こんにちは。エナンです。暑いですね。今日は半裸ですよもう。
すみません公開セクハラになりかねないので、慎みます。
仕事をせずに過ごす日々ももうそろそろ終わりを告げようとしている。
短いようで、とても濃厚な2か月で、数多の刺激を受けた。
その度に「自分は生きてた」なと、当然のことを当然に感じる。
ちょっと変わっている感覚だというのは自覚してます。しかし、感動したり不安に感じたり、
心が平静よりも上下に動くと「これが生きてるということか!」などど仰々しく考えてしまう。
病んではないが、人の世はとかく生きづらいので僕もたまに自分一人くらい居なくても
日本にも世界にも困る人は居ないだろう。と感じている。
「そんなことないよ」と軽率に言う人ほど「そんなこと」を恐れてる人だ。
――――――――――――――――
三島由紀夫の小説に「鹿鳴館」というものがある。明治維新の頃に建てられた鹿鳴館。
日本の近代化の代名詞というべきこの建物自体も、そこで行われた行事も当時にしてみれば、
相当場違いであったように思う。
今も昔も、政治や財界、結婚や不倫の話は絶えない。
本作は著者の「戯曲」(舞台用)の代表作になっている。
舞台で見たことはないが、本を読む限りでは悉く「対立構図」が使われている。
理想主義vs現実主義、米国との懐柔vs対立など。結局のところ現代と問題提起としては
ほぼ同質のように僕は思えてならない。人間はつくづく進歩しないものだ。
登場人物はそれぞれの立場でそれぞれの権益をめぐり、交錯していくものの
最終的にはピストルを持ちだして小さな武力闘争がなされる。とてもではないにしろ、
悲劇にはあるあるのパタンだが、ここで注目すべきは朝子という女性である。
非常に乱暴に言うと彼女は「さらっと」掌を返すような振舞いをする。
裏切り、乗り換えるのだ。
優位にたったと思う人ほど、簡単に裏切られてしまう。
まして、死んだあとでは裏切られていることさえもわからない。現実とはそういうものだと思う。
女性を非難する気は毛頭ないが、この作品の朝子は「考えているようで何も考えていない」と僕は思う。
水中を舞うクラゲの様、自身での推進力よりもはるかに周囲の流れの影響を受けている。
水素水を軽率に買ってしまう人をみて悲しくなる気持ちを思い起こす。
日本独特ではあるが「無意識・無関心の暴力」とはまさにこのことである。
たとえ、一般論や多数論に非難されても、だれも耳を貸さずとも自分の哲学は持っていたい。
僕が生きた間に自分が考えて「正しい」と思ったことは、
少なくとも自分の中ではバイブルに記していいことではないか?
その原理こそが、自分が生きた時間の中で分かったことだと思うのである。
凄く壮大なことを記してしまい、読み返して恥ずかしいものの。
これも僕なので、残しておきます…。三島由紀夫日々なにを思ってたんだろうと思い巡らす。
そんな午後の日でした。
ではまた。(・ー・)ノシ
すみません公開セクハラになりかねないので、慎みます。
『上下関係たるやいかに』
仕事をせずに過ごす日々ももうそろそろ終わりを告げようとしている。
短いようで、とても濃厚な2か月で、数多の刺激を受けた。
その度に「自分は生きてた」なと、当然のことを当然に感じる。
ちょっと変わっている感覚だというのは自覚してます。しかし、感動したり不安に感じたり、
心が平静よりも上下に動くと「これが生きてるということか!」などど仰々しく考えてしまう。
病んではないが、人の世はとかく生きづらいので僕もたまに自分一人くらい居なくても
日本にも世界にも困る人は居ないだろう。と感じている。
「そんなことないよ」と軽率に言う人ほど「そんなこと」を恐れてる人だ。
――――――――――――――――
三島由紀夫の小説に「鹿鳴館」というものがある。明治維新の頃に建てられた鹿鳴館。
日本の近代化の代名詞というべきこの建物自体も、そこで行われた行事も当時にしてみれば、
相当場違いであったように思う。
今も昔も、政治や財界、結婚や不倫の話は絶えない。
本作は著者の「戯曲」(舞台用)の代表作になっている。
舞台で見たことはないが、本を読む限りでは悉く「対立構図」が使われている。
理想主義vs現実主義、米国との懐柔vs対立など。結局のところ現代と問題提起としては
ほぼ同質のように僕は思えてならない。人間はつくづく進歩しないものだ。
登場人物はそれぞれの立場でそれぞれの権益をめぐり、交錯していくものの
最終的にはピストルを持ちだして小さな武力闘争がなされる。とてもではないにしろ、
悲劇にはあるあるのパタンだが、ここで注目すべきは朝子という女性である。
非常に乱暴に言うと彼女は「さらっと」掌を返すような振舞いをする。
裏切り、乗り換えるのだ。
優位にたったと思う人ほど、簡単に裏切られてしまう。
まして、死んだあとでは裏切られていることさえもわからない。現実とはそういうものだと思う。
女性を非難する気は毛頭ないが、この作品の朝子は「考えているようで何も考えていない」と僕は思う。
水中を舞うクラゲの様、自身での推進力よりもはるかに周囲の流れの影響を受けている。
日本独特ではあるが「無意識・無関心の暴力」とはまさにこのことである。
たとえ、一般論や多数論に非難されても、だれも耳を貸さずとも自分の哲学は持っていたい。
僕が生きた間に自分が考えて「正しい」と思ったことは、
少なくとも自分の中ではバイブルに記していいことではないか?
その原理こそが、自分が生きた時間の中で分かったことだと思うのである。
凄く壮大なことを記してしまい、読み返して恥ずかしいものの。
これも僕なので、残しておきます…。三島由紀夫日々なにを思ってたんだろうと思い巡らす。
そんな午後の日でした。
ではまた。(・ー・)ノシ