くんずほぐれつ

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戦後日本経済の成長期と成熟期の違いは教育にも当てはまるというアナロジー

2010年09月29日 08時52分43秒 | 教育について
<経済学>
■戦後から高度経済成長期の日本→物がない状態から物を普及させる段階→成長期(見かけの成長)

・消費者の需要意識→ないよりあったほうがいい

・生産側→大量生産大量消費

■高度経済成長期以降の日本→物が普及した後の段階→成熟期(中身の成長)

・消費者の需要意識→他人より違った物がほしい

・生産側→それぞれの消費者のニーズに合った生産


<教育学>
■戦後から高度経済成長期の日本→教育がない状態から教育を普及させる段階→成長期(見かけの成長)

・受ける側→ないよりあったほうがいい(親の心情教育を受けさせてあげたい)

・教える側→大量生産大量消費→一斉授業主体の教育(ピーク時1クラス50人体制)

■高度経済成長期以降の日本→教育が普及したあとの段階→成熟期(中身の成長)

・受ける側→他人より違った教育が受けたい(自分の関心のある教育を受けたい)

・教える側→それぞれのニーズに合った教育→ゼミ・討論・グループ学習主体の教育


さて、かなり強引なアナロジーとなりましたが、経済の変化と同じと考えると成熟期の教育は以上のようになるはずなのに、今日の教育は戦後から変化なし。

1980年以降の日本は経済と合わせて成熟期型の教育へシフトしていくべきだったのですが、全く変わっていないのが昨今様々な教育問題が浮上している最大の原因だったのです。


本 『齋藤孝のざっくり!日本史』

2010年09月29日 08時29分13秒 | 
齋藤孝著 祥伝社黄金文庫 2010年。

ほんとに面白いです。

こういう本を歴史の教科書にするべきですよ。

今の学校の歴史の教科書と比較してみてくださいよ、面白さが雲泥の差ですよ。

歴史というのは単に知識として知ってるだけではなくて、きちんと意味を理解しないと歴史を勉強する価値がありません。

この「意味」とは、僕の表現でいうと「ある事柄とある事柄の結びつきを探る能力」ということです。齋藤さんは「文脈力」と表現していますね。

学校の歴史の教科書は「うんちく」専用です。歴史の「意味」を問う本として機能していません。

本 『アップルVS.グーグル』

2010年09月29日 08時07分29秒 | 
小川浩・林信行著 ソフトバンク新書 2010年。

「マイクロソフトVS.アップル」だったのが「アップルVS.グーグル」になりましたね。

オープンなグーグルとクローズドなアップル。

やり方は違えども、目指している方向は同じといったとこでしょう。

どちらも、既成の概念を打ち破るようなコンテンツを生み出すことでしか時代を生き残っていけないということをきちんと肝に銘じている企業といえるでしょう。

ポストPC時代の幕開けです。

レポート作成の極意 わかってはいるのにうまく文章化できない時はどうすればいい!?

2010年09月23日 12時15分22秒 | レポート作成の極意
頭ではアイデアが浮かんでいるのに、なかなか思うように文章化できない。

レポートを書いていたら必ずぶち当たる壁です。

この現象はなぜ起きるのか!?

この問題に解決のヒントを与えてくれたのが

茂木健一郎著 『脳を活かす仕事術』 PHP、2008年。

でした。

この本は「感覚系学習」と「運動系学習」の違いを説明しています。

前者は理解する・暗記するなど思考を働かせるだけで上達します。

しかし、後者は思考を働かせているだけでは上達しない。実際に一度文章化して、その文章化した内容をまた「感覚系学習」で理解する、というサイクルが不可欠なのです。

つまり、「参考文献を読んで引用箇所を解釈する」という段階は「感覚系学習」の仕事で、「引用した箇所同士の結びつきを探る」という段階は「運動系学習」の仕事なのです。

だから、文章を書かずに考えるだけで「引用した箇所同士の結びつきを探る」ことはそもそも不可能なのです。

わかってはいるのにうまく文章化できない理由は、この部分が原因と思われます。

最初から完璧を求めずに一度アウトプットしてみる、すると「結びつき」の改善点が明確になるのでそれをインプットして、それを基に再びアウトプットする、というサイクルが必要なのです。そのサイクルをまわしていくと少しずつレポート作成が進んでいきます。

内容を「理解する」ということと、その内容を「結びつける」という行為は全く別の次元であったのです。「理解する」ということと、それらを「結びつける」ということは脳内で直接結びついていないのです。

これは「見える学力」と「見えない学力」も同じことがいえます。

「見える学力」は「感覚系学習」で「見えない学力」は「運動系学習」といえるでしょう。

レポート作成の極意 引用した文章同士の結び付きには型がある!?

2010年09月18日 14時42分16秒 | レポート作成の極意
前回のブログ記事「レポート作成の極意」で、引用箇所の解釈ではなくて、引用箇所同士の結びつきを探るところに「自分なりの主張」が生まれると書きました。

では、その「結びつき」とはなにか!?

これを理解しているだけで、これまたレポートの書き方がさらにスムーズになるわけですよ。

この「結びつき」には様々な型があるんですな。

僕がよく使う型を説明します。

■帰納的な結びつき
・アナロジー
aは重要な点でbと似ている。そして、bについてはcということが成り立っている。したがって、たぶんaについてもcということが成り立つ。

・アブダクション
aということが既に分かっている。hという仮定をおけば、なぜaなのかうまく説明できる。

・仮説演繹法
hという仮説が正しいならば、bが成り立つはずだ。実際bである。したがって、hはただしい。

■演繹的な結びつき
・モードゥス・ポネンス
aならばbである。そしてaである。ゆえにbである。

・モードゥス・トレンス
aならばbである。しかしbではない、ゆえにaではない。

レポート作成のときは、引用箇所同士を比較して、どれに当てはめれば結論に導けるかを試行錯誤しながら書いていきます。これをやるようになってレポを書くのが格段にスムーズになりました。

「見える学力」と「見えない学力」

2010年09月17日 12時29分22秒 | 教育について
高校生のときテストはいつも一夜漬けでした。

テストでいい点数をとればいいのですから、一夜漬けが手っ取り早いんですよね。

ようするに、暗記すればいいんですから、それ以上の学力を要求するような教育ではないのですから、一夜漬けで十分なんですよ。

今日の学校教育のテストは、つまるところ内容を憶えているかいなかを評価するための手段です。

学力には「見える学力」と「見えない学力」がありまして、前者が内容を覚えたかいなかの部分、後者が覚えた内容をいかに活用するか(覚えた内容同士を結びつける)の部分です。

この学力の「見える」「見えない」は同時に、学力の「教えやすい」「教えにくい」となり、さらに「評価しやすい」「評価しにくい」に影響していくということは周知のとおりです。

「見えない学力」の部分は、たとえ教えたとしても生徒の学力の表面に表れてこないわけです。これは原理的なパラドックスです。だから、教えにくいし評価もしにくい。しかし、学力で重要なのはこの「見えない学力」の部分なのです(正確には「見える学力」と「見えない学力」のバランス)。

しかし、教えにくいし評価もしにくいから、今日のような内容を覚えたかいなか、例えば鎌倉幕府がなぜ成立したか(覚えた内容の結びつき)を問うのではなく、単に鎌倉幕府成立年を問うような、浅はかな教育しかできないわけです。

あと評価の公平性も関係しているでしょう。

今日の学校教育は学ぶ内容が均一、なぜなら教える側が生徒の優劣を判断する手段だから。学ぶ内容を均一にすればテストも均一にできる、テストの結果は生徒一人一人違ってくる(あたりまえですが)。生徒の学力の優劣がはっきり区別できるのは「見える学力」なわけです。

教えた内容が均一で、テストも均一なのだから条件はみんな一緒、結果の違いは生徒の努力の違い、優劣は仕方ない。表向き「公平性」を語っていながら、実態は「不平等」を誘発するシステム。

というカラクリなわけですよ。

教える側は、意図的に「不平等」を誘発させておいて、その「不平等」という結果を生徒自信の努力の違いと理解して、責任逃れをしているわけです。

そもそも違いがあるのはあたりまえでしょ。生徒一人ひとりの立場に立って教育を語らないからこのような事態になってしまうんです。

きわめてけしからん。

本来の「公平性」とは、生徒一人ひとりの学びの進度に合った教育、評価が実践できているか否かなんです。みんなと比べて公平は考えが浅はか過ぎます。

余談ですが、学力の「機会の平等」か「結果の平等」、とかさわがれた時期ありましたよね。これはっきりいって意味ないんですよ。議論すること事態ナンセンスなんです。

なぜなら、今日の学校教育というのは、教える側が生徒同士の学力の優劣を判断するために教育内容及びテストを均一にして、意図的に生徒同士の「不平等」を誘発することが実態なんです。なのに表では学力の「機会の平等」「結果の平等」とかいってあたかも「平等」がいいんだみたいな議論をする。

これって矛盾ですよね。

意図的な「不平等」の誘発という実態の単純な反発から、他人と比較した「平等」が出てきたともいえます。

どこまで子どもたちを困らせれば気が済むんですか。


しかし、受験は「評価する」「評価される」というシステムなしというわけには行きません。さらに受験は他人と比較した「公平性」が問われてくる。

社会の中で生きるということも「評価する」「評価される」ということの連続。

学力の「見えない部分」も含めた公平な教育、評価が課題となりますが、これは教育において永遠のテーマなのです。

しかし仮に「見えない学力」も含めて教育が実践可能なのだとして、それを含めた教育の公平性が完全なものなのかどうか。

それによって生まれた「不平等」は正当なものなのかどうか、という問題もでてきます。

考えたらきりがありませんね。

学力競争における3つの組み分け 「勝ち組」「負け組」「リタイア組」

2010年09月16日 12時55分31秒 | 教育について
驚くほどに単純なものさしで学力をはかる今日の学校教育は、子どもたちを「勝ち組」「負け組」「リタイア組」という3つの組に分けることを目的としている。以下で高校受験を例にとって説明してみる。

首都圏では「私立」が本命で「公立」がすべりどめなので、前者が「勝ち組」後者が「負け組」ということになる。

地方は逆で「公立」が本命で「私立」がすべりどめとなるので、前者が「勝ち組」後者が「負け組」となる。

首都圏と地方では「私立」と「公立」が逆であるがこれは学力レベルの差のちがいである。

図を見ていただきたい。かなり大まかに区分してしまっているので一概に決め付けることはできないが、首都圏と地方における勝ち負けの一覧表である。

地方は首都圏と比較して勝ち負けのレベルが一段階低くなっている現状である。

ようするに地方にとって、首都圏における「勝ち組」である①のグループは、いわゆるラサールなどの進学校であるので雲の上の存在なのである。

学力競争には「勝ち組」「負け組」のほかに「リタイア組」がある。

「リタイア組」とは、ようするに学力競争から外れてしまった子どもたちである。

リタイアしてしまったわけだから、「負け組」より下の部類に入るのだろう。

さて、以上の3つの組み分けによって4つのグループに分けることができた。

この4つのグループのなかで、学力競争という病に犯され、洗脳されてしまっている(教師も生徒も)傾向が一番強いのが②、③のグループである。いわゆる「お勉強」タイプ。

①は学力競争の頂点であり洗脳されている人たちもいるだろうが、「お勉強」ではなくきちんと「学問」をすることが教養されている学校が多い。

④はリタイアしたということは、ある意味洗脳されないためにリタイアしたということ。このグループの子どもたちは学力があるないに関わらず、学びに対する直観力がするどい。既存の教育システムが時代に適応していないことを察知できるわけですからね。「お勉強」に強い拒否反応を示しているわけです。実は「学問」タイプが多い。

つまり、文部科学省の影響が一番強いのが②と③のグループということです。

一番扱いにくいといいますか、僕が理想としている教育を理解してくれる人はいるのだろうかと思ってしまう人たちが多いだろうと予測するのがこのグループなわけです。

学校は「教育」という名の大量生産工場

2010年09月12日 03時32分50秒 | 教育について
今日の学校は「教育」という名の大量生産工場。

生産されるのは、教育された生徒たち。

学ぶ内容は皆一緒。

だって、大量生産だから仕方ないです。

生産の効率重視だから仕方ないです。

生産された生徒の思考はみんな均一。

だって、大量生産だから仕方ないです。

生産の効率優先だから仕方ないです。

教師は文科省の指示に従うロボット、意思はない。

だって、大量生産だから仕方ないです。

生産の効率優先だから仕方ないです。

そして、生産された生徒は品質別にランク付けされ出荷される。

近代以降の学校教育というのはつまるところ近代的な教育を生徒に受けさせることが目的であったので、教える側にとっては手っ取り早いシステムであったわけです。そして、そのシステムは明治になってから130年間変わっていないのです。

つまり、日本の教育は明治以来130年間、現代に至っても全く進歩していないのです。

既存の教育システムに安堵している人たちは、もはや旧時代の遺物に過ぎない。

そんな教育なんてぶっ壊しちまえ。新時代を切り開け。現実を変革させてしまえ。新時代の中へ、いち早く行け!

低反発マットレスは寝心地がいいです

2010年09月11日 13時52分53秒 | ツール・小物
今までせんべい布団を使っていて、朝起きたら腰と背中が痛くて何とかしたいと思っていました。

深夜のテレビショッピングで「トゥルースイーパー」とかいう低反発マットレスの番組やってますよね。これみていいなとおもって。

アマゾンでもっと安いのないかなと思って一番安い5870円の買ってみました。厚さ5cmのやつです。

使って一週間ほど経ちます。

確かに腰や背中の痛みはなくなりました☆

安いので大丈夫かなと思いましたが寝心地はとてもいいです。

僕の理想の授業実践は、プラトンが創設した「アガデメイア」のような授業

2010年09月07日 14時46分32秒 | 教育について
明治以前の「寺子屋」や「私塾」のような授業でもいいです。

ようするに、近代以降の一斉授業のような、教師から生徒へ一方的になってしまいがちな授業ではなくて、生徒一人ひとりがそれぞれの関心を追究できて、教師がそれを支援できるような授業がしたいんです。


プラトンの著作たくさんありますよね。

そのほとんどが対話ですよね。

つまりアカデメイアという学校は、ある事柄に対してとにかく深く深く皆で語り合うという授業が基本であったと思うんです。

想像しただけでわくわくしますよ。

皆で関心のある事柄を対話を通して考えを深め合う。

すばらしい☆

そして、それが学校の本来のあるべき姿であると思うのです。

現代の学校はそれの全く逆です。

生徒が関心あるないに関わらず、学ぶべき内容が用意されていて、生徒にそれを注入する。

なんて一方的なんでしょう。

ほんとに子どもたちがかわいそうですよ。


明治以降の日本の近代化、戦後の高度経済成長期であったならば、日本がどんどん成長していく過程なので、現代行われているような教育でもいいでしょう。

しかし日本は成長期が終わって、既に成熟期に入っているのです。

つまり日本は、見かけの成長ではなくて、中身の成長に入ったのです。

既存の教育システムでは、これから日本が成熟していこうとしていくための教育とマッチしないんですよ。

なんで気づかないんですか。

レポート作成の極意 自分なりの主張が行われているレポートとは!?

2010年09月06日 23時57分20秒 | レポート作成の極意
レポートを書くにあたって、「テキスト科目履修要綱」の出題者からの注意事項などではよく、参考文献を写すだけではなく自分なりの主張をしてください、と書いてあります。

この「自分なりの主張」とは何か!?

ということで、僕は自問自答を繰り返した結果、ここ2,3年くらい前からでしょうか、

「自分なりの主張」が何を意味しているのかやっと理解できたのでありました。

レポート作成は必ずさまざまな参考文献を読みます。

そして、それぞれの参考文献の重要な箇所を引用します。

僕はそれまで「自分なりの主張」とは、「参考文献で気になったところを引用して、その箇所を自分なりの言葉で解釈すること」であると思っていたのですが、違ったのです!!

間違いではないんです。でもそれだけでは不十分なんです。その先があるんです。

「自分なりの主張」とは、引用した文章と引用した文章の関連性を探るところに生まれるのです!

これが分かってからはレポを書くのが格段にスムーズになりました。気づくの遅いですよね(^-^;)

それぞれの引用した文章を解釈して、そのそれぞれを比較してその関連性を探るところに自分なりの主張が生まれるわけです!引用箇所の比較は2つであったり3つであったりします。それ以上だと複雑になって書きにくいです。

引用箇所の解釈ではなくて、引用箇所同士の結びつきが主張なのでありました。

だとすると、どこを引用するかの時点で既に自分なりの主張がはじまっています。

だって、一冊の本からある部分を選んで引用するという行為がそもそも自分なりの主張ですからね。

違う人が同じ本を読んで同じ部分を引用するとは限りません。

だとすると、どの参考文献を選んだかという所から自分なりの主張ははじまっているわけです。(レポートの場合は参考文献が紹介されてますからそれを読めばいいでしょう)

レポートを書くという訓練を積んでいけば、自然と卒論を書く技術が身についている。

そして、ある事柄とある事柄の結びつきを探るというこの思考法は、実社会でも大いに役立つのでありました。

慶応通信の教職課程は日本の教職課程の中で最難関で最高峰

2010年09月06日 13時17分06秒 | 慶應通信
スクの最終日の講演で先生がおっしゃった言葉です。

「慶応通信の教職課程は日本の教職課程の中で最難関で最高峰」

「自信を持って教師になりなさい」

僕はその時、今まで頑張ってきて本当によかった、と心の底から思いました。

そして僕は、感動のあまり涙が出てくるのをこらえるのと同時に、体中にあふれた躍動心を、これからの時代へと変革する教育へ向けるのでした。

本 『新書がベスト―10冊で思考が、100冊で生き方が変わる―』

2010年09月05日 21時57分54秒 | 
小飼弾著 ベスト新書、2010年。

これからの時代は生き残るために読書が必要不可欠。

本を読むことが習慣化されている人にとっては、それほど新しい内容の本ではありません。

情報に受動的では生き残って行けません。情報に能動的な態度を養うためには読書が一番です。

様々な本がありますが、ソフトカバーで安価で内容が豊富な新書が読書にベストという内容です。

僕も買う本の中で一番多いのは新書です。

新書は内容・量ともにちょうどいいです。

気になる新書があったら手にとって、「目次」を読んで「はじめに」を読んで「おわりに」を読んで全体を流し読みして、いいなと思ったら買う。

という段取りが僕のパターンです。

新書は内容量が少ないので、買わなくても書店で立ち読みで読んだ気分になっても良いと思います。

本を読む目的は、今まで自分が考えたことのない感覚、価値観、違和感にめぐり合えるかどうかポイントでしょう。内容が同じ本を読み続けても意味がないわけですからね。

これからの時代は知的生産力がもっともっと要求される時代に変化していくわけですから、生活の一部に読書が習慣化されていないと、いわゆる「負け組」に蹴落とされてしまうということです。

何かの統計で見たんですが、親が月に15冊~20冊本を読んでいれば、子どもは自然と本を読むようになるそうです。15~20はそこそこな冊数ですよね。

僕も読書量はそのくらいです。でも勉強の参考文献を合わせるともっと増えますね。

読書力を養うのは時間がかかります。

学校の教科書がいわゆる本であると思い込んでしまう前に、小さい頃から年齢にあった読書の教養を養っていけば少なくとも読書嫌いにはならないと思います。