イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Corridoio vasariano(ヴァザーリの廊下)ーFirenze

2020年10月07日 14時37分37秒 | 美術館in Italia

ようやく宿題に取り掛かることに。
あっという間に秋深くなってしまいましたが…
2022年から一般公開か?と言われているCorridoio vasariano(ヴァザーリの廊下)について書いたのは7月の終わりだった。(記事はこちら
その時に廊下の途中に有るMedici(メディチ家)専用の礼拝堂について教えて欲しいと言われまして…
写真を探したりしていたら、あっという間に10月になってしまった。
月日の経つのはなんて早いんだ!

私がヴァザーリの廊下(以下”廊下”)を訪れたのは2007年の10月。
記録していないかと思いきや、記事書いてた。(ここ
残念ながらあまり役に立つことは書いてない。
記録も記憶もあいまいなので、改めて調べてみた。

行政の場であったヴェッキオ宮(Palazzo Vecchio)とプライベートの住居であったピッティ宮殿(Palazzo Pitti)の全長およそ1キロを結ぶ”廊下”はメディチ家の人々の移動のために1565年ヴァザーリ(Vasari)がたったの5か月で仕上げたもの。

”廊下”へは、美術館の4階?5階?最上階の展示室の回廊の、昔はミケランジェロの「Tondo Doni」が飾られていた部屋のそばに有る、目立たないドアが入り口。
確か、すぐに急な階段が有った気がする。
ここから、覚えていなかったのだが、まず1993年5月26日の深夜に起こった悲劇の場所を通る。

26日から27日にかけての深夜、Cosa nostraというマフィアのテロ行為でウフィツィ美術館裏手via dei Georgofili で爆弾が爆発した。
この爆発は収蔵作品を破壊しただけでなく、爆心からおよそ300mのところに住んでいた生後50日の乳児を含む5人が犠牲となった。

写真:https://ilreporter.it/
イタリアでは1992年から93年、同様のテロ行為により、21人の犠牲者が出た。
今でも毎年爆発があった26日の深夜、市長を先頭にfiaccolataと呼ばれる弔いの行列が行われ、花輪が手向けられる。

写真:Wikipedia
2004年にはこの惨事を忘れないように、再生の象徴であるオリーブの木が植えられた。

写真:Wikipedia
爆発の影響は美術館だけでなく、”廊下”も当然受けた。
いくつかの作品は爆発で吹っ飛び、いくつかは修復不可能な被害を受けた。
尊い命、貴重な美術、テロがこの世の中から無くなる日は来ないのだろうか…
被害を受けた作品はその後できる限りの修復を施され、この悲劇を忘れないように、当時有った場所に再び飾られている。

写真:Wikipedia
これが現在の様子。廊下の外側。
この悲劇の場所を通り過ぎると

丁度この屋根が見えてる部分へ出る。
ここからがまさに”廊下”のスタート。
メディチ家の一員になったような気分。
命を狙われる心配はなくても、スリやものうり、大混雑の観光客の喧噪もここにはいない。
廊下に開いた小さな窓から明るい日差しが差し込んでいる。

一番感動するのはやはりヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)の上を通る時だろう。


”廊下”を造る前、この橋の上には肉屋が軒を連ね、その匂いたる耐え難かったという。
そんな橋を通るのは嫌だったメディチの人々のために、橋の上はそのタイミングで全て貴金属店に変更され、今も残る世界で一番美しく、誘惑の多い橋が出来た。

この橋の丁度真ん中あたりには、全行程の中でも一番の美しさが見られる窓が有る。

橋の中央に鎮座するベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini)
もちろん彼はイタリア美術史界において重要な人物ではあるが、なぜここに?
それは"A Benvenuto Cellini maestro gli orafi di Firenze”.
「チェッリーニはフィレンツェの金細工師の師匠」だからである。
Raffaello Romanelli作、チェッリーニ生誕400周年を記念し、1901年5月26日落成された。

余談だが、この胸像の周りを囲む柵にカップルの名前を書いた南京錠を付け、鍵をアルノ川に投げ捨てると、二人は別れないという言い伝えがある。
しかし、これは古くても20年くらい前から始まったことで、RomaのPonte Milvio(ミルヴィオ橋)などイタリア国内で橋を見かけると大抵数個の南京錠が付いている。
しかし、他の橋のことは分からないが、このヴェッキオ橋に関しては現在南京錠を柵に着けると罰金なのでご注意あれ。

実はこの絶景、アルノ川にかかるサンタ・トリニタ(Santa Trinita)橋が見渡せる、窓は、1939年Benito Mussolini(ムッソリーニ)が作らせたもの。

写真奥の3つ並んだ木枠の窓がそれ。
なぜならAdolf Hitler(ヒトラー)がフィレンツェを公式訪問する事になっていたから。
この眺めを見たせいか、ヒットラーはフィレンツェに侵攻した際、唯一ヴェッキオ橋だけは落とさなかった。

こちらは出発点のウフィツィ美術館方面の眺め。

ヴェッキオ橋を渡ったところを外から見ると。

実はこの”廊下”を造るに当たり、全ての建物の所有者が賛同してメディチ家及びヴァザーリに建物を譲ったわけではなかった。
断固として拒んだのがこの塔の持ち主、Mannelli(マネッリ家)
ヴァザーリはこの塔を壊してしまいたかったのに、結局搭は残り、ヴァザーリは搭を囲む形で”廊下”を造らざるを得なかった。
なんともしてやったり。

こんな感じで橋を渡ったあと、突然来たのがこれだった。
ここからが宿題。
この”廊下”はヴェッキオ橋を渡ったあと、サンタ・フェリチタ(Santa Felicita)教会へ。

写真:https://www.visitflorence.com/it/firenze-musei/corridoio-vasariano.html
ここはポントルモ(Pontormo)の作品で有名な教会。

この図で分かるかな?ファサードにくっついていると言った方がいいかな。
そして”廊下”から直接入れるメディチ家のプライベート礼拝堂が有る。

教会の中から見ると、丁度中央の上、手すりから布が飛び出している部分。
それを”廊下”から見ると

急いで撮ったのでちょっとボケてるけど…
正面に主祭壇が見えるまさに特等席。
Congiura dei Pazzi(パッツィ家の陰謀)の時のように、ミサの最中でも敵に襲われる心配があったメディチ家の人達はこうして安心してミサに参加していたのだろう。

これを見た時は予備知識がなかったので、すごく驚いたのを覚えているのだが、実はこの手のプライベート礼拝堂がフィレンツェにはもう1か所ある。
それに関しては後日。

この”廊下”

私が通った時はこんな感じで、両側に肖像画が飾られていた。
正直”美術館”としてはがっかりだったのだが、この”廊下”ではcarrazzellaという小さな2人で担ぐ輿が行き来していたとか(1キロしかないんだから歩きなよ!)、第2次世界大戦で破壊されたしまったが、フレスコ画で飾られ、大理石でできたトイレが有ったとか、そういう話を聞くと俄然面白くなる。

”廊下”の出口は、ダン・ブラウンの「インフェルノ」で出て来るGrotta del Buontalenti(ブオンタレンティの洞窟)の脇にある秘密の扉。(「インフェルノ」はこのコースを逆走している。)

私の写真、扉写ってないけど。(笑)

だからWikipediaから拝借。



この先へは行けなかったけど、ピッティ宮殿まで続いている。
今こうして思い出してみれば、やはりこれも唯一無二の経験だった。
いくら一般公開されたとしても、今度はいつ行けるのだろうか…

1743年、アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ(Anna Maria Luisa de'Medici)がメディチ家直系の最後として死後「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり、一般に公開されること」を条件に、すべての美術品をトスカーナ政府に寄贈したことで、”廊下”は廊下は本来の「プライベートの秘密の通路」の役割を終えた。

参考:https://www.visitflorence.com/it/firenze-musei/corridoio-vasariano.html



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2 コメント

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特等席 (山科)
2020-10-08 05:58:06
ご教示ありがとうございました。
しかし、まさかファッサードのすぐ上、門の上が、特等席になっているとは、思いませんでしたね。下々のものが通る玄関の上、頭の上に大公陛下の足の裏があるというわけで、これはちょっとね。
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確かに… (fontana)
2020-10-08 11:12:18
山科様
いえいえ、大変遅くなりました。
確かにそうですね。足で踏みつけてますね…
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