花咲人

Dream come true !

自分の人生を大切にしていますか?

「ヒロシマ」訪問 No.2

2007-11-12 22:38:08 | ペイ・フォワード倶楽部
ヒロシマ原爆ドーム



「ヒロシマ原爆ドーム」の元の建物



破壊された内部。中で働いていた方は、全員が亡くなりました。



投下直後の町の様子


1945年8月6日、人類史上初めて、原子爆弾が投下されました。

投下後、約1分でリトルボーイ(原始爆弾)は爆発地点に到達したのだそうです。リトルボーイは日本時間午前8時15分、今日”原爆ドーム”と呼ばれている建物の上空580メートルに達した時爆発しました。爆風と熱(爆発の中心部では6000度・地上に到達した熱は3000度とも言われています)の形で凄まじいエネルギーを発生し、人体に悪影響を与える放射線(ガンマ線と中性子)を大量に発生しました。
熱線が地上に到達したとき、人間を含め全てのものが焼かれ、一瞬にして14万人の命が奪われ、町が地獄と化したのです。

原爆による爆風は半径2km以内の家と建築物のほとんどを破壊した。山によって反射された爆風が再び市の中心部にいた人たちを襲いました。

放射線にさらされた多くの人々(20万人とも言われています)は最初の数カ月あるいは数年で亡くなり、またある人は遺伝子に問題が起こり、障害を持つ赤ん坊が生まれたり、子どもを持てなくなったりしました。原爆による放射線は、62年後の現在も深刻な問題を引き起こしています。

原爆の被害を受けたほとんどの人々は一般市民であり、学生や兵隊、町の工場で働かされていた韓国人なども含まれているそうです。

高校の修学旅行以来、何年ぶりかで訪問しました。

75年間は、草木も生えないといわれていた「町」に、緑豊かな木々が見事に生い茂っていました。
62年の歳月が過ぎていても、あの一日で、亡くなった多くの人たちの「悲しみや苦しみ」「生きたかった」という想いなどが、大地から伝わってくるようでした。

敗戦の色が濃くなっていた8月6日の朝、空襲で焼かれてはいけないという事で、建物を取り壊すために沢山の人が借り出されていて、被爆しました。



「ヒロシマ」訪問

2007-11-09 11:19:51 | ペイ・フォワード倶楽部
6日・7日とヒロシマを訪問してきました。




ドイツ国際平和村への3ヶ月のボランティア滞在で、戦地で傷ついた多くの子どもたちと生活をして、「戦争・紛争」というものをとても身近に感じました。そして、自分がほとんど知識がないことに、いまさらながらに気がついたのです。




学校で習った事は、教科書の中の文字に過ぎず、修学旅行で訪れた「ヒロシマ」はとうの昔に風化してしまっていました。そして、テレビで流れてくるニュースは、やはり表面的なことにしか見えず、

  「彼らが何故傷つかなければならなかったのか?」ということが理解できないままでした。



 私の生活の中では「戦争・紛争」という出来事はないです。「当たり前」といってしまうには、その答えが自分の中にないのですね。

 だからといって、現在、紛争が起きている地域に出かけていく事など、とっても出来ない事です。

 そして、ドイツ国際平和村の敷地の中を通っている「Rua Hiroshima」という道路の説明を聞いたときから、私にとって「ヒロシマ」が大きな意味を持ち始めました。
 今年、8月6日の「平和記念式典」をテレビの中継で見ながら、訪問する事を決めました。ペイ・フォワード倶楽部のパネルを貸し出した縁で、静岡YWCAの古河からのご縁で広島YWCAの難波さんを紹介して頂、今回の訪問が実現しました。

「平和資料館」や「原爆ドーム」には、修学旅行生や世界から沢山の方が訪れていました。私もその中の1人として訪問する事は簡単でしたが、それでは表面的な知識を得ることは出来ても、心で受けとめてこれからの活動に生かしていくことは出来ないのではと考え、案内を依頼しました。

ペイ・フォワード倶楽部の活動の目的とヒロシマ訪問の目的・想いを伝えたところ、快く受けてください、1泊2日のスケジュールをお任せ状態で組んでいただけました。

難波さんはじめ、今田さん、戸村さん、山岡さん、豊永さん、
本当にお世話になりました。

皆さんの、ヒロシマに対する想いをしっかりと受け取らせて頂き、共に「平和」を願う仲間として、ペイ・フォワード倶楽部の今後の活動に生かして行きたいと思います。

「ヒロシマ」訪問は、これから数回にわたって、アップしていきます。

                               感謝


吹田市立山田東中学校での講演。

2007-11-01 10:47:06 | ペイ・フォワード倶楽部
ペイ・フォワード倶楽部には様々な方が、サポーターとして登録してくださっています。
その1人に、中学校の先生が居られます。その先生が勤務されている学校に招かれ、ドイツ国際平和村のことについて講演をしてきました。最近は総合学習といって、通常の勉強以外のことを取り上げるために、先生以外の一般の人が講師として話す機会もあるとのことです。

対象は、中学三年生約180人。時間は45分。



事前に、ドイツ国際平和村のビデオ(テレビで放映された部分からCMとスタジオの分を除いたもの)を見せて、アンケートを書いてもらっておきました。
ビデオは、千里山で活動されている「千里山ブログ村」の方に編集していただき、大変助かりました。

6時限目ということもあり、体育館の床に座って聞くということで、沢山の生徒が寝るのでは・・・と考えたりもしましたが、それは私の杞憂だったようです。

1、 自己紹介
2、 「子どもエコワールドツアー」のDVD上映
3、 平和村の子どもたちとの出会い~現地でのボランティア体験
4、 自分に出来ることから「ペイ・フォワード倶楽部の活動」

の順番に組み立てて、話していきました。

多感な年代、自我の形成、進路、友達や親子の関係、はるか(?)昔に過ぎてしまったけれど、確かに自分にもあんなに悶々とした時期があったよね・・・
と、ドイツ国際平和村の子どもたちのことを話しながら、目の前の子どもたちを、たまらなく愛おしく感じました。

 事前に見たビデオは、紛争で傷ついた子どもたちの姿を生々しく映し出し場面もあり、アンケートの中には、
「怖かった」
「無残で残酷で見ていられなかった」
「大人は愚かだ」
というのも沢山ありました。

そして、
「戦争は、絶対にしてはいけないと思った」
「傷つける大人もいるけれど、助ける大人がいるのはすごい」
「自分に出来る事をしていきたい」
「自分が傷ついても、笑顔で生きているのはすごい」
「命を大切にしないといけないと思った」

短い文章でも、一生懸命に書いているのが伝わってきて、読んでいて感動しました。

そして、「いろんな事があって、死にたいと思ったこともあり、今でも生きている意味を見つけられないけれど、平和村の子どもたちをみて、頑張って生きようと思う」と書いている生徒がいました。

ペイ・フォワード倶楽部の活動の中には、ドイツ国際平和村の子どもの事を伝える事で、「平和」について考える機会を提供したい・・という目的があります。

それと共に、日本で生まれ育つ、未来を担う子どもたちが、心も身体も健全に育っていくことにも寄与したい・・という思いも、強く感じました。

昨年、平和村でボランティアをしたときに、アフガニスタンから来たばかりの女の子が、「痒くて眠れない・・」と夜事務所にやってきて、クリームを塗ったときの話をしたのですが、彼女の火傷は全身に広がっており、余りのひどさに

 「この子に何の罪があるのだろうか・・?」
 「一体、この子が何をしたのだろうか・・?」
 「この子が、親から離れて、何故ここに来なければならないのだろうか・・?」

私は不覚にも涙が溢れそうになっていました。
でも、本当に泣きたいのは私ではなく、この子なんだ・・・、そう気がついて
涙を飲み込む事が出来たのです。

そして、彼女はクリームを塗り終わると、「ありがとう」といってベットに戻っていきました。

どれだけの事を伝えられたのだろうか・・と思います。
最後に、
「私が生まれ育った時代と、皆さんが生まれてきた時代とは、ずいぶん違います。しかし、今、この同じ時代に生きている仲間として、共に考えできることが決っとあると思います。」

と締めくくりました。

吹田市立山田東中学校の3年生の皆さん、ありがとうございました。
そして、話をするチャンスを下さった、山田東中学校の先生方に感謝しています。 ありがとうございました。

Rua Feliz ー千里山平和カーニバル

2007-10-30 02:45:07 | ペイ・フォワード倶楽部
10月28日、兼ねてより準備を進めてきたイベント、
「Rua Feliz ー千里山平和カーニバル」が、無事終了しました。

秋晴れの一日、沢山の方が来場され、4つの会場でのそれぞれの催しを楽しんでいただけたように思います。

今年のテーマは、「世代間交流」・・・簡単に言えば、沢山の人と交じり合って気軽に交流を持つ事が出来ればいいな~という事です。

結婚以来、約30年間すんできた町「千里山」。私にとっては第二のふるさとですが、この町で生まれ育った我が子にとっては、「ふるさと」そのものになるわけです。そして、毎日のニュースで、痛ましい事件が報告されているこの頃、「未来を担う子どもたちが、安心して住める町であってほしい。」との願いもあり、町がよくなっていくことや元気になっていく事に何か少しでも役に立てればと、ボランティア団体ペイ・フォワード倶楽部が、2005年に第1回のイベントを開催しました。

毎年、少しずつ成長し、今年は町のいろんな団体が協力して
「Rua Feliz 2007 実行委員会」を立ち上げました。
過去2回のノウハウを提供するという事で、ペイ・フォワード倶楽部が幹事団体となり、私も実行委員長として参加しましたが、本当に沢山の方々の協力があって、大成功したとしみじみと感じています。

朝早くから集まってくださったボランティアの方がた、フリマ・飲食・ワークショップ・パネル展示と約50ブースの出店者の方々、舞台で素晴らしいパーフォーマンスを披露してくださった皆さん、一日中絶える事なく来場くださった皆さん、

 ありがとうございました!

そして、忙しい仕事の合間をぬって、協力し合えた実行委員の皆さん、
本当に、お疲れ様でした。

人と人が触れ合う事が、「平和」の原点だと思います。

顔を見て、声を掛け合えば、親近感もわいてくるでしょう。
「平和」は、ごく身近なところから、とっても簡単な事から始まると思うのです。

まだ、3年目を終えたばかりの、「Rua Feliz ー千里山カーニバル」が町のイベントとして、沢山の方の協力で成長していく事を、心から願っています。

星愛たなばた祭り

2007-07-09 22:57:40 | ペイ・フォワード倶楽部

7月7日の夕方、天満宮の「星愛たなばた祭り」に行って来ました。・・・

と言うより、ペイ・フォワード倶楽部として、ボランティアブースに出店しました。

昼から、舞台での予選会が行われ、次々とお店の用意などが始まるのでが、私は仕事で夕方に到着しました。

昨年、このお祭りで、関西大学学生チーム「漢舞」さんと初めて出会い、昨年の「Rua Feliz ―幸せの街路」へとストーリーが始まったのですが、今年もご招待で参加されていました。

大阪天満宮

901菅原道真が、藤原時平により九州太宰府へ配転させられた際、同地にあった大将軍社に参詣されたそうです。903に菅原道真が没した後、天神信仰が始まり、949に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わったということです。そのため村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりだということです。 

昨年の6月に行った、屋久島の縄文杉は7000年の悠々のときを生きてきたと聞いて、その気の遠くなる時間に想いを馳せようとしたのですが、やっぱり7000年は、私のキャパを超えていました。それを考えると、1000年と言う時間の流れは、単純に考えて、100年が10回と言うことなので、まだイメージが出来そうです。

しかし、補修を続けてきているのでしょうが、現在もどっしりとしたたずまいを見せてくれていることに、日本建築へのすごさを感じます

と、日本の歴史を感じながら、多分幼い頃(桜ノ宮駅前の官舎に住んでいました)両親に連れられて、天神祭りや天満宮に来たこともあるのだろうな~と、しばし自分の幼い頃にも思いを馳せたひと時でした。

そして、やはり最後は、花より団子!

屋台で売っている「チュウハイと焼きおにぎりとおこげせんべい」で、ほろっと一酔い気分で、ロマンティックな「星愛たなばた祭り」を楽しみました。


ベトナムへの旅 5

2007-06-30 19:11:41 | ペイ・フォワード倶楽部

旅行も3日目となりました。今日は、朝はゆっくりと起きて、昼から「さくらカフェ」に行く予定になっています。
さくらカフェは、知的障害のあるベトナムの方々が働いている喫茶店です。さくらカフェは、日本の女性がベトナムの方の自立支援をサポートして出来た喫茶店だそうです。出発前に、ペイ・フォワード倶楽部のサポーターの方の友人からの紹介で、訪問することが出来ました。とても素敵な喫茶店で、フレッシュジュースを頂きましたが、やっぱり美味しかった!
そして、その後紹介していただいたレストランにランチを食べに行きました。ストリートチルドレンだった人たちが働いているレストランです。ベトナムのお店で働いている人たちは、大概英語は話せません。でも、このカフェは食事ももちろん美味しかったのですが、お客に対するマナーもとても優しく、英語が上手に話せました。

さて、美味しいベトナム料理も堪能し、エステなどもおまけで体験できたし、後はホーチミン市の夕暮れを楽しみながら、サイゴン川を散策してホテルに戻ろうと交差点を渡ったとき・・・・。


 信号を渡り終えたときに、突然バイクが寄ってきて・・・

バイクはいつもあちらこちらから向かってくるので、ちょっと緊張感がなくなっていたのかもしれません。 気がついたら、首からストラップで下げていたデジカメを引きちぎられて持っていかれていました。
アッ と言う間の出来事で、一瞬何が起きたのかよく分からなくって、周りの人のちょっと驚いたような表情で、事態に気がついたありさまでした。

でも、運がよかったのは、ストラップの先の金属(デジカメを止めていたところ)が割れたおかげで、私は引きづられないですんだと思うのです。残念なのは、映した写真のデーターです。この旅行のために、2GBのSDカードを買って、沢山写真を撮っていました。デジカメやメモリーカードは、又買えば良いのですが、せっかく映したデーターは、返ってきません。 

しかし、嘆いていても何も始まらないので、気持ちの切り替えをさっさとやって、旅行代理店に連絡をし、盗難届けを出すことにしました。

 

ここからが、またまた スペシャルドラマの始まりです!

夜8時に旅行代理店の男性が迎えに来てくれ、警察にいくことに・・・・
普通は、タクシーで行くのでしょうが、なんと!彼が乗ってきた、バイクに乗っていくことになったのです。
「OK」 とは言ったのもの、帰宅を急ぐバイクの洪水の中、彼の後ろに乗せてもらっての警察までの約20分は、なんとも生きた心地がしなかったです!
さて、警察に着いてからは、全く解らないベトナム語のやり取りと、ちょっと威厳のある警察官の態度と、その割にはなんとなくのんびりとした雰囲気を少しばかり観察した後は、正直なところちょっと退屈してしまいました。
なので、不謹慎にも、警察官の目を盗んで携帯電話で、ワンショット!カシャッ!と言う音がしたにもかかわらず、気づかれなかった・・・
帰りは、「タクシーで帰ろう・・」と、心に誓っていたのですが、警察につく頃には、少しなれたせいもあり、盗難届けを頂いた安心感もあったのか、帰りも又、彼のバイクに乗せていただきました。

しかし、気がついたのですが、二人乗りであろうが、3人・4人であろうが、みんなただ後ろのシートに座っているだけなんですね。しかし、私にはそんな芸当は出来ましぇん!
なので、後ろからしっかりと彼にしがみついて乗っていました。
無事にホテルに戻って、やっと一息いれ、シャワーをした後で、

友人いわく、

 「ねえ、あそこの場所って(デジカメをとられたところ)、ホーチミンでも一番盗難が多発している場所で、特に交差点を渡ってすぐにバイクが寄ってきて取られる事が多いから、気をつけないといけないんだって・・・! ガイドブックに書いてあるわ!」

昨晩に続いて、大爆笑の後、友人が買っておいてくれた「ドリアン」を食し、安らかな眠りについてのでした。


ベトナムへの旅 4

2007-06-18 23:05:43 | ペイ・フォワード倶楽部
お昼ご飯に、「フォー」を頂きました。
フォー24という名前の店(ガイドブックに載っています)で、牛のフォーを注文したのですが、フォー24という名前は、24時間スープを煮込むところから付けているそうです。生のもやしやにら・香菜を乗せて食べたのですが、本当に美味しかった! 



それと、100%生のマンゴージュース。 マンゴーをミキサーでまわして、そのままコップに入れてあるようで、ものすごくコクがあってまったりとしていて、マンゴー好きの私としては、「参いりました!」

さて、お腹もいっぱいになり、午後は自由時間。

ホーチミンには、大きな市場がたくさんありますが、中でも一番大きな「ベンタイン市場」まで送ってもらい、後は自分たちで帰ることに。

約1500の店が入っているこの市場は、たくさんの観光客で賑わっていました。あまりの店の多さに、圧倒されながらも、ベトナム雑貨を少し買うことが出来ました。面食らうのは、お金の単位。
ベトナムは、「ドン」という通貨ですが、これが、10,000ドン=70円なので、100,000ドンでも700円というわけです。しかし、なんだかとっても高いような錯覚になるので、いちいち電卓を出して計算しました。

一通り見て歩いたので、次の目的地「国営百貨店」に行こうということになり、地図を・・・
ここで、困ったことが。
 地図をホテルに忘れてきたのでした。
通りに出て、二人でどうしようかと相談していると、ちょうど運よくベトナムの青年が声をかけてきてくれました。
彼は、自転車の前に椅子を置いて、人を乗せ運ぶ「シクロ」という自転車版タクシーの運転手で、国営百貨店までなら、1ドル(ベトナムではドルも使えます)でいけると、言うのです。私たちは、これ幸いと連れて行ってもらうことにしました。



ところが・・・・

走り出して少しすると、「国営百貨店」の場所がよく分からないらしく、「HONGKONG MARKET」の方が、良いものが買えるから、そっちへ行ったほうが良いと、言うのです。
・ ・・・・・、ちょと、怪しいな・・・・と思いながらも、行く事にしたのですが、着いてみてビックリ・ボーゼン。
建物は建っているけれど、周りはスラム街のようで、かなりひどい状態でした。一通り見て回ったけれど、買うものもなく、やっぱり「Please go to National Market。」ともう一度シクロに乗り込み、走ること15分ほど。

大きな通りだけれど、人がほとんどいないところで降ろされ、「とても近くだから、歩いていける。お金!」と言うのです。
最初の約束通り、1ドルを出すと、「オー、ノー!」

そらそうよね。安すぎるよね、と私も思ったので、10万ドン札を出したのです。
しかし、   オー ノー!

エ~~~ッツ? How much?


そうすると、彼は手のひらに、ボールペンで、
   1、000、000ドン   と、書いたのでした。

一 十 百 千 万 十万 百万・・・    百万!!!!!! 7,000円?

な~~に~~~ッツ!!!! 冗談やないで! めちゃ高いやんか! 何でそんなに払わなあかんのんよ!

すると、向こうも負けてないで、「一杯走った! お金払え!」と、目をむいて迫ってくるのです。

解った! OK! Let’ go to the Police Box with us! Let’s go!

というと、 向こうも OK! と言って、又シクロに乗れというのです。

冗談やないわよ! 何で、そんなんにのらなあかんのよ! 
あんたら、うそつきやないの! そんなんに乗るほど、私ら馬鹿やないわよ!

We go to the Police Box on foot! ride on the shikuro on yourself.
Where the Police Box? Where? 

と叫びながら、さっさと歩き出したのです。すると、彼らは反対方向へと逃げていきました。

そして、買い物をしてホテルに帰ってから、ガイドブックを見ると、

ベトナムの交通事情:
電車はなく、バスとタクシー。市民はほとんどバイクを使う。タクシーに乗る場合は、最初に料金の交渉をしっかりするか、メーターで行くことを言っておく。
シクロと言う、乗り物もあるがあまり勧められない。風を切って走るシクロは、魅力的だが、法外な料金を請求されたり、人通りの少ないところへ連れ込まれて危ない目にあったりと、問題が多発しているの。どうしてもと言うのであれば、自己危機管理能力の範囲内でチャレンジすること。やむなく災難にあった場合は、大声で「Police! Police!」と叫ぶこと。

と親切に書いてありました。

・ ・・・・・・・・・、二人で、大爆笑・・・・・・・

こんな、モデルケースはもう、結構です。




ベトナムへの旅 3

2007-06-15 23:34:16 | ペイ・フォワード倶楽部
朝、「コケ~~~~コッコ~~~~~~~~~オ」という、鶏の声で目を覚まし、身支度を整えて朝食へ。
代表的なベトナム風朝ごはんを、ビュッフェ形式で頂きました。食後にアイスコーヒー・・・を飲んだのですが、昔銭湯で風呂上りに飲んだ瓶入りのコーヒー牛乳(年がバレル!)の味を懐かしく思い出しました。

今日は、市内観光の日です。

ここで、少しベトナムの歴史を勉強しました。
中国とイギリスの間で起こったアヘン戦争(1840~1842)は、ヨーロッパの列強国による東アジア支配の幕開けでした。1847年フランス軍によるダナン沖でのベトナム軍軍艦の攻撃から始まり、1862年第1次サイゴン条約によるコーチシナの割譲、1884年フランスとベトナムの間でパトゥヌル条約締結により完全にベトナムはフランスの植民地下に入りました。
1930年香港でグエンアイコック(後のホーチミン)によってベトナム共産党が創立します。このころからアジアにおける民族主義運動が台頭して行きます。1940年の日本軍によるベトナム進行が開始され、日本軍によるインドシナ半島支配が始まります。1941年ベトナム独立運動ベトミンが発足されます。
1945年の日本軍の降伏により、ベトミンが一斉蜂起、ハノイを占領し、9月2日ホーチミン主席によりベトナムの独立宣言がなされます。同年フランス軍によるサイゴン占領、1946年ベトミンとフランス軍の武力衝突がハイフォンで起こり、本格的なベトナム戦争へと入って行きます。1975年4月30日北ベトナム軍のサイゴン占領によりベトナム戦争が終了するまで、悲惨な泥沼の戦いが続きました。

他国からの侵略と内戦が長く続き、ベトナム戦争が終結して、やっと独立できた国です。
しかし今、工業の発展に取り掛かり、開発が始まろうとしています。経済的に豊かになることはベトナムの方々の生活を考えると大切なことだと思うのですが、その反面豊かな自然が破壊されそうで、一抹の不安を覚えました。

さて、始めに訪れたのが、「統一会堂」です。


ベトナム植民地支配を進めていたフランスのインドシナ総督の宮殿として1868年に建設され、その後、サイゴン政権のものとなり、「ドック・ラブ宮殿」と名称を変えました。作戦会議室などが設けられ、戦争時の司令室や地下シェルターなどがあり軍事拠点になったがために、ベトナム戦争では爆撃などを受け、大きな被害を受けました。
 1976年に南北のベトナムが統一されたことを記念し、"統一"を意味する「Thong Nhat(トング ニャット)」の名称が付けられた。現在は、国賓が来るときなどを除いて、一般開放されています。


そして、次に訪れたのが、「戦争博物館」



門を入るとすぐに、ベトナム戦争で使用した、戦車・大砲・戦闘機などが前庭に置かれていてました。
そして、たくさんの写真が展示してある部屋を見て回りました。
ベトナム戦争では、世界からジャーナリストが従軍し、写真などを通して世界にベトナム戦争の様子を伝えています。しかし、戦争の中での取材で、命を落とした人も200人を超えているそうです。



この写真は、あまりにも有名ですね。カメラマンは「SAWADA KYOUICHI」さんです。
べトコンが攻めてくるという情報が前もってわかったいるときは、みんな非難することが出来ます。この写真は、川に飛び込んで必死に逃げる家族を写し、後日助かった家族に渡すことが出来たところです。



展示してある写真は、ほとんどが胸の痛くなるものや、正視できないような残酷な場面が多かったので、一応写真を撮ってきましたが、ここには掲載しないことにしました。

その後、中央郵便局やサイゴン大聖堂を見学した後、お昼ご飯を食べ、ショッピングへと出かけました。

そして・・・・

この旅、最大のアクシデントが、起きたのでした。





ベトナムへの旅 2

2007-06-10 23:24:27 | ペイ・フォワード倶楽部

ホテルにチェックインし、明日の市内観光の打ち合わせをしたら、

さて! 晩御飯・・・となるところが、

機内食が遅かったこともあり、あまりお腹が空かず、 山のように売られていた果物が気になって、

    「買いに行こう!」ということになりました。

そして、果物というと、

     「ドリアン」-果物の王様

露店で売っているのをあちらこちらとのぞきながら、値段交渉をして、1キロ20,000ドン(約140円)で折り合いがつき、1玉80,000ドン(560円)で美味しそうで大きなドリアンをゲットして、ルンルンで部屋へ。

今回一緒に行った友人も、大のドリアンファンだったこともあり、それからの約30分間は、

   「ドリアンの暴れ食い」  となりました。

 もちろん、部屋中、ドリアンの香りで満たされ、シャワーを浴びた後は、心地よい眠りに深~く落ちていったのでした。

少し香りは強いですが、あの味と食感は、なんともいえないものです。

 

  美味しかった~~~~~~


ベトナムへの旅

2007-06-08 23:24:21 | ペイ・フォワード倶楽部
6月2日から6日まで、ずっと気になっていた国「ベトナム」に行ってきました。

空港を降り立って、迎えのガイドの方の車でホテルへ・・・・



あまりのバイクの量に、ただビックリするだけ・・・。
右から左から後ろから前から、ありとあらゆるところから押し寄せてくるバイク。
おまけに二人乗りは当たり前で、3人4人と乗っているのです。
そして、もちろん!ヘルメットは被っていません!
一番前に小さい子どもを乗せて、お父さんが運転し、その後ろのお母さんとの間に赤ちゃんを置いて(そう!おいているんです!)います。
ホーチミン市で約300万台のバイクが走っているとの事。
もちろん、交通事故も多発しており、バイクからの排気ガスによる空気の汚染も社会問題になっています。
ガイドさんの話によると、地下鉄の建設予定があるとかで、そうなれば全く様子は変わると思いますが・・・。


とにかく、いきなりのカルチャーショックでした。

かなり大きな交叉点でも、信号がなく、バイクが洪水のように走っているところを、人は泳ぐように歩いていきます。

この状況になれるのに、二日ほどかかりました。

今回の旅の目的は、
1、 戦争博物館や病院を訪問すること
2、 市民の生活に触れること
3、 知的障害のある方々が働いているカフェの訪問
4、 ストリートチルドレンだった人たちが働いているレストランの訪問
5、 生春巻き・フォーなど、ベトナム料理とすい―ツ・果物を堪能すること

と、欲張りでしたが、ほとんど完璧に近く目標達成して帰ってきました。
何回かに分けて、報告したいと思います。