夜を地面の上で過ごそう。思えば思うほど期待は大きくなるのだった。

去年の今頃は静岡にいた。よく大学の休み時間に、ベンチに腰をかけて空を見上げると抜けるように高く、そして詰め込んだような青の濃さを以って目に逼ってきた。そういう天気を見ると、平常な一日を部屋の中で過ごすのが勿体なく感じられ、せめてその日だけはどこか遠くに行くべきなのだと思っていた。

今週の火曜日は幸いにも天気は晴れた。行くならこの日しかない。さぁ、一年に一度きりの秋空のもと、馬と青い天を仰ぐのだ。部屋を出た自分は桜島フェリーに乗り込み、錦江湾を横断して対岸の大隅半島に上陸してから一路都井岬を目指した。鹿屋を超え、太平洋側の志布志に出て、宮崎県に入り、串間を超えて岬についたのは午後を回っていた。
勿論、釣竿も積んできた。折角遠出するならばヒラスズキ釣りもしてみたかったので、釣りに馬見と読書と目的はてんでばらばらだった。ひとつ共通することといえば、ただ岬に居たいという其れであった。

岬の果てに着く。白い背の低い灯台が青空の下に座っている。それに続く一本道を歩くと、灯台の門をくぐった。中年の女性と、軽トラックの傍にいる作業夫が喋っている。
「見学ですか」女性は自分の姿を見るやそう言った。
「えぇ・・・いくらですか」見物料をとるのか、と一寸気を障したが、そう高くはないだろうと思い、入ることにした。
     
灯台に上るえんじ色の階段を昇ると、塔のドアが開いていた。ドアの上には緑青の浮かんだ鉄板が嵌められ、左読みで「都井岬燈臺 初點昭和四年十二月廿二日」と書かれている。
珍しいことにこの灯台は中に入ることができる。そうした灯台は全国で15基あるそうだ。二階はテラスになっていて外に繋がっている。テラスの奥まで歩いていくと望遠鏡があり、幸島のほうを眺めることができる。アダンの緑に濃く詰まった葉が艶を放って柵にかかっている、
灯台のなかは螺旋階段が廻り、3等フレネルレンズの真下まで昇ることができる。厚いレンズは午後の光を緑色に歪めて透かしていた。昼間だったのでレンズは動いていなかったが、夜になると23.5海里先の海まで光を届けるそうだ。
灯台の白壁を背にして、海を見下ろしてみる。眼下には黒潮と、陸から伸びている岩礁が黒い影となって延びている。それはやがて30mほどのところで急に消え、その先からは海は同じ色に続いている。一箇所突き出た磯場があり、潮が洗って白い泡をつくっている。
あそこに行きたい、と思った。そのためには深い木々に囲まれた急峻な崖を降りていかなければならない。どこかに経路はあるだろうか。
門に戻り、女性に尋ねてみた。すると、隣の売店にいるおばあちゃんが磯釣りをやるから詳しいでしょう、と紹介してくれた。
行ってみると、串団子が炭にかかっている後ろで店番をしている人がいた。聞けば、最近はスズキを釣りに来る人は減った、磯に行く道も1時間かかる、道も荒れていて一人で行くのは道が判らないかもしれない、とのことだった。
「でも、磯に行けば気が済むでしょう。私らも行かんと気は済まないけれど、行ってみて釣りができないと判れば気は済むでしょう」と同情してくれた。
蝿が串団子に集って来るのを蝿叩きを手にとって振り回しながら、おばぁさんと自分の親しみをもった話しは続いた。トタンに留まった蝿を打ち損ねると、ガーンッと派手に音が響いた。
「取り敢えず、行ってみます」と別れを告げて、教えられた経路を探しにその場を離れた。曲がり続く道を下りて下りて、果たしてその道はあった。舗道ともつかない石だらけの道を進むと、大きな影を目の前にしてはっと車を停めた。見ると馬だ。4頭の馬が、こちらを気にすることなく道の真ん中に生える草を食んで向かってくる。
おい、何をそんな一心不乱にしているのかい、と近寄ってみても、馬は相変わらずこちらを気にもせず、鼻息を草に吹きかけながら草を食んでいる。芝を刈るかのように、ゆっくりと、草を吸い取るかのように顔を左右させながらこちらに向かってくる。
その光景をじっと見詰めていたら、馬は目の前にやってきた。そして漸く自分に気がついた。咀嚼しながら顔をあげ、あぁなんだという風に口を動かしながら自分を見つめる。その様子がちっとも慌てた感じを与えず、むしろこちらがその場を邪魔させたので退きたい気にさせた。

道はずっと続いているが、こうにも馬に憚られては前に進むことはできない。引き返して、離れたところで釣りの身支度をしてもう一度馬のところへ向かった。
馬はまだ草を食んでいる。ある一頭は道端の小さな梢に顔をうずめている。そいつが横目で、こちらが竿を持っている姿を認めると急に身を翻した。それにつられたように他の馬も慌てふためき、馬の間には一時の興奮状態が生まれた。尚もこちらが近づいていくと、馬はそそくさと道はずれの木立のなかに消えていった。

道は歩けど歩けど海は近くならず、ただ波の音だけが聞こえる。そのうち道を覆う梢も多くなってきた。草や梢の間を縫うようにして大きな女郎蜘蛛も巣を張っている。なかには獲物を糸で丸め込んで食事にとりかかろうとしているものまでいる。
しかし彼らの巣を破らなければ道は通れない。網目の巣を引っ張り梢に結び付けている一本の芯糸を竿の先で突っついてみる。蜘蛛は突然の同様に慌て、その芯糸を辿り葉の裏に避難しようとする。「君のご自慢の巣を壊してごめんよ」と詫びながら、竿先で芯糸を絡め執ってぷつりと切ると、力を失くした網目はふわりと空に漂ったのち、もう一方の芯糸で張りが残っているほうに向かって被っていった。あぁ、折角の巣だったのに、また元に戻るのは幾日の後だろうか。自分が一人通るために、普段人も立ち入らぬこの場所で安泰と巣を張っていた蜘蛛に悪いことをした。と、気持ちの一方では蜘蛛を気味悪がりながらも、一方では彼らの生活を破壊したことを悪く思った。
さて道は愈々木々に遮られてきた。日もそろそろ沈もう。しかし岬の先へは依然として辿りつかない。埒が明きそうにないので引き返すことにした。
綻んだ蜘蛛の巣を見やりつつ戻っていると、一本の木の脇に獣道を見つけた。よもやこの道を行くと海に出られるかもしれない、そう直感した自分は道を降りていった。

木々のトンネルを抜けると、視界が一気に開けた。ごろた石に打ち砕ける波と、遠くの岸辺が見える場所に出た。
日暮れまで時間はない。息つく間も無くルアーをつけ、サラシを打っていく。押し寄せる波のときに引けば手元の感触はなくなり、引きゆく波にルアーを泳がせれば動きすぎてしまう。間隔をとるのは中々難しいことだと知った。
ロープの垂れ下がる崖もあった。先人たちの志の後か。

魚は何も釣れなかった。

夜、海が見える高台に停まる。遠くで漁火か、貨物船の白い灯りがみえる。風はびゅうびゅうと吹く。雲はごろごろと空に落ちていた。月は丘の向こうにある。
寒い風が吹いていた。隙間風が一層冷たく思わせた。ランタンを点けて、薄い肌掛けを敷き、ファウストを読む。
月は未だか。丘の向こうで、ぼやぼやしているのか。いや月もきっと寒いのだろう。雲を毛布にして風をよけているのだろう。うつらうつらとした頭がそんなことを思う。辺りは冷気があって自分を臆病にさせる。陶器の底にいるのはこういう気分なのだろうかと思った。音も通さぬ、陶器の底。冷えた空気だけが沈殿してゆく、陶器の底。
・・・眠ってしまった。月は一度だけ辺りを明るくした。深夜2時を回った頃だった。

翌朝は昨晩からの風が吹き荒んでいた。しかし太陽は顔をのぞかせていた。
丘に登ろう。月の隠れていたあの丘に登ろう。寝起きにそう思ったが、またうつらうつら眠ってしまう。どうやら冷気に心持をすっかりやられたようだ。
ひとつ目の丘は白蛇神社がある丘だった。その神社にはご神体として、生きた白蛇が祀られている。宮の中にはいるとガラスケースに覆われた祭壇があり、小さな鳥居と神棚が拵えてある。そこを白蛇が棲家にしているのである。
見ると、神棚のしたで置物のように微動だにせぬ白蛇がいた。何かを見詰めたまま動かなくなってしまったように、じっとしている。よく肥えていて、白い肌からうろこがぷくぷくと浮き出ている。背には明度の高い薄黄色の柄が浮かんでいる。
この社に入ったのは平成6年だというから、かれこれ16年もここに住んでいることになる。その年月の長さを、暴れもせずに横たわっているのは、一種の達観している姿勢を思わせた。

丘に登ると、馬がいた。どれもこれも、草を食んでいる。みな穏やかな目をしている。注意書きには、馬に近寄ると危険と書かれているが、この雰囲気ならどうやら近づいても平気そうだ。草原に寝そべり、思うままに写真を撮った。気が済めば海にもっとも近い丘のほうまで行き、すすき色に輝く秋の枯れ穂のうえを寝そべった。

枯れ草のような馬の乾屎のうえを、艶やかな虫が歩いている。マジョーラの色のように、光を浴びるとそれは何処かの宝石のように輝いた。すぐさまそれがセンチコガネだということがわかった。幼いころ、昆虫図鑑で見たことがあった。しかし実物を見たことは無かった。漢字では雪隠黄金と書くのだが、汚らしい雰囲気は全然無く、実際手にとってみると忙しそうに歩き回った。指のあいだに頭がつくと、ぐいと押し上げるようにして間を割ろうとした。それが思いの外強い力だったことに驚いた。落ち着きの無い虫で、逃がしてやると乾屎の下に潜り込んだが、軽い寓居はごとごとと揺れていた。

また別の丘に行けば、仔馬がいて、寝そべって見ていると自分に興味をもったのか近づいてきた。顔には飯粒をつけた子どものように、鮮やかな若緑色をしたくっつき虫を二三粒つけている。しばらく自分の寝姿を眺めていると、やがて鼻先を靴につけて匂いを嗅いだ。好奇心と或る親しみをもったその仔馬は自分を確かめると、そのうち親馬とおぼしき馬のほうに歩いていき、後ろ足のあたりに顔をうずめて乳を呑んでいた。





どの馬も秋風のなか草を食んでいた。時には雨や凍て付く風の日もあるだろう。そんなときにも彼らは草を食んでいるのだろうか。食むことを厭わず、ただ与えられた業のように今日も草を食む馬たち。自分は人間が仕事を行うことと馬たちの姿を照らし合わせていた。辺りも見ず、地面ばかりを見て、時にいばりをし、或るときには他の馬と肌を噛み合い掻いてやる。また或る春の日には雌馬に牡馬が無造作に凭れ掛って種をつける。暑い夏の日には毛は抜け落ちて、木陰で水を飲みつつ蝿を振る。寒い冬の日には毛が覆って湿った鼻先を風が凍て付ける。


馬は牡馬を中心にしたハーレムを作っている。その馬々が、枯れ草と生きる草の入り混じった丘のうえにぽつぽつと点在している。面白いことにあるハーレムには鹿が混じっていた。立派な角をした鹿であった。ただ馬と比べて随分臆病なのか、こちらを認めると草の茂みに伏せてしまい、じっとこちらを伺っている。馬は一向その様子を気にしていない。「君は自分の事を馬だと思っているのかい」と語りかけながら、こちらも何食わぬ素振りで海のほうに目をやり一向気にしていない振りをする。

丘のうえに目をやると、1頭の馬が、赤子がだだをこねるように、足を天にむけて掻きながら背中を地面に擦っている。ひとしきり気が済むと、また草を食み始める。何処かで弓を弾くような嘶きが聞こえて来る。
きっと今日は秋の平和な一日なのだろう。そう思うだけで、今日ここに来てよかったと思った。
丘を吹き抜ける風に指先が凍えれば、仔馬の首筋を撫でて暖をとる。柔らかなビロードの毛は肌に近く、血の気の良さが温かみを通して伝わってくる。仔馬は目をつむり、うっとりとしているのか、慣れぬ人肌に戸惑っているのか、しばらく立ち止まった。


かくして、或る秋の一日は夕暮れを迎えた。その日の桜島は茜色の空のなか、黒い影を映していた。
そういえば、釣りは昨日の一度きりしかやらなかった。すっかり魚を求める気分にはなっていなかったからであった。どうやら魚よりも求めていたものが他にあったからなのだろう。身を危険に晒してまでも釣りをするのは実際大儀に思われた。いずれ釣りに行こうと思う気が起きる日もあるだろう。
同じような節を漱石の草枕に思い出した。主人公の「余」も、キャンバスを手にしながら、景色人物をみてはとやかく言って終わってしまう次第でなかったか。
気が乗るときにやればいいのだ。ましてや強いられた仕事でもないことだ。気の赴く時を待てば良い絵が生まれるだろう。


ともあれ、良き秋の一日であった。

悪石島滞在記その1

2010-08-29 00:23:37 | トカラ回想記

ヤギの声で目が覚めた。一頭の白いヤギが道路の上をとぼとぼと歩き、立ち止まって顎を突き出してメェと鳴いている。風は昨夜からちっとも吹いていない。東風は初日からずっと吹いているものの、ここは風裏になるからそのお零れは僅かであった。日はすっかり昇っていて、テントのなかが暑苦しくなってくる。もっとも昨夜から暑苦しさは続いていた。満月のもと、道端の木下に架けたテントは風通しが悪かった。おまけに近くにある、いおう山の地熱のせいで気温以上に蒸された感じがする。じっとしていると汗で服が湿ってしまう。おまけに1mmくらいの名の知らない血を吸う虫がいる。もう腕と足は一晩で20箇所以上刺された。刺された後は赤く膨れて、ひどく痒い。はやくテントを出よう。昨日見た、岬の先にある磯で釣りをしよう、そう思って木にかけておいた釣竿を手にした。


集落に続く坂道は、太陽の低い午前のはじめは日陰になっている。日が照りつけ始めると、暑さと運動で汗がとめどなく流れ、腕や鼻は汗粒に覆われてしまう。飲む水はすぐに体から抜けてしまうし、すぐに口が粘るので、歩きながら水を流し込む。口から無造作に零れた水が体を濡らし、山をすり抜けてきた東風が当たって冷ましていく。

初日はそれを知らずに歩いたので、坂の途中にある木陰でへばっていると、一台の車が停まって拾ってくれた。
「どこ行くんか」
「灯台のほうへ。行けますか?」
拾ってくれたのは、この島の出張所の職員さんであった。
「あそこまで行ったら、死ぬぞ。熱中症になってしまう。」

この暑い中、灯台まで2km以上はある。テントから積算すると、5kmくらいになる。木陰も少ない島の道を、午後の一番暑い時間に歩いていくのは間違えれば熱中症になってしまう。正直とんでもなく日差しが暑い。灯台まで行くのは諦めた方が良さそうだ。
クーラーのよく効いた車は出張所にすぐに着いた。礼を言って、岬の方へ歩いてみた。がじゅまるの大木が鎮座している集落を抜け、道傍にある牧場みながら坂道を降りていくと海が見えてくる。傾斜はどんどんきつくなり、道の先がそのまま海にすとんと落ちているような錯覚をおぼえる。
行き着いた道の先は崖になっていて、その下に磯場が広がっていた。磯に下りる階段があったが、途中で崩壊していて、崖のうえから宙吊りになっている。
目の前にある磯は藍色の潮が流れて、岬の先で本流とのヨレをつくっている。いかにも釣れそうな磯だった。しかし、そこに辿りつくために拵えられた階段は崩れて、どうにも崖を降りれそうにない。指を咥えて見ているわけにもいかない。
どうしようか、としばし崖を見回して降りれそうなところがないか探してみた。ここの崖道は足をつけるところが10cmくらい、あっちの崖は2mくらいの絶壁だけど手をかけるところがない・・・太陽に焼け付く岩の上をうろうろしながら経路を探していると、一箇所土砂の崖に岩が都合よく突き出ているところがあって、そこから降りれそうなことが分かった。
岬に続く大きなゴロタ石のうえには所々にヤギの屎が落ちている。家畜臭さのなか、石の上を飛び続けていると、ようやく岬に出た。先端には離れ磯があって、そこから先は水平線しかない。
探していた磯はここだった、ちょうど、泳げば渡れそうな位置にある。明日は竿持ってここで釣りをしてみよう。そう思い、東風吹き付ける磯を後にした。初日はそうして日が暮れていった。


この島に来たのは元はといえば或るものを見るためだった。今から2年くらい前、一冊の本で見た一枚の写真が衝撃的だったことを覚えている。そこには今まで見たこともない異形の人形がいた。人形といっても、人が被っているので大きさは人の背丈以上もある。うさぎのような耳と、円い筒になった目、そしてがっばりと開いた赤い口をした面に、腰にはビロウの葉の蓑を巻いている。手には細ながい棒――これはマラ棒というと解説されていた、を持っている姿が映っていた。その名をボゼという。この島に古来より伝わるもので、旧暦の盆の終わりになると集落にあらわれる。
ボゼの出る日は旧暦の7月16日と決まっている。雨が降っても台風が来ても、ボゼは出る。月が満月になるその日の昼間に島の公民館に現れる。今年のその日は、新暦でいうと8月25日にあたる。

フェリーは25日に島に着くのもあったが、自分は一足先に20日の夜に出るフェリーに乗り込んだ。ボゼの出る5日後まで、時間は十分にある。その間は磯から釣りをしてみよう、手ごろな大きさの魚が釣れたらそれを食べていけばいい。そう楽観して島に上がった。
ただ、突然のように島にやってきて、民宿に泊まりもせずテントを張って居着いてしまう事は、島民にとって気を置いてしまうことになるし、迷惑をかけてしまうことにもなる。
自分は島にとってのお荷物――数年前は意識していなかったことが、ここ最近島を訪れるたびにこの言葉が浮かんでくる。
そういえば、先月トカラに行った時も、顔馴染みになったある島民が言っていたことを思い出した。
それは梅雨時期に堤防でGTを狙う人についてのことだった。

「あれだけの数の人が島に来られても、正直困るよ。うちの島は良いのかあまり人が来ないけど。・・・金曜の船で行って日曜に帰って来れるのはいいのかもしれないけれど、島にはお金おとしていかないもんね。釣り道具はすっごい良いの使って、お金かけているのに民宿とかに泊まらないで堤防にいるのは、なんか違うんじゃない、って思うわけ。君みたいな学生とかだったらまだかわいいもんだけれど。」


実際、島の人は訪れる人のことをしっかりと覚えている。例え何の知らせも無く島に上がったとしても、下船するときにしかと見届けられているのだ。
それは集落を歩いていても、一見誰も通らないような道を歩いていても同じで、自分の知らないところでしっかりと確認されている。だから久しぶりに島を訪れた時、話したか記憶に薄れている島民から突然「にいちゃんこのあいだ来とったな!」と言われることが偶にあるのだけれども、そういうときは思い出すことに少しうろたえてしまう。


――竿を手にしたあと、40分ほどかけて岬に降り立った。白く豊沃な夏雲が東風に乗って流されていくなか、夕方までポッパーを投げ続けたが1バイトだけで終わった。その代わり、夕飯の魚を釣ろうと思ってタコベイトをつけたインチクを投げると僅か3投ほどで、真っ赤なハタが釣れた。トカラではアカジョーと呼ばれる魚がいるけれど、それに近い色をしている。真っ赤な肌の上に、赤紫色の鮮明な斑点が散りばめた花びらのように浮かび、キッと伸びた鰭の先はこれまた鮮やかな黄色に彩られている。海の中でこんなにも派手でいて大丈夫なのだろうかと思うほど鮮やかな赤い魚だった。2kgあるかないかで、一人で食べるのには十分すぎる量がある。
磯を上がる時、潮溜まりに生かしておいたこの魚を捌いて、頭やアラは海に還した。捌いた時に散らばった鱗や血に無数の小魚、ギンユゴイやオヤビッチャの子どもなどが群がり、小さな小さな口を忙しく開けたり閉じたりしていた。きっと彼らが同じ味にありつけるのはこの先無いかもしれない。海の底へ沈みゆくアラには、ついさっきまで優雅に泳いでいたチョウチョオウが咄嗟に群がり、ついばんでは仲間達と泳ぎ戯れていた。
小魚たちは満足できたかわからないが、自分にとってこの一匹は夕飯に十分すぎるほどの量だった。塩と醤油だけで味付けをして鍋で焼いてみると、煮汁がふんだんに零れてきて、焼き物が煮物になってしまうほどだった。白く、バターを溶かしたような濃厚な色をした煮汁と共に身を食べると、適度な歯ごたえとちっとも臭みの無い白身が腹を満たした。
半身を食べ終える頃になると、いい加減腹も膨れてきて受け付けなくなる。一度火を通したから、常温でも明日の朝まで持つだろう。鍋に蓋をして、テントのなかに置いておいた。
近くには温泉がある。湯泊(ゆどまり)温泉といい、毎日16時から空いている。シャワーもついており、汗と潮にまみれた体を洗い流すには最高の設備だった。


島に来て3日目。その日も磯でポッパーを投げ続けたがアオチビキやカスミが襲ってきたくらいで、GTは出なかった。夕方まで投げ続け、昨日と同じように磯をあとにして温泉に向かった。
湯船には汲み出された湯が溢れ、側溝にとろとろと流れ落ちている。源泉は80度くらいあるという。
暑い湯に浸かっていると、島の人がやってきた。

「昨日の朝、岬の方に行っただろう」
島訛りの強い言葉に、最初はよく聞き取れずに相槌を打って過ごそうとしたこともあったが、何度か言うことを聞き返したりしているうち徐々に聞き取ることができてきた。
「そんで兄ちゃんが岬に行くの見掛けたもんだから、消防団のひとに「今朝若いにいちゃんが岬にいった」って伝えておいた。岬は危ないからよ、それは、一人で行くと、海に落ちたとき誰もわからないから、だから万が一のことがあったらってことで、消防団に伝えておいた」
実際、自分は彼に会ったことを覚えていなかった。きっと岬にいくあいだにすれ違った車を運転していたのが彼だったのだろう。
「それは、どうもすいませんでした・・・」と、自分の知らないところでしっかり見られていたことに恐縮してしまった。

話しはボゼのことに及んだ。
「おじさんはボゼをかぶったことありますか?」
「ある、ある」と首を立てに振ったおじさんはこう言った
「今から20年、いや30年くらい前だったか。ボゼを被ると、暑くて大変。体がもたないくらい」
何度も、その大変さを繰り返して言っていた。
「それで、大変だからボゼのあとは。被った人にジュースや酒とか、とにかく飲みたいものをすぐにあげた。つまみなんかも、優先してあげられて。とにかくボゼのなかは暑いから・・・」
「ボゼを被る人は誰か決まっているんですか?」
「いや、被りたいっていう人がね・・・とにかく若くて元気のいい人じゃなければ務まらない」

話しを聞いていると、昔は若い衆は強制的にボゼを被らされたという。とにかく暑いので、10分15分被るだけで大変に疲れるそうだ。
もう一つ、教えてくれたことがあった。それは盆が終わるのは旧暦7月15日までで、ボセの出る16日は盆ではないのだと云う。
旧暦14日と15日は盆踊りが行われて、夜になると集落の家々の庭先で盆踊りが捧げられる。15日はテラと呼ばれる墓地で盆踊りが捧げられる。テラには昔、お寺があったからその名前だけ残っているのだと云われている。今はお堂などはなく、木製の小さな小屋が置かれている。
盆の日はその2日で終わりなのだが、それでもまだ集落内や道に残っている先祖霊を追い払うために、翌日ボゼが出てくるのだという。

「テラでボゼ作っているから、加勢しにいけばいい。明日の朝9時頃行ってみるといい。」
おじさんは不意に自分をボゼ作りの場に招待してくれるといった。願ってもいない知らせに明日が楽しみになった。
温泉から出ると、千切れた雲間には満月が浮かび、真っ白な月光が辺りを照らしていた。誰そ彼、というほどの明るさではないくらいに白く明るかった。懐中電灯も何もいらない明るさのなか、テントに戻った。


翌朝の8月24日、旧暦7月15日。この日は盆の最終日だった。
朝、まだ日も高くない時間に集落に向かった。山道から眼下の海を見ると、日陰になった朝の海は青の深みを増してきらきらとしていた。海底が砂地のところは青が浅い色になり、岩のところは深い色に変わる。そうしたコントラストが岸近くで重なり、すぐに深い青一色の大海原へと続いていく。

テラの入り口に来た。車が2,3台停まっている。9時前からボゼの準備をしているようだ。テラは集落に続く道の脇にある。鬱蒼とした木々に覆われた小さな坂道を下るとテラに行き着く。
男が2人、忙しげにテラの道を登ってきた。

「ボゼを作っているんですか?」と、そのうちの一人に声をかけてみた
「ですよー」と、人の良さそうな顔をした男が答える
「見てもいいですか?」と聞いてみる。すると、
「いやー、立ち入り禁止」と断られた。

ボゼの作っているときには、女子どもは立ち入ってはならないと昔から決められている。基本的に島の男しか入ってはいけないのだが、作り手の機嫌が良い時は旅行客も入っていいという。でも、写真は絶対撮ってはならないという。「ボゼが島のものじゃなくなる」と、あるおじさんは温泉で呟いた。

今年はボゼ作りを見ることができない年なのだ、そうあっさりと割り切って、自分は暇を持て余した。集落をぶらぶらしていても不信がられるので、いっそのこと灯台まで歩こうと思った。まだ日も低いうちだから暑さも大丈夫だろう。


灯台から帰ってきた頃、時刻は昼を過ぎていた。足は疲れずに持っていた。出張所に水を汲みに行くと、出張所のおじさんに話しかけられた。

「あんた昨日Hさんがボゼの加勢させるっていったのに、朝いなかったって言っとったけど」
「あぁ・・・いや、それが入れなかったんですよ」
そのとき、一人の男が出張所に来た。朝テラで会った二人のうちの一人だった。男はおじさんに向かって
「立ち入り禁止にしてるんだ」と言った。
「そうかね、・・・」とおじさんは聞き留めて、男と別の事を話しはじめた。

外に出ると、初日に知り合ったAさんという方が、折り畳み机を組み立てて並べる作業をしていた。
傍らには自転車が停まっている。気の良い方であるAさんは、それに乗ってみてくれないか、と誘ってくれた。電動自転車だから、港からの上り坂を試して感想を聞かせて欲しい、と言った。
面白そう、と思って快諾した。テントに戻るまでは延々と下り坂が続くから気持ちが良いだろうし、電動付きなら上りも訳ないだろう。

風を切りながら下り坂を疾走し、テントに戻った。道の傍らにいる親子連れのヤギは、きっと見慣れていない自転車を見てびっくりして全力で逃げて行った。
また暫く行くと、曲がり角を生やしたオスのヤギが頭を下げて呑気に草を食んでいたが、自転車のガタゴトいう音におどろいて、びくっと頭を上げた。

下りは快適だった。愈々、本題の上り坂を試す時になった。が、ここで充電が急激に減り始めた。あれよあれよという間に、充電は点滅して、やがてすぐに電動モーターが止まった。坂はまだ序の口でしかないところだった。
これは困った。約束の16時まであと30分を切っているが、間に合うだろうか。おまけに午後の太陽は天高く上って地上を熱くたぎらせている。
事実上り坂は大変に喉が渇き、汗がだらだらと流れて試練に近い状態だった。
白雲は上手いこと太陽をかわして行き、雲に隠れる気配はちっとも無い。雲さえ翳れば、島はその陰が落ちて幾分か過ごしやすくなるのだが、日の照るうちは日差しにやられてしまう。天は高い、風は冷えた、熱いのは日差しだけだ。だから日差しさえ抑えられれば良いのだが、都合良く日は翳ってくれない。
一つ、太陽の近くを通りかかった雲もなかなか太陽に向かおうとはしない。足取りは難儀で、体の水気は蒸発し、口が粘るのを感じつつも天を見上げては、その雲ののろまな動きに苛立ちを覚えた。雲よ、雲よ、と願いながら坂を上るも、日は一向に翳らなかった。風よ吹け、吹けよ、と願ってみても、風は梢の葉を僅かに揺らす程度しか吹かなかった。

その雲尻が太陽にかかりはじめたのは、坂をほとんど上ってしまったときだった。その頃になると、木陰もいくつかでき始める。鳥も暑いのだろう、地面にできた木陰のうえでくつろいでいる。近づくと逃げるが、それでも着地するのは木陰のところだった。

やっとの思いで出張所に着くと、蛇口をひねって勢いよく出る水をがぶがぶと飲んだ。この島の水は美味い。口当たりがまろやかで、癖がちっともない。山が高いだけあって、湧く水も良いのだろう。
時間は16時を少し回った。Aさんに自転車を返すと、それは大変でしたね、と労ってくれた。

「太鼓の音が聞こえるから、もう始まったんじゃないかな」とAさんが言う。
耳を傾けると、確かにトントンという太鼓の小さな音が聞こえる。音が聞こえるのはテラのほうだった。盆踊りが始まったのだ。
テラをこっそりと伺うと、浴衣を着た20人ばかりの男たちが輪になって踊っていた。動作はゆっくりしていて、時折扇子を上下に閃かせたり、屈んだりする動きをする。輪のなかの一人のおじさんが、小さな鐘楼のような鐘をチンッ、チンと鳴らしている。その音のあとに、トントンと人の顔くらいの大きさの小太鼓が鳴る。
おや、と思った。そのおじさんは、以前フェリーの中で会ったことのある人だった。実際、一昨日くらい温泉でおじさんに会ったのだが、その折のことを話すと、自分のことを思い出してくれた。
浴衣を着た男たちの顔をよく見れば、島で話したことのある人の顔も何人かあった。衣装違うだけで随分と雰囲気も変わるもので、そこには島の夏の一情景として映える姿となっていた。浴衣は藍色のもの、白いもの、縦縞の模様の入ったもの、とそれぞれであった。若い人も混じっていて、浴衣を着ないでTシャツやワイシャツを着て踊る者もいた。

島のおばあさんたちは縁石に腰をかけたりしながら、その光景を和やかに眺めていた。観光客らしい人は一人もいなかったので、若干恐れをいだきながらテラに入ると、一人のおばさんが自分に気付き、こんにちはと言った。おばあさんたちの後ろにある小屋の前で、こっそりと眺めることにした。

踊りには唄がついていて、輪のなかの一番年配そうな老人がひとり、伸びの良い抑揚の低い声で唄っている。周りの男たちもそれに付くようにして唄声を重ねていく。
テラの木立ちの下で行われるそれはとても長閑なもので、悠長なものだった。おばあさんたちは団扇片手にじみじみと、にこやかな顔をして眺めていた。

やがて踊りは数分で終わり、今度は墓石のまわりを一列になって踊り進んでいった。それが終わると、テラの下側にある道から公民館へと場所を移した。
公民館といっても、平屋で小さな家くらいの大きさしかない。そこに踊りの輪が入れるくらいの庭がついている。公民館に帰った男たちは、中へ出入りをしてしばし時間が経った後、庭に出てまた円をつくり、踊りを続けた。
ちょうど公民館のあたりは日陰になりやすいので、島の人は涼みながらその情景を愉しんで眺めていた。
踊りが一通り終わったあとは、島の人揃って公民館で飲み物を飲んだり、話に華を咲かせたりと内輪な光景になった。島の人々の間に通じる和やかで明るい雰囲気がそこにあった。
自分は邪魔にならぬように、とその場を後にして出張所のほうへ戻った。

出張所ではAさんがずっと作業をしていた。
「そういえば」とAさんが言う
「よかったら、明日お昼食べませんか」
「え、いいんですか」
「明日はボゼツアーの人が来ますから、良かったら手伝ってください。ギャラはお昼ごはんで」
「えぇ、是非!」
Aさんは携帯電話を取りだして、どこかに電話をかけた。・・・もしもし、現地スタッフ1名確保しました。ギャラはお昼ご飯です。はい、はい、、おつかれさまです…と電話を切った。
「じゃぁ、明日お願いします」

島に来てから、釣った魚と持ってきた食パンと菓子パンとソーセージ以外は口にしていなかった。パンにはレトルトのパスタソースをかけて食べている。2斤あるので、一日一斤食べられるのだが、腹の方は全然空かなかった。そのうち食べるのが億劫になるほどで、食欲は依然沸かないままの3日が続いた。きっと常に水を腹に流し込んでいるから、水っ腹になってしまい空腹感がないのだろう。体は案外平気で、一日中GTロッド振り回せるほどであった。
それでも、5日ぶりにまともな食事をとれると聞けば心躍るものである。カレーのなかには、肉や野菜、香辛料などあらゆるものが贅沢に仕込まれている。いや、普段こういうものは食べているのだけれども、しばらく島にいるとこうした普段の食事がひどく贅沢なものに思えてならない。これも貨幣社会の為せることだ。金と対価にあらゆる食料を引き換えることができる。わざわざ狩猟をしに行かなくても、この小さな銀色に光る100円玉を出せば、肉なり野菜なり魚なりが手に入るのだ。
島にいる間は、こんな当たり前のことを一々考えては、そういう貨幣社会の良い面や暗い面、気狂った面ともいえるようなところまで思索の手を伸ばしてしまう。
とにかく、明日はカレーが食べられるのだ。目の前に餌がぶら下がっているのがとても嬉しかった。
「翌朝、8時にテントに迎えに行きますから」とAさんは言って、わざわざ自分をテントのところまで車で送ってくれた。


下段、その2に続く。


悪石島滞在記その2

2010-08-29 00:20:21 | トカラ回想記

8月25日――旧暦7月16日。ボゼが愈々出る日。空はいつものように秋晴れで、積乱雲になりかけの雲が所々に坐っている。フェリーは10時20分に来ると放送がかかった。
テラの前には、昨日のように軽トラが2,3台停まってボゼの準備をしていることを示している。今日はボゼの面に色を塗る作業をする。この3日間でボゼは順調に育ってきている。もうすぐ生まれるのだ。
温泉のほうでは、草刈や露天風呂の目隠しをするためにビロウの葉をこさえている人の姿があった。出張所では、ツアー客に振舞う昼食をつくるために島の婦人たちが集まっている。この日、島の住民は総出でツアー客を受け入れる準備をして、またボゼを出す準備もする。

やがて、船の汽笛が聞こえてきた。車が何台も出張所の前に止まり、そこからツアーのお客たちが降りてくる。仮初めのスタッフとして雇われた自分は、そのお客たちの荷物を預かったり、部屋に案内したりする役が充てられた。港と出張所を往復する車と、降りてくるお客の数が一段落すると、今度は港の製氷所へ行って大籠5,6杯の氷をトラックに入れて運んだりした。
時間はすぐに過ぎ、やがて昼飯の時間になった。ようやくカレーにありつけたのだが、落ち着いて食べる間も無く次の仕事が来る。なんでも、フェリーが宝島から折り返して戻ってくるから、綱とりに行かなければならないとのこと。
ボゼの日は、フェリーもボゼ便という特別運航になる。通常どおり終点の宝島まで行くのだが、そこから悪石島へ直行で戻ってくるのだ。
島民はボゼの準備に手を追われているので、フェリーの接岸のときにするロープをとる作業、綱とりを加勢しに行かねばならない。
スタッフ4人を乗せた車は大急ぎで港に向かった。港の沖にはもうフェリーがみえていた。岸壁の上で間隔をあけて並んでいるビット(鉄製で「 型をしている)の近くに立って、船が接岸するのを見守る。
白く美しいフェリーとしまは、ぶるぶるとエンジンを振るわせながら港の水を掻き回している。器用に噴射された水で船を転回させて岸壁に近づいてくる。
普通は、綱とりは島民以外やってはいけない。青年団に加入しなくてはならないのだが、その理由には保険が絡んでいるのだと、他の島の島民が教えてくれた。フェリーはビットに繋がれたロープの張力も使って接岸をするが、そのとき船力でぴんと力の張り詰めたロープが稀に切れることがある。
すると、力を解かれたロープは張られたのと逆の方向へ物凄い力と共に跳ね返ってくる。もしそこに人がいたら、ロープに殴打されて死んでしまうという。

近づいてくる船は、いつも見ている優雅なフェリーとしまの姿ではなく、穏やかな島の海に乗り込んできたような威圧感をもった大きな白い船で、遠い遠い本土の陸の残影を背負った船に見えた。この船に島の物資が積まれ、また本土からの物資が積み下ろされ、トカラの島々を同じようにして繰り返しながら進んでいくのだと思うと、島に一時的に本土のパイプラインが架かったような錯覚を覚えた。
もうすぐ船は接岸する。みよしには甲板員が一人立っている。太陽のもとに浮かび上がるそのシルエットは、何処か急峻な崖の上から見下ろす制裁人のようにも見え、身震いが起こりそうなほど格好良い姿だった。間も無く船からロープが発射される。
舳先がこちらをむくと、砲台からパーンッと勢い良くロープの端につけられた玉が発射させられる。それはゴムか何かのよく弾む玉で、岸壁の上を跳ねて着地した。
そこから小指くらいの細いロープが繋がっている。ビッドのまえにいる島民、自分も含めて全力でそのロープを手繰る。一瞬も手を緩めてはいけない。ロープに手をかけると、一気に後退してどんどん手繰っていく。もう一人が岸壁の先に出て、またロープをたぐる。すると、フェリーからビッドにかける太い淡い暖色の綱が降りてくる。海面にばちゃっと落ちて、そこからは浮力でするすると近づいてくるのだが、いざ陸に揚げようとするとずしりと重い。大人二人がかりで揚げて、無事にビッドに輪をかけると片手をあげて船員に終了の旨を知らせる。
乗客をおろすタラップも、男4,5人がかりで担ぎ上げて船に掛けなくてはならない。
とにかく、フェリーの接岸は全力で行われる。それは傍で見物しているのとは大違いに忙しいもので、また初めておこなった自分は接岸してくるフェリーに言い知れぬ威圧感を覚えていた。
これを週に大体4回繰り返している島民たちは本当に逞しいと思う。フェリーを前にした島の男たちは仁王立ちをしたり腕を組んだりして待っているが、その背中や佇まいからは男らしさが滲み出ている。



接岸を終え、出張所にもどると15時に近かった。もうすぐテラで盆踊りが始まる。その頃になると、珍しく厚い雲が太陽を遮った。木立に覆われたテラはそのせいで一層鬱蒼としている。
15時、盆踊りが始まった。昨日とは変わって、50人を越えるツアー客とそのカメラのなかに囲まれた踊り手一行は、気にも留めないかのようにゆっくりと踊り始めた。あの趣のある唄をうたう老人は山吹色の浴衣を着ていた。昨日と同じように、鐘の音と太鼓の音と共に踊り手は、屈んだり回ったりしながら輪はゆっくりと回っていった。分厚い雲はなかなか拭われずに、テラは薄暗いままだった。
昨日より少し長めの踊りが終わったあと、ツアー客と踊り手は公民館に移動した。
ボゼのことをよく知らないまま来たお客のなかでは、ボゼはまだ出ないのだろうか、と囁きあう声が聞こえた。

公民館に移ると、雲は更に鈍く立ち込めてきた。東の方をみると、頭上の雲の切れ間に見える青空の先に、更に大きくて真っ白な積乱雲が控えていた。
地面に、一滴の雨が落ちて滲んだ。しばらくして、腕の上にもまた一滴落ちた。
踊りは再び始められた。ただ、そのうちに一滴の雨粒が二滴三滴、と見えてくるにつれてぽたぽたと雨糸を引く陽気になってきた。
観客も傘を差し始める者も出てきた。ここのところずっと晴れていたので、よりによって、こんなときに雨が降るとは思ってもいなかった。
踊りが終わる頃には、愈々本降りになった。踊り手も、これはだめだと一度公民館のなかに帰したが、すぐに出てきて打ち付ける雨の中踊りを続けた。
ボゼはいつ出てくるだろうか、雨の中でも出てくるのだろうか、そうした思いが踊りを観ていると出始めてきた。きっと観客も同じように思い、よく分からない気持ちを胸の片隅に置いたまま眺めていたのかもしれない。

やがて踊りは終わって、踊り手は公民館の中へ引いていった。唄をうたっていた老人は一人、庭の隅に残って太鼓を手にしている。
トントン、と叩く。
トントン、トトトン、と老人は拍子をとりはじめた。

雨は依然降っている。みんな傘をさして、なんともつかない表情で佇んでいた。

トントン、トトトン、トントントトトン、
太鼓を叩きながら老人は何かの文句を言い始めた。天にむかって顔をあげながら、何かの文句を鷹揚とした声で言っている。
老人は公民館に一本だけ高く聳えている木の下に行き、太鼓を打ち鳴らし続けた。天に向かって呼びかける文句の一つがこう聞こえた。

トライトーライッ、トライトーライッ・・・・
実際には「東西東西」と言っているそうなのだが、老人の呂律(ろれつ)の良さに乗った文句は流暢に聞こえた。
老人は一人で太鼓を打ち鳴らし、ずっと呼びかけていた。穏やかな表情をしていて、目尻が上機嫌そうな笑みで垂れていた。浴衣の胸元も緩く開き、足はしっかりと地面に据えて太鼓を叩いていた。
悠長に構える姿とは裏腹に、この静かな庭先で一人何かに呼びかけている光景は、どこか異様な雰囲気を覚えさせた。公民館に集まった子どもたちも、ただならぬ気配に「怖い、怖いよぉ」といって腕をさすったりして怯え始めている。

すると、老人の下に日が差した。先ほどまで本降りだった雨も急に止んで、公民館は雲間から注がれた午後の柔らかな暮れあいの色を挿した日差しに照らされた。
トントン、トトトン、太鼓は相変わらず軽快に鳴る。
「長いなぁ・・・雨宿りでもしてるのかな、えへへ・・・」と老人はにんまりと笑いながら猶も太鼓を打ち鳴らす。

トントン、トトトン、トントントトトン・・・老人はテラのほうをフェンス越しに伺った。周りの人々も愈々かと同じ方を向く。
トライトーライッ、トントン、トトトン、トントントトン・・・背後で、キャッという女性の悲鳴が聞こえた。
振り向くと、ボゼが女性目がけて突っ込んでいるところだった。不意を突かれた、ボゼはテラとは反対側にある、坂の上のほうの道から下りてきたのだ。ボゼは右往左往と女性に突っ込んでは坂を下り、公民館の庭先に乗り上げてきた。
すると、坂の下のほうからも続々とボゼが上がってきた。その迫力に思わず自分も叫んでしまった。


ボゼの腰にまかれたビロウの葉がさわさわと擦れる音がする。子供を見つけると、のそりと近づいて、怯えきって小さくなった子どもに向かって、足を小刻みにドドドッと鳴らして威嚇する。それをみた子どもを更に恐怖に追いやられて泣き叫ぶ。
庭に乗り込んできたボゼは赤土のついたマラ棒を抱えて、ゆっくりと面を逸らさずこちらに向かってくる。ビロウの葉には水っぽい赤土が塗られている。がっと開いた口と、円く筒になった奥にある目、そして威嚇するように伸びた兎みたいな耳、言葉は何も無しに、ゆっくりと近づいてくる。ボゼは子どもと女を探す。庭の隅のほうに逃げようとする子どもを見つけると、のそのそと近づいていく。やめんかって、やめんかって!!と子どもは大泣きをする。すると、ボゼが2体近づいてきてもっと威嚇をする。
それを観ていたお客も島の人も大笑いをしていた。確かに恐ろしいものが近くにいるのだけれども、とても愉快な気分に包まれていた。庭では笑い声と叫び声と泣き声、そしてずっと同じ拍子で鳴らされる太鼓の音が響いていた。

老人のもとに、昨日鐘を持っていたおじさんが近寄ってきてバチを持ち、2人で1つの太鼓を鳴らしはじめた。拍子もトットト、トットト・・・と小刻みになった。踊れ踊れ、とボゼに向かって声がかけられると、ボゼは子を追うのをやめて、体をゆすり始めた。そうして他のボゼも集まって、3体のボゼが輪になって体をゆすって踊り始めた。赤土のついたビロウの葉は濡れて、太陽の明かりに艶やかに光る。

子どもたちは相変わらず泣きじゃくっている。女性もマラ棒で突かれて、服に赤土が塗られている。笑いの絶えないなかで、ボゼは踊りまわった。公民館の中にも上がりこんで、ドドドッと足を鳴らしているボゼもいた。どうやらこの日は4体のボゼが出たようで、3体は人の背丈よりも大きいもの、もう1体はミニボゼと呼ばれるそれらより一回り小さいボゼだった。
ボゼが存分暴れたあと、おじさんがボゼに近づいて何かを言うと、ボゼは子や女性を追いながらも段々公民館の外に向かい始めた。そして、来た時のように坂を上るボゼもあれば下るボゼもあり、それぞれがテラのほうへ帰っていった。

ボゼが去った後の公民館には、人々の顔に満足そうな笑みが浮かんでいた。あらゆる思いが一気に開けたような開放感と、残された愉快な空気のなかに皆がいて、余韻に浸っていた。それぞれの人にお茶を振舞う女性、椅子に腰をかけて寛ぐ浴衣姿の老人、聞き込みをする民俗学者、それぞれが充実した雰囲気のなかで思い思いのことをしている。

すごいものをみた。とにかく、すごいものをみたのだ。ボゼがいた間は、自分も驚いたり自然と笑いが起きたりとした。
西陽に影伸びる公民館を眺めていると、さっきまでの光景が蘇ってくる。一人太鼓を叩いてボゼを呼ぶ姿、突然のボゼの襲来、逃げ惑う子ども、恐ろしいものを前にしているけれども醸し出される和やかで愉快な雰囲気。ボゼは嵐のように去っていった。
そうした光景を回想すると、得もいわれぬ感動があって、何故だかわからないが涙が込み上げそうになってきた。ボゼのいるあいだは何もかも純粋に心が動かされていたのだと思う。言葉にならない感動をおぼえたのはこれが初めてかもしれない。少しでも思い返すだけで、目の淵まで込み上げてくるのを感じた。


その夜は、港に泊まっていたフェリーで寝させてもらうことができた。
夕暮れ、堤防で釣りをしているおじさんがいるので話しかけてみると、ロウニンアジが一匹釣れたよ、と教えてくれた。普段はフェリーの碇泊中に釣りをしているのだけれど、岸から釣ったのは初めてだ、と嬉しそうに語っていた。
帰りがけ、共にフェリーに戻ると、ロウニンを見せてあげよう、と誘われたので冷蔵コンテナをみてみると、そこには5kg超くらいの型が横たわっていた。
「良かったら、ブリッジにも遊びに来てよ」と言ったおじさんは、フェリーとしまの船長さんだった。

翌日、フェリーは黒潮をゆっくりと北上していき、七島を通り屋久島種子島を望み、口永良部島、三島村の竹島と硫黄島をみながら進んでいった。
3階のレストランでは、悪石島の人々とボゼのことや釣りのことなどで話しをする機会に恵まれた。また、Aさんからは昼飯をおごってあげよう、と炒飯を御馳走してくれた。


フェリーが佐多岬を望む頃、船長の誘いどおりブリッジに赴いてみた。何度もフェリーとしまに乗っているが、ブリッジに行くのは初めてだった。
船員の誘導で、扉を開けるとそこには双眼鏡を覗き込む航海士達がいた。しばらくすると船長もあらわれて、折角だからとコーヒーを差し出してくれた。


左手には夕暮れの簿合いに浮かぶ開聞岳が見える。正三角形ともいえる歪みのない山肌がきりっと天に向かって延びている。いつもフェリーで見るたびに、美しい山だと思う。
フェリーは定刻20時20分に鹿児島港に着いた。
僅か5日間の滞在であったが、そのあいだに多くの人々と出会え、助けられ、多くのことを感じた旅だった。
出会った人々には本当に優しかった。旅をしていても、とりわけトカラに行くたびに人との出会いは濃いものになる。トカラがきっかけで多くの人と知り合えたし、友達にもなれた人もいる。
また一つ、トカラで大切な思いを抱いて帰ってきた。

みなさん本当にどうもありがとう。

このあたりで、悪石島滞在記を終えたいと思う。
ちなみに、ボゼに関する学問的知識や調査といった類のことには今回全然気が向かなかった。それよりも、ボゼを取り巻く人々の光景が最も印象的であった。そこには、島でしか見ることのできないであろう、人間らしい空気が流れていた。

ついでに、GTのこと。
今回はGTを釣りたい気が全然起きなかった。大潮でタイミングも良かったけれども、まぁそういうときもある、と随分呑気に構えてGTに挑んでいた。なので、今回は釣りのことはほとんど割愛して記したことを断っておく。

おまけ。小さなカスミアジ