「現場を見ることの大切さ」の続きです。
現場を見ることでいろいろ得るものがある,というようなことを昨日の
ブログに書きました。実際に現場に立ってみるとどういうことが起こる
でしょうか。
いつも「縁側」にお茶を飲みにきてくださるAさん。
港のすぐ近くに住んでいたとおっしゃっていた。
避難したのはあの学校だったと聞いた。
あの向こうまで歩いて逃げたんだ。
足が悪いと言ってたけど。
校舎の中から津波を見たらしい。
家や車,そして人が流されていったって。
そういう情報を現場に流し込んでみることで,単なる情報や知識が
間接的な体験として自分に迫ってきます。
それを可能にするのは「想像力」です。
想像力だけではあくまで「非現実」です。
現場は現実ですが「いま,ここ」であって「あのときのここ,そこ,あそこ」
ではありません。現場と想像力を掛け合わせることで「あのときの現実」
や「ここではないどこか」や「未来」に近づけるのだと思います。
目の前をよちよち歩きの子どもが歩いています。
見ていると石につまずいて転んでしまいました。
そこで「あ,転んだ」で終わるか,「あー,あの転び方は痛いだろうな」
と思うか。
それによって次に取る言動も変わってくるかもしれません。
現場を見ることでいろいろ得るものがある,というようなことを昨日の
ブログに書きました。実際に現場に立ってみるとどういうことが起こる
でしょうか。
いつも「縁側」にお茶を飲みにきてくださるAさん。
港のすぐ近くに住んでいたとおっしゃっていた。
避難したのはあの学校だったと聞いた。
あの向こうまで歩いて逃げたんだ。
足が悪いと言ってたけど。
校舎の中から津波を見たらしい。
家や車,そして人が流されていったって。
そういう情報を現場に流し込んでみることで,単なる情報や知識が
間接的な体験として自分に迫ってきます。
それを可能にするのは「想像力」です。
想像力だけではあくまで「非現実」です。
現場は現実ですが「いま,ここ」であって「あのときのここ,そこ,あそこ」
ではありません。現場と想像力を掛け合わせることで「あのときの現実」
や「ここではないどこか」や「未来」に近づけるのだと思います。
目の前をよちよち歩きの子どもが歩いています。
見ていると石につまずいて転んでしまいました。
そこで「あ,転んだ」で終わるか,「あー,あの転び方は痛いだろうな」
と思うか。
それによって次に取る言動も変わってくるかもしれません。