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二つの「1969年」#2  三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実 

2020-05-06 22:37:23 | 映画
>「私は立派なゴリラになりたい」-”敵対する”1000人に放った三島の言葉

5月13日。当時44歳だった三島由紀夫東大駒場キャンパス900番教室に招いたのは、1946年~1950年生まれの「団塊世代」に当たる若者たち。約1000人がひしめく教室で、警視庁からの警備の申し出を断って単身乗り込んでいった三島は、初めは少し緊張の面持ちだったが、やがてその包容力とユーモア、何より共通の「敵」と闘う共感をもって学生たちを説得し、暖かい笑いの渦を巻き起こしてその場を去っていく。
さらに各紙のトップニュースとなって日本中を騒がせた「自決」事件は、1970年11月25日。この討論会の約1年半後のことだった。

なぜ三島は東大全共闘との話し合いに呼ばれたのか。
同年1月、安田講堂に立てこもった学生たちは、警察による放水と催涙弾の攻撃に敗退し、千人以上の逮捕者を出していた。陥落寸前の講堂と、新宿騒乱事件の現場などやたらと物騒なシーンがマスコミで連日伝えられ、諸外国(「プラハの春」、「パリ5月革命」、アメリカの黒人公民権運動など)と並ぶ「政治の季節」の風が日本でも吹き荒れたことを物語っていた。
そして鎮圧後も、反体制の火種は彼らの気持ちの底でくすぶり続け、その”リベンジ”をかけたショーとして三島との討論会が企画された。つまり右翼と左翼の、1人対1000人の、一触即発の舌戦の舞台だったというわけである。

会場の入り口にはゴリラの絵の描かれたポスターが貼られ、「近代ゴリラ、飼育料 一人100円」などと書かれてあるのを見た三島は、「これだけの人数分の”飼育料”を、私は半分もらって『楯の会』に注ぎ込みたい」と言って学生たちを笑わせる。そしてさらに、モーリアックの小説の主人公テレーズ・デスケルーを例に、なぜ憎んでもいない相手を殺すのかについて解説を試みる。
「諸君もとにかく日本の権力構造、体制の眼の中に”不安”を見たいに違いない。私も実は見たい。別の方向から見たい」
この発言で、彼は一気に学生たちの懐へ飛び込む。
「私が行動を起こすときは結局、諸君と同じ非合法でやるほかないんだ。非合法で、”決闘”の思想において人をやれば、それは殺人犯だから、そうなったら自分もおまわりさんに捕まらないうちに自決でも何でもして死にたいと思うんです」
近いうちに「自決する」覚悟を、三島はこのときすでに匂わしていた。「そういう時期に合わして」、「楯の会」なる民兵組織(militia)を立ち上げ、極右の若者たちを引き連れて自衛隊に潜り込んで戦闘訓練を受けたりしていたのだ。
「身体を鍛錬して、”近代ゴリラ”として、私は立派なゴリラになりたい」
ワーッと、会場にどよめきが起こる。そのトーンには、笑顔が宿っている。東大全共闘はこのとき三島が自分たちの敵対する相手ではなく「同志的存在」であることを理解したのだ。
「立派なゴリラになりたい」、「私はプリミティブな人間だから」、「暴力を否定しない」という彼は、ここから自身の「知識人/文明人嫌い」を明らかにしていく。
「私は今までどうしても知識人というものが、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。諸君がやったことを全部は肯定しないけれども、知識人のうぬぼれというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます」

文明は人間に毒をそそぎ、時として善なる野生を大きく傷つける。
「戦後の我々日本人は、文明という歩行器に頼り過ぎた」と、50年後のドキュメンタリーに登場する内田樹氏は言う。
その結果、「あやふやで卑猥な日本国」が出来上がり、若者は「やましさと向上心を抱いて散っていった」。
学制運動に血道を上げ、結局なんの達成感も得られなかった一時期への”やましさ”。舌の根も乾かぬうちに経済活動に熱くなり、過去を忘れてなりふり構わず突っ走った臆面のなさ。
1925年生まれの三島のように1930年代に青春を過ごした人たちには、国運と個人とが切り離されなかった時代のidentityというものがあり、自己の陶酔や高揚を、天皇と国家だけに求めていた。それが終戦の日からプッツリとなくなってしまい、時代の激しい移り変わりに取り残された。その世代の喪失感や苦悩から、三島由紀夫といえども解放されることはなかったのだ。本作の全編を見終えると、そんな感慨がこみ上げる。

このドキュメンタリーは、世代間・思想間のギャップを乗り越え、一瞬手を触れ合った両者がいたことを証明する、希少な、胸の熱くなる記念碑であるだろう。
今年5月13日、あの討論会から51年が過ぎようとしている。

(2020年5月6日)







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