ドイツ・ルター派牧師 マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩(Wikipedia引用)
ニーメラー牧師は、反ナチ運動組織告白教会の指導者
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私(教会)は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私(教会)は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私(教会)は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私(教会)を攻撃したとき 私(教会)のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
私の記憶では、この詩を耳にしたのは、かなり前、教会の説教中だったと思う。そして元詩の「私」を「教会」と読み替えて紹介された覚えがある。声を挙げるべき時に声を挙げなかったとしたら、いざ声を挙げなくてはと覚悟した時にはもう遅いのだということを教えてくれる、いや警告する詩として私の心に残っている。
今、日本では、安部元総理大臣の銃撃事件に端を発して自民党他多くの議員と家族連合(旧統一教会)の問題がクローズアップされ、また岸田現総理大臣が閣議決定により安部元総理の国葬を強引に実施しようとしている。これに対して私は断固反対の意思を表明する。国葬の法的根拠云々については議論があるところで、岸田総理は、Yahoo news(7/16 楊井人文弁護士)によれば、以下のように要約される発言をしている。
岸田首相は7月14日の記者会見で、内閣府設置法において、内閣府の所掌事務として定められている「国の儀式」として、閣議決定をすれば実施可能との見解を示した。法的根拠については、事前に内閣法制局と検討したことも強調した。
たしかに、内閣府設置法には、所掌事務を定めた第4条第3項第33号に「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)」との規定がある。
「国葬」とは明記されていないが、「国の儀式」の一種として行い得るということだ。岸田首相は儀式であることを強調するためか、「国葬儀」という言葉を繰り返し使っていた。
国葬は極めて重大な国家行事となる。戦前の国葬法が廃止され、法律に明示はされていないものの、同記事で、筆者は次のように述べる。
たしかに、「国葬」と明記された法律は存在しない。ただ、「国葬」と明文で規定した法律があるかどうかと、政府がそうした儀式を実施するための法的根拠があるかどうか(適法かどうか)は、別問題だ。
例えば、毎年8月、政府主催で終戦の日に行う「全国戦没者追悼式」も、明文の法律規定があるわけではない。これも閣議決定により行われている。東日本大震災の追悼式も閣議決定により行われている。これらに一つ一つ、明文の法律規定はあるのか、との議論は聞かれない。誰も開催自体に異論がないためだ。
一部政党(れいわ新撰組)が、国葬法は戦後廃止されていることを反対理由にしているため、私も同意だと思っていたものの、上記の記事を目にすると、戦没者追悼式等の実施に関する閣議決定との兼ね合いからは反対根拠が脆弱であると認めざるを得ず、あとは国民の意向によるということになる。
私の反対理由は、現内閣の一方的な閣議決定にある。先の戦没者追悼式等に比べれば世論に国葬に対する異論がないどころか、世論を二分する意見の相違があると思う。そして現与党である政府自民党が今回の参議院選挙に圧勝したことを好いことに強引に閣議決定で推し進め安部元総理を神格化しかねない政治手法が見え隠れすること、要は政治家が信頼できないからだ。加えて今回の事件の核心に、政府与党ならびに一部野党の議員に統一教会との根深い癒着構造があるからだ。この問題を清算し、問題点を明らかにし改善しなければ現政権、与党に対する不信感は拭えないし、私は支持しない。