四方山話

本、映画、音楽の感想を軸に、タイトル通り四方山話を載せています。

まさにシュールレアリスム

2006年05月06日 | 
いじめてくん

筑摩書房

【著者】
吉田 戦車

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今回紹介する本は、当ブログ初の漫画である。

私は全くと言って良い程漫画を読まない。
おまけに、良い歳をして漫画を読んでいる人間を見ると、少しばかり軽蔑してしまう。

しかし、自己矛盾だとは承知しているが、吉田戦車氏の作品は大好きだ。
私の本棚には、吉田戦車氏の作品達が、唯一の漫画として納められている。
中でも、この『いじめてくん』は別格的に好きな作品であるので、今回紹介する事にした。


まずは主人公であるいじめてくん(上の画像)の紹介から。

ある国によって開発された最新鋭の軍事兵器、それがいじめてくんである。
人々の嗜虐心を煽る様に作られたその造形は、見る者全てをサディスティックにしてしまう。
誰もが、いじめてくんを見るといじめずにはいられないのだ。
なぜそういういじめられやすい造形をしているかと言うと、いじめてくんは、いじめられると爆弾としての機能が作動するようになっているからである。
つまり、いじめられて初めて意味を為す兵器なのだ。
この漫画には、そんないじめてくんによって生じるエピソードの数々が纏められている。


この漫画、素材がとてもシュールだ。
ギャグとしての笑いどころは当然の事、登場人物も意味不明なものばかりである。
変な歌で会話する火星人が出てきたり、肩こりに苦しむ巨大な女神が出てきたり、フリークスに分類されるような異形のキックボクサーが出てきたり。
この世界観が好きな人は、とことん好きになると思う。
私はまんまと好きになってしまった。


大げさな言い方ではあるが、私は本作に、ギャグ漫画としてだけではなく、哲学書としての側面も感じている。
軍事兵器として人を殺す為に作られたいじめてくんが、自らの存在意義に苦悩し、アイデンティティを探し、次第に自己実現して行く物語、と読むとそれはもう立派な哲学書だ。
まあそんな難しい事は考えず、とりあえず読んで欲しい作品である。

運命

2006年01月19日 | 
DZ(ディーズィー)


角川文庫

【著者】
小笠原 慧

【あらすじ】
ヴェトナム難民船より救出された妊婦が産んだ二卵性双生児の兄妹。
彼らが辿り付いた先で待ちうけていたものは・・・。
ふたりの哀しい宿命を壮大なスケールで描いたヒューマン・ミステリ。


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最近読んだ中では面白かった一冊。
本作は、第二十回横溝正史賞正賞を受賞している。


当初、物語はバラバラのエピソードで始まる。

・ヴェトナム
堕胎手術を受けるのが嫌で、産婦人科から逃げ出した妊婦。
彼女は難民船に乗り込み、日本へ到着する。

・アメリカ
夫婦冷凍殺人事件を追う刑事がいる。
死んだ二人の5歳の息子は、行方不明のまま事件は迷宮入りする。

・日本
娘の天才的な知能に気付き、驚く夫婦。
もっと伸ばそうとする夫と、子供らしく育ててあげたいと願う妻の間にはギャップがある。

・日本
研究者の男と、医大生の女のカップル。
男は研究のため、遠く離れたアメリカへと向かう。


舞台となる国も違う上記のエピソードがどう繋がっていくのか、楽しみにしながら読み進んだ。
結論を先に言うと、本作にはあっと驚く結末が最後の数行に待ち構えている。
それを読んだ時に物語を振り返ってみると、伏線が張りまくられていた事に気付き、とても悔しい思いをした。
私が鈍感なだけなのか、著者の張った伏線が巧妙だったのか。
後者である事を願いたい。


本作は、人間の進化を描いた上物のミステリーである。
解説にも書かれていたが、『進化』というテーマで物語を創作する場合、ボトルネックになるのは進化には膨大な時間が必要だという事だ。
しかし本作では、本来諸々の障害の原因として挙げられている染色体の異常を『進化』と捉える事で、この問題を解消している。
何らかの原因により、染色体の数が本来より少なく産まれてしまった人間を、『進化した人類』としているのだ。

進化した人類は、人類と染色体の数が違うため、当然その間に子孫を残す事はできない。
そこで、進化した人類は、人類からすれば残酷な手段で、その問題を解決しようとする。
人類を超越した能力を持つ生物として描かれる進化した人類。
種の存続の為なら手段を選ばない彼らに恐怖を覚えると同時に、『自分は違う』という事を自覚している彼らが持つ悲哀が感じられ、同情も覚えた。


物語の本筋以外でも、生物の進化についての記述はとても勉強になったし、今話題のES細胞が登場した時は、ファン教授を思い浮かべたりしながら読んだ。
著者は医者でもあるので、専門用語だらけの文章に辟易してしまう方も多いだろうとは思う。
しかし、私の場合も意味不明な専門用語はそのまま流して読み進んだので、特に気にせず読まれると良いだろう。

種の保存こそ生物にインプットされた一番大事な本能なのだと再認識できる良書であった。

分別

2006年01月12日 | 

『白夜行』

【著者】
東野 圭吾

【あらすじ】
19年前、建設途中で工事が頓挫していたビル内で、桐原という質屋の主人が殺される。
被害者は、西本という未亡人のアパートに通い詰めていた。
西本の知り合いの男が被疑者となるが、男は交通事故死し迷宮入りに。
その後未亡人は自宅で事故死する。

被害者の息子亮司と、未亡人の娘雪穂のその後の人生を、当時の世相と共に描き切った傑作ミステリー長編。

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『大ベストセラー、白夜行がドラマ化!!』

まず第一報を聞いて、とても驚いた。
少しして、怒りが込み上げてきた。

断じて言うが、この物語の世界観は、活字という形式だから成り立つのだ。
なぜなら本作では、主人公である雪穂と亮司の内面は一切描かれておらず、客観的な考察や推測でしかそれを窺い知れぬようになっている。
だからこそ、二人の心に潜む闇の深淵が、読後感として我々にひしひしと伝わってくるのだ。


第一報の後の経過を見ていると、『セカチューに続け』とばかりに、本作を『純愛物語』に仕立てようとしている報道が目に付く。

確かに、亮司から雪穂への愛は、純愛と言っても良いだろう。
(ただし、その愛の形は相当歪んだものであるが)
その亮司を己の為に徹底的に利用した悪女。
それが、私の読み取った雪穂像である。
『純愛物語』になってはいけない作品なのだ。

ドラマでは、雪穂と亮司のベッドシーンまであるらしい。
当然、小説内にそういうシーンは無い。
二人きりで話をするシーンさえ無かった。
雪穂が亮司と寝るだなんて、原作を読む限り想像できないし、二人の特別な関係の中では、そんな行為は発生しようが無いと少し読めばわかるはずである。
原作を読んだ上で、それを察する事ができなかった脚本家であれば、今すぐ転職すべきだ。
芸能ニュースにも取り上げられていたし、おそらく話題作りのために用意したシーンなのだろう。
本作に対する冒涜も甚だしい。


最近、ベストセラーの映画化、ドラマ化がとても目に付く。
節操の無いその動きを観察していると、映像化すべき作品かどうかの分別は、そこには介在していないようである。
映画会社やTV局は営利組織であるので、当然利潤をあげなければならない。
その気持ちは理解できるが、クリエイターとしてのプライドを捨ててまで営利に走ってしまった作品など、観る価値は無い。


本作は今後何十年も残っていく傑作であると私は思う。
だからこそ、顔を汚すような真似はして欲しくないものだ。

奇人たちの晩餐会

2006年01月05日 | 
『万国奇人博覧館』

【著者】
G.ブクテル
J.C.カリエール(共著)
守能 信次(訳)

【概説】
イエス・キリストからマイケル・ジャクソンまで、古今東西の奇人を収集。
人名や奇人に関わる言葉を580項目に分類し五十音順に並べて解説。
生の人間による行為のおかしさを浮き彫りにする。

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この携帯するには巨大すぎるA5(14.8cm × 21cm)サイズで419ページもある本を私が購入したのは、もう5年くらい前になる。
しかしまだ読み終わっていない。
というのも、月に二~三度の頻度で、数ページずつしか読まないからだ。
ほんの数ページで満足してしまう程、この本1ページが保有する情報量は多いので、そういう読み方になってしまっている。


この本には、古今東西、有名無名を問わず、膨大な数の奇人達が紹介されている。
以下にいくつか例を書く。

・ドイツ嫌いのあまり、『ドイツ民族の多便症』なる学説を発表したフランス人学者。

・戦闘で失った片脚を国葬にした大統領。

・研究のため、患者の服を着、遺体に添い寝し、翌日死んでしまった医師。

・愛馬が溺れ死んだ河に復讐するため、180もの運河を軍隊に掘らせて、その河への水の流れを寸断して悦に浸った王様。

・『ドナルドとデイジーはかれこれ五十年間も前から内縁関係を続けているから不道徳だ。』との理由で、この物語から児童を保護するようにとの要望書を提出した、フィンランドの青少年問題を扱うある委員会。

・イタリアのとある村の通りに響き渡るこだまに惚れ込み、その通りをまるごと買い占め綺麗に改修したは良いが、そのためにこだまは全く聞こえなくなり、それを悲観して自殺したイギリスの大富豪。

・自分をバターだと信じ、日光に当たらないように生き続け、しまいには真夏の井戸に飛び込んで死んだ男。

このようなエピソードが、あいうえお順に、1ページ上下段に渡り延々と書かれているのだ。


きっと私は、この本を一生読み続けていると思う。
残りページ数を考えると、今年中にはきっと読了すると思われるが、その後1ページ目から読み返したところでそれを記憶している訳はなく、また最初から牛歩のような鈍さで読み進んでいく事になるだろう。

購入する時は、その価格(3360円)に躊躇し、何日か迷った挙句に手に入れた本書であるが、一生の暇つぶしが3360円で保証されるなんて、今となっては安い買い物をしたと思っている。
日常に溢れる数分の暇の有意義な活用法をご存知でない方には、是非本書の購入をお勧めする。

※タイトルは私が大好きなコメディ映画(いつか紹介します)から流用したもので、本書とは関係ありません。

本の弱点

2005年12月19日 | 
『フラグメント』
※文庫化に伴い『少年たちの密室』より改題

【著者】
古処 誠二

【あらすじ】
東海地震で倒壊したマンションの地下駐車場に閉じ込められた6人の高校生と担任教師。暗闇の中、少年の1人が瓦礫で頭を打たれ死亡する。
事故か、それとも殺人か。
殺人なら、全く光のない状況で一撃で殺すことがなぜ可能だったのか。
周到にくみ上げられた本格推理ならではの熱き感動が読者を打つ傑作。
(Amazonより引用)

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以前、本作の著者である古処氏の『ルール』を紹介した際、『彼の作品は数冊読んでいる。』という旨の記述をしたが、その数冊の中に本作は含まれていない。
本作は、講談社ノベルスから発売されていた『少年たちの密室』の文庫版である。

『少年たちの密室』は、そのタイトルが気に入らなくて購入を控えていたが、文庫化にあたり改題していたとは知らず、古処氏の新作だと思って本作を購入した。
読んでみて初めてわかった事だが、ノベルス版のタイトルに含まれていた『密室』という言葉は、ダブル・ミーニングだったのだ(後に記すがあくまで想像)。
なかなか良いタイトルだったんだなと思うと同時に、タイトルはあくまで作品全体を意識したものであるので、購入時には参考にもならないなと反省した。


あらすじは上に書いた通り。
頭を割られて死んだ生徒は札付きの問題児で、巷で起こる婦女暴行事件への関与も噂されている。
そんな生徒であるので、もし他殺だとすれば、駐車場に閉じ込められた皆に動機はある。
真っ暗な地下駐車場の中で、互いに疑心暗鬼になっていく人間達。
極限の中での人間ドラマは読み応え十分である。


本と映画を比較した時、私が思う本の弱点に、『終りどころが観客にバレバレ。』というものがある。
本の場合、『これが真相だったのか!』と思うようなシーンがあったとしても、残った頁数が不自然に多ければ、『いやいや、まだどんでん返しがあるんだな。』と読む前から推測できてしまうのだ。
本作もそうだった。
『これが真相だったのか!』というとても残酷なシーンを見せられた後、残った頁数の多さに、『いや、まだ全ては明かされていないんだな。』と素に戻る自分が居た。
これは本の宿命であるので仕方ない事なのだが、幾度もこの本の弱点について同情した事がある。

本作では、『学校問題』が大きなテーマになっており、上に書いたどんでん返し部分でそれが明かされる。

『臭いものには蓋』という教育現場の体質は、いつになったら改善されるのであろうか。
いじめによる自殺などのニュースで、『いじめがあったとは認識していなかった。』という言葉を聞く度に、反吐が出そうになる。
口が裂けても『いじめがあった』とは言えない学校責任者の愚かさしか感じられないからだ。
外からは何も窺い知る事ができない。
そんな学校の体質もまた、少年達にとっては密室なのだ。


本作も『ルール』と比べても遜色ない傑作であった。
調べてみると、古処氏は『ルール』以降戦争を題材にした作品ばかりを発表しているらしい。
そちらもかなり興味があるので近々購入するつもりだが、もうこんな素晴らしい本格ミステリは書かないのであろうか。
今後に注目である。

※名古屋の道路がなぜ広いのか知らない方にお勧めの本です。

モラルハザード

2005年12月08日 | 
『廃用身』

【著者】
久坂部 羊

【あらすじ】
『廃用身』とは、脳梗塞などの麻痺で動かなくなり、しかも回復の見込みのない手足のことをいう医学用語である。
心身ともに不自由な生活を送る老人たちと日々接する医師・漆原糾は、“より良い介護とは何か”をいつも思い悩みながら、やがて画期的な療法『Aケア』を思いつく。
漆原が医学的な効果を信じて老人患者に勧めるそれは、動かなくなった廃用身を切断(Amputation)するものだった。
患者たちの同意を得て、つぎつぎにそれを実践する漆原。
やがてマスコミがそれをかぎつけ、残酷でスキャンダラスな『老人虐待の大事件』と報道する。

はたして漆原は悪魔なのか?
それとも医療と老人と介護者に福音をもたらす奇跡の使者なのか?
人間の誠実と残酷、理性と醜悪、情熱と逸脱を、迫真のリアリティで描き切った超問題作。

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日本には、『親から授かった体に傷を付けるなんて。』という言い回しがある。
これが、キリスト教圏の国々では、『神から授かった・・・』となる。
自分の体を傷付ける事に対して、潜在的で漠然とした畏れを自分より高位の存在に抱く人間が多いという事だ。
本作を読んでいる最中、何とも言えない嫌な感じを受ける度、私もこういう畏れを潜在的に抱いていたのだという事を自覚した。


老人介護が抱える大きな問題の一つに、老人虐待がある。
介護者に圧し掛かる負担が余りにも大きいため、介護者が被介護者に憎しみを抱いてしまい、陰惨な虐待へと発展するケースがほとんどらしい。

本作の主人公である漆原は、老人デイケア施設で働く医師である。
彼は、『老人虐待の大きな原因になっている介護者のストレスを減らすには、どうすれば良いか。』という問題を考えた時、ある画期的な方法を思いつく。
それは、『廃用身の切断』である。
廃用身を切断する事により、介護者にとっては被介護者の着替えなどが簡単になり、被介護者にとっては体重の軽減が床ずれの軽減につながったり、とにかく良い事ずくめではないかと漆原は考えたのだ。
読んでいると、確かにもう動く余地の無い手足を切断しても問題ないのではないか、とモラルハザードを起こしそうになると同時に、上に書いた潜在的な畏れが去来し、一人何とも言えない嫌な気分になってしまう。


漆原が言う台詞に、『私が老人介護の世界で過ごせてきたのは、被介護者に対する圧倒的な優越感があったからだ。』という旨のものがあったと思う。
私は、『偽善』という言葉を考える時、『では何が偽でない善なのか。』といつも思ってしまう。
『偽』ではない『善』など存在するのか。
『善』の中に『自己愛』が混ざった瞬間、それは『偽善』になってしまうのか。
『自己愛』を介さない『善』など存在するのか。
『自己愛』を介する『善』を『偽善』と呼ぶならば、世の中の『善』は全て『偽善』ではないか。
いつも思う事は同じだが、いつも私の中で結論が出ずに終わる問題である。


著者の久坂部氏は、大阪大医学部卒業後、神戸の病院や老人デイケア施設を経て、現在は在宅医療専門のクリニックに勤めているらしい。
そんな著者が描く、圧倒的なリアリティを持った老人介護の世界。
自信を持って必読の本としてお勧めしたい。

犯された禁忌

2005年11月15日 | 
『ルール』

【著者】
古処 誠二

【あらすじ】
終戦間近のフィリピン戦線、鳴神中尉率いる小隊の敵は、アメリカ兵でもゲリラでもなく、『飢え』だった。
生きる事が最も困難だった時代、 生きる事が最も困難だった場所で、人を人たらしめる『ルール』とは。

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私は、年間200~250冊本を読む。
と言っても、これは自慢でも何でもない。
なぜなら、もう活字中毒患者と化している私の読書は、『文字を読む。』というのが目的であるので、中身が全くと言って良い程頭に残らないのだ。
それを証拠に、古処氏の作品も他に数冊読んでいるのだが、タイトルを見ても内容がおぼろげにしか浮んでこない。
これはもう『読書』とは言えないに等しいのではないかと思う。

そんな私ではあるが、後々になっても強烈な印象を頭に残す作品に年間数冊は出会う。
今回紹介する作品は、そういう数少ないものの中でも今年一番の作品である。


人というものは、それぞれ『木曜日は休肝日にする。』とか、『煙草をポイ捨てしない。』とか、自分にちょっとしたルールを課して生きている動物だと思う。
そういったルールを守る事で、人は自己満足し快感を覚えるものだろう。

一方、人それぞれのルールに加え、全ての人が持つべき根本的なルールも存在する。
『人を殺してはいけない。』などがそれにあたるものだろう。
よほどの人間でなければ、こういう根本的なルール、言わば禁忌を互いに共有しながら、人はコミュニティーを形成しているのだ。

あまり詳しくは書けないが、本作はこういう人を人たらしめる根本的なルールが一つのテーマになっている。

敗戦色濃厚な中、熱帯雨林で行軍を続ける小隊に焦点を当てて、物語は進行する。
後方支援を受けられない小隊に当然降りかかる、飢えや病気や死の描写がかなり生々しく、読んでいて正直辛いものはあるが、こういった事を経験した方々が実際いらっしゃるという事を考えると、目を背けてもいられないなという思いになる。

物語終盤近くで崩壊する『あるルール』を見た時、心にずしりと鉛が落とされた気がした。
ラスト・シーンで、極限状態の中尊厳を見せる人を見た時、読んでいた電車内で不覚にも涙がこぼれた。

重い重いテーマの作品ではあるが、とにかく人に勧めたい作品である。

私の好きな言葉

2005年10月19日 | 
『メメント・モリ』

【著者】
藤原 新也

【概説】
書名の『メメント・モリ』とは、「死を想え」という意味。
この本には、著者の短いコメントが付けられた74枚のオールカラー写真が収められ、生の光景に潜む無限の死の様相が極彩色で提示されている。
著者の藤原新也は1944年生まれ。
アジア各地を400日漂白した記録『全東洋街道』で1981年度の毎日文化賞を受賞した。

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本作のタイトルにある『メメント・モリ』とは、中世ヨーロッパでペストが蔓延して人がバタバタ死んでいた時代の人々が、良く口にしていた言葉らしい。
当時の世相を想像すると、終りの見えない病との闘いから生じた厭世感や、生きている事に対する刹那的な喜びを人々は持っていたのだろう。
死を想わざるを得ないような状況の中、「死を想え」という言葉が流行していたなんて中々興味深い。
有名バンドの曲の副題にも使用されていたので、ご存知の方も多いだろう。
蛇足だが、その曲は本作に触発されて作られたものらしい。

本作は当BLOG初の写真集である。
私が一番好きな写真集でもある。
しかし、見る度に心に訴えかけるものを感じてしまうので、精神衛生上の問題からめったに表紙を開く事は無い。

ここに収められている74枚の写真を見ると、色々なメッセージを感じる。
タイトルの通り、生の裏側に潜む死を意識せずに無意識に生きている人間への『死を想え』という警鐘。
『生きるのに哲学なんて必要ない。今与えられている生をただ謳歌すれば良いのだ。』という生命絶対主義的な主張。

これ以外にもにも色々メッセージを感じる事はできるが、例えば上の二つを例に挙げてみると、一見逆説的な意見だと思えるが、そこには『死を想う』という共通の契機があるのだ。


一つ一つの写真には、著者の短いメッセージが添えられており、その一つに、私の好きな言葉がある。

『ニンゲンは犬に食われるほど自由だ』

この言葉は、荒野に打ち捨てられた人間の死体を、野良犬が貪り喰っている写真に添えられた言葉である。
写真よりも何よりも、この言葉に心を鷲掴みにされた。
素直に解釈するか、逆説的に解釈するかで全く意味が違うこの言葉を、私がどう解釈し、なぜ好きなのかは、解釈や感じるものはそれぞれ違うはずなので、あえて書かない。

機会があったら是非ご覧頂きたい写真集である。

著者の公式HPから、本作に掲載されている作品を見る事ができる。
 リンク先のページにある『Memento mori』からどうぞ。

衝撃

2005年10月01日 | 
『煙か土か食い物』

【著者】
舞城 王太郎

【あらすじ】
腕利きの救命外科医・奈津川四郎に凶報が届く。
連続主婦殴打生き埋め事件の被害者におふくろが? 
ヘイヘイヘイ、復讐は俺に任せろマザファッカー! 
故郷に戻った四郎を待つ血と暴力に彩られた凄絶なドラマ。
破格の物語世界とスピード感あふれる文体で著者が衝撃のデビューを飾った第19回メフィスト賞受賞作。(※裏表紙カバーより)

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本作は、最近話題の覆面作家である舞城王太郎氏のデビュー作である。
1973年福井生まれというデータ以外はすべて不明であり、『阿修羅ガール』で三島由紀夫賞を受賞した時も、受賞式に顔を出さなかったらしい。

そんな著者の作品とは知らず、古本屋でタイトルを見て、一目惚れして購入した。

まず、数頁読んで首をひねる。
改行、句読点を極限まで減らした、一人称の文章が、頁を埋め尽くすように並べられている。

なんか苦手な感じだなあと思いつつ、物語に没頭して文体を気にしなくなってくると、この文体の持つドライブ感に気付く。
少ない改行、句読点のおかげで、文章に物凄いスピードが生まれているのだ。
並べ立てられた文章が、機関銃のように飛び込んでくるその感覚に、私は衝撃を受けた。
こんな文体の文章、読んだ事が無い。
おそらく、小学生が授業でこんな文章の作文を提出したら、赤い字で埋まって返却されるであろう。
それくらい、型破りな文体である。

物語はと言えば、母親を襲った犯人探しがメインプロットかと思いきや、一番それに興味があるはずの読者でさえ、そんな事どうでもよくなってくる。
この物語を、『ミステリー』として読んだ人にとっては、最後までつまらない話だろうなと思う。
なぜなら、主人公の四郎は、『一瞬の閃き』によって犯人に近づくヒントを得ていくのだ。
そこに謎解きの要素は一切無い。
四郎は天才だから、でお終いである。

なんとなくだが、著者は多分ミステリーに対する造詣や愛情がとても深い人であると思う。
なので、凝りに凝ったトリックに終始するだけの陳腐なミステリを嘲笑するような、こういう手も心地良く感じられた。
ミステリーかと思いきや、そこに広がるのは愛と暴力に塗れた家族の話。
お見事としか言い様が無い。

純文学+ミステリー+ノワール+人間ドラマ=『煙か土か食い物』である。
ちなみに、このタイトルの意味が物語中盤に明かされるのだが、私はそれを読んだ時になぜか鳥肌が起った。
一生忘れないだろうと思う程、とても印象的な文章であった。

これからこの作品を読もうと思っている方は、まずは本屋で数頁立ち読みして欲しい。
もしそれで大丈夫だったら、本作に心を鷲掴みにされる事間違い無しである。

喋るカカシの不思議な話

2005年09月28日 | 
『オーデュボンの祈り』

【著者】
伊坂 幸太郎

【あらすじ】
コンビニ強盗に失敗した伊藤は、警察に追われる途中で意識を失い、見知らぬ島で目を覚ます。
仙台沖に浮かぶその島は、150年もの間外部との交流を持たない孤島だという。
そこで人間たちに崇拝されているのは、言葉を話し、未来を予知するというカカシ『優午』だった。
しかしある夜、何者かによって優午が殺害される。
『オーデュボンの話を聞きなさい』という優午からの最後のメッセージを手掛かりに、伊藤は、その死の真相に迫っていく。

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本作は、私が今一番好きな作家の一人である伊坂幸太郎氏のデビュー作である。

実は、本作を読む前に氏の他の作品は全て読んでいた。
最初に読んだ『アヒルと鴨のコインロッカー』で氏の作品の虜になり、さらにこの作品は氏のデビュー作であるにも関わらず、最後まで読むのを避けていた。
それは、『喋るカカシ』という設定が、徹底したファンタジー嫌いの私としてはどうも疑わしかったからだ。

渋る心を抑えつつ、ようやくこの本を手にとって読み始めた私は、どうして今までこの本を読まなかったのかと後悔した。

カカシも含めた島の住民のプロットは、確かに現実離れしている。
嘘つきの画家、体重300kgの女性、島の唯一のルールとして存在し殺人を繰り返す男、そして未来を予言する喋るカカシ。
シュールレアリスム溢れる、不可思議な登場人物のオンパレードである。

しかし、これは著者の力量であると思うのだが、不思議な事にその設定に何の違和感も覚えないのだ。
いやいや、恐れ入りました。

これは著者の作品全般に言える事だが、いわゆるミステリーの醍醐味である謎解きの要素も十分楽しめるのだが、何より作品全体に漂う雰囲気が素晴らしい。
洒落た会話部分を読んでいるだけで、何やらフランス映画を見ているような気持ちになる。

未来が見えるはずのカカシが、なぜ自らの死を予見できなかったのか。
細かく散りばめられた謎が全て一つになり、カカシの死の謎が解ける瞬間、かなりの爽快感と切なさを感じてしまった。

豊かな国の人々ほど、未来の事を知りたがるものだ。
貧しい国の人々は、その日その日を生きるのに精一杯であり、未来の事に思いを馳せる余裕も無いだろう。
何の根拠も無い、占いや予言などを信じて騒ぐ人々の何と平和な事か。
未来を知りたいという欲求そのものへのアンチテーゼを、私はこの物語から感じた。