くんずほぐれつ

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1月科目試験の結果

2011年02月28日 03時33分05秒 | 慶應通信
1月に受験した科目試験の結果が届きました。

・地理学Ⅱ(L)

・西洋哲学史Ⅱ

を受けました。


毎度ながら、封筒を開けるときは緊張します。


どっちもAで合格でした☆

どちらも既にレポートは合格してました。

ほんとによかったでした☆


1月の科目試験では

僕が文章作成スタイルとして技化した「結びつきの型(論証形式)」実践法が、レポート作成という比較的長いスパンにおける計画的な文章作成の場合だけじゃなく、科目試験という即興の文章作成で、瞬発的に「結びつきの型(論証形式)」実践法を活用できるようになる

ということが試みでした。

今回はその試みが、自分なりに実証できたことが何よりうれしいです。


ちなみに、このように瞬発的に「結びつきの型(論証形式)」実践法を活用できるようになるほど、日常生活における思考パターン・行動パターンの適切な予測・計画・実行、及び無駄の排除が可能になってきます。

今後の学校教育における次世代型授業実践では、以上の内容が教育の中心になってゆくでしょう。

つまり、これが人間モデルによる教育であり、現行の学校教育である 「暗記7割・思考3割」 から、次世代型の学校教育である 「暗記3割・思考7割」 としてふさわしいと思っています。

現行の教科書の内容を単に暗記させるだけの公教育は、旧体制の遺物なのであって既に時代に適応していないのです。

日本の学校の先生方、あなた方は本当に時代に適応した教育を行っているのですか!?

教育とは何ぞやということを、もう一度勉強し直した方がいいんじゃないですか!?

手帳とメモ帳をデジタルデバイスに移行しました

2011年02月24日 02時03分53秒 | ツール・小物
アップルの iPod touch 32GB を購入しました。

購入した目的は手帳とメモ帳をデジタル化したかったから

アップルのiPodシリーズはオーディオ機器として人気がありますが、iPod touchは別格です。

iPod touchは電話と3G機能がついていないだけで、ほとんどiPhoneとかわりません。

ソフトバンクに移行してiPhoenにしてみたいとも思いましたが、今のauを継続させたいのとそんなにお金をかけたくなかったのでiPod touchにしました。

iPod touchを使って一週間ほど経ちます。

タッチパネルのキーボードが小さいので文字のタイプがしづらいですが、それでもメリットの方が多いと思います。

手帳とメモ帳をデジタル化は

戸田覚著 『デジタル手帳術 手帳はiPhoneに変えなさい』 アスキー・メディアワークス

を参考にしました。

スケジュール帳アプリは「Refills」を購入。このアプリはすごいです。他のスケジュールアプリも何種類かためしましたが一番使いやすいし機能も充実していてデザインもかっこいい。

Googleカレンダーと同期してます。

そして今までパソコンだけで使っていた「Evernote」もiPod touchで使えるようにしたのでパソコンとiPod touchのクラウド環境になりました。

また、今までノートに書いていた学習記録もiPod touchに移行、「瞬間日記」というフリーの日記アプリに記録してます。

買いたい本のリストアップ、図書館などで借りている本の返却期限などの整理として「MY BOOK DIARY」というアプリがおすすめです。

必要なことのほとんどはiPod touchだけでできるようになりかなり便利になりました。

それにしても、改めて思うことですがiPhoneやiPod touchのようなデジタルデバイスとGoogleのクラウド環境は革新的です。

私たちの生活スタイルを変えてしまいました。

もはや僕にとって、Googleのクラウド環境はなくてはならないものになりつつあります。

ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の授業実践はアナロジーを採用している

2011年02月22日 13時39分52秒 | 次世代型授業実践構想
マイケル・サンデル教授のテレビ番組や書籍が人気です。

昨日はたけしさんの番組でサンデル教授がゲストで授業をしてましたね。

その時のテーマは今問題となっている相撲の八百長についてでした。

その前は東大で日本の学生相手に授業をする番組をみました。


サンデル教授の授業実践の特徴は、僕が次世代型授業実践として今後日本の学校教育で普及してゆくだろうと推測しているアナロジー実践法で授業を進行しているということです。

くどいようですがアナロジーとは

「aは重要な点でbと似ている。そして、bについてはcということが成り立っている。したがって、たぶんaについてもcということが成り立つ」

という考え方です。

八百長という問題を最終的にはカントの哲学とのアナロジーで問題の核心にせまってました。

カントの哲学=b

八百長=a

ということになります。


サンデル教授の授業実践では、テーマに関して必ず賛成と反対にわけてなぜそう思うのかをたずねて、互いの意見の正当性がぶつかりあうようにしむけてます。

そして

どっちが正しいの!?

どう理解すればいいの!?

の解決策として、先人の哲学者の考え方を採用するという進行です。

わかりやすい。

サンデル教授みたいな授業ができるようになりたいです。

アインシュタインの相対性理論と時間管理術のアナロジー

2011年02月20日 07時51分57秒 | 思ったこと
相対性理論の考え方を時間管理術に応用しようというものです。

相対性理論というのは大まかに説明すると、時間という考え方について、光の次元、私たちの生活の次元、量子・原子のようなミクロの次元で違っており、それぞれの時間進度が存在するという考え方です。

この考え方を私たちが生活している次元において時間管理術に応用してみます。

私たちは、一日は24時間でそれ以上でもそれ以下でもないと考えているでしょうが、相対性理論の考え方を採用すれば時間が創造されます。

相対性理論の考え方を採用すると、そもそも一日は24時間でそれ以上でもそれ以下でもないという考え方ができなくなります。

なぜなら時間とは、私たちが何か目的があって行動することに対して付随するものであるからです。

私たちの生活とは関係なしに、この宇宙には「時間」という実態が存在する、という考え方ではなくて

私たちの認識の仕方、行動の仕方によって時間の進度が違ってくる、という考え方をします。

そして時間の進度の違いは、集中力の違いです。

単位時間当たりの集中力の違いとは、別のいい方をすれば時間の密度の違いと考えてもいいでしょう。

集中力が高いほど時間の密度は高くなり、単位時間当たりの仕事量が増えて、実質少ない時間で仕事を終わらせることが可能になります。

少ない時間で終わらせることが可能ということは、その余った分の時間で別のことができるということになるわけですから、これは時間を創造したということと同じです。

時間の密度の違いが、時間の進度を変化させる。そして、私たちは次元の違う時間を使い分けて生活している。

これはまさに、相対性理論の考え方と同じなのです。

要するに単純にいえば、一日という時間をだらだら過ごすのか、きちんと目的意識を持って過ごすのか違いです。

わざわざ難しく説明したわけです(^-^;)

「時間」を、認識に対して客観的な存在として説明するのではなくて、認識に対して主観的な存在として説明してみました。

私たちは普段、「時間」というものを客観的な存在として認識することがあたりまえになっているのでしょう。

暗記7割・思考3割 から 暗記3割・思考7割  へ

2011年02月19日 01時43分44秒 | 次世代型授業実践構想
ソフトバンク社長の孫正義さんが今日の学校教育についていったセリフです。

現代日本の学校教育というのは

暗記7割・思考3割

です。

今後の学校教育は、逆にして

暗記3割・思考7割

にするべきです。

つまり、授業形態と比例するかどうかは分析の余地ありですが

一斉授業7割・ゼミ・グループ学習3割

ではなくて

一斉授業3割・ゼミ・グループ学習7割

にするべきであるということです。

思考重視型授業ということは、僕がレポート作成として技化した「結びつきの型(論証形式)」実践法が重要になってくるということです。

論証形式は少し難しいので、これをもっと単純化して、高校生以下の生徒にもわかりやすい構造にして授業として取り入れていく予定です。

多分、僕がこれからやろうとしている教育実践は、既存の教育システムで洗脳されている先生方には理解しにくいでしょう。

反発もあるでしょう。

あたりまえですよ、僕が今後の学校教育として導入しようと試行錯誤中の教育実践は、今までにない新しい教育なのですから。

しかし、僕は間違っていないという確信がある。

思考重視型授業実践は授業内容の理解の向上から、今までの暗記重視型授業実践より、逆に暗記しやすくなると推測します。

つまり、思考が向上すると、暗記しやすくなるということです。

なぜなら、理解の仕方が向上するからです。


既存の教育システムで満足している先生たちは、まるで幕末の幕府側のようなもので、異国が攻めてきても大丈夫だろうと思っているのと同じですよ。もしかしたら攻めてきているということにも気づいてません。

そんな先生方はとにかくはやく、気づくか、気づくことができなければ引退してください。

そしてお願いだから、日本の教育をこのまま停滞させようとすることは絶対にめてください。


そのためには、まずは検定教科書の抹殺が必須です。

これのせいで現代日本の学校教育は、暗記重視型授業をせざるを得ない状況になっているのですから。

本当に本当に本当に

日本は教育を教育として自立させないと、世界の中で取り残されてしまう。

10年ぶりにプリンターを買い換えました

2011年02月16日 23時59分37秒 | パソコン
今までキャノンの「BJ S630」という古い機種を使っていました。

最近100円ショップでキャノンとエプソン用でインク売ってるじゃないですか。

それ使ったらカラー印刷ができなくなり、モノクロしか使ってませんでした。

で最近、とうとうモノクロも印刷できなくなりました。

ということで、やむをえず

HPのプリンターで

「Photosmart Wireless B110a」

というのをアマゾンで買いました。

しかも、ものすごく安くて6000円代なんです。

このプリンターって安いくせにものすごく高機能。

プリンターとスキャナーが合体して、しかもワイヤレス印刷ができて価格が1万円しないとかすばらしすぎます。

最近のプリンターって、インクの色の種類が多いじゃないですか。

黒が2種類あったりして、合計5,6色必要なんです。

しかも、純正だとインクが1000円くらいするじゃないですか。

インクの色の種類が多いと、それだけ経費がかかるんです。

そんなにインクの種類多くなくていいんです。

僕はプリンターの使用はレポートの印刷がほとんどなので、黒赤青黄の4種類で十分なんです。

使用した感想は良好です。

10年前のプリンターとの比較なので当たり前ですかね。

今まではコピーをするのに、パソコンを起動して、スキャナーをパソコンにつなげて、プリンターをパソコンにつなげて、という面倒な作業をしていましたが

今度はプリンターとスキャナーが合体しているのでそんな面倒な作業は必要ありません。

ワイヤレスは設定がかなり時間を要しましたが、ものすごく便利です。

文部科学省による検定教科書はすばらしい!!

2011年02月16日 18時53分26秒 | 次世代型授業実践構想
今まで、さんざん検定教科書の悪口をいってきましたから、検定教科書の利点も考えてみましょう。


検定教科書の特質として、「解釈(なぜその事実が起きたのかという理由の分析)」が欠如された「事実」のみの内容であると判断しました。

しかしそもそも、学習の向上には「事実」に対する「解釈」が必要なのであって、その「解釈」が欠如されている「事実」のみの内容の検定教科書では実質学習の向上はもたらされない、という結論に僕はいきついたのでした。

要するに検定教科書というのは、単に「事実」を生徒の頭の中に記憶させることが目的なんです。


僕はたまにバスに乗りますが、高校生が教科書を読んでいる光景をよく見かけます。

教科書の文章の太文字を緑のマーカーで塗りつぶして、赤透明の下敷きをかぶせて見えないようにして太文字を暗記してるんです。

僕も高校生の時必死になってやってました。

でも、その光景を見ていて思うことは

・そんなことしたって意味ないんだよ。だって、「事実」と「解釈」のセットで覚えないと内容を理解できないでしょ、納得できないでしょ

・「事実」を覚えることが目的なのではなくて、「事実」に対する「解釈」を理解するのが目的なんだよ。だから「事実」を覚えることは「解釈」を理解するための前提条件なんだよ

・さらに言えば、その「解釈する」という学習行為を、「自分が生きる」とう行為に応用することが最終目的なんだよ

・そのために、毎日学校に通っているんだよ


僕は以上のことを思えば思うほど、現代日本の公教育に対する怒りが、体中から溢れ出てくる。

その怒りは、僕が教師になるための勉強のエネルギー源となる。

現代日本の文部科学省は何様だ!!

教育を支援する立場の文部科学省が教育を語るな!!

進歩を知らない文部科学省はこの世からなくなってしまえ!!


さて、少々感情的になってしまいましたが、本題に移りましょう。

現状は、検定教科書を使用することが教師の義務であり、使いたくなくても使わなければならないので、検定教科書の利点を分析して「雑学」「クイズ」にならないような使用法を考えなければなりません。

検定教科書の利点とは何でしょうか!?

それは、まさに僕がさんざん否定しまくっていた「事実」のみの内容、という性質です。

つまり、弱点を大いに利点として利用するということです。

検定教科書はある意味すばらしいです。

「事実」のみという性質では天下一品です。

ですから、事実確認の手段として検定教科書を大いに利用できます。

教師はそれを基に、生徒が「事実」に対する「解釈」を構築できるようにアシストする。

といいますか、教育とは本来こうであるべきだと思うんですけど、違いますか!?

僕の教育に対する理念は間違ってますか!?

日本の教育が停滞して進歩しなさすぎなんですよ。

本当にお願いしますよ。

学校の先生方いい加減気づいてください。

目を覚ましてください。

本当に子どもたちがかわいそうです。

そろそろ次の次元へステップアップしないと、日本の教育は本当にやばいどころじゃないですよ。

僕が古典を読む目的

2011年02月11日 16時18分34秒 | 教育について
「古典には時代の本質的な解釈が書かれている」

で僕の古典に対するスタンスを述べましたが、さらに詳しく述べます。


それは時代の本質的な解釈を学びたいから。

そしてそれを自分の生き方に応用したいから。

私たちが生きている時代が今後どのように変容していくかという手がかりをつかむためには古典を読むことが最適です。

古典とは時代という比較的長いスパンにける本質的な解釈が書かれていると述べました。

今後私たちが生きている時代がどのように変容していくかという手がかりをどこに求めるのかという問題で、私たちは過去の歴史がどのように歩んできたのかということを手がかりにしないわけにはいかない。

なぜなら、現代は過去という歴史の積み重ねによって現象しているものであるから。

時代変容の本質的な解釈が書かれている古典を理解して、時代がどのように変容してきたのかという分析を、今後の時代変容の分析の手がかりとして利用する。

そして、それを手がかりに現代という積み重ねによって未来を創っていく。

この時代というマクロな次元の抽象度をさげて、会社の経営という次元に当てはめてみる。

例えば、会社の経営では過去の顧客データなどをもとにして新規コンテンツ開発、売り上げ予測など様々な仮説を過去のデータ分析から行う。

そして、この方法は個人にも当てはめることは可能なのであって

さらに、この個人の考え方の向上はレポート作成の向上によってもたらされており、この向上の仕方はどこの国であろうが、どの分野であろうが、どのような時代であろうが成り立つ普遍的なもの。

つまり、生きると、会社を経営すること、時代が変化するということもそのスタイルは変わらない。

ミクロとマクロの違いであり、その抽象度の違いを行ったり来たりして、マクロの方法をミクロに当てはめる、あるいはミクロの方法をマクロに当てはめるという応用が可能になればいい。

古典を読んで、古典に書いてある方法を実社会に応用する。

この考え方は基本アナロジーによって成り立つ。

そして、これはいわゆる「学問」という方法。

「高校までの「勉強」と大学の「学問」の違い」

で述べたように、「学問」のスタイルがいかに確立されているかということが自分が的確に生きるということと比例してくる。

「学問」はあらかじめ正解がない問題にたいして仮の答えをつくって検証し、最終的に正解にたどり着くというスタイルですが、それは正に自分が「生きる」というスタイルに当てはまる、というかそのために学問が存在する。

「学問」とは「生き方」を学ぶこと。

「勉強」とは「生き方」を学ぶこと。

なぜ、現代の教師は学校教育で一番大切なこの内容を子どもたちに伝えない!?

なぜ、現代の教師は教科書の内容を単に暗記・理解させるような「うんちく」「クイズ」みたいな教育で終始する!?

私は、今日の学校教育に甚だ疑問を感じるのです。

僕が古典を読む目的は、この「生き方」です。

古典を書くような歴史的な先人というのはいわゆる「生き方」の、あるいは「努力の仕方」の天才たちです。

ようするに「仕方」の天才なんですよ。

そしてそれは、半端なく研ぎ澄まされていて、無駄がなく、考えにスキがなく、結果として論理的にも成り立っていて、本質を突いているような仕方なんです。

それを、盗まないわけには行かない、もったいない話ですよ。

そして、古典を読むからには、自分が先人と同化してしまうくらいはまらないと意味がない。

というか、そのくらいしないと盗めない。

僕は、教育とはここまでを含めて教育だと思っています。

というか、でないと教育として意味がない。

子どもたちに古典は難しいので、そのエッセンスを理解できるように教える授業ができるようになりたい。


おそらく、今後10年20年という時代が経つと、文部科学省による教科書検定教科書を用いた教育というのは存在価値がなくなっていきます。

そもそも教科書検定という制度が、時代に適応していない。

というか、なぜ現代の教師はそのことに気づかない!?

気づかずに教師やってていいんですか!?

なんで教師になったんですかといいたい。

教師というのは子どもに教育することが目的ですよね、だとしたら、その教育そのものが時代に適応しているかいなかという吟味を怠ってはいけない。

これからの教師は、文部科学省、教育委員会、教科書に従う教育で終始するのではなく、自分自身で一から教育実践を創り上げていくという意気込み出ないと、行き詰まりますよ。

授業実践の基本はアナロジー

2011年02月07日 16時05分14秒 | 次世代型授業実践構想
前回のブログ記事

「公立と私立の教育スタイルの違い」

において、現代日本教育改革の課題を明らかにしたわけですが、今後の授業実践としての大まかなスタイルを考えてみました。

アナロジーとは

「aは重要な点でbと似ている。そして、bについてはcということが成り立っている。したがって、たぶんaについてもcということが成り立つ」

という考え方です。

社会科系の授業実践はアナロジーが基本となります。

教科書の内容(マクロ)と

教科書の内容に関係した生徒が日常生活において理解できる例(ミクロ)の関係が

アナロジーによって分析され、授業が進行していくということです。

a=教科書の内容に関係した生徒が日常生活において理解できる例(ミクロ)

b=教科書の内容(マクロ)

として代入すると、

「教科書の内容に関係した生徒が日常生活において理解できる例(ミクロ)」は重要な点で「教科書の内容(マクロ)」と似ている。そして、「教科書の内容(マクロ)」についてはcということが成り立っている。したがって、たぶん「教科書の内容に関係した生徒が日常生活において理解できる例(ミクロ)」についてもcということが成り立つ

生徒はミクロとマクロを行ったりきたりしながらcとは何かを考えることが目的となります。

教師はそれを支援します。

そして、cを明らかにするという学習を経験することによって、勉強とは単に「うんちく」「クイズ」なのではなくて教科書の内容と日々の生活の間に深い関係が存在していること、また学習という行為そのものが、いかに自分が善く生きるかということを考えることと同じであることを体験するのです。

実はルソーの教育は論理的に成り立たない!?

2011年02月03日 15時03分51秒 | 教育について
世界の教育の発展を歴史的に区分すると、古代中世はプラトンの陶器モデル、近世以降はルソーの植物モデル、現代以降はジョン・デューイによる人間モデルとなるでしょう。

図はこれら3つのモデルを略図化したものです。

といいますか、最近気づいたことなのですが、教育という行為において、現実的には、物理的には、論理的には、プラトンの陶器モデルしか存在しないのではないか!?

ルソーはプラトンの陶器モデルの反発から、植物モデルを提唱しました。

しかし、それは陶器モデルを単にひっくりかえしただけであり、そもそもそのような教育は論理的に成立しないのです。

ルソーは「自然の教育」をモットーに「何もしないことによって最もよく人間を育てる」といっています。

ということは、外からの教育という働きかけ自体が不要になるということ。

つまり、「何もしない」ということは、そもそも教育が必要ないということと同じ。

しかし、そもそも教育とは、教育という行為が外からもたらされるものであるという性質である以上、プラトンの陶器モデルにならざるを得ないんです。

ルソーはそれまでの教育を否定して、教育における「個」を見出し世紀の大発見を行いましたが、その発見はそれまでの教育の単純なうらがえしという方法で終わってしまいました。

極端にいうと、ルソーは「教育は必要であり、教育は必要ではない」といっています。

これ、論理学的に記号化すると「P∧~P」となります。

しかし、こんな論理式は存在しません。

論理学の基本的な法則に、「矛盾律」記号化すると「~(P∧~P)」という法則がありまして、訳すと「あることがらが P でありかつ P でないということはない」となります。

ルソーの教育はこの矛盾律に反しているわけで、つまり自己矛盾を起こしてしまっているのです。

この問題を解決しようとしたのがジョン・デューイによる人間モデルです。

教育の外からの働きかけという性質をうまく利用して、それが子どもにとっての結果像に至る過程での過程像になっているというところが最大のポイントです。

ここで考えなければならないのが、日本の「教育基本法」「学習指導要領」の位置付けです。

これらは国が法律として掲げているということ自体、実質、理想的な「善い人」という結果像を国が掲げているということに他ならない、と僕は解釈します。

つまり、「善い人」という結果像が予め国によって掲げられており、それに向かって子どもたちは進んでいるというイメージです。

「教育勅語」と体質はなんら変わらないじゃないですか。

そもそも、日本という国は、国が教育を語るとは何様のつもりですかといいたい。

政治と教育は別の次元なのであって、教育が教育として自立するために国は口出しせず教育機関自身に自律させるべきであって、国は教育の自立性を尊重し支援する立場なので、「教育基本法」「学習指導要領」は実質、国の教育そのものの成長を、国を挙げて停滞させているということに他ならない。

ようするに日本は、国は国民に対して子離れしてないし、国民は国に対して親離れしていない。

面白おかしく例えると、「おぼっちゃまくん」のおとうちゃまとおぼっちゃまくんの関係。

「ちゃまちゃま~~~」

「おとうちゃま~~~」

とかいって、互いに舌をレロレロしてるんですよ。

明治以降日本の教育は正にプラトンの陶器モデルで出発し、戦後その裏返しとしてルソーによる植物モデルの教育が提唱され、今日自己矛盾におちいっている。

よって「教育基本法」「学習指導要領」を結果像ではなく、過程像として利用してみます。(そもそも国が法律として掲げている時点で必然的に結果像なのですが、無理やり過程像として考えてみたらどうか、といいたいのです)

そして「教育基本法」「学習指導要領」までは我慢しましょう、しかし、教科書検定はなにがなんでもなくす必要があります。

教科書検定をなくすことによって、日本の教育はジョン・デューイによる人間モデルの教育が実現可能になります。

ジョン・デューイの著作『民主主義と教育』『学校と社会』は、出版されてから100年くらい経過して既に古典となっています。

つまり、欧米では植物モデルを乗り越えて人間モデルによる教育実践が当たり前なのに、日本の教育実践はいまだに植物モデルが当たり前。

といいますか、ルソーの植物モデルによる教育というのは現実には存在しないのであって、現実的、物理的、論理的には教える側としてはプラトンの陶器モデルになってしまうということは避けることはできません、しかしそれを乗り越えようとするならば、必然的にジョン・デューイによる人間モデルにならざるを得ないということです。

ルソーの植物モデルによる教育というのは、プラトンの陶器モデルとジョン・デューイによる人間モデルの過渡期といってよいでしょう。

現代日本の教育というのは、ルソーの教育のように自己矛盾を起こしてしまっています。いやもしかしたら、未だにプラトンの陶器モデルで停滞しており、これからルソーの教育のように自己矛盾を経験しなければならないのか。

教師の皆さん、はやく目を覚ましてください。

日本の教育を、いち早く人間モデルへ進歩させなければなりません。

公立と私立の教育スタイルの違い

2011年02月02日 04時53分03秒 | 教育について
以前のブログ記事

『学力競争における3つの組み分け 「勝ち組」「負け組」「リタイア組」』

において、日本の高校には3つの組み分けによって4つのグループ化がされていることを述べましたが、そのグループ分けによる教育スタイルの違いを新たに分析してみました。

大まかに区分してしまっているので一概に決め付けることはできませんが図のようになります。

グループ①
いわゆる進学校といわれている高校です。このグループは「学問」タイプの教育スタイルが確立されている授業が行われている傾向にあるといえます。なぜなら、授業で文部科学省による検定教科書を使用していない教師が多いと思われるからです。またこのグループの高校は、各クラスを担当した教師それぞれが責任を持って独自の授業内容、テスト、評価を行う傾向にあります。授業スタイルとしては大学に近い。

グループ②③
いわゆる文部科学省・教育委員会による高校です。このグループは「勉強」タイプの教育スタイルで授業が行われています。授業はいわゆる「雑学」「クイズ」の授業を行っている傾向が強いです。文部科学省による検定教科書はまさに「雑学」「クイズ」に特化した無機質な内容となっているので、検定教科書を使って「学問」タイプの教育スタイルをしようとしても、かえって回りくどい授業となってしまう。というか、「雑学」「クイズ」が教育だと勘違いしている時代錯誤教師集団です。明治期から全く進歩していない時代錯誤な教育を行っている傾向が強いグループです。

グループ④
「学問」タイプの教育を受けたいのに、「勉強」タイプの教育で排除されてしまったグループです。

以上のように、グループ①とグループ②③との間には、教育スタイルに乖離が生じています。現代日本教育改革は、グループ②③をグループ①の教育スタイルに近づけることが目的となります。