例によって、学校関係者は、「命の尊さ」とやらを、バカの一つ覚えのように生徒たちへ伝えているようだが、同和教育で吐かれてきた言辞同様、青少年の心に響くことはあるまい。
「先生たちに甘えがありました。先生たちは生まれ変わりました。全力で君たちを守ります。」これは、筑前町の中学生が自殺した翌日、校長が全校集会で生徒に吐いた言葉だが、あまりにそらぞらしく、空疎で、無責任きわまりない物言いに、わたしは虫ずが走る思いがした。だいたい、子どもを前に、自らを「先生」と呼称する厚顔無恥な輩に、子どもの教育なんかできるわけなかろうもん。
思えば、「どうせ生きることなんかくだらない、さっさと死んじまえ」という鶴見済(『完全自殺マニュアル』の著者)のメッセージは鮮烈であったが、「どうせいつか死んで、すべてが無に帰してしまうのに、なんで辛いことに耐えて生きないかんの?」という問いに、まともに答えることができる者はいないだろう。
言えることはただ一つ。「生きるのはくだらないだけかもしれないけれど、自ら命を絶つことは、もっともっと、ずっとくだらないことだ」、ということだ。それと、わたしの親のように、「親より(子どもが)先に死ぬのはいちばんの親不孝やけんね」と念仏のごとく子どもの心に吹き込んでおくのも、自殺の抑止に有効だろう。リアルに響かない「生きる意味」の講釈なんざ、それこそ「馬の耳に念仏」でしかない。
また、悩み苦しんでいる子どもがいたら、親が、そして教員も、「学校がイヤだったら無理して行かなくていい、むしろ、逃げろ、学校から」というべきではないか。子どもの耐性は明らかに低下してきている。いじめや虐待経験をとおして獲得される「強さ」のもつ価値を否定しはしないけれども、命を絶ってしまっては元も子もない。生きることの無意味さには、死ぬことのさらなる無意味さをもって抗していくしかないのではないだろうか。
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