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勇気ある女性たち──性暴力サバイバーの回復する力

デニ・ムクウェゲ(中村みずき訳、米川正子監修),2023,勇気ある女性たち──性暴力サバイバーの回復する力,大月書店.(9.7.24)

コンゴの紛争で組織的レイプに遭った女性たちを治療するムクウェゲ医師。心身を回復し、社会の構造や矛盾を理解し立ち向かう意思と力を身につけるサバイバーの姿に学び、司法制度や男性性の問題も含め、性差別克服を探究する。

2018年ノーベル平和賞、ヤジディ教徒のサバイバー、ナディア・ムラド氏と共同受賞。性暴力、性差別と闘うデニ・ムクウェゲ医師の実践記。

 コンゴにおいて、兵士やゲリラにレイプされた女性たちの惨状が、あまりにキツい。

 複数の男たちに拉致され、木に縛り付けられて、次々にレイプされ、最後は、膣内で、銃を発砲される、あるいは膣内に刃物を突き立てられる。

 ムクウェゲは、コンゴでの性暴力が、天然資源の搾取と分かちがたく結びついていることを明らかにする。

 レイプは、こうした容赦ない搾取のプロセスの一部となっている。コンゴで25年間続く性暴力は、原材料の略奪と結びついているのだ。
 まず、セックスの提供が、銃や権力とともに、新兵を誘い込み入隊させるプロセスの一部となっていることは、私を訪ねてきた青年が話した通りだ。同じ戦術をイラクとシリアで採用したイスラム国(ISIS)の信奉者は、精巧な性奴隷システムをつくり上げた。若い男性や少年は、好きなだけ女を抱けると言われる。レイプは通過儀礼の一部であり、新兵同士の病的な絆をつくるためのものだ。
 性暴力は、指令官の軍事戦略の一部でもある。反政府勢力を支援しなかったと疑われる人物を懲らしめる手段としてレイプがおこなわれる。コンゴ国軍やライバルの民兵に協力するなど、敵対的であると見なされたコミュニティは、そこに住む女性が標的になる。
 また、鉱山周辺の住民を追い払う方法としても利用される。鉱物が新たに見つかると、採掘職人が殺到し、土地や水の所有権や支配権をめぐる争いに発展することがよくある。地元住民を立ち退かせるため、大量レイプがおこなわれる。ルワンダや旧ユーゴスラビアのように、民族浄化が目的ではない。私的な富のための住民の一掃を目的とした戦争の武器としてのレイプだ。
 2009年に私たちは、過激な性暴力の発生と主な鉱床の位置とに明確な関連があるかどうかを調べる、初の調査をおこなった。採掘がおこなわれている地域に虐待が集中しているというのが、私たちの仮説だった。
 学者のキャシー・ナンギニと共同執筆し『PLOSMedicine』誌に掲載されたその研究論文では、パンジ病院で治療を受けた被害者の出自についてのデータが使われている。被害者の4分の3が、武装組織が支配する鉱床や採掘事業があることが知られる3つの孤立した農村地域、ワルング、カバレ、シャブンダの出身であることがわかった。
 私たちが作成した地図は、レイプの発生率が高い地域と埋蔵地が重なりあい、性暴力が鉱物や貴金属、ダイヤモンドの支配権争いと結びついていることを見事に可視化した。
 では、この混乱から最終的に利益を得るのは誰か。もちろん、ピラミッドの上部にいる軍閥だ。彼らは税金を課し、紛争鉱物の取引に直接、あるいは仲間を通じて関与している。その収入で兵士に給料を払い、新たな武器を購入する。
 軍閥の上にのさばるのは、ビジネス、政治、軍事分野のエリートで、通常は複数の分野にまたがっている。コンゴ、ルワンダ、ウガンダの首都にある大邸宅に住み、高級車を乗りまわす一方で、密輸、加工の第一段階、さらに中東やアジアの市場への輸出を画策する者たちだ。彼らが共謀する多くの怪しげなビジネスマンや多国籍企業は、この血にまみれた生産物の出所を隠してグローバルサプライチェーンに送り込んでいる。
 コルタン、コバルト、タンタル、スズなどの鉱物は、携帯電話から電気自動車、宇宙・衛星技術に至るまであらゆるものに使用されているコンデンサ、回路基板、バッテリーなど、現代の経済とライフスタイルを支える電子製品に欠かせない原材料だ。コンゴは、充電式バッテリーに使われるコバルトの世界最大の生産国であり、知られるように世界最大の埋蔵量を持つ国である。
 とりわけルワンダは、自国の埋蔵量や生産能力をはるかに超える量の鉱物を輸出する、世界有数の鉱物輸出国となっている。20年間、戦争経済の基盤となってきた金についても、ウガンダと並ぶ主要供給国だ。コンゴで産出される金はほとんどが密輸されており、このパターンは現在も変わらない。
 2019年6月の報告書で、コンゴの原材料に関する国連の専門家は、ルワンダが金取引の世界的な中心地であるアラブ首長国連邦(UAE)に金を2・16トン輸出したと申告したことを明らかにした。しかしUAEの統計では、ルワンダからの輸入はその6倍の12・5トンだった。ウガンダは12トンの輸出を申告しているが、UAEのデータでは21トンとなっていた。
 だからこそ私は、2018年のオスロでのノーベル平和賞受賞スピーチで、自分自身の良心を問うようにと、集まった要人やテレビを見ている人々に訴えた。巧妙な消費者ブランドのマーケティングは、生産過程の汚れた秘密を忘れさせようとする。コンゴの鉱山の、照明のない坑道や広大な露天掘りの現場では、男性や少年が自らの命と健康を危険にさらして鉱物を掘り出している。現代のグローバル経済において、最も汚く、最も目立たず、最も見過ごされている末端の場所だ。
 「電気自動車を運転するとき、スマートフォンを使うとき、宝石に見とれるとき、それらの製造に払われた人的犠牲に思いを馳せてください」。ノーベル賞のスピーチで私は言った。「悲劇から目を背けることは、共謀と同じです」。誰かを非難しようとしたのではない。聴いている人々に、もはや現実を無視することはできないとわかってほしかったのだ。
 コンゴの原材料の盗難や不正を取り締まるため、いくつかの進展があった。経済協力開発機構は、コンゴ産のスズ、タンタル、タングステン、金を使用する企業向けのガイダンスを作成し、サプライヤーに確認するよう求めている。
 2010年にアメリカが制定したドッド・フランク法は、コンゴや同地域の鉱物を使用するアメリカの上場企業に対し、サプライチェーンに関するデューデリジェンス(適正評価手続き)の実施と報告を求める条項を盛り込んでいる。コンゴ、ルワンダを含むアフリカ12か国でも、企業にサプライチェーンのチェックを義務づける法律が施行されている。
 こうした施策は一部で効果を発揮しているが、手を引くには鉱物・貴金属の密輸がもたらす報酬があまりに莫大なため、腐敗した犯罪ネットワークは依然として利益を得る方法を見つけ出している。ブカヴの港からは、夜間に船が定期的に出航し、静かなキヴ湖の水面を滑り、ルワンダの荷上場へ入れば、国境警備隊は見て見ぬふりをする。
 コンゴにとって悲しいことに、限られたエリートの利益のための天然資源の略奪は、過去2世紀の歴史でくり返されてきた。最初にヨーロッパの植民地主義者に利益をもたらし、次いでアフリカ人というように、さまざまな形をとってきたが、その方法と目的は変わらない。
(pp.157-160)

 わたしたちは、自分が使っているスマートフォンの製造過程において、女性への凄惨な性暴力をともないながら搾取された資源が用いられているかもしれないことに思いをはせるべきであろう。

 性暴力は、家父長制社会において、女性を蔑視し、客体化、非人間化するなかで行使される。

 青年は紛争に巻き込まれ、やがて捨てられた多くのコンゴ人と同じだった。私たちはみな、なんらかの形でトラウマを抱えたサバイバーだ。愛する人を失ったり、人生を狂わされたり、願いを打ち砕かれるという、痛々しい喪失を経験している。
 青年の最後の言葉を、私は考え続けた。とても冷酷で、無頓着で、淡々とした語り口だった。女性をレイプすることは、彼にとってヤギやにわとりを絞める程度のことにすぎなかった。自分の負わせた痛みの心配をいっさいしないのは、鶏肉やヤギ肉料理が空腹を満たすように、それが性的・暴力的欲求を満たすものだったからだ。動物と同列に女性を語ることは、彼がいかに女性の命を軽視しているかの表れだった。敬意のかけらもなかった。
 その後も青年の言動について考えていた私は、この実に哀れな個人と、すべてのレイプ犯罪者に共通するものがあることに気がついた。彼は極端な例にはちがいないが、その意識は、部下を強姦するスーツ姿のビジネスマン、同級生を襲う酔った学生、妻をレイプする家庭的と評判の夫、女優を脅してベッドへ連れ込むハリウッドのプロデューサーと同類のものだった。どんな状況であれ、どこの国であれ、男性がレイプにおよぶとき、その行為が暴露するのは、自分のニーズと欲望が最優先で、女性は利用され虐待されてもよい劣った存在であるという考えだ。
 男性がレイプするのは、女性の命を自らの命ほど重視していないからだ。性的満足を得るために自分の力を悪用してもとがめを受けないとわかると、そこにつけ込むのだ。
(p.165)

 女性たちが自らの性暴力被害経験を分かち合うことで、自分たちの傷を癒やし、加害者を糾弾して、暴力を抑止していく、大きな力となっていくことは、ムクウェゲ等の取り組みにおいても、#MeToo運動においても、明らかである。

 勇気をふり絞って加害者を糾弾する女性がどんな扱いを受けるのか、私は国連での経験から学んだ。恥やスキャンダルを招かないよう、黙っていろと言われるのだ。ここ数十年で進歩が見られる国もあるが、声を上げる人々を覆い隠し、無視し、疑い、萎縮させようとする衝動は、悲しくなるほど日常的で、深く根づいている。
 ハラスメント、レイプ、近親相姦など、あらゆる形態の性暴力についての沈黙を破ることは、この問題にとりくむうえで欠かせない最初のステップだ。3章で述べたように、パンジ病院が初期に受け入れた患者の多くは、ありそうもない話をつくって外傷を説明しようとした。暴行を受けたことを自分のせいにした。黙って苦しむか、汚名や嘲笑を浴びることを強いる、社会的圧力に苦しめられていた。
 このタブーを打ち砕くことは、いくつかの理由で不可欠だ。第一に、性暴力は沈黙のなかではびこる。黙っていることで、男性が虐待を続けても罰せられない環境がつくられる。沈黙は男性にとって都合がよいのだ。問題が隠蔽される限り、破壊的な行動パターンは継続する。
 第二に、自己検閲は、女性が互いの力を引き出すことを阻むものだ。コンゴで私たちは、体験の共有を奨励するグループセラピーを非常に重視している。シティ・オブ・ジョイでは、4章で紹介した、人の心を鼓舞できるジャンヌがこのプロセスを助けている。
 共有することで、サバイバーは自分ひとりが苦しんでいるのではなく、他者も同じ痛み、拒絶、罪悪感と闘っていることに気がつく。ジャンヌのような手本となる人物は、未来には望みも可能性もあることを証明している。
 第三に、声を上げることは、すべての人、特に男性にとっての教育となる。それによって初めて、公共政策を変え、少年への教育を改め、深い心理的苦痛を残す性的虐待の被害を男性に理解させるためのプロセスを開始することができる。
 誤解のないように言うと、私は、体験を共有しないという女性の決断も理解し、尊重している。パンジでは、グループセラピーへの参加を義務づけることも、迫ることもない。すべての人に適した方法というわけではないからだ。自分のなかで対処しようと思わせる理由はいくつもある。誰も、加害者を非難しないと決めたことに罪悪感を感じて、さらなる苦痛を味わうべきではない。しかし、必要とされる社会的・文化的変化は、集団的努力によってのみつくり出せることも事実だ。そのためには、性暴力を経験していない人々も、こうした残虐さに対して非難の声を上げる必要がある。私たちは全員このシステムの一部であり、それを正すための重要な役割を担っている。だからこそ、2017年の#MeToo運動は重大な転機となった。多くの女性が初めて公の場で発言するようになったその進展を、私はブカヴで歓喜とともに見守った。
 性暴力にとりくむ活動家たちは、レイプなど虐待の蔓延についてのよりオープンな議論を求めて、何十年も活動してきた。2006年にニューヨークでVと出会ってから、私は彼女とともに「ブレイキング・ザ・サイレンス」運動を支援し、また性的虐待の周知のために著名人を起用した2010年の国連キャンペーン「ストップ・レイプ・ナウ」を支援した。
 これまでのあらゆる運動が、その土台を築いてきた。レイプなど女性に対する暴力を非難する「テイク・バック・ザ・ナイト」運動は、1970年代にアメリカで始まった。もう少し新しい運動では、2005年にニューヨークで立ち上げられた「ホラバック!」、さらに最近では、2014年にバラク・オバマとジョー・バイデン政権が始めた「イッツ・オン・アス」などがある。2018年の「タイムズ・アップ」運動はこのとりくみに基づくものだ。世界中のフェミニスト団体による多くの国内キャンペーンがそれぞれ力を尽くしてきた。
 しかし、タブーを壊そうとするそれまでの運動よりも、はるかに多くの女性たちに手を差し伸べたのが、#MeToo運動だった。ソーシャルメディアの効果も大きかったが、有名人たちが、女性への暴力を批判する用意されたメッセージを読み上げるのではなく、私的な体験を共有したことが運動を過熱させた。
 これほど多くの性的虐待の被害者が同時に声を上げることは、かつてなかった。新たに声を上げる被害者に目を開かれるたび、自分も体験を言葉にしてみようと他の被害者が勇気づけられる様子は、まるで世界的なグループセラピーのようだった。その過程で、多くの男性が、会社で、職場で、路上で、寝室での攻撃的な性行為の蔓延に気づいた。
(pp.185-187)

 女性の性暴力被害が、往々にして、沈黙のうちに隠蔽され、加害者が罰せられない現実の理不尽さは、女性と男性の立場を逆にしてみれば、よく理解できるだろう。

 しかし、圧倒的に女性が男性を標的にする犯罪を想像してみよう。仮定上の話として、男性に深刻な精神的苦痛を与え、肉体的な傷を負わせることもある、耐えがたく暴力的なペニス攻撃の惨劇が発生したとしよう。
 問題は深刻化し、何千人もの男性が訴えたが、警察は捜査に関心を示さなかった。何件かは裁判になったが、被告人となった女性はみな、無罪となった。男たちは自分で自分を傷つけたのだと、裁判官や陪審員は結論づけた。同様の事件が相次いで報じられ、男性はみな、不安を感じるようになった。
 これがスキャンダルとして扱われないなどとは、考えられないだろう。路上ではデモが起きるだろう。政治家は、罪人に対する「懲罰的な司法」、より厳しい判決、教育や捜査のための特別なリソースを約束し、互いに競い合うだろう。新聞は行動を促すキャンペーンを展開するだろう。3章で、2008年にペニスを切断された若い男性患者に触れた。病棟は負傷した女性でいっぱいだったにもかかわらず、この男性に対するマスコミの異常なまでの関心は、メディア報道におけるジェンダーバイアスをこれ以上ないほど明確に示している。
 世界中の女性に対する性犯罪のレベルは、想像上のものではなく、真のスキャンダルであり、まさに今、起きているのだ。性差別と、女性の命に価値が置かれていないために続いているのだ。どの国でも、国家安全保障の優先事項とされて当然である。
(pp.244-245)

 ムクウェゲは、有害なマスキュリニティ──「男らしさ」を子どもたちに植え付けない教育が必要であることを主張する。

 こうした有害な男性的特性を子どもたちに投影しているのは、親をはじめ、子どもたちを養育する立場の大人である私たちだ。いわゆる「マスキュリニティ」とは、子どもたちが人生のなかで習得するものだ、と私は考える。生まれつきのものではなく、社会的構築物だ。少年が成長するにつれ、服を重ね着するように身につけていくものだ。その最終結果は、その言葉が示すようにさまざまだ。
 問題は、男性はこうあるべきだとの束縛を、私たちが多くの子どもたちに強いていることだ。男性的なファッションを選ぶよう子どもたちに教える。強く、肉体的で、支配的で、成功し、服従させる者のスタイルを強要する。こうしたルールに抵抗すれば、弱いと見なす。少年がこうした男性的特性をあまりに過剰にとり入れても、正そうとはしない。
10代の少年は男性へと成長する過程で、教育と競争のプロセスを通じて、男らしさの外衣をつくり上げる。タフに見えるが脆いため、不快に感じながらも、優れたものだと思い込んでしまう。姉と私は平等であると主張する母と、非暴力の父という、私が受けた家庭教育の2つの大きな特徴に目を向けることで、私は、なぜ多くの男性が自分の男性性についての有害な考え方を身につけながら育つのか、理解を深めている。彼らが吸収する教えはまったくの正反対で、自分は生まれながらにして優れており、力の行使は許容され、尊敬を得るため必要でさえある、というものだ。
 男児と女児に違いが存在することを否定するのは馬鹿げているし、私も自分の子どもたちに見てきたことだ。しかし親は、そこに価値を認めるかどうかで、子どもたちのどの特性を強調したり抑制したりするかを決める。最も寛容な人であっても、私たちはみな、何世紀も続くジェンダーの条件づけの影響を受けているのだ。
 強さ、力、支配といった男らしさの先入観をいっさい持たずに、男児を育てる必要がある。思いやり、優しさ、気づかいなど「女性的」とされる感情を抑圧せずに、あらゆる感情を表現する自由を与えなければなない。また、ジェンダー平等や、性別役割分担、女性を尊重することの大切さ、さらに、これは非常に重要だが、セックスについても、もっと語って聞かせる必要がある。
(pp.298-299)

 まったく同感だ。

 ムクウェゲは襲撃され、暗殺されかかったことで、家族ともども米国に逃れるが、自らが助けた女性たちに乞われ、コンゴ、ブカヴに帰還する。

 セレモニーは堅苦しく、偽善的に感じられた。すると、イジュウィの母親や祖母たちが押しかけてきたのだ。
 金切り声やうなり声を上げながら女性たちが入ってきた。みながふり向き、掲げられたプラカードやバナーが動き、群衆の一部が移動し、分かれた。子どもを背負った女性など数十人の集団が、椅子を押しのけて舞台に上がってきた。女性たちはマイクを求め、手渡された。
 そのなかの誰も、私は見覚えがなかった。女性たちはひとりずつ発言した。ひとり、またひとりと、犯罪を防止できず、州内のコミュニティを餌食にするギャングや民兵を止められない政府や警察を非難した。
 「あなた方が先生を守らないなら、私たちが守ります!」車椅子に乗って壇上に上げられた女性が、知事や警察署長を指さして言った。「今夜は25人で病院を守ります。先生を殺したければ、その前25人の丸腰の母親を殺しなさい!」
 スピーチの合間に、女性たちは歌い、手を叩いた。「ムクウェゲ先生、立ち上がって!ムクウェゲ先生、立ち上がって姿を見せて!」と歌った。「彼に手を出すな!殴り倒すぞ!」
 そのあいだずっと、女性たちが籠や鍋を持って舞台の前にやってきては、玉ねぎ、パイナップル、カボチャなどを手渡してくれた。七面鳥を持ってきた女性もいた。私への歓迎のプレゼントだった。喉が締めつけられ、こみ上げてきて、言葉にならなかった。目に涙があふれた。自分の居場所である、女性たちのもとに帰ってきたのだ。私の全身全霊がそう言っていた。
(pp.352-353)

 本書は、コンゴとその周辺国におけるジェノサイドと性暴力、権力腐敗の歴史と現状を生々しく叙述する、読む者を圧倒する内容の書物であり、先進産業国における性暴力がグローバルサウスのそれと地続きのものであることを強い説得力をもって教示してくれている。

目次
はじめに
1 母の勇気
2 女性の健康危機
3 危機と回復する力
4 痛みと力
5 彼の言葉から
6 声をあげる
7 正義を求めるたたかい
8 認識と記憶
9 男性と男らしさ
10 リーダーシップ
おわりに
謝辞
訳者あとがき


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