つい先頃,例の「グリコ・森永事件」がとうとう時効になったというニュースが新聞,雑誌,TVなどの各種メディアをしばし騒がせていた。そんななかで,森永製菓の当時の副社長のインタビューがTVで流れていたのを見て,あぁ,10数年前にはそんなこともあったんだっけなぁ,などと改めて妙にシミジミと,昔々のことを懐かしく思い出したりした。
人皆やがて老いゆく。大企業の辣腕取締役も,キツネ目の男も,市井の無名人も。黄梁一炊の夢のごときか。いやいや,別に事件の関係者であったわけではございません。
1980年代の前半,私は田園調布に居住していた。一応の註釈を加えておくと,駅東側の一丁目,二丁目や田園調布本町や,ましてや玉川田園調布方面などではない,正真正銘のデンエンチョーフ,東京都大田区田園調布四丁目に居住していた。宝来公園のすぐ近く,といえば分かる人は分かるでありましょう。天下無双の御屋敷町,蒼然とした鬱蒼とした豪壮な家並みが続くその一角に,まるで中世の遺構のごときボロアパートが奇跡的に残存しており,その一室を仮の住処としていた。「メゾン一刻」とまでは言わぬが,滅多なことではお目にかかれない大層な希少物件であった。まぁ,風呂くらいは付いておりましたけどね(何せ風呂屋なんぞ近在一帯にあろう筈もなかった)。
で,その当時世間を騒がせていたグリコ・森永事件の当事者の一人,森永製菓の副社長の住まいが,偶然ではあるが,そのボロアパートのほんの二軒隣りだった。一流企業の副社長ともなればデンエンチョーフに居を構えて何の文句を言われる筋合いもなかろうが,どちらかといえば付近の御屋敷のなかでは比較的質素であり,やはりすぐ近くにあったフジテレビの社長の息子?のケバケバシイ西洋館などに比べれば数段好ましい佇まいの家屋であった。事件が起きてから少しして,そのお宅の門前には,いかにも逞しい風体の私服刑事が二名ほど連日交代で張りつくようになった。誰かに狙われる恐れでもあったのだろうか,そのような日々はしばらく続いた。
当時の私は東横線で渋谷方面に通勤するしがない勤め人をやっていたのだが,毎朝,その屈強の大男達の前を軽く会釈するようにして通り過ぎたものだ。すると先方も軽く会釈を返したりして(何とも珍妙なる交流!)
アパートから駅までの約7~8分の道のりを,今でも折りにふれて,多少の気恥ずかしさを交えつつも懐旧の情をこめながら思い浮かべることがある。しっとりとした落ち着いた町並み,緩やかな坂道,イチョウの街路樹と,家々の垣を飾る木々の深い緑。静寂に包まれた古風な公園のなかをのんびり歩いているような,いやむしろ上野・谷中あたりの深閑とした寺町の墓地を黙々と歩いているような,心休まるウォーキングが日々規則的に繰り返された。それはまるで盲人の日課としての散歩,というか身体障害者の持続的な機能回復訓練のごとき歩行であり,春から夏へ,秋から冬への季節の移ろいとともに,風景の色彩が微妙に変化してゆくのを心地よく五感で受け止めることを可能とする幸せなひとときであった。当時従事していた仕事が内容的にも時間的にも極めてハードであっただけに,恐らく私自身の脳は,デンエンチョーフという町並み(=生活空間)によって我が脆弱な身体がつかのま癒されることを無意識のうちに命じたのだと思う。街路樹の舗道をへだてた立派な塀の向こう側でどのような暮らしが営まれているかについては,あいにく全く興味がなかった。そのような擬態的生活は約4年間続けられた。
その頃は,日々の暮らしの中で,いわゆるフランス音楽を耳にする機会がかなり少なかったように思う。ジャック・ブレルの生き方はいつだってココロノササエになっていたかも知れないが,日常よく好んで聴いていた歌,というか聞き流していた歌は,例えば倉橋ルイ子 Ruiko Kurahashiのメランコリックなバラードなどの類であったような気がする。
想い出が 踊りはじめる
数え切れない愛が 星になる.....
あるいは,
白く小さなボート たよりなく浮かぶ
風のまま川岸を 遠ざかるはかない恋も
By the River.....
なんて感じの雰囲気に浸ることを好んでいたわけで,今にして思えば,どうも「勤勉と怠惰」あるいは「経済と倫理」がせめぎ合いながら「実生活」を先送りにしていたような,そんな恥ずべきモラトリアム時代であった次第だ。ただし,それは一面では時代の風潮と呼応していたようにも思われる。要するに,その気になれば渋谷駅近くの中古マンションが未だ1,000万円台で購入できるような御時世であったのだ(その数年後には,同じ物件があっという間に4~5,000万円にはね上がるといった,正にバブルの時代に突入するわけだが)。
いずれにしろ,全てはもう時効になってしまった。現在の私にとっては「グリコ・モリナガ」イコール「ルイコ・クラハシ」程度の連想をするしか能がないわけでありまして。
人皆やがて老いゆく。大企業の辣腕取締役も,キツネ目の男も,市井の無名人も。黄梁一炊の夢のごときか。いやいや,別に事件の関係者であったわけではございません。
1980年代の前半,私は田園調布に居住していた。一応の註釈を加えておくと,駅東側の一丁目,二丁目や田園調布本町や,ましてや玉川田園調布方面などではない,正真正銘のデンエンチョーフ,東京都大田区田園調布四丁目に居住していた。宝来公園のすぐ近く,といえば分かる人は分かるでありましょう。天下無双の御屋敷町,蒼然とした鬱蒼とした豪壮な家並みが続くその一角に,まるで中世の遺構のごときボロアパートが奇跡的に残存しており,その一室を仮の住処としていた。「メゾン一刻」とまでは言わぬが,滅多なことではお目にかかれない大層な希少物件であった。まぁ,風呂くらいは付いておりましたけどね(何せ風呂屋なんぞ近在一帯にあろう筈もなかった)。
で,その当時世間を騒がせていたグリコ・森永事件の当事者の一人,森永製菓の副社長の住まいが,偶然ではあるが,そのボロアパートのほんの二軒隣りだった。一流企業の副社長ともなればデンエンチョーフに居を構えて何の文句を言われる筋合いもなかろうが,どちらかといえば付近の御屋敷のなかでは比較的質素であり,やはりすぐ近くにあったフジテレビの社長の息子?のケバケバシイ西洋館などに比べれば数段好ましい佇まいの家屋であった。事件が起きてから少しして,そのお宅の門前には,いかにも逞しい風体の私服刑事が二名ほど連日交代で張りつくようになった。誰かに狙われる恐れでもあったのだろうか,そのような日々はしばらく続いた。
当時の私は東横線で渋谷方面に通勤するしがない勤め人をやっていたのだが,毎朝,その屈強の大男達の前を軽く会釈するようにして通り過ぎたものだ。すると先方も軽く会釈を返したりして(何とも珍妙なる交流!)
アパートから駅までの約7~8分の道のりを,今でも折りにふれて,多少の気恥ずかしさを交えつつも懐旧の情をこめながら思い浮かべることがある。しっとりとした落ち着いた町並み,緩やかな坂道,イチョウの街路樹と,家々の垣を飾る木々の深い緑。静寂に包まれた古風な公園のなかをのんびり歩いているような,いやむしろ上野・谷中あたりの深閑とした寺町の墓地を黙々と歩いているような,心休まるウォーキングが日々規則的に繰り返された。それはまるで盲人の日課としての散歩,というか身体障害者の持続的な機能回復訓練のごとき歩行であり,春から夏へ,秋から冬への季節の移ろいとともに,風景の色彩が微妙に変化してゆくのを心地よく五感で受け止めることを可能とする幸せなひとときであった。当時従事していた仕事が内容的にも時間的にも極めてハードであっただけに,恐らく私自身の脳は,デンエンチョーフという町並み(=生活空間)によって我が脆弱な身体がつかのま癒されることを無意識のうちに命じたのだと思う。街路樹の舗道をへだてた立派な塀の向こう側でどのような暮らしが営まれているかについては,あいにく全く興味がなかった。そのような擬態的生活は約4年間続けられた。
その頃は,日々の暮らしの中で,いわゆるフランス音楽を耳にする機会がかなり少なかったように思う。ジャック・ブレルの生き方はいつだってココロノササエになっていたかも知れないが,日常よく好んで聴いていた歌,というか聞き流していた歌は,例えば倉橋ルイ子 Ruiko Kurahashiのメランコリックなバラードなどの類であったような気がする。
想い出が 踊りはじめる
数え切れない愛が 星になる.....
あるいは,
白く小さなボート たよりなく浮かぶ
風のまま川岸を 遠ざかるはかない恋も
By the River.....
なんて感じの雰囲気に浸ることを好んでいたわけで,今にして思えば,どうも「勤勉と怠惰」あるいは「経済と倫理」がせめぎ合いながら「実生活」を先送りにしていたような,そんな恥ずべきモラトリアム時代であった次第だ。ただし,それは一面では時代の風潮と呼応していたようにも思われる。要するに,その気になれば渋谷駅近くの中古マンションが未だ1,000万円台で購入できるような御時世であったのだ(その数年後には,同じ物件があっという間に4~5,000万円にはね上がるといった,正にバブルの時代に突入するわけだが)。
いずれにしろ,全てはもう時効になってしまった。現在の私にとっては「グリコ・モリナガ」イコール「ルイコ・クラハシ」程度の連想をするしか能がないわけでありまして。