東京大学村上文緒愛好会

「聖櫻学園マドンナ選抜総選挙2014第1位」3学年 図書委員会

7月26日(日)のつぶやき

2015-07-27 01:01:09 | 日記

気楽に古典にいざ取り組もうとするときに、注意したのは、力まないということだ。精読で読破する、というのはもちろん立派なことだが、はじめに力みすぎると挫折もしやすい。まずは肩の血からを抜いて、パラパラとページをめくる


そして、偶然出会った文章に心をとめ、そこから何らかの刺激を受け取る。パラパラ読みをすることで、リラックスして感性が目覚め、刺激を受けやすくなる。名著にひれ伏すのではなく、自分にとって刺激があるかどうかで断片を楽しむ。


「神は細部に宿る」という言葉があるが、古典の断片にはエッセンスが宿っている。生物の細胞の一つひとつにDNAがあるように、断片には、その古典の精神のDNAを感じることができる。「全体の流れを理解した上で細部の意味がわかる」という考え方は誤っているわけではないが、萎縮させかねない。


「断片でも自分に突き刺さる文と出会えたならば、それだけでも意味がある」と考える方が積極的になれる。「全部読まなくては」という強迫観念めいた思い込みから解放されて、パラパラと断片を拾い読みすると、古典との距離が縮まる。



7月24日(金)のつぶやき

2015-07-25 01:01:27 | 日記

松尾芭蕉は「土地価値」を日本の歴史上もっと高めた人物ではないか。金銭的な価格ではなく、文化的な価値のことだ。言葉の芸術によって文化的品格を旅先の土地土地に与え、後世訪れる人々を楽しませ続けている。『おくのほそ道』という一書によって、どれだけ各地の価値が高められたかはかり知れない。


『おくのほそ道』の旅は、古典をたどる旅でもあった。黒羽の八幡宮を参拝すれば、これが明けな那須の与一が扇の的を射るとき祈願した神かと「感応」をしきりに覚える。古人の足跡をたどり、魂に感応する旅は続く。


芭蕉の眼は、遠い射程で俳諧文学の花開く姿を見ていた。今、日本中で、そして世界の各地で俳句が愛されている現実を見れば、はるかかなたを見据えた達人の眼力がいかにたしかなものだったかがわかる。



7月23日(木)のつぶやき

2015-07-24 01:02:41 | 日記

『史記』や『平家物語』には、現代の感覚からすれば理不尽と思える死が出てくる。それを残酷だと決めつけてしまえば、作品世界は味わえない。現代的な感覚をスイッチオフにして作品の世界観に自分をしたがわせると、味がしみてきやすい。


現象学などでは先入観や思い込みを保留してみることを「カッコに入れる」と表現したり、エポケー (判断中止の意味を持つギリシャ語)と呼んだりする。「つかみ読み」をするには、まず日常のものの見方を一度カッコに入れて、普段の価値基準による判断を停止してみるよう意識する。


「これは変だ」と切り捨てずに、まずは受け容れてみる。たとえば『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんは、同性愛的関係にありながら女性好きでもある。ここに違和感を感じてしまう人は、その感覚と価値観を一度カッコに入れてみる。


古典は現代の感覚とは異なるところも魅力だ。古典に触れることで、感覚や価値観の幅が広がる。自分の基準と合わないものに対してすぐに「許せない!」と反応してしまうと、幅が広がらない。逆に古典につかると、多様な価値観を認められるようになる。

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7月22日(水)のつぶやき

2015-07-23 01:00:54 | 日記

古い書物に書かれた事柄の良さを自分のものとして吸収し、生かすにはどうしたらよいか。孔子は、基本書を設定し、それを覚えることを奨励した。『書経』とともに孔子門下の教科書的な書とされたのは、『詩経』であった。詩経のうちにある詩三百篇の本質を一言でいえば、「思い邪なし(純粋)」だと、

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孔子は語っている。古典の重要なポイントは、教科書 (基本書)をきちんと選ぶということだ。基本となる本を選び間違えると、せっかくの努力が無駄になる。大学の講義では、教師が自分の判断で教科書 (基本書)を設定して、シラバスで指示することが一般的だ。その選択には責任が伴う。


孔子はブレることなく、『詩経』を基本テキストとした。その確信の強さ、思い入れの強さが、弟子たちの古典の力を育てる原動力となっている。孔子の弟子たちは数多く、いろいろな水準、個性の者がまじっている。皆が顔淵のように優秀なわけではない。


あるとき、孔子は弟子たちにこういう。「おまえたちは、どうしてあの詩三百篇を学ばないのだ。詩を朗誦すれば、志や感情が高められ、物事を観る目が養われ、人とうまくやっていけるし、怨むようなときも怒りにまかせることなく処することができるようになる。


近く父に仕え、遠く国君に仕えりはのにも役立つ。鳥獣草木の名前をたくさん識ることができる」(陽貨)。「詩経という古典はこんなにすばらしく、役に立つものなのだぞ」と孔子は、繰り返し説く。孔子の古典に対する思いこそ、まさに「邪なし」だ。

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孔子の教育思想体系と中国文化の人文精神 - 東京大学学術機関リポジトリ repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstre…

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7月18日(土)のつぶやき

2015-07-19 01:01:51 | 日記

「われ思う、ゆえにわれあり」は、言葉としてはだれもが知っている。しかし、この言葉を自分の存在の根本原理として生きている人がどれだけいるだろうか。この本を読めば、この言葉が、人としての原理であると同時に学問の原理でもあることがわかる。デカルトのこの言葉は、近代的自我確立の宣言であり

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近代の精神の幕開けを告げる鐘だったのだ。デカルトの偉さを身に染みて実感することが出発点となる。原著は1637年。正確なタイトルは、「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法序説」。

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つまり、私たちが「理性」を中心として生き、その理性を武器として一歩ずつ学問(真理の探求)を行うための方法を簡略に述べたものだ。かといって堅苦しいものではない。デカルトの肉声で人生が語られている。

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