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三島史学

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復刻された間違いだらけの江藤淳『近代以前』

2017-05-10 07:52:40 | 日記
 一般に評論家が、いい加減な読みかじり、聞きかじりの知識でもっともらしいことを言ったり書いたりしているのは、昔からである。その典型的事例が、一九六五年十一月~六六年  月に、月刊誌『文学界』(文藝春秋)に連載された文芸評論家江藤淳の『近代以前』である。しかし江藤は、批判にさらされながら、批判に十分応えず、右の部分を無修正で単行本(文藝春秋 一九八五年)にした。ただし他人が編纂した再録書に、関係部分(「「国姓爺」と国家意識」)をカットしている事例もある 。

 ここで江藤の「近代以前」の連載について、若干のコメントを記しておく。
 江藤の連載は14回に及ぶが、冒頭から二人の作家によるきびしい批判を受けている。
 江藤の連載開始直後、堀田善衛が担当の「文藝時評」の掲載号に、「余裕なき批評への不満」と題して、連載三回目の「歌学から儒学へ」を批評している。
わたしはこの「歌学から儒学へ」にも、大きな不満がある。江藤は江戸初期の朱子学者藤原惺窩について論じたのだが、江藤が称賛した藤原惺窩は、弟子の林羅山とともに、秀吉の朝鮮出兵で捕虜になった姜沆から朱子学を学んだ。姜沆は朝鮮朱子学の元祖ともいうべき李退渓の弟子であり、これにより、南北朝~室町時代に臨済宗の僧侶等が片手間に学んだ朱子学より、ハイレベルの体系的な朱子学が日本に導入されたのである。
 したがってここで惺窩が述べていることは、近世儒学の東アジアの国際的性格について述べたものであり、古代の漢人の先哲が創作し、体系化した儒学が、清、朝鮮、日本三国のいずれも胡族によって継承されていることの国際的意義を述べているのである 。江藤には、こういう視点はない。いうまでもなく日本人の多数も胡族の一員である。
ついで『文学界』の一九六五年十一月号の「文藝時評」欄に掲載された松本清張の批判は、江藤による江戸の地理的描写に対する調査不足を指摘した厳しい批判である。
これに対して江藤は「運転中の運転士には話しかけない」という不文律を犯したと反批判をしながら、若干の補足説明をした(『文学界』一九六五年十二月号)。
これに対し松本清張は、『文学界』一九六六年一月号に、連載終了後の批判では、バスがどこに行くのか乗客は心配だと、「乗客の心配」と題して、二ページの小文を寄せている。短文ながら詳細な批判である。
江戸の地理については、日本橋に生まれ育ち、『鬼平犯科帳』『剣術商売』などを書いている池波正太郎には及ばないとしても、『天保図録』(朝日新聞社 一九六五年)を書いている松本清張の調査にかなう筈はなく、江藤の完敗といってよいであろう。江戸初期百年間に、世界一の人口百万都市となる江戸の急成長を、江藤はちゃんと調べていないのである。江藤が荒野とする地域は、すでに寺院と藩邸と町家が密集し、人口密集地帯になっていることなどを、清張は指摘しているのである。

 ところが江藤は連載終了後も反論を書かず、右の連載を『近代以前』と題する単行本(文藝春秋 一九八五年)にまとめたが、上記の「付記」は採録したものの(単行本一一七~一一九ページ)、清張の再度の批判「乗客の心配」には、まったく答えていない。江藤は、『漱石とアーサー王伝説』を出した時も、大岡昇平にきびしく批判されており、歴史の実証よりは、自分の独りよがりの心証を押し出す人らしい。

   抜け参りと「御蔭参り」の混同
次に柴田錬三郎の江藤批判について触れよう。
 柴田は江藤の『近代以前』のなかの「『国姓爺』と国家意識」に対し、『中央公論』連載中の「眠堂点描」(一九七五年二月号)できびしい批判を行なっている 。
 江藤は、おかげまいりと抜け参りを同一視しているだけではなく、「正徳年間を通じて衰えず、享保にも及んだ」と書いているが、柴田は実際には幕末、明治にまで及んだと批判している。柴田の言う通りである。
   柴田錬三郎「地べたから物申すーー眠堂醒話(七)『中央公論』一九七五年二月号)
 ただしこれは『地べたから物申す 新潮社 一九七六年、集英社文庫 一九九五年)には、収録されていない。
 井上ひさし『新東海道五十三次』(『文藝春秋デラックス)連載)は、御蔭参りと抜け参りの混同などに関する江藤淳の誤解を、柴田錬三郎が正した挿話を紹介している。
一九七四年十二月号から、一九七五年十二月号まで十三回連載され、のち、井上ひさし『新東海道五十三次』(文春文庫 一九七六年、河出文庫 二〇一三年)に収録された。
江藤は『文学界』(月刊、中央公論社)誌上の連載で、御蔭参りと抜け参りを混同し、矛盾だらけの文章を書いていたのである。それだけではなく、国姓爺合戦に関連し、国家意識への不安から御蔭参りが始まったとの荒唐無稽の論断をしていた。柴田は江藤の論壇を嘲笑し、お蔭参りの遊興、休息、伊勢御師の策謀などを指摘していた。
御蔭参りは、伊勢神宮に対して、村全体が旅費と遊興費を支出し、輪番で参詣する習慣であった。その代り、御札を村の家数だけもらってくるなどの義務があった。
それに対して「抜け参り」は、右の輪番制と旅費負担を無視し、突然着のみ着のまま参詣することで、嫁、子ども、使用人が、定められた日常生活から「抜けて」伊勢に向かうことを指す。
それから四〇年以上経つ。
 後年、江藤は、連載を単著『近代以前』(文藝春秋 一九八五年)にまとめた時もおかげまいりについては、一切、訂正しなかった。
 江藤の連載後、藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(岩波新書 一九六八年)が刊行されたが、江藤は読まなかったらしい。これでは運転手は「乗客の心配」とよそに、勝手気ままに運転していたのだ。
 現在『近代以前』は、単行本のほか、著作集等に再録されているが、なかには、問題の章「歌学から儒学へ」と、「国姓爺合戦」を除外している編集もある。

 以上は、数年前に書いた文章である。ところが、二〇一三年「文春学芸ライブラリー」の第一冊として復刻された。わたしがよく利用している近辺の公立図書館、国会図書館に所蔵されていなかったので、気が付かなかったが、上記の問題点は無修正である。解説は内田樹氏で、内田氏の江藤絶賛に大いに失望した。江藤は、「アーサー公伝説」で、大岡昇平の批判を受けたことがあるが、国文学の若い同僚が、江藤を擁護していたことを思い出した。国文学では、文体さえ良ければ、史実を無視しても、すべていいらしい。


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