ベネター自身の論考は、一種の「思考実験」のゲームとして楽しもうと思わない限り、つまらないものだ。しかし、たとえば、難病にり患し、耐え難い身体的苦痛と、いつ死ぬかわからない恐怖に脅かされた人を想定すれば、「反出生主義」は説得力を増す。
「生まれてこないほうが良かった」とまでは思わないが、日々、快楽、充足感にみちた生活を送っているわけでもない、どちらかといえば苦痛、不快感、虚無感にさいなまれながら、惰性でなんとか生きている、そんな人が多いだろうから、「反出生主義」が共感を呼ぶのも無理はない。
人間の四大苦は、生、老、病、死であり、人生は一切苦である、これは仏教の基本的な前提であるけれども、仏教では、この「一切みな苦」の思想とともに、わたしたちの命があらゆる他者とのつながりのなかでしかありえないことを重視し、そうした偶有的で通時的な命の価値を尊ぶ考えを継承してきた。これは、自らの命ともども、あらゆる他者の生命を尊重する考えともども、祖先崇拝やら、イエ制度やらの家父長制を定着させることにもつながり、一面での世俗化した功利主義的考えは、生命を選別する優性思想にも相通じることになってしまった。
「反出生主義」はこうした生命尊重主義の危うさを一掃する破壊力がある。ベネターの、「生まれてくる価値」を「快楽と苦痛」のチャンスとリスクの非対称性から論じる観点は、あまりに乱暴で真剣に検討する価値もないが、いまだ世にはびこる「出生主義」や優性思想に対して解毒作用をもつことは評価したい。
「生まれてきて良かった」か「生まれてこないほうが良かった」か、ベネターのように、自らを神のような特権的審級におき、議論しても、せんなきことである。多くの人にとって、それは答えのない問いであり、日々、かすかに自問自答しながら、しかたなく生きている、これが現実ではないだろうか。
人間はいつか死ぬ。人類もいつか滅びる。人生は「諸行無常」であり、いつかは死ぬ、いつかは滅びるのだから、鶴見済のように「人生イヤになったらさっさと死んじまえ」というのもわかるし、人間存在の有害性から、人類滅亡を待望する思想も広く支持されてきた。しかし、「生まれてしまった以上生きろ」という点では、わたしは、ベネターと考えを同じくしている。と、ここまで書いて、PANTA氏の「死んだら殺すぞ」という歌を思い起こした。ときには、「死んだら殺すぞ」とうそぶきながら、なんとか生き続けるしかない。子どもを生むこと、生ませることは害悪である、そう思うか思わないかは、自由の領域にある問いだろう。
目次
【討議】
生きることの意味を問う哲学/森岡正博+戸谷洋志
【私たちの生に未来はあるか】
天気の大人――二一世紀初めにおける終末論的論調について/小泉義之
生に抗って生きること――断章と覚書/木澤佐登志
【To be, or not to be: that is the question】
考え得るすべての害悪――反出生主義への更なる擁護/D・ベネター(訳=小島和男)
反-出生奨励主義と生の価値への不可知論/小島和男
生まれてこないほうが良いのか――?書評:デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』/T・メッツ(訳=山口尚)
非対称性をめぐる攻防/鈴木生郎
ベネターの反出生主義における「良さ」と「悪さ」について/佐藤岳詩
「非同一性問題」再考――「同一」な者とは誰のことか/加藤秀一
「痛み」を感じるロボットを作ることの倫理的問題と反出生主義/西條玲奈
【信仰との接続点】
釈迦の死生観/佐々木閑
生ま(れ)ない方がよいという思想と信仰――宗教との関連から捉える/島薗進
【生まれ出づる悩みの、その先へ】
ハンス・ヨナスと反出生主義/戸谷洋志
反出生主義における現実の難しさからの逸れ――反出生主義の三つの症候/小手川正二郎
反出生主義と女性/橋迫瑞穂
トランスジェンダーの未来=ユートピア――生殖規範そして「未来」の否定に抗して/古怒田望人
未来による搾取に抗し、今ここを育むあやとりを学ぶ――ダナ・ハラウェイと再生産概念の更新/逆卷しとね
最新の画像もっと見る
最近の「本」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事