Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

呼吸。

2012-12-12 02:05:30 | 日々の徒然


こんばんは

ほんとに
夜遅くに
なっちゃいました。。。

やっぱり
少し

ぼんやり
考えごとを
してしまって。


今日は、

昨日ほど寒くないですね。

先程、

ちょっと
探し物をしていて

こちらに来るときに
母が
アンカを
入れてくれて

それを
また
取り出して先程

セットいたしました。


エアコンは
なるべく
使わないようにしていて

そうすると
やっぱり
お布団が冷たくなってしまって

体温だけでは
なかなか
あったかくならずに

昨日、一昨日は
ちょっと
寒かったのです。


今日は
少しは
違うかな。。。。

それでも
ダメだったら

電気毛布とか
買おうかな

思っています

今日は
アンカに期待


さてさて
今日は
何を書こうかな


思いまして。


2,3週間ほど前
ですか。

日曜日に
東京へ
ぶらりと
お散歩しに
行きました


湯島聖堂へ
行きました。


まだ
これほど
寒くは
なくて

木漏れ日が
キラキラと
していました。

大成殿でお参りをしたとき
孔子像があって
少し厳格な雰囲気がして、

私は
少し
物怖じしてしまったけれど。


外に出て、
木漏れ日を感じながら
ゆっくり
歩きました。



とても
立派な木があって。

見ると、
「楷の木」

ありました。

「楷書」の由来となった木
だそうで、

その枝が
とても
まっすぐ伸びる
その様を

「楷」と
言うのだと
知りました。


しばし、

その木を通して

光を感じながら
そのそばに
佇んでいると、

風が
枝を揺らして

ふと
横を見ると、

傍らの道の奥に

そこにも
孔子像が
立っていました。


その孔子像は

ニコニコしながら
こちらを
見ていました。


その笑顔を
見て、

わたしは、
はっとして

なんだか
泣きそうに
なりました。


なんだか
懐かしい笑顔に
会ったような

気がしました。


先生の笑顔に
似ていたのかな?


私は、


自分の
歩いている道が

間違っていますか?


心の中で
聞いていました。


その
孔子像は

ニコニコと
笑って

私を
見ていました。


とても
穏やかな

笑顔でした。



私は、

少し
元気に
なって

帰りました





今日も

いろいろと
考えていました。


私のやっている
仕事は

手作業としては

とても
単純な仕事
なので、

手を動かしながら

いろいろと
考え事を
したりすることも
あるのだけれど。


ピアノを弾いているときみたいな
感じかな。


それで、

今日も
また

いろいろと
感じることが
あったのだけれど。


私は
最終的に
どうしたいのかな?


最後は

いつも
それを
考えます。



先日
湯島聖堂を
お散歩したときのことは

時折
思い出すことが
あります。


それは、

とても
しっかりとした
確信のような

何かを
感じた気が
するからです。


今は、

たまに

それを
心の拠り所に
していたり
します。


今日も
考えていて。


私は、

あの自分の
学んだ
大学ということころは

とても
大切な場所だな

思いました。

いろんなことを
学んだ
大切な場所だと。


その場所を
出て


また
いろんなことを
感じながら


この場所で

こうして
生きているわけなのですが。


私は、

大切な場所を

大切に
したいな


思いました。


私のように

私が学んだように

同じように
学ぶことが
できるように

そういう人たちが
いることのできる場所で
あるように

私は
その場所を

守りたいな


思いました。


きっと

守ることが
できると

思います。



人の想いというのは

目に見えなくて

でも
それは

必ず
あるものだと

思います。



例えば、

人は

自分の体の中の
細胞の

その中の
核の

そのまた
中に

DNAというものが
あって、

そこに

私たち
ひとりひとりを

形作るための
情報が

たくさん詰まっていることなど


それが
そうと
わかる前には

想像もできなかった
筈だ。



それと
同じと言っていいのか
わからないけれど、

でも
なんとなく

私たちは


想いというのは

目に見えないけれど
たしかに
あるような
気がしている。



科学というのは、

現象を説明することは
できるけれど、

だから
それが
何故そうなのか

ということまでを
説明することは
できないような

気がする。


それは、

科学が
どんなに発達しても

まったく
同じものを
作り出すことが
できないのと
同じように

科学は
0から
何かを
作ることは
できないと

思う。


私たち
ヒトが作り出すものは

この世界にある
何かを利用して

その形を
変えているにすぎない。


だからこそ、

この世界は
いろんなモノが

循環している。



一方が増えすぎると

もう一方は減り、

うまく
バランスをとりながら

この世界は
成立している。



その中で

想いというのは

私たち
一人一人が

自由に
生み出すことができる

唯一のモノなのではないかと

私は
思う。

(今考えると
音楽もそうなのかな?
と思いました。)



だからこそ、

想いというのは

ヒトが
唯一作り出せる
モノなんじゃないかな


思うのです。


前に、

「宇宙兄弟」の映画を見て

印象に残ったシーンは

いくつか
あるのだけれど、

その中で

やっぱり

ヒビトを乗せた
ロケットが

宇宙へ
飛び立つシーンは

とても
迫力が
あった。


それを

“想いのカタマリ”と
表現
していたけれど、

なるほど
そうだよなぁ


思いました。


ヒトは、
想いを集めて、

この
地球から

宇宙へと
飛び出すことが
できたのだ

と。


そして、

ヒビトが
見た

Earth-Risingは
(正しくはEarth-Rise or Rising Earthかな?)

やはり
とても
心に感じるものが

あった。


私たちは
やはり

地球というのが

私たちの
生まれた場所

なのだと

ちゃんと
わかっている。


自分達が
還る場所も

そこなのだと
思ってる。


みんな

この地球の
バランスの中で

生きている。



私は、

正直なところ


月に
行ってみたいと

思ったことが
あまり
ない。

想像が
できないのだ。


地球のように

人が

笑ったり
泣いたりしながら


そこで
生きる様を
想像できないのだ。



この地球上では

いろんなところで

人が
泣いたり
笑ったり
していて、


悲しかったり
辛かったりすることも
あるけれども

楽しかったり
嬉しかったり

することも
あるのだ。



そして、

人は、

草木
だったり、

風だったり


雨だったり

晴れだったりする

この地球と

うまく
バランスを

とりながら

生きている。



想いは

大地に
しみ込むよ。

それが

本当の
想いならば。


だから
精一杯

生きなくては
いけない


思う。


のんびりでも
いいよ。

ただ、

本当の
想いを

抱えて
生きないと。


私は

そう
思います。


自分の

本当の
想いを


まっすぐに。



あ。

また長くなっちゃいましたね。



今日
ちゃんと
書けたから

これから
また

少しずつ

書いていけるような

気がしています



まぁ

無理せず

ぼちぼち
まいります。


譲れないところは

譲れませんけれど


ではでは

おやすみなさい


明日も
元気で

頑張ろう。



想いは
まっすぐ。


それだけで

いい



思います