イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Castello della Manta(マンタ城) その2 Sala Baronale

2016年12月26日 12時39分14秒 | イタリア・美術

26日、今日もこちらはSanto Stefanoでお休みです。
あまり天気良くないので、今日もこうして家にいます。
卒論後しばらくはイタリア語全く読みたくなかったのですが、最近その反動か、あれもこれも読みたいのがいっぱい。
なるべく夜はPCを立ち上げず、本を読むようにしています。

さてさて、早速本題に入りましょうね。
Castello della Mantaのロビーを入ったところでしたね。
この部屋はほぼ1800年代の内装になってしまっているのですが、授乳の聖母、あとは天井かな、オリジナルなのでそこを見て下さいね。
そしてこの部屋から狭い廊下を抜けると

びっくり!!

全面フレスコ画です。
勿論本では見ていたものですが、やはり現物は違いますよ。
大雨の中はるばる来た甲斐がありましたよ~
ってこの後久しぶりに靴がびっしょびしょになって気持ち悪~い思いをしたんですけどね。

素晴らしい~そしてこれを独り占め~!!
って実は最後に気が付いたんだけど「フレスコ画保存のため、長時間部屋に居座らないでください」と書いてあったんですよねぇ。
でも私一人だしいいじゃんね。

これはValeranoが1420年頃に描かせたフレスコ画で、Piemonteにおけるこの時期ヨーロッパ宮廷を席巻していた国際ゴシック文化を知る重要なカギになっています。
構成もValeranoの父の遺産。
というのも父がパリのCarlo V(カルロ5世),Carlo VI(カルロ6世)の宮廷に滞在した時に知った、フランス宮廷の流行やそこから持ち帰った騎士物語などの文学がベースとなっています。
画家は不明で、Maestro della Mantaととりあえず呼ばれています。
制作時期も不明なのですが、登場人物の服装や髪型がパリで流行っていた時期を考えると、1420年より前だろうと考えられています。
勿論1人の画家が描いたわけではなく、アシスタントもかなりいたことが作品から読み取れ、先日お話したPiemonteで唯一名前が残っているGiacomo Jaquerioの影響も見られます。

元々私が入って来た入り口とは反対側に入り口が有りました。
だからその入り口から入って来た正面にあたる暖炉に、隣の部屋同様のValeranoの格言が暖炉に描かれています。
この入り口は今は塞がれちゃっているのですが、もとはここに階段が有って、階下の武器部屋につながっていたそうです。
この壁に残っているのは

キリスト磔刑図

San Giovanni Battista(洗礼者ヨハネ)

そしてSan Quintino(聖クインティーノフランス語Saint Quentin)
このS.Quintinoという聖人の登場は珍しく、確実に北フランスのイコノグラフィーの影響。

正式にはSan Quintino di Vermandだと思います、フランスでは結構ポピュラーな聖人のようですが、イタリアではほとんど忘れていました。
記録が少なくて、ローマ生まれで名前から5番目の息子?とも考えられていますが、殉教したのが現在のフランスのSan Quintinoということでこう呼ばれているみたい。
Iacopo da VarazzeのLegenda aurea(黄金伝説)にS.Quintinoの話が出ていますが、ローマ皇帝Massimiano(マクシミアヌス、286-310)の時代に殉教しています。
10本の手の指の爪の下に釘を通され、2本長い釘を肩から足に突き通すという、とても残酷な拷問を受けます。

Pontormoが描いたこちらが分かりやすいかも。

それでも死なないので、最後は斬首され、川に死体は投げ捨てられました。
その後彼の死体は忘れられたままになっていましたが、50年後ローマの貴婦人によってVermandで発見されます。
しかしその後また殉教者の死体は無くなってしまい、7世紀になってようやくSant'Eligioによって発見されます。
Sant'Eligioは素晴らしい金細工師で、聖人の遺物を納める高価な箱の修復をしていました。

Saint Quentin(サン・カンタン)の街は歴史的にもとても重要な歳で、1557年フランスとスペインの戦争が起こった場所です。
10年にも及ぶこの街での戦争はヨーロッパの覇権をかけたもので、最初はCarlo V(カール5世)対Francesco I(フランチェスコ1世)
後にFilippo Il (フェリペ2世)対Enrico II(アンリ2世)の間で戦われました。
フェリペ2世の軍の指揮を取ったのはイタリア人の傭兵隊長。
既にフランス軍に占領されていた領地を奪還するためにカール5世にも従っていたサヴォイア家のEmanuele Filiberto(エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア)は、1553年にカール5世によって将軍代理とフランドルのスペイン軍の最高司令官に任命され、1556年にはフェリペ2世によりネーデルラント総督に任じられました。
結局この戦いに勝利したのはスペイン。
エマヌエーレ・フィリベルトは1574年にアンリ3世からサヴォイア家の領土だったSavigliano、Pineroloを、翌年にはスペインからAsti、Santhiàを返してもらいました。
ちなみにこの”エマヌエーレ”という名前は、彼の祖父マヌエルにちなんだものなのですが、サヴォイア家の男子に非常に多い名前。
これを検索するとまず現サヴォイア家の当主の長男で、イタリア最後の王ウンベルト2世の孫が出てくると思います。
2002年に追放を解かれてイタリアに戻ったサヴォイア家ですが、まだ色々問題は抱えているようですが、
この人ねぇ…最近はあまりテレビに出てないけど、一時期バラエティー番組なんかにも頻繁に出ていて、品格もなにも有ったもんじゃない、という感じでしたけどね。 

この3点も作者は不明。
授乳の聖母とこの部屋のフレスコと同じ画家であることは確かです。

と、この先長くなりそうなので、一度ここで切りますね。
お昼食べます。



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