血の汗
神様は聖書という求人誌を媒介に神様にお使い出来るあなたを捜し求めています。「主はその御目ををもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第二歴代誌16:9)本当にすばらしい神様の愛に目覚めれば自発的な献身力が強まり人生に生きがいを発見できます。
ルカ二十二章四十四節「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」イエス様は十字架の道を行くあがないの犠牲としてこの世に来られた救い主、完全な神様であると同時に完全な人間でもありました。そのため旧約聖書の定めと、父なる神様の意志に従い、十字架の道に行くには、人間としての死を避ける性質を祈りのうちに打ち砕き、たとえ死であっても、父なる神様の御旨に従える強固な意志を得なければなりませんでした。人の心を神様の御言葉に従順させて強くする力は、賛美と祈りを通して流れてきます。
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙を持って祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル五・七)。
十字架を直前にしてイエス様は弟子たちと賛美の歌を歌ってから平安の内にオリーブ山の祈祷院へ向かいました。ゲッセマネの園にて徹夜祈祷会です。三人の弟子たちの眠る中イエス様たったお一人が、人間からの一切のとりなし祈りなく、熱く三時間祈られたのです。主のしもべが聖徒たちのとりなしの祈りなく、奉仕することは辛く危険なことです。しかしイエス様はお一人で繰り返し人間としての弱い心を打ち砕き祈られました。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ二二・四二)。
真の祈りとは神様を私たちのそばに引き寄せるものではなく、私たちが神様の側に行き神様の御心を従順に受け入れるものです。イエス様はこれから十字架にかからなければならないという計り知れない精神的重圧を一心に引き受け、地面にひれ伏しながら、祈られるとその時、御使いが天から現われて力づけたのです。すると、イエス様は苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、その結果あまりの緊張と集中力により、疲労が極限に達した時に見られる額の毛細血管が破れ、血の汗がしずくのように地に落ちる医学的に血汗症と言われる症状が現われたのです。こうして賛美と信仰の祈りで、祈りぬいたイエス様は勝利されました。強く雄々しく御旨に従う献身力を心に受け、大胆にカルバリ山の十字架の道へ自発的にあがないの犠牲となるため進みゆかれたのです。
全き愛が恐れを閉め出し、勇気に満ちてイエス様は立ち上がられたのです。彼の固い決意の御前では武器を手に捕らえに来た役人どもも御名の権威に圧倒され、退いて後ろに倒されたほどでした。信仰は決意です。信仰生活では肉を打って霊に従うことが必要です。肉に死に聖霊様で復活です。イエス様は命を懸けて戦われました。霊の世界は私たちの考え以上にもっと厳しいものです。現実に今、地獄の炎は燃え上がっているのです。その火が私たちの愛する人や環境に燃え移ろうとしている今、どうして黙っていられましょうか。「主よ!」と今こそ、断食と涙で心を裂いて叫び祈る時なのです。真実の愛は厳しさも含んでいます。時には人間の肉から生じる人情さえも信仰に立つ妨げとなっています。真実に愛するなら、本気でとりなし祈り、愛する人に大声で罪をとがめるべきです。命がけで戦い、教会へ連れ出すべきです。私たちの信仰は現実のことです。神様があなたの味方なのです。燃える火の中に手を入れて火傷の痛みを受ける覚悟をもって、本気で疑う人々を掴みだして救うべきです。(ユダ二三)
福音の犠牲と痛みは主が必ず後に癒されます。私たちの受ける天国の報いは、はなはだ偉大なのですから、過ぎ去る霧のごとく、瞬きのようなこの世にまどわされないで、永遠に続く神様の国のためとりなし祈りましょう。イエス様はすでに血の汗を流しつつ祈られ、人間の弱く不従順な肉に打ち勝ったのです。そして、そこで流されたゲッセマネの血の汗こそ私たちの弱い意志のあがないを叫び、御旨に従わせる勝利の血潮です。ですから、この血潮を仰ぎ、この血潮を基として祈りましょう。イエス様の血潮は私たちの肉の情に流されやすい弱い心をあがなって神様の御言葉に従わせる献身力を今、与えているのです。イエス様の血潮を賛美します。