Blank Of Puzzle

日常や読書の感想を書き綴ります。
優しく見守りください。

生きていることは、気持ちが揺れること

2016-09-27 16:27:59 | 日記
こんにちは。エナンです。暑いですね。今日は半裸ですよもう。
すみません公開セクハラになりかねないので、慎みます。

『上下関係たるやいかに』


 仕事をせずに過ごす日々ももうそろそろ終わりを告げようとしている。
短いようで、とても濃厚な2か月で、数多の刺激を受けた。
その度に「自分は生きてた」なと、当然のことを当然に感じる。
ちょっと変わっている感覚だというのは自覚してます。しかし、感動したり不安に感じたり、
心が平静よりも上下に動くと「これが生きてるということか!」などど仰々しく考えてしまう。

 病んではないが、人の世はとかく生きづらいので僕もたまに自分一人くらい居なくても
日本にも世界にも困る人は居ないだろう。と感じている。
「そんなことないよ」と軽率に言う人ほど「そんなこと」を恐れてる人だ。

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 三島由紀夫の小説に「鹿鳴館」というものがある。明治維新の頃に建てられた鹿鳴館。
日本の近代化の代名詞というべきこの建物自体も、そこで行われた行事も当時にしてみれば、
相当場違いであったように思う。
今も昔も、政治や財界、結婚や不倫の話は絶えない。
本作は著者の「戯曲」(舞台用)の代表作になっている。

 舞台で見たことはないが、本を読む限りでは悉く「対立構図」が使われている。
理想主義vs現実主義、米国との懐柔vs対立など。結局のところ現代と問題提起としては
ほぼ同質のように僕は思えてならない。人間はつくづく進歩しないものだ。

 登場人物はそれぞれの立場でそれぞれの権益をめぐり、交錯していくものの
最終的にはピストルを持ちだして小さな武力闘争がなされる。とてもではないにしろ、
悲劇にはあるあるのパタンだが、ここで注目すべきは朝子という女性である。
 非常に乱暴に言うと彼女は「さらっと」掌を返すような振舞いをする。
裏切り、乗り換えるのだ。

 優位にたったと思う人ほど、簡単に裏切られてしまう。
まして、死んだあとでは裏切られていることさえもわからない。現実とはそういうものだと思う。
女性を非難する気は毛頭ないが、この作品の朝子は「考えているようで何も考えていない」と僕は思う。
水中を舞うクラゲの様、自身での推進力よりもはるかに周囲の流れの影響を受けている。
水素水を軽率に買ってしまう人をみて悲しくなる気持ちを思い起こす。
日本独特ではあるが「無意識・無関心の暴力」とはまさにこのことである。

 たとえ、一般論や多数論に非難されても、だれも耳を貸さずとも自分の哲学は持っていたい。
僕が生きた間に自分が考えて「正しい」と思ったことは、
少なくとも自分の中ではバイブルに記していいことではないか?
その原理こそが、自分が生きた時間の中で分かったことだと思うのである。

 凄く壮大なことを記してしまい、読み返して恥ずかしいものの。
これも僕なので、残しておきます…。三島由紀夫日々なにを思ってたんだろうと思い巡らす。
そんな午後の日でした。

ではまた。(・ー・)ノシ




『怒り』観ました(^ー^)ノシ

2016-09-26 08:25:59 | 日記
こんにちは。「ブログ更新してよ」と言われて執筆を焦るエナンです。
昨日一昨日また、大阪・京都に行ったのですが、23日の夜に観た映画の「怒り」があまりに素晴らしかったので、
そのことを書きますね。ネタバレはしてません。粗筋も載せてません。

 映画の内容とか、脚本とか演出とかの感想もありますが本記事は端的な感想文です。
そもそも映画とかの構成云々を語れるほどの人間ではないし。
あと劇中の一部を引いて、どうだとかそういうことも書いていません。作品全体を通じて受けた感想です。

『未知なものは「怖い」、怖いから「憎い」』

人は何をもって他人を信じ、何をもって人を憎むのか。僕にはまだ分からない。
例えばそんな感情の変化は、一日の中でさえも数百と行われてるのではないか?
僕たちはただ鈍感で、その変化に気づきもしない。

皆さんは自分の家族を、友達を、恋人を、同僚を、知り合いを、どれ程知っているだろう。
恐らく、殆ど何も知らないのではないか。何も知らないまま、ある人を「家族」「友達」だと信じて日々を過ごしている。
人間には元来持っている「信用の構造」がある。辛い人生を送ってる人には優しくしたい、
笑顔を多い人は信頼をおきやすい?――なぜ?ある意味、人を信じることは神を信じることよりリスクが高い。

そのリスクは1対1だととても大きすぎるから、リスクの分散のため沢山の人を信じる。
それは至極普通な人間の毎日であるように僕は思う。変化は突然に見えるようで、実は徐々に近づいている。
ちょうど大きな地震が来る前兆のよう。

地震と違うのは、感情の起伏は発達と共にあることだ。幼児には感情の種類が少ない。
快感か不快か、その程度である。発達と共にその2つが分岐をして、微妙な差が別々の感情として表現される。

「怒り」は――その由来は「不安」である。

きっと誰もが――これは完全に想像だけど――とても苦(にが)い感情を持っているのではないか?
挫折、嫉妬、羨望、悲哀、別離、憎悪そして殺意…。怒りとは、こうした感情の氷山の一角に過ぎないと僕は思う。

しかし、多くの人は別段こうした負の感情に支配される事なく生活をしている。
しかも、とても楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。
結局この2つの感情は密に関連していて、いわば表裏一体である。
「負の感情」を持っている人は似たような感情を持つ人の事をとても信頼し、信用してしまう。
行き過ぎると自分を見ているようで嫌になる。そんなジレンマがある。

本作はそんな「不安」を抱えた者同士が、支え合い、愛し合う中で
複雑に起伏する感情を疾風怒濤に折合わせたものだと僕は思う。
ショックな表現もあったが本当に心地よかった。包み隠さず、人間の本質を射抜く最高傑作だった。


補足  その他感じたことの羅列
「逃げる 見つける」
何かから逃げることが弱い事だと決めつけるのは良くない。
危険を回避し生き延びる術。人間の一匹はそこまで強い生き物ではない。
逃げているからこそ誰かを/何かを求めて彷徨っているに過ぎないのかな

「モラル」
モラルとは何か?いくら規則で縛ってもモラルがあるから逸脱が起きる。
仲間があるから差別が起こる。重要なのは逸脱を最小限に抑える事だろう。
正解のない途方もない道のりに立ち向かう覚悟と目を背けない強さ。たぶんほんの些細なこと。

「愛」
愛するということ。僕には最も分からない感情。
僕は常々、愛とは「どうしても許せない他人を許すこと」だと思ってきた。
この作品を見て、「自身をも許すこと」を追加しようと思う。

「セックス」
人のセックスは何の象徴か。愛かそれとも単なる欲望の1つにすぎないのか。
最も動物らしい感情であるのに、最も動物的ではない行為を行う矛盾がある。
へんてこな性の発達。先進国の「産まず殺さず」社会内の代謝が遅い。

「アナロジー/ミスダイレクション」
人間の脳は他の哺乳類に比べとても発達していて、類推ができる――アナロジー
過去の経験をもって、未来を予測する能力だ。しかし大概の場合「似た」ことは起こるが、
「同じ」ことは二度起きない。そこから生まれる齟齬、不和、そして葛藤。

「告白」
何かとても伝えにくい事柄を伝達すること。恋愛の事ではなくて、事実を報告すること。
果たして家族に、きちんとした告白を何度しただろうか。それは虚偽ではないのか?
宗教があれば、神への告白ができるが明確な宗教を持ってない人は?澱がたまる。はきだせない。

「幸福追求」
幸せとはなにか。親が子に望む幸せ、恋人が相手に対する幸せ、自らが自らに望む幸せ。
「幸せになるべき人」という表現が時に使われる。逆に言えば「幸せになるべきではない人」などいるのだろうか。
社会的・物質的な幸せは、個人に幸福感をもたらすか?今となっては、確実ではない。
個人の幸せを個々が考えて追及するべきである 幸福追及権とは「何が幸福かが明確に意識できる人」のみが持てるものではないか。

以上です。さいごまでお読みいただきありがとうございます。
ではまた(・ー・)ノシ

さんまたべました

2016-09-22 20:12:37 | 日記
みなさん、こんばんは。9月ももう終わりが近くて少し物悲しいですね。
夏が終わって、空気の中から湿度と熱が除かれるととても心地よくて、
ここから厳しい冬に向かうんだなと凛とした気分になります。

『さんまたべました』


 秋と言えば紅葉、秋刀魚、十五夜、お祭り、、、風物詩は数えきれません。
今日も今日とて秋の夜長のブログ更新という現代っ子ですね笑
今朝、秋刀魚を食べました。今年は秋刀魚の高騰という事で、
敬遠してた感が否めませんが、どうにか食べることが出来て安心。

 欧州でキリスト教が生活の一部であるように、
日本では四季がとても生活に染み込んでいるというのは、疑い様がありません。
齢二十五にして、しみじみと「日本の四季が大好き」だと感じています。
すごくベタではありますが、なによりも桜が好きで、
ベタベタですが「桜を好きで、日本人でよかった」と心から思う瞬間です。

 丁度パラリンピックの閉会式で「東京は夜の7時」というパフォーマンスがありました。
枕草子をオマージュしたような詩に僕もとても感銘を受け、共感していました。
「秋は夕暮れ」…中学の頃は「なんかポエム()だなこいつ」とか思ってた「枕草子」
見え方がだいぶ変わってきます。それだけ、日本の自然には魅力が多いこともよく分かります。

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春はあけぼの。
 僕は「春は午後すぎ」が好きです。あけぼのに起きることができない。
だって、春暁では「眠くて眠くてやべぇ」みたいなこと言ってる人も居るのに。
厳しい朝の寒さが過ぎ去って、次はあたたかな春の明け方。また肌寒いけど、
霞かかり、萌芽に雫がかかっているようなそんな情景が思い浮かびます。

夏は夜。

 夏は確かに夕方から夜にかけてが風流かな?夏休みで、
夜まで起きてても怒られなかった。という記憶が楽しいものとして残ってます。 
じっとりした汗の感覚を花火だとか、アイスだとか、そんなものでごまかす。
シャワーを昼に浴びるのも僕は夏らしくて好きです。

秋は夕暮れ。

 秋の夜。虫たちが本当にうるさい笑 蛙多すぎ。
そんなことも思いますが、聴こえなかった音が聴こえていると時の移り変わりを
感じるように思います。木枯らしが吹く冬との境目もとても好きなんだ。

冬はつとめて。

 冬の早朝、春とはまた対照的に、すっと通る様な透明感がある。
極寒の中の自然は、生気を感じずに無機的な印象を強く受けます。
どちらかというと、冬は自然というよりは
寒いから「みんなでいっしょに居よう」という人とのふれあいがとても増えていい。
こたつとか鍋とか飲みとか?心身共に暖かくいる印象が いとをかし。


自然を感じ、いいなあと思う心は忘れたくないですね。
ではまた、(・ー・)ノシ

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2016-09-18 21:05:13 | 日記
こんばんは。エナンです。さて、今週はサボり癖が付きつつありますが。
今日はきちんと書いていこうと思います。数日前は仲秋の名月でしたね。
秋になって、もうすこしも経てば今度は涼しいから寒いになってくるのでしょうか。

『平等院を訪ねて』


 先日広島に居る旧友と大阪で待ち合わせまして、
本当に3年ぶりくらいに話をしました。暫くあってないからと言って、
人間別段なにか変わるわけでもないのですがね

僕は性格柄時々顔を見ておかないと不安になってしまいます笑

 その際に、和歌山から大阪、そして京都へ旅をしました。
半年くらいまえに住んでた地域なので旅行という気分でございまんがw

 そのときに、宇治は平等院を訪れました
大阪に住んでた手前京都も何回かは訪れましたが、
意外に宇治に来たのは初めてでした。

 10円玉で有名な「鳳凰堂」とその中にいらっしゃる阿弥陀仏
日本庭園から臨むその姿はやはり、荘厳な(人が多いとそうでもないけど)感じがします。

 しかし、それもさることながら!僕は宝物殿の方がとても感動しました

 平等院の宝物殿は「鳳翔館」という名前で、
そこには鳳凰堂の中南北の壁に安置される供養菩薩像が並べられてました。
「菩薩」ということで、一体一体が神様なわけです。
人が往生を迎え、その方が極楽へいくときの使者のような役目でしょうね。

 僕は仏教とか宗教の偶像というとどこか苦手でしたが、
鳳翔館の供養菩薩はどこか親しみやすく一つの芸術作品のように、
「あ、この顔好きだな」と罰当たりなことを考えていました。(・ー・;)

皆さんも宇治にお越しの際には是非どうぞ。

ではまた

プランドハプンスタンス

2016-09-13 18:34:37 | 日記
こんばんは。エナンです。今日僕の住んでる地域は雨からの曇りで
今はとても涼しく感じられます。いかがお過ごしでしょうか。
さて、今日は何を書こうと思い巡らせて帰り歩いていたのですが
どうも僕は目移りばかりしてしまって、いけませんね。今日は完結に書き上げよう。

『運命ってなんだろうか』

 皆さんは所謂「運命」を信じるでしょうか僕は信じていません。(笑
「Planned Happenstance」という語をここ数年でよく聞くようになりました。
日本語にすると「計画的偶発性」というそうです。耳にしたことありますか?
例えば、「人生や将来なんてものは、偶然が積み重なってできるもので、
それは『完全に偶然』なのではなく『計画された偶然』だ」
という説です。

 ぱっと意味が分からない…ですよね。つまりは凄く雑にまとめると
「自身の周りで起こる限られた偶然を取捨選択して積み上げる」
ということです。まだよくわからないw

 具体例を出すと、
・上司と宴会中になんとなく話したことが、事実になってしまって、
その仕事を進める上でキャリアにプラスになった。とか

・第一志望の学校には落ちてしまったけど、滑り止めで受けた学校で
とても刺激的な人たちにあって人生の方向性が変わった。とか?


2つ目の例は少し違うけど、意味としてはそんな身近な感じです。

 簡単なことです。一見関連のないようなところに顔を出して
そして、いろんなことを経験しておこう。
すると思わぬところから、お誘いが来るぞということ。


 「将来どうしようか…」「進路どうしようか」「結婚どうしようか」
僕もそうですが、往々にしてこういった悩みはなくなりませんね。
でも気にしないことも一つです。もちろん、何もしないことは良くないですが。
必要以上に心配することは無い。何も変わりませんし。

 プランドハプンスタンスで大切なことは
日頃から好奇心・柔軟性・楽観性で動くことです。
楽しそうだからやってみよう。気になるから行ってみよう、まあ大丈夫でしょう。
そんな感覚でとにかく進んでみる。一番宜しくないのは、立ち止まっていること。
以前の記事にも書きましたが。悩んでいても仕方ない。
失敗しても構わない。世の中のことは大抵失敗しても死ぬわけではありません。

出来ない理由を探さない。人の目を気にしない。大丈夫。進んでみよう。
自らを励ますことが出来れば素晴らしいことです。

 ここからは僕の持論ですが、
本当に、運命のように最初から最後まで自分の人生がきまっていたら、
それはとても退屈なものです。ただでさえ、産まれた時点で格差社会なのに。
であれば、楽しい方がいい。それに異論はないと思います。

言った手前僕も実践しないといけません笑
Don't be afraid ですね。ではまた(・ー・)ノシ